気づきは成長しない

究極

我々は気づきという究極の存在です。この気づきは成長しません。成長などする必要がありません。成長したくても時間が存在しません。時間こそが気づきの中に生まれる幻想です。ですから成長などあり得ないのです。気づきは最初から完璧であり完全です。非の打ち所がないのです。それが私の本性です。

では

成長するのは自我の方です。エゴの方です。魂の方です。これらは気づきから現れる幻想、現象です。こっちは時間の中で成長するという夢で起こります。つまり成長は完全な幻想、幻です。幻ですが確実に実感できる幻です。我々は夢の中で目覚めるのです。これが夢だと夢の中で目覚めるのです。明晰夢です。

幸せを探さない

見つかった幸福

我々はこの世界で幸福を探します。あれを集めれば、これを集めれば、こんな彼女、こんな旦那さん、こんな子供、、、ありとあらゆる想像をしてそれを事実探そうとします。ということは今ここにある現実に満足が起こっていないから探すのです。では今ここで満足が起こっていない状態はなぜそうなったのでしょうか???そこを見つけることができないから安易に外側を探すのです。

自我という浮遊霊

自我という浮遊霊の存在に無自覚だから不幸なのです。自我という浮遊霊が存在していることに無自覚であり本当の自分を完全に忘れてしまったから不幸なのです。そして浮遊霊が考え出すあれ、これを探してもそれを得るのは浮遊霊です。あれこれを手に入れた浮遊霊というドラマがここで起こるのです。ですが自分は誰かを思い出していないのでこの不幸はエンドレスに続きます。

自我と気づき

気づかれた自我は自我ではない

自我は気づかれないから自我です。無自覚だから自我です。気づかれた自我、自覚された自我はもはや自我ではありません。古い心のパターンです。自我とは泥棒のようなもので動きを見られてしまったら最後、活動が終わります。泥棒の活動の終わりです。活動しない泥棒はもはや泥棒ではありません。

浮遊霊

自我は浮遊霊のように全く気づかれずに住み着いています。これって浮遊霊の動きだよ、こう教わった人は何かある度に思考が動くたびに、感情が動く度に、、自我に気づきます。その時自我はもうかつての動きを出来なくなります。動きを見極められた空手初心者のように師範は簡単に動きを見切るのです。見切られた初心者は動きを失い退散します。

問答

問答は常に

真実はこうなっています。すると「その場合私は、、、」という返答が続きます。これ「私が存在する」という観念が落ちていないのです。この観念が落ちきっていないから「私」が消えません。だから説明の返答は常に「私は、、、」になります。そこで「私が存在する」という観念を私はどうしたら消せますか???というおかしなやり取りになります。私がそれを消そうとすることこそがその観念を強化します。

状況証拠

そこで見た目上のこの私は状況証拠を突きつけます。「私が存在する」という両親からの教育によって「私」は現れたのです。それが真我から幻想として生まれたのです。だから見た目上のあなたがやるべきことはただ真実を知るだけでいいと。「私」を無視して真実を知ってください。すると自我が無視され真実に触れていくことで「私が存在する」という確信が消えていくのです。同時に私も消えていきます。「私」ではなく大元のボスを殺すのです。

存在

全て

見える、聞こえる、感じる、、、、この全ては存在です。存在以外が存在しません。全景色は存在がそうなっただけです。全音色は存在がそうなっただけです。違う音がランダムに起こりそれが繋がってメロディーになります。それが存在から現れたのです。そのメロディーも存在から現れ存在に消えます。良いメロディーだなという感覚も生まれ消えます。

歩けば

存在があらゆる景色になって現れます。そして私は進んでいるという感覚もまた存在から現れるのです。本当はただ移り変わる存在が存在するだけです。私は進んでいる、今日は渋滞だな、、、という感覚が存在から現れなかったら「到着した」という思考も起こりようがないのです。

つまり

これは全て存在の遊びです。明日までに仕事終わらせなくちゃ、、も存在から起こります。こんなに仕事キツイなら死んだほうがマシだ、、という思考すらも存在の遊びです。じゃあ私はこれからどうしたらいいの???という思考もまさに今存在から現れました。どこまで行っても存在しか存在しません。この事実に気づくと「私が存在する」という観念がゴソット落ちます。

方法を求める

気づき

どうしたら覚醒しますか??どうしたら目覚めますか???この質問の主旨には「私は何をしたらいいですか??」があります。ですが私は実は何もしていないということに気づくのですから、、そのために何かをすべきという理屈は破綻しています。私は何もしていなかったという気づきに至ることが悟りです。

とはいえ個人は彷徨う

とはいえ個人は彷徨います。個人は何かをして生きてきたのでそれしか生き方が分からないのです。ですがここでも真理は冷酷に断言しています。個人は実は何もしていないのです。そのことに徹底的に気づくのです。気づく、、、気づきに努力は必要ありません。ただ気づくのです。ただ冷静に明晰にそれに気づく以外にありません。

真我と幻想

幻想があるか否か

真我は常にあります。真我が存在しない状態は存在しません。ですが幻想はある時もあればない時もあります。幻想がある時、我々はそれを現実と呼びます。ですが事実ではそれは現実ではなく幻想です。その幻想が消えた時「熟睡」と呼ばれます。ですがそこにも当然真我が存在します。真我は消えません。幻想が出現するかしないかだけです。幻想が出現するとき自分も現れ世界が出現するのです。

無視された自分

この仕組みが腹落ちしますと自我が無視されます。自我の動きに関心が向かなくなります。なぜならばそれは幻想であることが暴かれています。幻想であることが暴かれた自我は存在性を失っていくのです。関心を持たれない自我はやがて消えていくのです。関心はこの幻想全体に広がります。関心は真我とその幻想に無方向に注がれるのです。

私とは誰か??

究極の問い

究極の問い「私とは誰か???」が突如起こります。この問いは究極です。この究極の問いが起こった時奇跡です。私とは誰か???という質問を日常生活では絶対に受けません、聞きません。つまりこの質問はあり得ない質問なのです。起こり得ない質問です。この質問があなたを通じてこの世界に現れでたのならばその時です。

現れてはいけない質問

自我の取り込まれた状態、催眠がガッツリ効いた状態では「私とは誰か???」という質問は自然発生的に起こりません。能動的???いやいやそんなものは存在しません。全ては受動的です。そしてここでもしも私とは誰か???が起こったのならばその時期がきたのです。私は私です、ここに疑いは起こってはいけないのです。本来は。

地球の生命体

地球に生命が生まれた瞬間、これは奇跡です。自分とは誰か???この質問が生まれたのは奇跡です。この奇跡が起こった時後戻りは絶対にありません。これは進化です。この質問が生まれたことを喜んでください。催眠が完全に抜け落ちるまでこれは続きます。「私とは誰か???」という芽が育ってしまった以上引き返せないのです。

ここで

今ここに神が存在するならばここで神になる以外に方法はありません。神がどこか遠くにいるならばここで神になることは不可能です。ですが間違いなくここに神が存在します。だから今ここで神になるのです。一方で神は神以外には絶対になれないのですから今も神は神としてここに存在するのです。ただ神が現すこの夢に自分という存在を作り出し苦しみも同時に作っているだけです。

つまり

つまり神は神としてここに存在しながらも自分という思考を生み出しているに過ぎません。全くもって存在は存在のままでここに存在しただ勘違いの思考が起こっているのです。その勘違いの思考が消え失せた時、神が神の自覚を取り戻し至福に至るのです。その勘違いの思考も神が頑張って生み出したのではなく勝手に自然に起こったのです。ただそれを自覚します。

体ではない

もしも

もしもあなたが体であるならば今日は眠い、今日は怠い、今日は元気という体の変化に気づくことは不可能です。体だけは体の変化に気づくことはできません。体は体の変化に気づけません。つまりもしもあなたが体の変化に気づけるならばあなたは体では絶対にないのです。心は心の動きだけは気づけません、思考は思考の動きには気づけません。感情は感情の動きには気づけないのです。

では

では私は誰ですか???私は私には絶対に気づけませんからあなたが知っている「私」は本当の私では絶対にあり得ません。「私」という存在に気付いている時点でその気づかれた私は絶対に本当の私ではないのです。つまりあなたの知っている私は思考か感覚は知りませんが絶対に本当のあなたではありません。あなたは全てに気づく「気づき」です。これまで何十年間「気づき」として全てに気付いてきたのです。このことが明確に気づけてきますとゴールは近いです。