ミッキーマウスは絶対に幸福になれない

ミッキーマウスは実在しないから

ミッキーマウスは幸福になれません、、なぜならば実在しないからです、、、、ミッキーマウスはイメージです、、、、そして「私」もまたイメージです、、、、実在しません、、、もしも「私」が実在するならば証明してください、、実在を出してください、、、どんな手を使っても実在を証明してみてください、、、絶対に不可能ですから。。。それが事実です。実在しないものは絶対に幸福になれません、不幸にもなれません。不可能です。

なぜ人は幸福になれるという勘違いをするのか????

美味しい料理を食べて幸福を感じる、、、、私が実在していないのならば、、誰が幸福感を感じているのか????簡単です、真我、神、大いなる一つです、、、実在しない「私」は絶対に幸福にはなれないのですから感情を感じているのは神です、、、???????じゃあ私は私ではなくて神なのか???当たり前です、、イメージが感情を感じることができないのならば、、神です、、、神以外ありえない。

痛みを感じているのも

実在していない「私」は絶対に何かを感じることはできません、、つまり、、、、全部が全部神が感じています、、、、。、完璧に、、、、神以外に感じることができる存在が居るのならばそれは実在です、、、この世界はたった一つのエネルギーでできていますから、、、神以外の実在は実在しえないのです、、、神の個別化????イメージとしてはなんでも可能です、、ですがイメージ以外はありえない、、、ということで私は完璧に神です。

真実に会う

我々は常に真実に会っている

私たちは真実の中に居ます、、、真実の中で夢を見ている状態です、、、真実が作り出した夢の中で私という幻想を生きるという私物語を体験しています、真実が。私が真実に出会うのではなく、、真実こそが私物語を作り出して「体験」という言葉では収まらない何かを感じています、「感じる」というのも言葉ですから、、ただ何かが起こり続けています。「起こる」というのも言葉ですから、、ただ「在る」わけです。そこを突き詰めていくと色即是空に入ります。

真実以外に行くことはできない

ここは真実です、真実が織りなす夢の中です。真実の中には一切の独立分離した存在がありませんから、、何かが何かを経験するなど絶対にない、ありえないのです。。。それは言葉が生み出した幻想です、、ですから、、我々はしょっちゅう言葉を使って全部を言葉で説明できると思っていますが、、真実では言葉で説明できることは何もないのです。。。言葉で作ったイメージは、、どこまでいってもイメージであり、、イメージの世界だけが何かが何かを経験することを可能にします。

真実を説明するという矛盾

真実には言葉で説明できることは何もありません、、言葉とはイメージを作り出す道具です、、イメージは真実の中でポコッと生まれたものです、、、、ポコッと生まれた物が初めて何かを経験できるのです。「私」というのはイメージであり、、このイメージが日々活動を行うというイメージが起こっています、釈迦(イメージ)は悟り、、解脱でしか救われないと解きました、、、それは当然のことです、、真実の中でイメージが実在しているという勘違いをし、、そのイメージがなぜ幸福になる、、ということが可能なのでしょうか???実在しないイメージがどうやったら幸福になれるのでしょうか????実在しない何かがなぜ不幸になれるのか???

「私」というイメージは幸福になれない

幸福になる、、には幸福になる実在がいなければならないのですが、、このイメージの世界にはその実在は完全に皆無です、、、、信じられない話ですが、、、全員が幸福になれません、、、全部イメージですから、、、「ミッキーマウス」が幸福になる、、無理です、、、、クレオンしんちゃんが幸福になる、、無理です、、、「私」が幸せになる、、無理です、、、誰も幸せになれないのです、、、この真実の世界には実在はないのです。

でも僅かながらの幸福は感じて生きていますけど

先ず物理学として、、実在しない存在は、、幸福にはなれない、、ここをブレてはいけません、、、しかしながらなぜ幸福という実感、、、不幸という実感、、、悲しいという実感、、辛いという実感があるのでしょうか、、、感情を感じるという実感は確実にあります、、、、、それは真実の中でその感情が起こり、、、真実が気付いているからです、、、真実が感情を感じる真犯人です。。。真実以外何もないのですから当然です、真実しか感情を気づく存在は居ません、、それ以外は全部イメージです、、、真実がイメージを生み出し、、イメージが、、何かを経験するというイメージが起こり、、、それによって感情を生み出し、、、その全てを真実が感じています。。。。この夢の世界で幸福になれる実在、不幸になれる実在、は皆無です。

この体の中の自分は諸行無常と関係がない???

大いにある

もしもこの体の中に自分という実在が居て、、この自分に自由意志があるとすれば、、、、毎日同じ思考をする、、ということが出来る人間が現れてもおかしくありません。ですがそのようなことが起きたら、、、諸行無常が、、、この私には当てはまらないということになります。。世界は諸行無常、、変わらない物はない、、、変わらない現象はない、、これがこの宇宙のルールです、、、、自由意志はこの絶対的ルールと完全に矛盾するのです。

自由意志と諸行無常は完全にぶつかる

自由意志とは思考、行動をコントロールすること、、、、これと諸行無常は理屈が合いません、、ではどちらが本当のルールなのか????諸行無常です、、、全現象は常に動き続けています、、、原子レベルでは確実に全部動いています、、、この事実と自由意志は真っ向からぶつかります。

全思考、全感情、全行動が諸行無常

真実はこれです、、全思考、全感情、全行動が諸行無常です、、、誰一人、、、これをコントロールしている個人は存在しません、、、コントロールしているという勘違いは起きます、、ですが、、、実在しないのです、、、自由意志も私も、、、これはイメージ、概念です。

観念書き換えの嘘

ここで大きく振り出しに戻される

観念書き換え、、これには私も随分騙されました、、、本当にこのトリックは見破れない、、、多くのスピ本に書かれている観念書き換え、、、観念がこの世界を作っている(夢)のだから観念さえ書き換えちゃえばOK!!本当に夢がある話、イリュージョンを利用しちゃえ!!!これには驚かされ、、私もついに最高の観念を所有し夢のような世界をつくるぞ!!!となったのです。。。

大きな勘違い

観念を書き換える自分(イメージ)が存在しない、、、、ここは最重要な落とし穴、、とんでもない言葉のマジック、、、観念を書き換える個人(イメージ)が居ないんです、、、、この夢の登場人物、「私」は言葉が作ったイメージ、概念、妄想であって、、、この私は、、、ただ現象の動きに従うだけ、、、全くもって観念書き換えができないのです、、、これは騙される、、、まんまと騙されます、、、

どこまで行っても受け身

スピと悟りの究極の違いは、、、自由意志の存在の有無です、、、、スピでは、、自由意思肯定派が多い、、ですが悟りは自由意思否定、、、、どこまでいっても自由意志は存在しない、、、つまり観念書き換えを能動的にするのは不可能、、、となるのです。悟りとはただ淡々と事実に向き合うこと、、、事実を認識し、体験し、、諦めていくことなのです。。。。だから悟りはサレンダー、、究極の諦めです。

今この瞬間の観念を確認する

今起きている現象は観念の現れ

個人が居てこの個人が歩む人生がある、、これが我々の基本的な認識です、、、この認識に基づく経験が積み重なっていき観念として形成されていきます。今自分の観念を確認したければどうするか???簡単です、、、今見えている現象、この現実(夢)を見ればいいのです、、この現実がどうなっているかが、、あなたの観念です。私を支える観念こそがこの現実(夢)です。

全く同じお店に入っても

例えば友人と全く同じお店に入っても感じる印象は違いますね、、一方は安くて美味しい店、一方は高くて不味い店、、、と。。。これを左右する存在は何だ????それが観念です、、、大いなる一つ、ワンネスが我々の目に入った瞬間、観念によるイメージ化が起こり、、、そこにあらゆる分離した現象が起きるのです。するとその視界を見て感情が起き上がり、それに気づきます。もうこの現実(夢)が本当であると感じるサイクルに入ります。脳はこの夢を現実であると信じ込ませることで、、この現実(夢)からこの体(自分)を守ろうとする動きを起こすのです。この夢が現実的に見えてもらえないと困るのです。。だからこそ本気で思っていること(観念)がこの夢を作り出し、、、これは間違いなく現実であるという思い込みを起こさせるのです。

観念が大いなる一つを分離した現象に見せ(夢)それを体験することで益々その観念が強化される

観念こそがワンネスを分離した現象化に導きます、、結果、、その夢(現実)を見た自分は、、これを現実と勘違いできるのです、、つまりこの自分は一生この夢を現実と思い続けることが出来るわけです。この自分をこの夢(現実)の中に一生閉じ込めることができます。「やっぱりそうだ!!!」が生きていると連発されるのは、、、観念がこのワンネスをイメージ化しているからです。私が経験した全てが今この目の前に現れています。だから今見える世界が私の観念を証明してくれているのです。

観念書き換えの嘘

多くのスピリチュアル本ではこの観念を好きなように書き換えて好きな世界を作りましょう、、と提案します、、ですがこれは、、、本末転倒、、、これを自由意思で書き換えることができる個人は存在しませんし、、観念を書き換える自由意志も存在しません。。。ただただ淡々と事が起き続け、、、観念が自動的に書き換わっていきます。

体からの解放

体を空の通り道と捉える

人間には気というエネルギーがありますがエックハルト曰く「気は空から物質を作るためのエネルギー」だということです、、、私は毎日体のマッサージをしていますが気を通していくと空からエネルギーが湧いてきているという感覚を得ます、、、なぜか自信がある、、この自信はどこから来ているのか????空から気を通じて元気が来ているということです。この体は空からの現象化であることは間違いがない、、、体をマッサージすることでこれを感じます、、

気を解放して空からの起こりを促す

全経絡を解放し、、空から気を通すことを積極的に行なっていきます。もちろんこの動きは全自動ではありますが、、、どの部位が気が通っていないかを観察しながら感じていきます、、この感じるは誰がやっているのか????気づきの意識です、全体です、真我です、在るがそれを感じます。マッサージとはこの体の気の流れを直接解放し空との回路を開くことになります。

空の認識がさらに気を通す

空の認識が深まっていきますと、、そこに意識が向きます、、すると、、空からこの色(体)への現象化が強化され体が強化されていきます。。この体が本当の意味で空と色との通り道になるのです。マッサージで体の中に隙間を作り、、気の巡りを良くすることで、、空を直接体感する体であり、色を体感する体にしていきます。

究極の静寂

自我が緩み始めると

自我が緩み始めますと、、静寂が日常生活の中に入り込んできます、、音が明晰に聞こえるようになります、、音を聞く自分の存在はなくなります、、音が音のまま聞こえます、、人が人のまま見えるようになります、、、植物が植物のまま感じることができます、、、何もしていなくても、、なんとなく幸せ、、周囲からどう見られたいとか、、その感覚も無くなっていく、、、周囲の反応そのものが自分のものというなんとも言えない感覚になります。

この場所で起こっていない情報

この場所で起きていないこと、、海外のニュース、海外のエンタメ、日本のエンタメ、芸能ニュース、経済ニュース、、、、そこに興味が向かなくなります、、なぜならばそれが実際には起きていないことを知っているからです。この場所以外では何も起きていないことを知っています、、、だから見る必要性がない、、私の知らないところでは事件が実は起きていない、、

あのニュースを知っておけば

あのニュースを知っていれば良かったのに、、、それがないのです、、起きていないのですから、、この場所以外では何も起きていないのです、、実際には。起きていないことをなぜ知る必要があるのか???ということです。事件は現場で起きているんだ、、、は映画の有名な言葉ですが、、、事件はこの場所でしか起きません。

究極の静寂

この場所以外では何も起きず、、ゆえになんの心配もしなくていい、、私の言動も全て、、、勝手に起こっていて何一つこの私は決めることができない、、ゆえになんの心配もしなくていい、、、本当はこレは夢物語で本当はこの奥に真実が隠れている、、だから何もしなければならないことはなく、ただここに居ればいい、、、ゆえに何の心配もしなくていい、、、これが徐々に分かってきますと、、究極の静寂を感じ始めます。

死という言葉を知らなければ死を経験できない

我々は覚えた言葉を経験する

死という言葉、、、この言葉を知らない人は、、、死というイメージ、概念を全く持っていません、、その場合ば90歳近くになってもこの自分が死ぬということを全く予想がつかないということになります。そして夜寝ている間に死んだとしたら、、、その人は死を経験せずに死ぬのです。。。。その人の人生には死は存在しなかったことになります。我々は言葉で覚えたことを経験しているのです。

会社という言葉を知らなかったら

もしもTVもなくラジオもないような島で住んでいて会社という言葉を全く聞いたことがなかった場合その人の人生で就職するという経験は起きません、、就職しようも起きない、、、会社で働くも全く起きない、、、その人の人生には会社は全く存在せずに終わるのです。会社という言葉を覚え、会社で働くという言葉も覚え、、先ずはイメージが起こります、、、このイメージが先にあり、、その経験がこの現象界で起こるのです。

我々は覚えた言葉しか経験できない

この人生が夢物語だというのは、、覚えた言葉しか経験できないからです。。。言葉で先ずはイメージを作りそれを経験します。言葉でイメージが作られていきますと、、そのイメージを実体験として体験できるようになるのです。私というイメージが、ホテルというイメージに泊まる、、、私もホテルという言葉を覚えていない期間は私がホテルに泊まったという経験が起きないのです。先ずは経験があってそこに名前をつけたのではなく、名前を先ずは覚えることで経験が生まれています。これがこの夢物語の創造方法です。

先ずは現実(夢)を、、、

悟りは横に一旦置いて先ずは現実を

多くの方はこのような展開で悟りが遠ざかります。。悟らないと幸福にならないのは知っています、、ですが先ずは目の前の現実(夢)を、、、、このパターンで毎回毎回悟りが遠ざかります。。。今は会社が忙しいから、、先ずは現実(夢)を処理して、、、ですが本当のことを言ってしまえば、、今現実が大変なのは悟りが閉じているからです。。。悟りが閉じ切ってこの夢が超現実的だから辛いのです。解決すべきはこの現実(夢)ではなくて、、、悟りが閉じていることです。

この現実(夢)はあなたの観念が作っています。

ここに一輪の花があります、、、この花に神々しさを感じないのならば、、、あなたの観念がこの花をただの物質に見せているのです。。。。花という言葉のイメージがこの花に重ねられて、、、そのイメージを今あなたは見ています。。。このイメージが重苦しいものであればあるほどに花を歪めます。この現実(夢)の歪みは、、観念の歪みです。

現実(夢)とは、、観念の反映

引き寄せの法則、、、、引き寄せる個人が観念ですからこれは観念です。。そうではなく、、、現象を認識する脳が『この個人の経験に基づく観念』をこの真実、現象に観念イメージを重ね、、、そのイメージを見ています。例えばブランドグッチを崇拝する人は、、グッチの靴を履く男性を素敵な人に写します。感動すらします、興奮すらします、、イメージをその現象に重ねているのです。。。ですから現実(観念を反映した夢)が辛いのならば、、、だからこそ悟りの学びが重要になります。。この現実(夢)に惑わされなくなっていきます。

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。