私たちは「いつ」と比べて今が苦しいと感じているのか???

なぜ探求するか???

この世界に居る人々は全員が探求者です、、みんなもっと幸せになりたいと思っています。。。ではなぜもっと幸せを目指すのでしょうか????ゴールを経験した事がないのですから、、なぜゴールに向かうことができるのでしょうか????簡単です、、ゴールを知っているからです、、この表現は間違い見かけ上の「私」はゴールを知りません。本質はゴールそのものであり、、この探求が本質の中で起こっているので、、ゴールに気づくことができるのです。ゴール(本質)はゴール(本質)のままではゴール(本質)に気づきません、、ゴールから離れることでゴール(本質)とのギャップが生まれ、、、そのギャップこそが苦しみを生み出しているのです。逆を言えば、、、ギャップを生み出す根本こそが、、ゴール(本質)です。

ゴールを離れることでゴールを知る

今苦しんでいる「人」は間違いなくゴールから離れているのです、そしてそのことを明確に感じている、、だからこそ苦しいのです、、、苦しいとはゴールの存在を知っている絶対的な証拠になります。。。早くゴールを達成したい人とはゴールを感じまくっている人なのです。今まさに。ゴールを達成していないのに、、、今ゴールを感じてから、、今苦しいが湧いています。このギャップを今生み出しているゴールを直視してください。ゴールは遠いどこかにあるのではなく目の前に常に鎮座しています。

苦しみを生み出す力こそがゴール

ゴールとは場所ではない、、ゴールとは今この苦しみを生み出す力そのものです、、この視点を作り出すこの力そのもの、、私が確実に居るという思考を生み出す力そのもの、、、今目の前に広がる世界を作り出す力そのものです。苦しいから苦しくない場所があるのではなく、、、この苦しみを作り出すパワーそのものがゴールです、、つまりこの全現象、全思考、全感情、全行動、全経験を作り出すパワーそのものがゴールであり、、ゆえに本当の「私」とはこのパワーのことです。。

この認識が起きると「凄い」という気づきが生まれる

見かけ上の「私」なんていうちっぽけな存在ではなく、、、この経験の全てを作り出すパワーそのものであるという認識はそれを感じさせてくれる経験を起こし始めます、、、自分がそのパワーそのものであるという経験が起きるのです。。それでも周囲はこの見かけ上の「私」を渡しといて接点を持つでしょう、、、ですがそこで認識を戻さない、、、、そこで認識を戻せばまたもとの生活に戻ります。学び倒して認識を変える必要があります。ですがそれが起きるか否かはその動き(本当の自分)にも分かりません。

本来は孤独ではありえない

この世界全部が私だから

今孤独だとすれば、、、それは個の視点で生きているからです、、、この体の中に主人公が居るという視点で生きている時、、、孤独感が湧いてきます、、、、本当は、、、この世界こそが自分であり、、全部が自分ならば孤独感は湧いてきません。。。。全部が自分、、、見える世界に起こる生命現象の全てです。いやいや、、この体の中は自分の思うように動くけど、、、他は全くコントロールが利かないし、、全然自分じゃないですよね、、、違います、、、この体の中の全思考、行動、感情も全くコントロールが効いていないのです本当は。コントロールしているという勘違いが起きているのです。つまりは全部がコントロールが効いていない。

理解が進むと、経験が起きる

この事実が理解できてきますと、、徐々に経験が増えていきます、、この事実を証明するかのような経験が起こり始めます。本当にその事実が起き始めるのです、、、思考、感情、行動は勿論起こりますが、、その起こりが自分では起こしていないという経験が起き始めます。だからこそ先ずはこれを理解する必要があるのです、経験を起こすために理解が必要になります。

経験が起これば気づきが起こる

この世界は理解したことを経験でき、経験することで感情が湧きその感情に気づくことで、、確信に変わっていきます。つまり新しい観念が完成していくのです。ですから先ずは学ぶというプロセスが必要になります。学ばなければそれを経験できないのです。経験できなければそれは確信に繋がらない、、つまり同じ観念の世界を生き続けることになります。学びが新しい経験を作り、経験が気づきを起こし、気づきは完了です。気づきとは、、完全に疑いが晴れた状態です。

ありのままなどまるで見てなかった

子供と大人はまるで違う世界を見ている

自我が形成されていない子供はありのままの世界を見ています、、ですが自我が形成された大人は自身の観念の世界を見ています、、、いやしっかりと現実を見ていますよ、、、違うんです、、大人は目に入る全ての物事、人物に意味を重ね合わせてみているのです、、見た瞬間そこに意味が入ってしまっているのです。例えば商売が大好きな人は、、人がお金に見えると表現します、、これは本当なんです。人に意味が込められています、、勝手に。

ありのままではなく、、そこに重ねられた意味を見ている

100年の歴史のあるブランド品、、、見た瞬間にカッコいいが勝手に湧いてしまいます。。。有名人に会った、、、、勝手に驚きの感情が湧きます、、、これは自動反応です。。。ですから我々は本当にありのままなど見ていないのです。。。その現象物に込められた意味を見ています。それの何が問題なのか???苦しいのです、、意味のある世界に住んでいるのがフラットに苦しいのです。

超大人の視点

子供と大人は視点が異なります、、、大人はこの私がこの世界を見て生きていると信じています。。。そこをさらに視点を変えます、、、本当はこの体には「私」は住んでおらず(実際そう)全現象は空(ゼロ)からそのまま起こっている、、と。PCのモニターのように、、そのままそこっで起こっているのだという認識に変えます、、この世界を見ている私は100%存在せず、、、そのまま起きたのだと、、、、誰がこれを見ている????誰もいない、、、あえて言葉(概念)で表現するならば、、神が見た世界なのだと。。。

こっちが事実

残念ながらこの視点が事実です、、、先ずはこの世界があって、、その中に、、、「私」がイメージとして想像され、、、この体(イメージ)の中の私が見ているというイメージが起きたのです、、、、この「私」視点の世界での経験を強制終了させます、、、すると認識が変わり観念が変わり、世界が変わり始めます。ありのままの世界、、子供が見る世界が戻ってきます。

視点の違い

この体の中に自分が居るという視点

我々はこの体の中に「私」という存在が居て、、その視点でこの世界を観察しています、、そして観察し経験し、、それによって感情、思考が湧き出し、、完結します。。ですが実はこれあくまでも幻想です、、この体の中に「私」が居るとイメージして、、その視点で経験を積んでいるんのです。本当はこの体の中には「私」は居ません、イメージ以外は。この体の中に「私」が居るという視点での観察、経験が価値観、観念を形成し、その観念こそがこの見える世界を作り出しています。本当は先ず最初に観念があり、、その観念に従った現象が現れ、、それをこの「私」が観察し経験しているのです。

観念に沿った現象

観念に沿った現象が先ず最初にここに在ります、、、ここで今まではこの体の中の「私」が見るというイメージ上の経験をしていたわけですが、、これを変えます、、、、全現象、全思考、全感情、全行動の全てはただ空から起こっているという事実を認識します。。。今見えている世界は、、、「私が見ている世界」ではなく、、全部空から直接現象化されたという事実を認識するのです、、「私が見る」これはイメージ、幻想、概念です。そうではなくただ空からこの現象がそのまま起きました。。。。景色から、、「私が見る」というストーリーを抜き取るのです。

視点が変わると認識が変わる

ストーリー上は「私が見る世界」です。。。ですがこれは事実では断じてありません、、私もイメージ、見るもイメージです、、、そうではなくこの世界が空から直接ここに現れたのだという真実の視点を持ちます、、もうここでは見るという行動が起きていません。。すると認識が変わります、、「私」に向かってきていた全現象が、、、ただの全現象に変わります。湧いてくる思考、感情、衝動が変わるのです。

認識が変われば観念が変わり、、見える世界が変わる

「私」が積んできた経験が、、ただの現象に生まれ変わることで、、、観念が変わっていきます、、、すると世界が徐々に変わっていきます、、、世界は観念を映し出す鏡ですから、、、変わるのです、、、空から世界に光が入り込んできます、、世界が光ってきます、、、世界に神が入り込みます、世界に空が入り込みます、、、これまでの観念によって重いベールが掛かっていたのが、、剥がれていきます、、、世界が神になります。

全感情を神が回収しているならば

個人が一瞬の楽しいを追求する価値ってあるのか??

全感情は神が回収します、、、すると、、、個人は何も回収していない、、個人は楽しい、嬉しい、を感じることができない、、、個人は思います、、、毎週楽しいを感じなきゃと、、、これは無意味、、、なぜならば楽しいは、、、神が回収しています、、、、個人は人生楽しまなきゃ、、と考えます、、、ですが個人は感じてません、、、そして感情を所有できない、、、、個人が楽しいを追いかけると辛くなるのは、、、一瞬だからです楽しいは、、、、、そしてその楽しいも、、、神が回収します。

なぜ楽しいは一瞬で消えるのか???

楽しいが一瞬で消える理由は、、、この体にとって不必要だからです、、、私とはこの体を安全維持するために作られたイメージであって、、この私はそのために存在しています、、、ゆえにこの私が楽しみ続ける価値が、、体にないのです。。。私はこの私を一生懸命大切にして、、、くれればいい、、、楽しみ過ぎて食べるのを忘れる、、、これは体にとってデメリットです、、、それはさせない、、、、「私」という存在がイメージとして鮮明にある限り、、、「私」は体のために利用され続けます。

体に利用されまくりの「私」

今回の旅行は楽しかったねーーーまた頑張って仕事して旅行に行こうねー、、、、完全に体に利用されています、、、次の楽しいのために頑張って働こう、、、体に利用されています、、、、楽しいを「私」が追い求めると体に利用されます。「私」を生きるとは、、脳が作り出した「私」というイメージに意識が意識を向けている状態です、、そして脳が言葉で分離の世界を作り出し、、、、神をイメージの世界に押し込んだ、、、だから至福そのものの神が、、、一瞬の楽しいしか回収できないのです。体が神を体の中に閉じ込めた状態です。

意識は戻ったか????

ドクターの言葉

ドクターは言います、、「意識は戻ったか???」と、、、「思考は戻ったか??」とは言わない、、、意識です、、、そうです、、最初に生まれるのは意識なのです、、、意識が戻らなければ絶対に思考は戻らない、、、、意識が戻らなければ絶対の「私」は現れませんね、、「私」は思考ですから、、、、ですから意識が最初に戻る、、、、、この意識こそが本当の私、真我、意識そのものです、、、、、

意識が「私」というイメージを作っただけ

意識がこの体を感じ、、この体の中に思考で「私」をこしらえました、、、、こうして人間は意識を取り戻し人と会話をし始めます、、、、、「良かった意識が戻って」となるのです、、、、明日からは会話も出来るようになりますよ!!!の流れです。

私の意識とこの人の意識

人は人間に優劣をつけます、、、人は人と比較します、、、では意識と意識はどちらかに優劣はあるのでしょうか????意識には優劣が存在するのか?????しないですよね、、、、その人の全思考、全感情、全行動に気づいているのはその人ではなく、、意識です。。。意識が全言動感情思考を所有しています。。意識と意識に優劣がないのならば、、、人に優劣は存在しない、、、おかしな思考、下品な思考はあります、、ですがそれは全部意識が生み出し、意識が感じるのです、、、、「私」と「あいつ」というイメージをでっち上げることで優劣がここで生まれます。

所詮は自我の右往左往

恋人と別れ困っている、、

友人から相談を受けます、、、「パートナーと別れちゃって、、困っている、、」仲の良い友人であれば、、、何かしてあげなきゃ、、、、という思考感情が生まれてくる、、、、重要なことは、、先ず友人の困っているという思考、感情を感じているのは、、、神だということ、、、、ですから先ず何も問題がない、、、神が困っているを感じているのです、、、、友人ではないのです、、友人の体の中に居る「私」はイメージです、、、イメージは「困った」を感じることができないのです。

本当に辛そうな表情をするが、、、

本当に辛そうな表情をしますが、、、その表情の中に居るのは「私」というイメージであって、、イメージはどこまでいっても辛いを感じることができないのです、、、感じているのは神です、、、、神を心配する????あるわけがない、、、、、、神は全部の感情を機械的に感じているだけであって、、、神を心配するのは世界一の杞憂でしょう。

「私」というイメージを作り、、「その私が困った」というイメージを作り、、「悲しい」をこしらえた

神の完全なる自作自演です、、、神の完全なる自作自演が今目の前で起きたのです、、、さあ、、、その上でどうするか決めればいいのです、、、、、ただしどうする「自分」もイメージでしかないので、、、この「自分」の言動も勝手に神から起こります、、、矛盾だらけの文章になってしまいます、、、、、、全部が全部神の自作自演、、、その気づきが全深刻さを消し去ります。

感じているのは全部神

友人との会話

友人が楽しそうに話をしています、、行ってきた旅行の話を延々と話す、、、その感情、喜怒哀楽を感じているのは誰でしょうか?????神です、、、神しか実在しないので、、神しか感情を感じることはできません、、、本当を言えば神はj津財ではないのですが、、、、とにかくこれを感じているのは神です、、、、ではその話を聞いて羨ましいなー、私も行ってみたいなー、、、これを感じているのは誰でしょうか????神です、、、?????え、、、結局神しか感じていない、、、神の一人舞台なのか???そうです。。

意味があるのか????

結局のところ神しか感じていないならば、、、、私たちは誰と会話をしているのでしょうか?????誰とも会話をしていません、、、私も、友人もイメージであって実在しないのです、、、、イメージ同士が話し合い、、、感情を湧かしあい、、、その感情を神が感じています、、、、本当に壮大なギャグです、、、性格悪くほくそ笑んでいるアイツの感情の全てを感じているのも、、神です。。。神が起こし神が感じています。

コミュニケーション

コミュニケーションはこの「私」を物語の中に閉じ込めておくのに有効です、、なぜならば相手これもイメージですが、、相手は、、、、この私ありきの存在に向かって話かけてくれるので、、この私というイメージを全身で信じることができます、、、やっぱり「私」って実在してるよね!!!です。。。舞台に立てば、、全身全霊で、、「私」というイメージが実在していると信じることができます、、、、イメージ万歳、私万歳です、、、、

本当は居ない

それでも本当は絶対に居ないのです、、、、イメージは確実にある、、、、その確実に在るイメージを、、、相互に強化する方法、、、、それがコミュニケーションです。特に敵対的関係は、、、相互に強烈にイメージの個を、、、、強化できます、、、、超友好的関係も、、、だから人は親友、強敵、パートナー、を強く強く実は求めています、、、誰かがこのイメージの私を相手してくれないと、、イメージが保てない、、、イメージ補強作戦です、イメージ互助活動、イメージ錯覚強化活動です。

私物語で起こる思考を重視しない

どうせ夢だから

私物語は夢です、、、この夢の中での出来事、、、から起きる感情、思考を重視しますと、、物語に飲み込まれます、、、どうせ夢、、、この感覚が起きると、、、深刻さが薄れていきます、、、「私を軽く扱いやがって」「私を馬鹿にしやがって」「私が利用されているのでは」。。。。全部夢です、、、、そして今起こる出来事は、、、残念ながらこれが現実だ!!!と思い込みやすくなる、出来事が起きます、、、つまり、、、構わずにはいられないような、、出来事、、、が起きます。

だからこそ

だからこそ、、、そこを冷静に観察してください、、、、、見かけ上の「私」が経験した全てが観念化し、、その観念に沿った出来事(夢)が起きますから、、、これは現実だ!!!と信じ込んでいれば、、、これは現実だ!!!と思うような出来事が起きるんです、、、、これはどう考えても現実だろ????という出来事です。

これは現実だ!!!から抜ける

この生きる世界を現実だ!!!と思っていますと、、そう思いたくなるような出来事に満たされます、、、、私の観念がイメージ化された出来事です、、、、今映る現象は全て私の観念が作り出している、、この事実を徹底的に認めます、、、すると起こる出来事に反応しない私が現れます、、、全部観念だから、、、そこに反応しても意味がない、、ただ観念を強めるだけ、、、、反応するということは「これは現実だ!!!」と信じているからこそです。

マリオは絶対に幸福になれない

マリオはイメージ

マリオは喜怒哀楽を感じることはできません、、なぜならばイメージだからです、、、、「私」も完璧にイメージです、、、、、最初に私という「何かしらの実在」があって、、、その実在に「私」という言葉をつけたのならば、、、私は実在します。「私=何かしらの実在」です。ところが、、、実在しないのです。。。なぜ実在しえないか????それはこの体の中の全言動、全思考を、、、司る実在が居るのではないか??という「推測」をベースに「私」は生まれたからです。

原始人はマリオが実在するのでは???と思考する

もしも原始人が現世にタイムスリップしてきたら、、TV画面のマリオは実在するのでは??と「思考」するはずです、、、、勘違い、、、これが「私」の正体です。。。。誰が勘違いしているのか????私は実在しませんから勘違いはできない、、、一体誰が勘違いをしているのか????神です、真我です、大いなる一つです。

勘違いは起きただけ

神は勘違いをした、、ではなく神から勘違いが起きた、、化学反応として、、、この体の中に「私」がいるという思考が起きたのです、、、神から、、、そしてこの思考を神が感じているのです、、、神からこしらわれ、神がこれを感じる、、、ただそれだけ、、、、そこには被害者は存在せず、、、そういった現象が起きたのです、、、事実は実は何も起きていないのです、、実在レベルでは、、、イメージではそのようなイメージが起きたのです。。。