自我が何もしていない

何もしない自我

全てが自動反応で起きていることが分かると、、、自我は一体なにをやっているのだろうか???という疑問が起きます、、、、思考、感情、行動の全てが全記憶によるデータの反射であるならば、、、自我は何もしていません。何もしない自我が誕生します、、、答えを言えば、、、自我とはただの名前です、、名前以上の役割がないのです、、、

友人と今話をする

今友人と話をします、、今までは相手の中に「自我」が居てその自我が思考を作り出し話が展開されていると信じてきました、、、ですが実際には全会話が、、、双方の全記憶をベースに反射が起きているだけなのです。。。この会話において会話を作り出している存在は皆無です、、、つまりコミュニケーションとは完全なる双方自動反射なのです、、、自動反応によるテニスです、、、

誰も何もしていない無限ループ

この世界は誰も居ないテニスの無限ループが起きています、、、実は誰も存在していませんが、、、実在しているかのうようなテニスのラリーがエンドレスに続いているのです、、、なぜならば相手の反応の全ては全記憶による反射でしかないのですから、、そこに自我は実在するわけがないのです、、自我とはただの名前でしかありません。

夢ではいつもこれをやっている

夜見る夢では、、、毎晩これをやっています、、、自分がいて、相手が居てこの言葉のラリーにコントロールする自我は全く介在していません、、、完全なる自動反応、、完全なるオートマチックです、、、、これを我々はこの現実の世界で全く同じようにやっています。自我というのが全く介在せずに、、ただ淡々と自動反応が起き続けているのです、、、、ただ反応が起き続け、誰も実在しないこの世界が本当に広がっているのです。。今まで経験してきた全てのコミュニケーションには実は誰も関係していなかった、、、漫画の世界、アニメの世界と全く同じような展開がただ起きていたのです。

真実からいつまで逃げるのか???

今真実に立ち向かう

自我の存在を信じる人が絶対に聞きたくないメッセージ、、それが「自我は実は何もしていない」です。名前は便利だから必要です、アイデアとして、、、ではその名前が付けられた「私」とやら一体全体何をしているのでしょうか????思考、行動、感情を起こしていますね、、、、起こしている、、起きちゃった????思考をしっかりとこの私が決めています、、、、、、残念!!!!全部記憶の自動反応です。

そんなわけがない

そんなこと誰も言っていないですよ?????嘘ですよね、、、、、違います、、、子供はみんな知っています、、自分など何も決めていないことを、、、、勝手に全部自動的に起きています、、、、夜見る夢は、、勝手に全部自動で起きています、、、、夜見る夢が勝手に全部起きているならば、、、、昼間のこの現実もそれができますよね、、、、自動反応ではない、、という証拠はありますか?????ないです。

自動反応で全然いけてる

夢の中の会話、、、完全自動反応で全部やれています、、、、ではこの昼間の現実は????やれるに決まっている、、、だって夢ではそれができるのだから、、、、これが真実です、、、、全員が自動反応で会話しています、、、、記憶の自動反応が完璧に起こっています、、、、見える世界の全員が完璧に自動反応でコミュニケーションを起こしているのです。

自動反応マシーン=自我

実は、、、

今回のメッセージは多くの人に嫌われるメッセージです、、、実は私とは何も思考せず、行動せず、感情も出していなかった、、、、実は記憶から勝手に反応が起きていただけだった、、、だからこれからも「私」は何も決めれず、、、ただ自動反応が起きる場所の名前でしかない。、、、これが真実です。この事実をしっかりと認識し、、自身の言動を確認してください。

本当だ、、、

このメッセージを読んだら本当にそうかを確認してください、、、恐ろしい実態がわかります、、、本当に自動反応がただ起き続けているのが分かります、、、記憶をベースにした価値観、観念による自動反応しか起きていません、、、とんでもない事実です、、、私は何もやっていなかった、、、やっていたことにされていた、、、これからは「私は、、、、をします」は言えない、、、なぜならば事実とは異なるから。。。。

真実を知る勇気があるか????

〇〇という自動反応が「私」を通じて起こった、、、これが真実の説明です、、、真実の説明のみをしていきます、、、〇〇という自動反応が今回「私」を通じて起きました、、、これです。。。。「私」の意味が変わっていきます、、、「私」はただの名前に変わります、、、、本当に名前だけだった、、、、残念!!!!

何十年間の記憶が反応しているだけ

思考、感情、行動は記憶が反射している

我々はしっかりと熟慮して発言をしていると思っている時も、、完全に記憶の自動反応で反応を起こしているだけです、、、なぜあんな発言をしてしまったのだろうか????違います、、全部何十年間の記憶により自動反応です。そしてこの自動反応に対し、、、「私がそう発言した」という自動反応が起きるのです。このメカニズムを断ち切ります、、これを終わらせます、、、、全部が全部記憶による自動反応であることを理解します。

行動を反省する無駄

反省をしてはいけないということではありません、、、ただしこのメカニズムを理解して反省するかどうかです、、、何十年間の記憶によって自動反応が起きているという大前提で、、はたして反省はできるのでしょうか???できませんね、、、ここを騙されてはいけません、、、これを全部自分がやってきた、、という思考がこれまでは起き続けていましたが、、もうそれは終わりです。この生きる世界に、、自由意志を起こせる存在は居ないのです。

全部が全部自動反応

人間の動きは全部全部記憶を前提にした観念がベースに行われています、、誰一人自由意志など発揮せず、、ただ全ての思考、感情、行動が立ち上がっていきます。この事実この事実を理解します、、すると、、、起きた思考、感情、行動に対して、、、、起こる自動反応が変わるのです、、、反省が先ずは無くなります、、不安がなくなります、、、自動反応マシーンである、、、この私への信念が変わっていきます。私とは「自動反応」を起こすマシーンに名前が付いているだけだという突然の気づきが起きます。

どんな思考も

関係ない

どんな思考が湧こうとどんな感情が湧こうとも、、、それを観察者になって観察します、、、なんか思考がわくなー、なんか感情が湧くなー、、、と。重要なことはこれを私ごと、私のモノ、私の大切な思考、感情と握り絞めないことです。これはただ湧いたのです、、どこかから、、、これを自分のモノと掴む事で、、ではどうしよう、ああしようという無限ループに入ります、、、そしてその行動の全ては勘違いからスタートしますから、、つまり合わない靴を履くことになり、、歩けば苦しいのです。

合わない靴

勘違いをベースに歩めば、、、合わない靴を履いて歩めば、、、、とにかく苦しい、、、歩くこと自体が苦しみになります、、、、最初の最初を完全に変えてしまう、、、、「私」が思考、感情、行動を湧かしたのではない、、ただ湧いたのだ、、、、、つまりこれまでやってきた「私」の役割を完全否定するのです、、、「私」とはただこの体に付けられた名前でしかない。自我を正しい認識に改めます。

無間地獄「自我」

あらゆる思考が湧く場所、、それが「私」この新しい認識を手に入れますと、、、「私」は出しゃばりません。ただ思考、言動、感情が湧く場所に過ぎない、、、、この「私」は。順番を入れ替えるのです、、、すると、、、私という認識が完全に変わることで、、、、見ている世界が完全に変わります。。。「私」の外と「私以外」の境目がなくなる、、、この「名前」以外に境目がない、、、、、、急に私以外に価値が生まれます、、「私」が闘う場所だった周囲が、、、そこも私になる、、、、、「私以外の周囲」は、、、、名前がついていない「私」に生まれ変わるのです。

全部が私

全く新しい感覚、、、名前が付いた「私」と名前がついていない「私」、、、境目は名前しかなく、、、事実上全くの一つ、、、、これが湧いてきます、、、、これを感じます、、「私」が感じるのではありません、、たった一つをそのままに感じるのです、、、ただ感じるが起きます。。感じる「私」はもう存在しません、、、感じるがただ起きるのです、、、、

結果など、、、

個人は結果にこだわるが

個人は結果にこだわります、、、ですが結果は個人を幸福にできません、、個人を幸福にできるアイテムはこの世界には一切ないのです、、、、一切です、、なぜならばアイテムは全てイメージで在り、、この個人もイメージです、、実在しないのです、、、、だからこそ個人が幸福になるという嘘にいつ気づくかが重要になります。

個人とはイメージ以上でもなく以下でもない

個人とは体験を積むために起き上がったアイデアです、、、このアイデアに執着し始めると苦しみが湧きます、、それは嘘だからです。真実じゃないからです。。真実の中で真実ではないことを真剣に信じると、、真実とのギャップが生まれこれが苦しみになるのです。

自我とはイメージ以上でもなく以下でもない

自我を完全になくすのは不可能です、、、社会で生きていく際に便利なアイデア、イメージだからです、、、ですがこのイメージが、、思考し、感情を湧き出し、行動を決めている、、、、という思い込みは事実、真実ではないので、、、真実から離れ苦しみが湧き出します。自我が何かをやっていると信じると、、、全くこの信念とは異なる結果になるので、、、苦しのです、、、、全くもって無駄です。

知りたい

何を知りたいのか?

人間はなぜ学びたいのか、なぜ知りたいのか???小さい子供はなんでなんで????と一日中聞きます、、、なぜか?????知りたいのです、、、全部を、、、なぜ?????自身の本性が全部だからです、、、そしてこの欲求は終わることがありません、、、なぜか????自身の本性が無限の存在ですから、、知るべきことは無限に広がるのです。

新しい経験

個人が新しい経験を積むと、、、嬉しい!!が湧きます、、、これは神から湧きます、、、なぜか???神(無限なる存在)が新しい経験を獲得したからです。。。。家で本だけを読んでいても楽しくないのは、、、読んだ思想、価値観を経験する場所こそがこの世界だからです。無限なる存在は無限の体験を回収したいのです。

全ては無限の経験のために

自分自身が全く何も経験を詰めていない、、そのように思えても反省の必要は一切なし、、、その経験こそがただ起こったのです。。「この私が確実に居る」という思考が起こっている時、、、これは真実ではありませんから必ず極限の苦しみまで入り込みます、、ゴールがない道を歩けば人は必ず途中で諦めます、、、この諦めがおきるから大丈夫なのです、、、自我の性質上、、これしかない、、、究極の諦め、やぶれかぶれ、山頂がない山を歩き続ければ、、、絶対に途中で諦める、、、これが悟りの入り口です。

成功とは、、経験のこと

経験こそが成功

一般の成功とはこの私が私が望む生活をすることです、、、経済的成功、精神的成功、、、などなど、、、ですが本当の成功とは、、経験が起きた、、これだけで十分に成功です。この世界は無限の存在である神が自身が無限の存在で在ることを体感するゲームです、、、ゆえにあらゆる経験を無限に積み、、、自らが無限の存在だったという気づきを起こすためのものです。。我々はその経験を積むために用意された反映です。経験はこの体だけでは絶対に起きません、、体と対象がなくてはダメ、体と環境がなくてはダメ、、、よって私(主体)対象物(客体)を神が用意し、そこに経験が生まれたのです。

だから、、、

だからこそ、、、、我々は大金を稼ぎ、全てを手に入れても全く幸福になりません、、、個人は幸福になるように設定されていないからです。個人が幸福になったら経験を積まなくなります、、それは無限なる神が無限の経験を積むことと矛盾します、、、ゆえに我々が考えるゴールは実在しないのです。ゴールなどあっては、、経験が終わってしまいます。私(無限の存在)はやはり無限だったという気づきが起きるまではエンドレスに続きまます。

個人が幸福になるという嘘の世界から抜ける

個人は幸福になれません、、、個人はただの経験を生み出す道具です、、、そこを早く見抜き、、個人を機能として経験を積んでいきます、、、その経験とはこの私(無限なる存在)は無限だったという気づきが起きるように。。。。主語を全体、神に戻すことで経験を変えていきます、、、個人としての経験を神の経験に戻します。経験は全て気づきの意識に回収され、、、その気づきが起きるのは絶対の存在、空、たった一つの存在、無限なる存在が在るからだという気づきが起きます。

鏡に入り込んだ神

これは神が見る鏡の姿

この世界は現象界、この現象界は幻影、反映、実態のない世界です、、ですがこの中での経験は確実に在る、感じる、、この感覚は間違いのない実在。この世界は鏡の世界にも関わらずなぜ、、経験という実感が確実にあるのか、、、気づきという間違いのない感覚が起きるのか???反映でしかないのに。それこそが神と、神の鏡が一体である証拠です。。。ただの鏡であるならば、、、経験は存在しない、、気づきもない、感覚もない、、全てないということになります。ですがその鏡の反映と神が一体で在るからこそそこに気づきが生まれます、経験が生まれます。色即是空、空即是色だからこそ、、気づきが湧くのです。

色の中で気づきが起きる、、そうかこれは空が作り出した世界だ

色は色だけでは気づきは起きません、現象は現象のみでは気づきはおきません、、そのままだからです。ですがなぜその中で気づきが起きるのか???それは空がそこに在るからです、、、空、神、絶対がそこにあるからこそ気づきという感覚が生まれます、、、この気づきの中で、、、この体が触れる全てに感覚が生じるからこそ、、空の存在が再確認されるのです。空(神)があるからこそ色(現象)に気づく、、色の世界で気づきが起きた時に、、なぜこの気づきが起きたのかという思考が湧く、、、そこでそうか空が在るあるからだという気づきが起きます。

色だけでは気づきは起きず、空だけでは気づきが起きない

色と空が完全一致しているからこそ、、気づきが起き続けています。。。気づきは先ずは起きました、、、この色の中での動きは完全に空が在るからこその気づきが起き続けます。。。その気づきの中で、、、この体が起こり、、この体の全五感が気づかれます、、気づきの意識の、、、これによってこの私の中に私が居るという思考が起き、、この思考に気づきの意識が気づきました。。。そして時間という思考が起こり、、私がこの時間、空間を歩むというストーリーが起こったのです、、それに気づきの意識が気づきます。

たった一つのエネルギー

今現象界は空の反映、空の鏡です、、、、空の目の前に現象界という鏡が突如登場し、、気づきが起きました、、これが気づきの意識です、、、、我々は綺麗な花に出会った時にそれに気づきますが、、、気づきとはこのことです。現象界に気づくとはそういうことなのです。空が反映されたこの現象界とは「気づき」が同時に起きる世界です。空、色、そして気づきです。現象界に気づく、、つまり空という存在にも気づくが起きます。

我々の日常生活

我々の日常生活はまさにこの連続です、、、「私」が居て「対象物」があって「見る」が起きます。「空」があって「色」があって「気づき」が起きます。。。気づきが起きることで「色」と「空」の存在に気づきます。空即是色、色即是空を毎日やっているのです、実は、、、、空と色は一つです、、、空という存在と色という空の鏡、、そして鏡に何かが映ることで、、、空の存在が確かめられている、、、「私」が居て「鏡に映る対象物」があって、、、体験が起こるから、、、体験をした「私」という存在を確認しています。

対象物がなければ

対象物がなければ、経験が積めず、経験をつめなければ「私」は存在できません。。。逆に言えばこのサイクルで「私」を作り続けているのが今です。体験を積むというのは、、「私」を作り出す作業のことです。我々はなぜ毎日せっせと動き続けて頑張って生きているかといえば、、、体験を積むことで「自分」を確認しているのです。ですが本当は空が在って、、その鏡としての現象が起こり、、そこに気づくことで、、、空という存在を認識している、、、そのサイクルの中にこの「私」が現れただけです。

このことが分かると

全てに気づいてください、、それはこの私ではなく、、、ただ気づくのです、、鳥の声、鳥という名前など本当はなかったことを思い出して、、、風の感覚、、風という名前などまるでなかった時を思い出して、、、ただ気づく、、、気づく、、、気づく、、、空が在り、、、色が現象として鏡として現れ、、それに気づく、、本当にたた気づく時、、、、空があってその鏡が在るというこのメカニズムが腹落ちします。