自分が現れたとて

本性が暴かれている

本性が暴かれますと自分という感覚が現れようと現れまいとどちらでもいいという状態になります。なぜならば自分という感覚は本当の私ではないことがはっきりと分かっているからです。その上で自分という感覚は起こります。自分という感覚が起ころうと起こらまいと本当の自分にとっては全く関係ないのです。そしてその中で自分という感覚が起これば苦しみも起こりますが既にそれはパニックではないのです。

実は

実は自分という感覚が現れた時に苦しみが起こるわけですがそれがパニックだったのです。誰も教えてくれないのですから。自分という感覚が起こるとなぜ苦しみが起こるのか???全く分からないままに人生が進みます。進みはしますがひたすらにパニックです。ということでそれ戦いが終わります。本当の自分の発見は自我の出現問題を終焉させます。

自分はそれでも現れる

自分という思考感覚はそれでも現れます。慣性の法則で現れます。ですがそれでいいのです。本当の自分の存在に気づきながら現れる私はもう苦しみを伴いません。私という現れはパニックにはならないのです。テーブルが現れることと同じでそれは勝手に自然に現れるのです。それだけです。それ以上でもなく以下でもなく太陽が現れるように自分も現れます。

自分が現れることができる理由

自分が現れることができるのは本当の自分が存在するからです。そこから投影として現れます。そしてなぜ自分という感覚は気づかれるのか???それは本質が気づきだからです。自分という勘違いの感覚が存在できること自体が本当の自分、真我の存在を絶対的にするのです。つまり自分とは本当の自分の現れに過ぎず、だからこそ存在を気づいてもらえるのです。

自分が現れるからこそ

自分が現れるからこそ本当の自分の存在が露になります。その存在が存在しなくては自分なんて感覚は存在できないのです。自分という感覚が登場し気づかれるこの仕組みこそが本当の自分が絶対に存在する理由です。だから自分という感覚が戻ってきたからこそ本当の自分が露になるのです。全ては気づきの対象であり気づかれる対象は絶対的に真我ではないのです。なぜならば真我に気づかれてしまっているからです。

理解とは何???

このブログの内容

理解とは何でしょうか???目覚めについての理解はどこで起こっているのでしょうか???気づきが起こります。突然の気づきです。これって夢じゃん、ですがこの思考での理解が起こる前に気づきが起こっています。その気づきから「思考の気づき」が現れとして起こります。言語化が起こる前に気づきが起こりその後に言語化での気づきという現れが起こりそれも気づかれるのです。

つまり

覚者の本を暗記しても無駄なのはそれは思考での理解ではないからです。東大生が悟り本を読めば文章としては理解できます。楽勝でしょう。ですが何かが変わるのでしょうか???恐らく何も変わりません。つまりこの理解は気づきから自然と現れなくては意味がないのです。これは完全に実感の世界です。実感を伴う気づきが起こった後に言葉での理解が起こります。

ではこのメッセージに意味はあるのか???

勿論あります。究極の存在を概念として理解することは重要です。ですが同時に概念として理解するだけでは真の癒しには辿り着かないことを実感することも重要です。つまり概念として理解しそれがどういうことか実感し次に進むのです。理解が進んでいきますと本のメッセージがどこから現れているか気づきます。そのメッセージが真我、神、絶対的存在から起こっていることが分かるのです。

私はあれ、私はこれ

いつの日か

生まれてまもない時「私はこれ」という感覚など全く出現していません。全くです。いつの間にか「私はこれ」という感覚が生まれたのです。いつの間にかです。それまでは全く出現などしていません。この夢が出現しいつの間にかその感覚が生まれたのです。にも関わらず我々はこの感覚を絶対的なものにし、私と世界は絶対的な存在とみなすのです。そんなものは無かったのです。

最初

世界と私は確実に存在するがそれには気づく能力がなかった、、そう思考します。その思考が湧きます。その感覚すらも出現したのです。にも関わらずそれにも気づきません。本当は世界という感覚と私という感覚が起こっただけです。にも関わらずその感覚が起こったのはそれが存在するからだという思考が起こるのです。夢の中ではっきりとラーメンを味わます、味がするのだから確実にラーメンは存在するという夢です。

本当は

本当は感覚だけが起こるのです。五感が起こり思考感覚が起こります。感情感覚が起こります。それだけです。世界が存在するはずだというのは思考感覚です。世界とは思考感覚のことです。私も思考感覚です。これは私のものというのは思考感覚です。あれは私のものというのは思考感覚です。それがただなんでもないものから起こります。それだけです。夢はなんでもないところから起こります。夢の原料は何でもないものです。

奇跡

それが分かると我々は常に奇跡の中に居ることが分かります。何が起こってもそれは感覚です。感覚に過ぎないのです。それが何でもないところから起こります。そしてそのことに気づくことで常にこの現れをなんでもないものとして気づくのです。何でもないものは何が現れても気づきです。変化しません。何でもないものは現れによって気づきが鈍ることがないのです。現れに対する気づき能力は何も変わりません。

絶対に変わらないもの

ここで核戦争が起こるとしましょう、何が起こってもそれは気づかれます。ここで映画が上映された時それも何も変わらずに気づかれます。めちゃくちゃ退屈な映画だとしましょう。それもしっかりと気づかれます。そうです。気づきには衰えるということがありません。老人は絶対に衰えているではないか????いやいや気づきは絶対に衰えないのです。この体が衰えたということも気づきます。変化は平等に均一に気づかれています。

何でもないものは気づきのこと

何でもないものは気づきのことです。なんでもないものから様々なあらゆるものが現れますがそれは全て気づかれます。あらゆるものの原料は何でもないものですからそれは同時に何でもないのです。そのことに気づいた時、ここでもあらゆる理解が現象として起こります。そして愛の中に包まれていきます。なんでもないものは愛なのです。あらゆるものも当然愛です。ですがあらゆる思考感覚が起こることでその愛が消されてしまっているのです。

継続したい夢

夜の夢

夜夢を見ている時それが夢だと気づけますか???不可能ですね。なぜでしょうか???なぜ不可能なのでしょうか???それは次々に関心のある登場人物が連続で出現するからです。これ気づけます???例えば異性に関心があれば連続して異性が現れ続けます。お金に関心があれば連続してお金のチャンスが起こります。友人に関心があれば連続して友人にまつわるトラブルなどが起こります。こうして「私」は夢の夢中になり夢だと気づけないのです。

??????

あれ???この現実も全く同じなの分かります???仕事に関心が向けば就職情報誌が現れて転職活動が現れ会社が現れます。お金に関心があればお金のまつわる話が現れ、誰かを紹介されて投資話を聞けます。何が違うのでしょうか???何も変わりません。この世界も関心が向く世界が広がっていきます。あれ????じゃあこの世界も夢だと気づかれないように次々に関心が広がるだけ???そうです。この夢も全く同じメカニズムで関心が広がるのです。

確かに

今日あの店に行こう!!!そう関心を持たないでどうやってその店は現れれるでしょうか???不可能です。あの店に関心が現れ次にその店が現れます。つまり関心が次の夢を表すのです。そして関心あるアイテム、人物が現れ続けるからこれが夢だと気づけません。そのことに気づいたら分かります????関心を目覚めに向けるのです。関心を目覚めに向ければ目覚めに関する情報が現れるのです。関心という武器を利用するのです、目覚めに。

なるほど!!!!

そうです。関心が夢を生み出します。ならば悟り、目覚めに関心を向ければそれが広がります。ですがそれはフェイクの関心では無駄です。関心とは本音です。故に関心は実は選べません。つまり放っておいても同じです。ですが今あなたはこのメッセージに触れています。ということはあなたは確実に目覚めに関心があるのです。ですから目覚めに関する世界が広がっていきます。

夢を継続させるための人物

株に関心があれば株は乱高低しあなたを株という夢に夢中にさせます。異性に関心を持てばそこでトラブルが発生しあなたを夢中にさせます。名誉に関心を持てばそこでトラブルが発生し夢中にさせます。家族に関心があればそこでトラブルが発生しそこに夢中にさせられます。夢中とはまさに夢の中に埋没させるテクニックです。関心が夢中化を生むのです。

それが分かってしまえば、、、

つまりネットニュースはあなたをこの夢に埋没させるために次々にニュースを生み出します。その仕掛けが分かってしまえばもうニュースへの関心は消えます。そして目覚めへと関心がシフトします。目覚めに関心が向くと夢は「目覚めた私の物語」を創作しさらに夢に止めようとします。目覚めた暁には大衆が押し寄せて私を担ぎ上げグルとしての人生が始まるのだ、、という更なる夢です。これが夢のテクニックです。夢のサバイバルです。

それもまた夢

そこまで分かってしまいますともうこの夢の中で何かを成し遂げることに関心が向かなくなります。この夢は覚めるために存在するのだ、、、だからただ覚めればいいという境地です。夢から覚めた「私」は夢の中であれを達成するぞ!!!はおかしいのです。夢と見抜かれた夢はもう力を失います。そして夢と見抜かれた夢はただそのままで安らげます。もうこの夢の中で何かを成し遂げなくていいのです。

分離のない世界

なんでもないもの

この世界はなんでもないものから現れました。今ここに世界が広がっているように見えますね。そうです。これです。これが今なんでもないものから現れたのです。これは分離していますか???テーブル、カップ、グラスがここには見えます。ですがそれはそういう知覚が現れたのです。その知覚はどこから現れたのか??何でもないものです。

そこが凄い

これの本当の凄さとはなんでもないものから「グラス」「テーブル」「机」という知覚が現れることです。あり得ないことです。なんでもないものからなぜこんな知覚が現れるのでしょうか??私という知覚、彼という知覚、あなたという知覚が何でもないものから現れます。これって奇跡以外にないのです。そしてだから見抜けません。あまりにこの奇跡は完成度が高過ぎて解明不可能なのです。

科学????

科学が発展していきます。科学の発展の様子こそが何でもないものから起こります。科学が凄いのではないんです、それが何でもないものから現れることが凄いのです。IT、AI、何でも起こりますが、、それがなんでもないものから知覚として現れるのです。それが凄いのです。それの原料は何でもないものですから実体はないのです。にも関わらず現れるのです。

奇跡に囲まれて

我々はどう考えても奇跡に囲まれています。何でもないものから「これ」が現れているのです。これは分離がありません。ですがこれは徹底的に分離感満載です。これが凄いのです。我々という感覚も現れこれに囲まれます。この奇跡です。ただ同時にこの奇跡は何のためにあるのか???という疑問がなんでもないものから現れます。これも奇跡なんです。何でもないものからなぜ「この奇跡は何のためにあるのか?」という疑問が起こるのでしょうか???凄過ぎです。

神はこの世界で何を得るのか???

何も得ない

神はこの世界を生み出して何を得ようとしているのでしょうか??何も得ません。神は何も得ることができません。神は最初から完璧であって何かを得るような余白はないのです。神とは完全完璧だから神なのであって何かを得ることができてしまったら神ではないのです。つまり神はこの世界を創造しておいてそこから何も学ばないのです。

では????

では神は何のためにこの世界を作ったんですか??何のためにこの世界とこの私を作ったんですか???意味がわかりません。実は実はこの世界もこの私も作っていません。作れるわけがないのです。なぜならば神は物質でもなんでもないのです。物質でも何でもない神がなぜ物質世界である世界を自分をこの体を作ることが出来るというのでしょうか???不可能です。つまりこの世界もこの私も神は全く作っていません。

だとしたら

だとしたら「これ」は何なんですか???いまここに「これ」が確実にあってだからこうやって会話が起こっています。これは感覚です。感覚だけが起こり続けています。世界とは感覚のことだったのです。それが神の投影としてただ起こり続けます。神の投影はただただ起こらなくてはならないのです。なぜならばそれは神の投影だからです。神の投影がお決まりの何かだったら神は「お決まりの何か」で終わってしまうのです。ですが神は無限です。神は無限だから投影も当然無限です。

この投影

この投影は無限に現れ続けなくてはなりません。ですからここで現れる思考も無限です。神とは無限だという思考も起こりますし、神とは「これ」だという思考も起こります。とにかく何でも起こります。神の真髄に目覚めた思考も起こりますし勘違い半端ない思考も起こるのです。起こらなくてはなりません。ただだから今それがここで起こっています。神は最初から完璧で無限だからこの世界から何かをもなばなくては!!!なんて存在ではないんです。にも関わらずここでは学ばなくては!!という思考は起こります。

私とはまさかのその神です。最初から完全完璧な存在「神」こそが私の本性です。ですから私は何も学ぶ必要がありません。ですがここからは学ばなくてはという思考が起こりますし、学びたいも起こります。ですがその大元は完全完璧な神です。この矛盾に気づいた時、、全てが解放されます。何も学ばなくていいにも関わらず学びたいという思考が起こりそれが知覚され気づかれるのです。そしてその思考は起こらなくてはならないのです。

死とは???

死とは何でしょうか???死とはこの肉体の消滅です。ですがこの肉体は神の投影に過ぎません。つまり肉体という投影の消滅が死です。投影です。投影が消えることって何か意味があるのでしょうか??意味は全くありません。ですがこの体のあらゆる成長段階、衰退段階、消滅は起こらなくてはならないのです。なぜならばそれこが無限の現れだからです。ですがそれは無限の現れに過ぎないのです。

この体

この体は必ずどこかで消滅します。当然です。ですがこの体は消え去ってもそれに気づく「気づき」は消えません。そして我々とはその気づきです。何も学ぶ必要のない気づきが我々の本性です。ということで今日も明日も明後日もこの体は変化し続けそれが気づかれます。絶対に変わらないこの気づきこそが神であり我々です。思考は常に変化します。感情も常に変化します。この体も常に変化します。変化するものは全て気づきではなく気づきの現れです。神の現れです。それらは全て幻影ですからそれが見抜かれた時解放されます。

何でもないもの

この世界

この世界は何でもないものが現れたものです。なんでもないものから発生するのですから「これ」は100%存在しません。存在しないにも関わらずあらゆるものとして映ります。これが何でもないものがあらゆるものである証拠です。あらゆるものというのはあらゆるものが存在するのではなくそういう感覚が起こるということです。

では

ここにテーブルがあるというのは本当にテーブルが存在するということではなくその知覚がおこたのです。その知覚は物質ではありません。ここにカップが在るというのは本当にカップが実在するのではなくその知覚がなんでもないものから現れたのです。感覚だけがなんでもないものから現れ続けていきます。辛い、苦しい、楽しい、テーブルがある、カップがある、明日ゴルフをしよう、、何でもかんでも起こります。その感覚だけが起こり続けるのです。

世界もない

世界というものが実際に存在するのではなく世界が存在するという感覚が起こります。それだけです。それが何でもないところから現れてきます。私が存在するというのも感覚です。その感覚が何でもないところから現れます。全て感覚です。思考は思考感覚という感覚です。こうやって常に常に感覚が起こり続けていきます。全てから感覚を全て削除したら何もなくなります。それは熟睡状態です。朝目覚めたら何が起こるのか????感覚です。

感覚が消えたら何も残らない

世界があって感覚が起こっているではありません。感覚だけが起こっているのです。ですから感覚が消えたら全て消えて「気づき」という本質だけが残るのです。それが熟睡状態です。そこからあらゆる感覚が起こり今目覚めてそうなっています。ですがこれは世界と私が存在するからこそ起こる感覚のことではなく、、感覚だけが起こっているのです。

世界と私が存在しなかったら感覚も起こらない???

これ大勘違いポイント、ひっかけ問題です。我々はそう学んできたのです。そう両親から学校から教わってきました。ですがそれ嘘です。感覚だけが起こるのです。感覚が消えたら全て消えます。世界が消えるのではありません。そんなものは最初から存在しないのです。世界という感覚、私という感覚がただ何でもないものから起こっていたのです。その感覚が起こらない時ただ「気づき」だけが残ります。その気づきは「神」「絶対」「真我」と呼ばれたりします。

われ在り

在るという感覚

今「在る」という感覚が全くない人はいますか????「在る」という感覚です。間違いなく「在る」という感覚はあるはずです。この感覚がない時は一瞬もありません。そうです。必ずあるのが「在る」という感覚です。この「在る」という感覚はどこから湧いてくのでしょうか???それが根源です。究極の存在から「在る」という感覚が起こるのです。在るという感覚は根源が存在することの最終証明です。

なぜ「在る」という感覚は湧き出るのか???

逆に言えばこの「在る」という感覚が起こらなければ根源はどうやって根源の存在に気づくことが出来るでしょうか??不可能です。本来根源は根源という存在には気づけません。なぜならば根源は根源にだけは気づけないからです。ですが「在る」という感覚には気づきます。つまり「在る」という感覚は根源ではないのです。根源ではないから「在る」に気づくことが出来るのです。根源ではない存在が湧き出る時それは知覚されます。それが「在る」です。

何が現れている????

根源しか存在しないはずなのに、一体何が今現れているのでしょうか???根源しか存在しない、にも関わらず根源ではない何かが現れているから「気づかれ」ています。答えを言いましょう。それが「根源の投影」です。根源しか存在しないにも関わらず根源が気づくことができる唯一の存在は根源の影です。根源の影が現れている期間のみ「在る」という感覚が起こるのです。「根源」が「在る」のです。

このことが分かって何になる???

このことを分かるメリットを考えても無駄です。これはメリットがあるから追いかけるのではありません。根源は無限なので当然根源の影は無限を表し、、無限が現れるから「これ」がまさに今存在します。そして「これ」は無限に現れ続けます。この無限の中には「根源とは何か」という思考も当然含まれていますから今それがここで現れているのです。ですからこのことはメリットではなく分かることが含まれているのです。全てが含まれています。その中には根源の疑問も根源の理解も含まれるのです。

釈迦に説法

とは????

釈迦に説法という言葉があります。この言葉、分かり切っている人間に無駄な説明は意味がないということですが釈迦は何を分かりきったのでしょうか?釈迦は全てを分かりきったのです。全てです。ですが釈迦はIT系の知識はないですね???AI のことも数学も知りません。日本語も知りません。なのになぜ釈迦は分かり切ったんでしょうか???なぜ釈迦は分かりきったと断言できるのですか???

概念

科学者が知っているのは概念です。ノーベル賞受賞者も概念を組み合わせて全く新しい概念を積み上げていくのです。釈迦は悟り全てが概念に過ぎないと悟ったのです。何がここで起ころうとも、それを知覚するということは概念です。起こったことは概念なのです。雲が動きたという知覚は概念です。釈迦は目の前で起こる全てが概念に過ぎない、今後あらゆる科学が進化しようともその知覚は概念なのです。

7感

この世界は五感、プラス感情プラス思考感覚の7感覚です。これ以外が存在しません。世界があってその中でこの7感覚が起こると人間は思考します。ですがそれは想像です。それこそが思考感覚です。世界の中に私が存在するという思考感覚が起こったのです。世界も私も存在など全くしません。そういう思考感覚が起こったのです。このことを見かけ上の釈迦は悟ったのです。釈迦とは夢の登場人物であり釈迦も実は存在しません。それも7感覚が生み出す感覚に過ぎないからです。

つまり

誰も存在しません。誰かが存在するという知覚は第7感です。第7感覚が起こったのです。誰も存在しません。、誰かが存在するという思考感覚が起こるのです。釈迦が存在したという知覚が起こります。釈迦は存在しません。それも思考感覚です。この世界も存在しません、それも思考感覚です。私も存在しません。それも思考感覚です。第7感覚です。

それを釈迦が悟ったのか???

釈迦はまさかの自分が存在すらしないことを悟ったのです。これ文章としては成立しません。自分が居ないことを悟ったならば誰が悟ったのか???という話です。つまりこの世界には誰も何も存在しないという事実の気づきが気づきによって起こったのです。もう一度説明します。我々が存在しないことに気づくためには何かが存在していなければなりません。その何かとは「人物」ではないのです。「気づき」という存在がその事実に気づいたのです。

究極の回答

悟りがなぜ究極なのか???それは本当の自分の存在を知ってしまたらそこから疑問はもう起こらなくなります。本当の自分が分かってしまったらまさかのこの世界も誰も彼も存在しないことに気づきます。今までの世界が消えてなくなります。そしてそこにはこの体もこの私も含まれるのです。

そこを目指す

究極の存在は最初は概念です。究極の存在が存在することを先ずは概念で学びます。ですがまだそれは概念に過ぎません。究極の存在は概念では全くないのです。究極の存在は概念を生み出すものです。そしてその概念に気づく存在です。ですが究極の存在が存在することを知るだけでも一変します。それ以外に対する関心が消えます。

感じる、でもない

究極の存在は究極の存在を感じることはできません。究極の存在が感じることができるのは究極の存在以外の存在です。つまり究極の存在は探しても絶対に見つかりません。絶対に見つけることができない存在こそが究極の存在なのです。ではどうしたら自らが究極の存在であることに目覚めることが出来るのか?それは感じる全て(7感覚)が全て究極の存在ではないことに気づくのです。そして究極の存在以外は存在しないのですからそこから気づくのです。

フジテレビ問題を悟りはどう考察するか??

フジテレビ問題を目覚め、悟り、非二元的な立場から考察します。この問題は何でしょうか???夢です。夢としてこの問題が起こったのです。幼児にはフジテレビ問題は起こりません。なぜか????この問題を理解できない、知覚できないからです。問題とは知覚が起こすのです。ですからこの問題は事実ではなく夢です。夢としてこのような知覚が起こったのです。

では???

なぜではこの問題が「私」の前に起こったのか??関心があるからです。もしもあなたが全くこの問題に関心がなくかつTVも何も観ないとき、ネットニュースを全く観ない場合、、どうなりますか???何も起こりません。知らないのです、この問題が騒がれていることを。もっと極端に言います。あなたがもしもアフリカ人で日本語を一切知らない時、、この問題はあなたの前に現れることができません。知覚が起こらないからです。関心があるから次々にニュースが現れて知覚が起こるのです。

でも????

電車に乗っていて中吊り広告に乗っていたら?????関心がなくても気づきますよ。。。気づきません。あなたが中居くんという知覚を持っていなければそのニュースは脳に入りません。SMAPの元リーダー中居くんという知覚が起こらなければ中吊り広告は意味なしです。日経新聞を全く読まないような方が日経新聞の中吊りを見てもほぼ知覚が起こらないでしょう。なぜならば書いている内容がわからないからです。

関心がなければ頭にも入らない

あなたは地球の裏側のブラジルで起こった芸能ニュースを何か今知っていますか???間違いなく知らないはずです。なぜならば関心がないからです。関心があるからそのニュースはニュースとして知覚されるのです。つまり関心がない場所では問題は起こりません。これは夢です、夢で問題が起こるのは関心があるからに決まっています。

夜の夢

夜の夢であなたは全く関心がない問題を抱えることはできますか????生態系の細部の細部、ミトコンドリアの細胞分裂問題という問題を夢の中で抱えることは可能でしょうか??不可能です。関心が全くない問題がこの夢で起こることは絶対にありません。東大教授が抱えでる問題があなたの夢で夢化されることはありません。つまりこの現実というのはあなたの関心で生まれたのです。

世界が最初にあって、、、、ではない

世界が最初にあってその中の何かに関心を寄せたからその問題が現れたのではないのです。その問題は関心が生み出した夢です。関心がなくなければその問題も勝手に消えます。もう一度説明します。その問題が登場し続けるには関心が続いていないといけないのです。

フジテレビ問題に戻る

ではフジテレビ問題に戻ります。これはあなたの関心が生み出した問題という夢です。なぜあなたはフジテレビに関心があるのでしょうか???それはあらゆるTV番組をフジテレビを通じて見てきたからです。そのフジテレビの親玉がどんな面しているのか知りたかったのです。だからこの問題があなたの夢に現れたのです。中居くんのプライベートに関心があってフジテレビの親玉に関心があるのです。そしてこの夢が次々に現れたのです。

夢を作り出したのは誰だ????

では誰がこの夢を作ったのですか????間違いなくあなたです。あなたの関心がなかったらこの夢は存在不能ですから。つまりあなたは神なのです。フジテレビ問題を作り出せちゃうような神です。そしてこのフジテレビ問題という夢は神によって今まさに見られています。神が神のためにこの問題を作りました。ですからこの問題で悩んで居る人、苦しんで居る人は皆無です。存在しません、夢以外が。

夢で終わり????

そうです。夢だったんです。コメンテーターは騒ぎます、この問題が大きな闇を抱えているぞ!!!と。ですが夢です。そういう夢です。コメンテーターの発言も夢です。ですから彼らの話を真剣に聞いてはいけません。彼らの話は嘘です。なぜならば全部夢なのですから。彼らはこれが夢とは絶対に語りません。つまり嘘をついているのです。そのコメンテーターの話を聞いて「俺はしっかりしなきゃな」という思考が湧いたならば嘘を信じた思考が起こっています。これで苦しみが起こるのです。

最終回答

フジテレビ問題が目の前に起こったのはあなたがそれに関心があるからです。そして知覚が起こり思考が起こるからまた見たいのです。まだまだ見たいのです。ですがこれは夢です。関心が生み出す夢です。そしてこの夢は「私」ではなく神が見ています。神が見て神が生み出しています。あなたはフジテレビ問題自体を生み出してしまうような存在です。そのあなたがなぜフジテレビ問題に関心があるのか分かりますか???その自覚がないからです。こん現実と呼ばれる夢を生み出してしまうような存在であることを忘れてしまっているからこの問題に関心が湧いたのです。