思考が思考する

真我ではない

真我は思考しません。真我は最初から完璧ですから真我が思い悩むのはあり得ないのです。ならば思考は何だ???思考はなぜ生まれるのか???それは思考は思考が起こしているからです。思考の正体は思考です。思考は何によっても生み出されていません。思考は勝手に思考によって生まれるのです。これをコントロールできる何かが存在しないのです。

真我は何もしない

真我は何もせず自分も思考しないのならば思考は勝手に起こる以外にあり得ません。思考が勝手に勝手に起こるのです。つまり自分も思考です。自分も勝手に思考によって起こります。自分という存在前提の思考も勝手に勝手に起こるのです。それだけです。それしか起こりません。

何かであるべき

しかし

「何かであるべき」というスローガンを掲げた本人は実は怯えています。男ならば大志を抱け、、、と掲げておいてここで起こる思考は全くコントロールできません。つまりここで大志が崩れることを恐れます。男ならば、女ならば、、、が起こった瞬間に恐怖で怯えます。何もコントロールできません。そのことをどこかでは分かっています。だから怯えるのです。

私は絶対に裏切らない

会社が負債を抱え自殺を図る人がいます。周囲に期待をさせておいて申し訳ない、、という気持ちから自殺をします。ですがこれは実は人間を分かっていないのです。どんな思考が次に現れるか全く分からないのです。裏切る思考が起こるかもしれない、何も決まっていません。全ては自分の責任です、というのは傲慢な考え方です。

ですが

それでもいいのです。何が起こってもそれは自然現象です。それを止める方法は存在しないのです。だから何があっても放っておいてください。そして何も期待しなくなった時、このドライな世界に何かが起こります。「何とかすべき」というドライな世界が消えていきます。これはお化けです。確信が生み出すお化けです。自分というお化けも消えます。全てはお化けです。お化けに関心がなくなるとお化けは消えます。

私は岩であるべきだ

この時

私は岩であるべきだという価値観を持っていればハンマーを恐れます。私は裕福であるべきだという価値観を持っていれば経済危機、インフレ、貧乏人を恐れます。何かであるべきという価値観がある時、そうでなくなってしまう状況を恐れます。ですから何かであるべきという価値観は苦しいのです。常に常に何かを恐れ続けます。

天国の皮をした地獄

天国など存在しません。天国を見つけることは不可能です。天国は発見できません、もしも天国を発見してしまったら天国以外が存在することになります。発見された天国はやがて消え去ってしまう可能性を残します。すると私はそのことを過度に恐れます。毎日天国が消え去ってしまうことを恐れるのです。天国など存在しないのはそのことです。

では????

では天国はどこにあるのでしょうか???天国は探してもないのです。ではないのか???あるのです。地獄に気づく気づきこそが天国です。天国を探すという思考に気づく存在こそが天国です。天国が地獄に気づくのです。天国が天国を探していたのです。そのことに気づいた時、天国として「在る」ことができます。天国を探し回るという地獄から解放されます。探し求めなくてもまさにここに「在った」のです。

神は神を見た

神は夢を見ていた

当初、神は神を見ていました。これが幼少期です。そこから見た目上の体が嘘を教えられそれを信じるようになった時、夢が現れました。この夢を神が見ている時、苦しみが起こるので、、この苦しみを解消しようとする更なる動きが夢の中で起こります。これが人間活動です。少しでも良い暮らし、少しでも友人は多く、少しでも文化的な暮らしに憧れるのは、、夢を見るのが苦しいからです。

この私が見る夢

この私も当然この夢の中の登場人物です。この登場人物は神が見る夢を「私」が見ているという勘違いをします。というよりもそのような勘違いの思考が起こります。これもまた夢です。神が見る夢を「私」が見ているという勘違い思考が起こっている期間、苦しみが続くのです。神は夢を見ているにも関わらずこの私がこの夢を見ていてその夢は現実と呼ばれるようになります。

夢を夢と見抜く

ですから最初に気づくべきことはこの現実が「夢」だということです。夢だと気づけば「だれ」が見ている???という究極の疑問が起こります。それが神です。夢の中の私は夢を見れません。夢を見るのは夢の外の住人に決まっています。これで「私」はお役御免になるのです。夢の中の私は夢を見ていない私に戻ります。そして急遽「神」が現れるのです。神が「私物語」という夢を見ているという事実に帰るのです。

この夢は何だ???

ではこの夢は何でしょうか???なぜこの夢が神の前に現れるのでしょうか???それはこれが神の鏡に映った姿だからです。神の鏡に映った姿として「これ」が現れたのです。この夢は神が鏡に映った姿です。ですから実際には夢ではありません。そのことに気づくとこの夢は終わりに近づいていきます。

夢の中の夢

夜の夢

夜の夢は夢の中の夢ですか???違います。この体は夢を見ることなどできません。この体は夢の中の現れに過ぎません。ですからただ夢が切り替わるのです。夜の夢は切り替わった夢です。朝が来て夢がこれに変わるのです。そして夜の夢も朝の夢もこの夢は思考によって支えられるのです。思考が消えたらこの夢も消えます。この私ドラマという夢は思考が支えます。そしてこの夢が抜け落ちた時神の投影だけが残るのです。

神の投影では???

神の投影とは夢が抜け落ちた時に残るものです。最初から勿論神の投影です。神の投影の中に夢という現れが起こっていたのです。夢が落ちても当然神の現れは残ります。神が神の現れに気づくとき至福が起こります。神が夢に気づく時そこには苦しみが残るのです。苦しみは夢の中でしか起こりません。夢とは思考が作ります。この思考は無知が生み出すのです。

解放

何からの解放???

解放とは何でしょうか???解放とは何が何から解放されるのでしょうか??結論から言いましょう。解放とは既に解放されていたと気づくことです。つまり最初から解放されるべき存在が存在しなかったという気づきです。もう一度言います。誰も何も縛られてなどいなかったのです。ただ個人という世界とは別個の存在が存在するという確信だけが起こっていたのです。

誰が???

誰がその確信をしたのですか???もしもここで「私」と言えば私は実在になります。私という実在は存在しないのです。私という実在が存在しないにも関わらずそれが存在するという確信だけが起こっていたのです。それこそが夢です。夢の誕生です。夢が起こっていたのです。神から神の投影として夢が起こっていたのです。この夢が見られるとき私が存在します。それが夢です。

神の投影にも関わらず

これは神の投影です。神の投影にも関わらず思考が起こり私が発生し、世界が発生し夢が現れたのです。この夢を注意深く観察すればそのことが分かります。この夢は思考が作り出しています。思考がなかったらこれは夢ではいられないのです。思考が出現し夢になったのです。それまでは何か??神の投影です。神の投影でしかなかったにも関わらず思考が私を生み出し私の夢が始まりました。いつしかその夢は現実と確信され夢が現実と呼ばれるようになります。これがカラクリです。

何かをしなければ

それは夢の中

悟るために何をしたらいいですか????これ愚問です。悟るためにこの夢の中で私は何をしたらいいのでしょうか???悟るために夢の中でこの私が何者かになれたらそのような夢が起こったのです。悟りとはこれが夢であり夢の正体に気づくことです。この夢は何だ???という疑問が起こりこの夢は真我の影だという気づきに至ることです。神の生き写しであることに気づくことです。夢の中の私が何者かになることではないのです。

夢の中の私はではどうすればいい??

放っておけばいいのです。放っておいても大丈夫なことに気づくのです。放っておいても何も問題なくこの体を守っていくことに気づくのです。なぜならば自分は本当は何もしていないからです。これからも何もしないのです。そのことに気づくのです。そして意識を真我に当てます。真我からこの投影、夢と呼ばれるこの投影が起こっていることに気づきます。それだけです。

どうにかしなければならない誰かが居なかった

退職した暁には私は会社のために何をしたらいいですか???この質問が愚問なのは分かりますよね???退職とは会社と縁が切れることです。会社にはもはや属していないのです。自我とは何か???自我とは実は何もしていないにも関わらずこの体の全てを請け負ってきたと信じる確信です。事実では何もしていません。ですから自我が退職しても何も困りません。最初から何もしていなかったのですから。

気づくに気づく

気づきに気づくのは誰???

気づきに気づくのは誰でしょうか???それは気づきです。気づき以外に「気づき」の存在に気づける存在は存在しません。気づきに気づくのは「私」では???私とは思考です、私という感覚は思考です。その感覚は気づかれる側です。「気づく」対象は「気づき」ではない、、という自覚が起こりならば今ここで起こる全ては対象ゆえに気づきではないのです。そうなった時「在る」という感覚が気づかれ続けていることに気づくのです。

「在る」

在るという感覚に気づいています。在るという感覚が気づかれています。在るという感覚は常にあります。この在るに気づく存在こそが「気づき」です。そして熟睡中は「在る」が消えます。在るが消えたのです。この世界と同時に在るも消えます。つまり世界とは「在る」そのものです。気づきは世界が現れると同時に「在る」にも気づきます。「私」という感覚に気づくと同時に「在る」にも気づきます。私も世界も消え去っても「在る」には気づきます。

気づきは普遍

気づきが消え去ることはありません。世界が消えても私が消えてもそれに気づいています。在るが消えても「気づき」は残ります。在るの不在に気づきが気づくのです。何もかもが消え去っても気づきが残ることが気づかれています。全てはここから現れ出ることが気づかれています。そのことが気づかれた時平安が訪れます。そのことが気づかれた時時間の中でもがく自分に関心がなくなります。それが本当の自由です。

夢から覚めるとは??

夢の外

夢から覚めるとは何でしょうか???どういう状態が夢から覚める状態でしょうか??夢から覚めるとは夢の中には自分が居ないと気づくことです。夢とはその中に主人公がカッツリ居るから夢なんです。夢の中に主人公が居ない夢は夢ではありません。ではどうしたら夢のなかから出れるのでしょうか???簡単です。最初から夢の外に存在することを思い出すだけです。

最初から???

そうです。最初から我々は夢の外に存在します。ただそのことを思い出すのです。あらゆる知識、洗脳、記憶によって夢の中に住む住民という確信が起こりその夢が起こっていたんです。ですがそれは全て知識が生み出す催眠です。つまりこうです。今まで信じてきたことは全て嘘です。その嘘が勝手に自然に湧いていたのです。その嘘が勝手に起こり勝手に知覚が起こり勝手に気づかれていたのです。

全部嘘

あらゆる知識が全て嘘だとわかってしまえばもう悩むことができません。将来不安、ご先祖様、世間体、家族間付き合い、社会的地位??全部嘘です。嘘の思考が生み出す知覚に過ぎません。嘘の思考が生み出す知覚を「現実」と我々は読んできたのです。そしてこれらは勝手に浮いてきますからこれを回避する術はないのです。ですが今それが暴かれました。今このシステムの全貌が露わになったのです。

つまり

思考による全知覚は嘘です。嘘の知覚が次々に起こります、それを嘘と自覚していきます。嘘と見抜かれた知覚はやがて姿を消していくのです。お化けの正体を暴かれたお化けはやがて姿を消していきます。UFOの正体を暴かれたUFOはやがて姿を消していきます。ここに現れるのは全てお化けのよなものです。姿を消していく運命にあります。この夢では無駄な夢が消えていくのです。シンプルになります。ハッピーになります。

なぜ悟り本は難しいのか???

なぜ????

なぜ悟りに関する本は難しいのでしょうか??なぜ???それはあなたの夢においてまだその関心が薄いからです。悟りに関心が半信半疑だから難しいのです。あなたの夢がまだ悟りへの具体性を示してくれないのです。それは哲学、科学、未来工学、なんにおいても同じことです。

腹を決めれば

これは夢なんです。腹を決めれば悟りに関するメッセージも具体性を帯びてきます。夢に具体性が伴ってきます。夢が詳細になってきます。ですが同時に過去の確信も具体性を持ってそれを邪魔するでしょう。なぜならば悟りのメッセージの内容と過去の確信は真逆だからです。夢の中でその矛盾が生まれていきます。ですが過去の確信は全て嘘ですから嘘はいずれ暴かれて終わるのです。

とはいえ

これが夢とは思えないような現象が次々に起こるでしょう。それは親族の死かもしれない、貯金を奪われる、家が全焼する、大震災が起こる、何でも起こるでしょう。その現象はこれは夢じゃなくて現実だ!!!という確信の残党です。ここで残党が頑張らなくてはこの確信は木っ端微塵に消し去るのですからそれは必至です。ということでこの戦いは最後の戦争です。辛い戦いになるかもしれません。ですが所詮は夢です。それが分かれば大したことはないのです。