どこで我々は苦しむのか???

苦しんだり楽しんだり

我々は時に苦しみ、時に楽しむような柔な存在ではありません。我々は時に悲しみ時に嬉しがり、時に鬱々とし、時に喜ぶような柔な存在ではないんです。我々はその全現象を認識する大元の存在です。その全感情を認識する存在です。私は長い期間苦しんできました、、このストーリーを認識する存在こそが我々の本質です。だから我々が誰かに奪われたり誰かに傷つけられたりなど起こるわけがないんです。

万全の存在

我々の存在に喜怒哀楽などあるのだとしたら我々は柔で安定性のない脆い存在です。そのようなことはあるはずがなく、、我々はその喜怒哀楽を認識する存在です。今日は良い天気だなー、気分が良いなーという思考感情を認識する存在が私の本質です。え???じゃあ思考も感情も私ではないんですか????厳密にはそれらは私から現れたアートみたいなものです。。

現れた思考感情を

現れた思考感情は勝手に勝手に立ち現れては消えていきますから、、そこには関心を寄せなくていいのです。それよりもそれが現れ出た根源に意識を向けるのです、、この根源が我々の本質です。この根元の上に体としての「私」が立ち現れ、、「私」を中心にした思考感情が立ち現れては消えていきますが、、、それらは全部嘘です、、根源が自分であるという認識を欠いた思考の全ては嘘です。だから信用しなくていいのです。

背景に自分を重ねる

あるがままから

本来は我々はあるがままからの景色しか見たことがなかったんです、、あるがまま、、背景が、、現象をそのままに認識する世界に居たんです。。全ては光り輝き、、現象はそのままに美しく輝く世界に住んでいました。ところがこの体が自分だという学習をすることでこの自分をベースにした認識がこの上に重なったのです。その結果この世界が薄汚れてきたのです。

音を音のままに

生まれてきてしばらくは音を音のままに聞いていたんです、、この耳を介在することなく音を音としてそのままに感じていました。ところが「あなたはこの耳でこの音を聞いている」という概念を学習することで、、あるがままの認識の上に、、耳で聴くという認識が重なり音が燻んでいったのです。

あるがままに戻る

この世界は神が神の写し姿を認識する世界です、、ですからこの体を介在しなくても認識は起こせます、、最初はそうやっていたんです。ところがこの体の中の自分が居てその自分がこの認識を起こしているのだという新しい概念を記憶したことでそのままの認識の上に新しい認識が重なったのです。これによって息苦しさ、重苦しさ、居心地の悪さが生じたのです。

これを解消しようと

これを解消しようと、、、この個人が動けば動くほどに、、苦しみが継続されます。新しい認識こそが居心地の悪さの元であるなどとは知らずに、、起こす行動の全ては無駄に終わるのです。そしてクタクタに疲れ果て、、疲労困憊、、もう動けないと諦めたその時、、、個人の活動が終わり、、、真の安らぎに気づきます。

客観的事実

客観的事実とは残酷で、、ここに意識を向ければ向けるほどに苦しくなります。なぜか????それは客観的事実とは、、幻想事実だからです。全部幻想ではこうなってますよ!!!!という情報です。真実は幻想でそのものを生み出し認識する存在こそが我々です。我々は全幻想を生み出し全幻想を認識する存在であって、、幻想の一部では断じてないのです。

葛藤がない

太極拳

太極拳を極めていくことで太極に至るとうのは大変現実的かつ無駄がないシステムです。先ず一番最初に取り組むのが経絡、そしてそこに潜むペインボディであるということが凄いのです。このペインボディは軽楽に住み着む不幸依存症です。不幸依存症を住ませた状態で悟りとか先ず不可能。ここに最初からアプローチします。不幸依存症ペインボディの住処を崩していくのです。ペインボディを小さくすることが一番最初の取り組みになります。

大地にしっかりと踏み込み

大地に足をしっかりと踏み込み、、上半身を自由に操っていく、、全経絡が開いていく、、と同時に大地のエネルギー天のエネルギーが身体に入ってくる。。ペインボディが追い出されていきます。そして体は健康に元気になることで、、エゴは全く怖がらない、、この体を守る主人は安心の域に入るのです。ペインボディという不幸依存症を必要としなくなるのです。

お役御免

不幸依存症ペインボディの代わりに元気を通すことで、、、ペインボディの存在意義をなくすのです。ペインボディは「元気」の代わりにこの体に住まい、、「エゴ」を守ってきたんです。このペインボディにお役御免を言い渡すことが、、「元気」です。元気を体に注入し、、ペインボディに引き払ってもらうのです。エゴは自分を守ってくれるのが「元気」だろうと「ペインボディ」だろうと関係がない。よって「元気」が体に住まえばペインボディは居なくて結構、、となります。

元気が満ちれば

元気がこの体に満ちれば、、ペインボディは必然的に姿を消し、、エゴだけが残ります。そしてさらに元気を増やせば増やすほどにエゴという体の防衛システムは必要性をなくし、、エゴは小さくなっていくのです。元気が体に満ちれば、、何かを欲するエゴの動き、、大きく見せようとするエゴの動きも自然となくなります。さらに全生命エネルギーが体に流れ込むことで「大我」の存在を強制的に感じるようになり、、ここに戻りたいという欲求が生まれるのです、自然と。これが大極への欲求、悟りへの欲求です。

小我、大我

中国人

中国人は大変現実的です。今の体を小我と呼び、、この全体を大我と呼ぶ。。そして小我を完成することを小周天、、、そして次に全体であることを思い出すことを大周天とする教えがあります。先ずはこの体の全経絡を通す、、すると次第に宇宙との繋がりが起こり始め、、、宇宙全体になる、、これを体から入るのです。ペインボディを消し去って、、、エゴの解体を邪魔させない。

全体という感覚

全体という感覚を体から思い出してしまう、、、全経絡を開いてしまうことでペインボディを消し去って、、エゴの維持機能を封鎖、、、エゴそのものの動きを抑える、、なぜならば体は非常に鋭敏で健康ゆえに守る必要がない、、エゴが出しゃばる必要がないのです。。。結果エゴの肥大化を抑えながら、、、そのまま全経絡を開き切り、、全体であることを強制的に思い出してしまいます。

小我は大我の道具

大我、背景の感覚を思い出すことで小我は、、、この体の主人に過ぎないことを思い出します。強制的に思い出すんです。本当はこの大我こそが自分で、、小我はこの体の主人に過ぎないと。この流れを経絡という流れを使って行います。太極拳とはそのことです。太極とは非二元、ノンデュアリティです。

第二の自分

自我とは第二の自分のこと

自我とは第二の自分のことです。エゴとは第二の自分のことです。本当の自分は背景です、、この世界の背景が私です。今見える聞こえるこの世界の背景が自分です。この背景の中にこの透明肉体が出現し、この透明人間を自分とする動きが起こったんです。透明人間?????そうです、、透明人間です、、だって、、上を見るとこの体は消えます、下を見ると腕が消えます。右をみれば全体が消えます。はい、、目を閉じて下さい、、この瞬間に目が現れました、、目蓋を感じますね。はい耳を触ってください。、、この瞬間「耳」と呼ばれるフォルムが生まれます。鼻を触ってください、、この瞬間鼻と呼ばれるフォルムが生まれます。

この意識すると現れでる存在

この意識すると現れでる存在「体」を自分と勘違いすることから私ストーリーがこの世界に生まれたんです。背景には人生なんてありえないんです、、背景としての人生????不可能、、、だからこの体を自分とする発想が生まれなければ、、、この人生は存在できないわけです。

苦しい

この現れでる体を自分、主人とする概念がエゴです。そしてこのマイストーリー、、が本当に存在すると信じること、、これが幻想、夢と呼ばれる真相です。本当の私「背景」の存在を忘れて第二の私「自我」「エゴ」を真実する発想を釈迦は「無知」と称したのです。

今更遅い?

今更そんなこと聞いたって、、もうこの私には家も家族も子供も車も会社も役職もある、、、自我を捨てるなんて無理ですけど??????全くもって自我を捨てる必要なんてないんです、、というか不可能です。この体に自分が居ないという発想で生きるのは。。。コミュニケーションが成り立たないのですから。ですが真実では背景が我々の本質であり今もこの「意識」はそこから生じています。そしてこの体はただ現れては消える現象なんです。そこを一生懸命やるんです、、、意識はそこにはないのですが。

本当を知っているだけで

本当を知るととんでもない癒しが訪れます、、それは特に他人に対してです。なぜ苦しんでいるのかを明確に理解できるのです。なぜ怒りっぽいのか???なぜ悲しみにくれるのか???なぜ鬱々としてしまうのか????全部分かってしまう、、、だって本当の私(背景)を忘れて第二の自分を真剣に信じれば寂しいし悲しいし孤独出し、、違和感だし、、、、、辛いに決まっているからです。だから優しくなれるんです。もうそれだけで第二の人生はハッピーです。

透明人間の現象化

頭を触る

我々のこの体は透明人間です、、そして我々の本質はこの透明人間ではなく、、その背景です。その背景が我々でありそこからこの景色の全てが立体的にブワッと飛び出るのです。この透明人間はその一つです。この透明人間の特徴は見た時、触った時に現れるのです。ハイ、息を「鼻」から吸ってください。。。その瞬間、、息を感じる「鼻」が現れたんです。はい目を閉じてください、、その瞬間視界が変わり目を感じます。はい耳に手を置いてください、、その瞬間「耳」のフォルムが現れ音が変わります。

意識

この体を感じるには意識が必要であり、、意識することでこれを感じることができますがそうでなければ出現しません。ソファーでリラックスして音楽を聴く、、その期間は耳は消え、目も消え、、ただ背景である我々の本質が、音を視界をただそのままに感じます。「友人からの電話」で自分を思い出し、、この体としての自分をやるのです。

食事

食事とはこの体を使った能動的な無我体験です。食事という幻想を使って、、口という幻想を動かすことのみで、、無我に入れます。食事を口に入れた瞬間口が現れ、それを咀嚼します。その瞬間に味が広がってその味に意識が集中します。それまでのこの肉体を主人にした思考が消えます。口を出現させる以外に、、この体を主人とする思考が消えるんです。

透明人間は第二の自分

意識した時にだけ現れる透明人間を第二の自分とします。この名前は第二の自分です。。。この第二の自分が居ないと確かにこの肉体は保持できない。ですがそれだけ。体を生かすためにのみこの第二の自分は生じます。ところが我々はこの第二の自分を主人と勘違いすることで運命が変わったのです。苦しい、違和感が生じたのです。

神の顔

誰も知らない

我々には確かに目、鼻、口、耳、、があるんです、、、触っていけば、、それらしきものがありますよね????この手でこの顔を触っていけば目、耳、鼻、口があります。ただしそれは鏡に映ったそれじゃないんです。鏡にはあくまでも神のミニチュア模型が描かれます。ですが実際にはそれは、、模型を完全に超越した存在んです。この目、耳、鼻、口は、、、科学が証明した機能を遥かに超えた存在です。

模型の機能ばかりを調べた

そうです、我々はこの模型を、、視界に存在するこの模型の機能を調べ尽くしてきたんです。その結果脳科学が生まれ全五感は脳に帰着すると学びました。あーそーなんだ!!!!この体は結局は脳で完結するのだ!!!!と学んだんです。ですが残念!!!!!!!!それって客観的事実を証明しただけです、、、主観的事実は全く全くノータッチです。

ダブルスタンダード

主観的事実では我々は完全に神です、、、今ここ、この視界が神の鏡の姿であり、、この現象は神が直接認識します。ですからこの体は、、、私たちが知っている体では全くなく、、全現象を全現象のままに認識するものです。本当の目は、、現象を現象としてそのままに認識し、、耳は、、全音をありままに認識し、、、鼻も口も同じです。

つまり

つまり我々はこの現象をありのままに認識しながらも、、、鏡にはこの肉体を持って二元で認識する存在として写されます。本当は一元、非二元に現象をそのままに認識しておきながら、、、鏡に映った幻想としては、、二元的に認識を行うという矛盾を抱えた存在なのです。

時間も空間もない

これは神の鏡

これって神の鏡です、、ひたすらに神の映像が写っています。ただそれだけ、、だから時間はあるわけがないし、、空間もないのです、、、だって神の鏡に写った映像がただここにあるだけですから。どうしたら空間や時間が存在しえるのでしょうか。しかしながら鏡を目の前に持ってくれば、、何やら「人間」らしき映像が映り、しかもこちらの動きに反応する動きをするではないか!!!!そこで我々はこの鏡に移った人間こそが自分だと信じたんです、、このミニチュア模型を自分と信じたんです。神のミニチュア模型を自分と信じることをしたんです。

本当はこの目の前の視界

本当はこの目の前の視界こそが我々の鏡に映った姿です、、、体はミニチュア模型です。目の前の景色全部が鏡に映った姿でさらにその中にミニチュア模型も写ったり映らなかったりします。周囲からはミニチュア模型だけが認識されその模型に周囲は話しかけますから益々このミニチュア模型を自分と信じる動きが起こるのです。

勝手に自己評価を下げ

我々は勝手に自己評価を極限まで下げ、、自身をミニチュア模型であると信じ込み、、よってとんでもない自己卑下を行っているのが真実です。ですが真実ではいつだって神は神以外にはなれずそのためこの勘違いによって日々違和感を感じているのです。この違和感こそが「苦しみ」と言われる根拠です。

混乱

いつから

我々は神です、、人間には実はなったことがないんです、、常に神活動をしています。神が神として活動を日々続けています。この視界で起こることは全部神活動です。全クリエイションは今ここでそのままに起こります、、これをやっていない神はいないんです。

ところが

周回から見ればこれは人間活動なんです、、そう見えるんです、、真実とは全く異なった絵面に写るんです、、、ただこの人間という動物が動きているように見えます。そして我々はその絵面を信じました、、絵面こそ真実であると信じたんです。よってこの人間の中には自我が芽生えたんです、当然です。

学校に行けば

学校に通えば通うほどに、、、私は神ではなく人間として扱われます、そして自分でもそう扱います。学校とはそういう機関です。人間である自分の完成です。この神活動は所詮は人間活動であり、、であるならばこの人間の中には私が居る、、、となります。ですが神が人間になることは不可能です、、よって私は人間であるという信念体系が構築されます。この信念体系が、、、エゴ、自我システムです。

神と人間

我々

我々は周囲から見たら100%人間なんです、、ところが主観で見ると完全に神です。客観的に見れば100%人間です。ですが主観的に見れば神です。ダブルスタンダードです。二つともに真実です。神であり人間なんです。友人が食事をする姿は100%人間です、体という物質が食事という物質を食べています。それは真実です、そう見えるのは100%真実です。ですが同時に主観で見ると、、神の目で神の口で神の耳で神の鼻で食事という幻想を経験しています。肉眼を用いず、肉耳を用いず、肉鼻を用いず、肉口を用いずに食事という経験を積むんです。

全員が神

人類80億人は全員が神です、、神ですから、、この肉体などを用いずに、、全経験を積みます。と同時に周囲からは人間です、、100%人間に写ります。神が神の行為をしている姿は、、、周囲からは人間活動に写ります。。真実は神の神活動しか起こりえないのですが、、その活動が幻想上は、、人間活動に写るんです。全人類は周囲に映る姿を真実と勘違いしたんです。だから自我とかエゴとかが起こるのは当たり前なんです。

守ろうとする動き

人間がこの体を守ろうとするのは当たり前なです。なぜならば、、この神活動が、、人間活動だと信じているからです。こんな小さな小さな人間活動しか起こっていないと信じ切っています。大変です、大災難です、弱小です、、、、本当はこの視界で神が神をやっているしそれしかやっていません。ですが、、人間活動だと信じています。だから守ろう、守ろうという動きが起こるんです。

災難

神活動しかしたことがないんです、、神活動しかできないんです、、、ですが周囲からは人間活動に見えるがためにその事実を真実とする動きが起こったんです。これがエゴ、自我です。神のとんでもない活動が、、ただの人間活動だと誤認識され、、その人間活動の主人が自我とされました。悲劇のヒロインです、悲劇の主人公です。にも関わらず自我否定、エゴ否定をしても意味がないんです。