不惑

迷いのない状態

迷いのない状態とは何でしょうか???不動心、、結論からお伝えます。迷いのない状態とはどんな思考が起こってもそのメカニズムに気づくことです。今日目覚めて朝から迷いの思考が次々に起こるとしましょう。それが何か分かっていることです。どんな思考が起こってもそれがどういう仕組みで起こっているかに気づくのです。思考は何でも起こります、ですがそのことに気づかないと湧く思考によって悩むのです。

思考は何でも起こっていい

思考はこの体、この自分を守るために勝手に自然に湧き続けます。それでいいのです。思考とはそのために存在します。ですから思考は放っておいていいのです。そして思考がどんなに騒ごうが大型犬が叫んでいる程度に見ています。観察します。随分と思考が今日は暴れるなあと気づきに入るのです。この気づきは何でしょうか???この気づきは神の気づきです。神が思考の暴れに気づくのです。神だから思考の暴走に気づくのです。

そうか、俺は神だった

思考がどんなに暴れようともその思考に気づくのは神だけです。そして思考が暴れようがその暴れは間違いなく神の投影として暴れるのです。人間である私という思考が起ころうともそれも神の投影です。ここに戻ります。どんな思考も神の投影というのが真実です。神の投影として私という思考が現れては消えていくのです。

思考への関心

思考への関心が消えていきます。思考が何かを分かっていないから困っていたんです。思考をこの私が生み出したエネルギーと捉えていたから勝手に湧いてくる思考に戸惑っていたのです。ですが今思考の嘘が暴かれたのです。思考とは神の投影として勝手に現れる影です。この体を知覚した時に勝手に現れるのが思考です。ですから思考は非コントロール系ロケットです。

思考をエンタメとして楽しむ

思考を勝手に湧いてくる非コントロール系ロケットと気づいたらどうするか???そのロケットを楽しむのです。花火のように楽しめばいいのです。今日はこんなロケットが、こんな花火が打ち上がったなーです。つまりこの体を守るためのこの自分を守るためにいっぱいロケットが花火が打ち上がる様子を楽しみます。

感情もエンタメとして楽しむ

思考がこの自分を守るためならば感情も完全にそうです。感情もこの体、この自分を守るために勝手に湧いてきます。そのことに自覚的になります。多くの方は感情は自分が生み出したと思っています。違います。神の投影として自分を守るために現れるのです。この自分を守るためのこの感情を神として気づきます。神が神の投影に気づくのです。

それでどうなる????

思考や感情こそが「気づき」を「気づき」に至らせるのです。思考が現れてくれたから「気づき」が「気づき」であることを自覚できます。神が神であることを自覚できるのです。つまり思考を通じて神に戻ります。感情を通じて神に戻ります。神が神に戻るには「気づき」という正体に気づかなくてはなりません。思考はそれを気づかせます。

この世界を憂う

小さい子供

公園で遊ぶ小さい子供はこの世界を憂いているでしょうか??いませんね。彼らは今ここにある遊具でただ遊びます。そしてそれを見守る母親はどうか???母親は世界を憂いていたりします。ではどちらが正しいのでしょうか????母親は子供よりも知識があるのだから世界を憂うのが正しいに決まっている???だとしたら世界とは憂うべきが正しいのでしょうか???

答え

では結論から入りますね。母親は間違った、勘違いの概念を吸収していき「世界を憂う」のが正しい態度と教わって真面目にしっかりとそれをしているのです。あくまで夢の中でのことですが。世界とはこうなのだから憂いて当然だと学びそうしたのです。ですがその学びの内容は全くの嘘ですからその憂う態度も間違っているのです。

フジテレビ問題

今フジテレビ問題がニュースで流れています。これをどう捉えればいいのでしょうか????古い体質の上場会社、世間では立派な会社ですらこんなものだから我々は酷い世界に死んでいるのだ。これが世間では正しい態度です。ですが残念ながら違います。そのニュースは私が関心を持ったから現れた夢です。その夢の内容には私の関心が大きく影響しています。夢です。夢の内容には個人の確信が影響するのです。

何も起こっていない

フジテレビ問題は夢です。夢ですから実際には何も起こっていません。ですが内容が夢として現れています。確実に現れています。この内容には個人が存在するという観念を含め記憶が大きく影響するのです。その内容は再び個人と個人以外の世界という催眠を生み出します。もしもこのフジテレビ問題を憂うのならばそれは催眠作用が働いているのです。夢の内容は催眠を促します。その夢の内容には個人が記者会見をし周囲から責め立てられるという個人ストーリーを起こします。この内容は個人という催眠を促すのです。

ですが

ですがこれは夢です。実際には記者会見で責め立てられる社長は存在しません。記者も存在しません。ただ個人と個人が存在するという内容がここで起こっていてその内容は催眠を促しています。このニュースを観てもそれもまた夢だ、、という気づきに至った時それはただの夢のエンタメになります。世界を憂うことも消えます。何が起こっていても全て夢です。

残酷????

これは夢です。東大に入るには血の滲むような努力が必要と確信すればこの夢はそうなります。自身が大天才であっても東大に受からないという現実が起こります。日本一の天才が東大に受からないという事実が生まれます。なぜならばこれは夢だからです。一方センター9割取れれば楽勝という確信を持てば天才でなくても受かります。なぜならばこれは夢だからです。これが夢である以上何でも起こります。因果を超えています。

安定収入がないと幸福になれないという夢

安定収入がなかったら幸福にはなれないという確信を持てばこの夢はそのように動きます。不安定収入者はこの夢では惨めに映ります。そして私は「やっぱり」と嘆くのです。ニュースでは不安定収入者が無惨な死を迎えます。孤独死、餓死、、など。「やっぱり」です。これは夢です、信じればそうなります。

努力????

じゃあじゃあ努力もしないで幸福になれるのですか???これは夢です。何でも起こります。努力しないと幸福になれないと固く信じれば努力しない人間はその夢で無惨な死を迎えます。そんな固定観念を持たない者の夢では全く違う夢が起こるのです。ですから完全に公平です。この夢は公平すぎるのです。この夢にはルールはないのです。ルールこそがこの夢の中でルール化します。ですから本来は何もルールはありません。

え?????

働かないといけない、結婚しないといけない、お金を払わなくてはいけない、、、全て夢ですか???そうです。そういう夢が起こったのです。全部確信が生み出した夢です。因果とはこの勝手に決まったルールに則ったものです。本当はそんなものはありません。時間すらないのです。空間すらないのです。夢ですから。夢の中には時間はないのですか???ありますよ、夢として。

なんでもないものがなんでもあるものに

無が有に

この世界は何でもないものが何でもあるものになったものです。最初は何でもないのです。何でもないものが何でもあるものとして現れます。ですがなぜ何でもないものが何でもあるものとして現れ気づかれたのでしょうか??それは我々の本質が何でもないものであり、かつ気づきだからです。だから何でもあるものとして現れた時それが気づかれるのです。

有は気づかれてこそ

テーブルがある、椅子がある、パソコンがある、カップがある、、この認識、知覚は気づかれてこそ成り立ちます。もしもその知覚が気づかれなかったらその知覚は存在しないのです。つまりこの有は無によって気づかれるからこそ存在します。有とは無という気づきによって気づかれる無なのです。つまり有とは無です。

私は誰?

夢の中

私とは誰でしょうか?私とは夢の中の住人です。ですがこの夢は私によって見られていないのですからこの私は夢で見られる存在の一つです。彼もこの夢の住人であり彼女もそうです。そして皆は夢で見られる住人であって夢を見る住人ではありません。そこが大きな大きなポイントです。

では???

では私は何をしているのですか???何をしている???ただ「私」は勝手に動き勝手に思考し、その活動の全ては神によって見られています。私という動き、私という思考、私という活動は全てこの夢の中でこうやって見られています。気づかれています。違いますか???じゃあ私はこの夢を見てはいないのですか???見てないです。見ているのは神一択です。

でも

でも私はこの夢を今まさに見ています。間違いなく見ています。そこに疑いはないのです。そうですよね???そうですね、あなたは間違いなくこの夢を見ているのでしょう。だとしたらあなたは「私」ではなくて神です。私とは神のことです。神がこの夢を今まさに見ているのですから。そして私とはこの体に名付けられた名前に過ぎなかったのです。あなたは基本神なのです。「私」という名前はこの体のネーミングに過ぎずそれ以上でもそれ以下でもなかったのです。

じゃあ

じゃあ私はこれからも存在していいのですか???もちろんです。私が存在しなかったらこの夢の中で住民票も電気代も年金も払えません。ですからこの私は存在しなくてはなりません。ですがその私は夢の中の登場人物に過ぎず、その私はこの夢を全く見ていません。この体はあらゆる五感を作り出しますがそのことに気づいている存在こそが神です。その五感は気づかれなくてはこの夢は進行しないのです。その気づきが神です。

五感の所有

この体が食事を食べれば五感が作用します。味覚、嗅覚、触覚、聴覚、視覚、です。ですがその感覚が起こったことは気づかれなくては存在しません。つまり五感は神によって気づかれて初めて存在できるのです。当たり前のことです。この夢は神に気づかれて初めて存在するのです。ですからこの体が生み出す五感の全ては神によって気づかれています。

これまではこの私がこの五感の所有者と考えていました。それでも問題はありません。ですがこの神がそのことに気づかなければその五感は存在できません。その神の存在が完全に忘れ去られていたのです。もう一度説明します。この夢で起こる様々な出来事は神の不在時には気づかれません。この出来事の全ては神によって生み出され神によって回収されるのです。そして今その出来事に気づいているならばあなたは神です。紛れもなく神です。

目の前の覚者

裏切る

目の前に覚者が存在するとしましょう。その覚者は夢の中の映像です。にも関わらず人は興奮しその存在を確信します。その時これは夢ではなくなります。これは夢ではなく実在になります。勘違いの中に入っていきます。目の前に総理大臣が現れます。その時人はその人を実在と信じます。その時この夢は夢では無くなります。エージェントスミスはこれが夢と気づかれては困るので信じた存在に成り変わり目覚めを邪魔するのです。

これは夢だと

これは夢だと気づいていながら人は誰かにはそう思いません。これは夢だと言っておきながら親が病に倒れればそうは思えない。子供が病気になればそうは思えない。だからそこが狙われるのです。エージェントスミスは一番の弱点を狙うのです。そして自我がでしゃばり、やっぱり自我が居ないとダメだろ、、こういう結論に導くのです。

夢ということは、、

夢ということは本当は誰も存在しないということです。ですがそれは辛いのです。それは受け入れ難いのです。だから誰かは存在していて欲しいのです。誰かは。そこがエージェントスミスの狙い所です。そこを狙うのです。一番信用できる誰かが「エージェントスミス」に様変わりして目覚めを邪魔します。

暴かれる

何が???

大人が唱える幸福は嘘であることは分かっていました。だってそれを叫ぶ大人の目が死んでいるからです。目が死んでいる人間が唱える幸福を目指すって本当に地獄です。ですがそれ以外に目指す何かがない時人は必然的にそれを目指すのです。絶対に間違っていることは分かっていてもそこを目指す以外に道はないからです。

修復期間

大人が唱える幸福が嘘だと気づいたとき、そこから方向転換できる人は稀です。もう手遅れ、気づいた時はもう遅い。。。これが多くの見た目上の人々の流れです。何かが違うことは分かってはいるがもう考えても無駄だ、、これが本音です。ですが少数ではありますがそこから気づきに入る人もいます。そこから脱催眠に入る勇者がいるのです。

孤独

周囲は全く真実に無関心で私だけがそこに向かうのは勇気が必要です。最初は孤独です。ですがあるとき気づくのです。この周囲は夢だと。これまでも夢でした、そしてこれからも夢なのです。どうせ誰も存在していないのです。どうせ世界すらも存在しないのですから孤独も糞もないわけです。ただここには存在から立ち現れる夢があるのです。それ以上も以下もありません。

私という存在が死ぬセッション

誰が求めるのか?

悟りセッションとは自分という存在に死んでもらうセッションです。自分という感覚に死んでもらうセッションです。目覚めるとは自分も消えることです。目覚めるとは世界も自分も何もかもが消えることです。そんなことが可能なのでしょうか????可能です。なぜならばこれまで自分も世界も存在するという認識はそれが事実なのではなくその認識が起こっていただけだからです。もしも金輪際その認識が起こらなかったら自分も世界も消えて無くなります。

そういえば

急に小学校時代の友人A君を思い出します。30年ぶりに思い出します。この30年間A君は存在しませんでした。30年ぶりにA君がこの夢に登場したのです。私という感覚が今から10年現れなければ私は10年間不在になります。世界という感覚が10年間起こらなかったら世界は10年間消えるのです。これは夢ですからその知覚が起こらなければ何も存在しないのです。

つまり

思考が全く今から現れなかったらもう何も存在しないのと同じです。全く何も存在しないことと同じです。マクドナルドの看板を眺めても「マクドナルド」すという知覚が起こらなければマクドナルドは存在しないのです。これは夢です。夢とは知覚がなければ何もないということです。夢しか起こっていないのにその夢の登場人物から嘘を教わってそれを信じてきたのです。それが嘘だと分かってしまったらもう嘘に戻らなくていいのです。周囲には嘘を信じる活動が続きますが放っておいて大丈夫です。なぜならばそれも夢だからです。

存在

これは存在の夢です。ここにテーブルがあるという知覚も存在の表現です。この私が存在するというのも存在の表現です。事実では誰も存在しません、テーブルも存在しません。それがあるという知覚こそが存在の夢です。そしてこの夢では何が知覚されようとも気づかれます。しっかりとそれが起こったことが気づかれています。存在とは気づきのことです。

この私が消えたら世界は消えますか???

私という感覚が存在から現れずただ知覚だけが起こる時、世界という知覚も起こりません。もうこれは存在の夢に過ぎないことが暴かれています。世界という知覚は私という知覚が支えます。全知覚は存在から起こる遊びです。そのことが気づかれた時世界はただの夢に変わります。

世界

世界という言葉にはこの地球を含む大きな存在という意味が込められていますがその意味が現れません。なぜならばもうこれは存在の夢だと分かっているからです。自分という感覚はこの世界とは分離した存在という意味でですがこれが存在の夢だと気づいて、、どうして自分という感覚が起こりえるのでしょうか?夜見る夢の中でそれが夢だと気づいた時、「私」「世界」という知覚が起こりえるでしょうか??それらは全て夢だったという気づきが起こるのです。

現実はこうだから

何か大人っぽい発言

お金のことを口に出したり、ドライな話をすると何か大人っぽい発言をしたかのように感じます。ですがこれ嘘です。確信がこの世界を夢を生み出しますから何でも確信は事実となります。それを知らないからドライな現実的な話をします。事実はこうなっていると。事実は確信が現れただけのことです。それを周知の事実のように語るのは間違っています。事実は確信のことです。

さらに

さらに具体的に話せばこれは神の夢です。神の夢ですからここに確信という思考が現れれば現象になります。その現象を見て「やっぱり」と確信が深まっていきます、大人になるとはこのようなことです。ですが事実は全く違うのです。神が存在し神の夢がただある、これで終わりです。これ以外は何も存在しません。何もです。

何も存在しないんだったら何でもいいや

神と神の夢しか存在市なのです。神の夢は神の夢ですから無限です。安全です。完璧です。夢ですから何が起こったっていいのです。夢ですから。夢とは実際には存在しないののですから。我々はその夢の中でこれを現実と勘違いして深刻に悩むという夢の活動です。それが分かってしまったらもうう夢のことで深刻になるのは辞めましょう。神が深刻になるってギャグです。