自我のしがらみから抜ける

もしも今人間関係が苦しいのならば

人間関係は体と体の関係ではなく、、、自我と自我の関係です、、、この自我を前提とした活動は、、、損得が基本になります、、、なぜならば自我はこの体を安全に維持するために発明されたものだからです。ですから損得の関係が基本の人間関係は基本小賢しく疲れます。。。自我が悪いのではありません、、、自我とはこの体のために生み出されたものだということです。

自我VS無我

こちらが無我にあるとき、、、相手の自我は、、、動揺します、、、自我とは思考に取り込まれた状態の無我であり、、、、自分が何を思考し、どう行動しているかを実は全く把握できていません、、、思考の自動反応が連続している状態なのです、、そのため、、、、思考を冷静に観察されることに緊張するのです、、、武道の達人と対する時に、、完全に動きを見破られているような感覚です。そのため、、、相手の自我から動揺が起こり、、その動揺が、、時に過剰反応になるのです。

自我の動きをただ観察する

無我になって相手の自我の動きを観察します、、、相手はこの私がいるという前提の思考と感情で埋め尽くされていますから、、その動きを冷静に観察するのです、、、決して相手の思考、行動を否定せず、、ただ淡々と肯定していきます、、その動きは自我が起こしているのではなく、、、ただ自我ありきの思考、感情、行動が起きているだけです。。。自我を大切にその物語の中で運行するための思考、感情、行動が起きているだけ、、、そこを邪魔しない、、、

完全なる許容

こちらが全行動、思考、感情を肯定する時、、、、相手の自我は完全に安心します、、自我は本当は実在しないので否定されるとパニックを起こします、、、自我にとって否定は、、、一番避けたいポイントなのです、、、自我ありきの思考、感情、行動を否定されるということは、、、自我の否定に繋がり、、、、それは自我の抹殺に近いのです、、、本質は、、自我が実在していないことを分かっていますから、、これに過剰反応するのです。

構ってもらおうとする自我の動き

相手の体の中には自我を構ってもらうことを前提とした動きが多くなります、、思考は自我ありきで、、起こり続け、自我ありきで感情が起こり続けます。。。。自我は本当は実在しないので構ってもらうことで存在を継続しようとします、、、そのためこちらに反応を求めます、、、この構ってもらおうとする動きが時に激しくなる場合があります、、、それを冷静に観察します。自我の観察は、、、他人の方がはるかに簡単にできます。

元「私」、現神

私を卒業します

元モーニング娘。元SMAP、、元乃木坂46、、、芸能人の多くはグループを脱退した後に、、そのような名称になります、、、元私、元自分、元我、、、、私は、、、私を辞めると元私としての活動になります、、、元私とは誰なのか、、、神です、、、、私とは、、神の動きの一部である人間という現象に、、、付けた名称、、概念、アイデアです、、、本当は神、森羅万象、諸行無常、真我の動きしかこの世には存在しません、、、

徹底的に「私」を外して生きてみる

徹底的に「私」を外して生きてみてください、、、、何にも問題なく過ごせます、、、バーに行っても、、、この私が存在しないかのように振る舞ってみてください、、、、誰からも声をかけられなくても気にしない、、、「私」はアイデアでしかないのですから、、全く問題がありません、、、、

私が馬鹿にされた、私が軽く扱われた

アイデアでしかない「私」が馬鹿にされると人は怒ります、、、ですが私はアイデアであって本当は実在しない、、、脳は「私」が馬鹿にされると、、、この体にとってマイナスと捉え、、、怒るという感情を生み出します、、、もっと大切に扱われるべきだと、、、ですが体にとって不利益がなければ本当はどうでもいいことです。

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、

思考は真実を発見できない

思考はこのストーリーの中で起きる

これが夢であり私物語であり、幻想であることを見抜く、、これが悟りです、、、そしてこの夢を作り上げたのが言葉です、思考です、、、ですから思考とはこの夢の建設請負人です、、、それゆえ思考は真実を発見できません、、むしろ思考がこの夢を絶えず建設し続けています。思考、価値観、観念こそが、、この夢の土台を作る屋台骨なのです。

気づきとはこの思考がいかに夢を作りあげるかを俯瞰すること

この個人という存在が実在する、、そしてこの個人があらゆる経験をしている、、、という圧倒的な大誤解が、、、観念を築き上げ、、、その観念に沿った現実が作られます、夢として。多くの場合、、この個人が居るという前提で思考が起きますから、、思考はこの大誤解を助長することになるのです。観念が新たにリニューアルされていきます、、するとそれに沿った現実という夢が形成され、、イメージとしての個人はそれを経験します。

夢だと気づき始めると

これが夢だという気づきが起き始めますと、、、もう思考はこの私ストーリーを助長する動きを止めます、、私という存在ありきの思考が止まるのです、、これまではこの私が実在しているという大前提で思考が湧き続けましたが、、この私はイメージ、概念、幻想であるという気づきが起きますと、、もうその延長線状の思考が止まります。

全人生に失敗は一日もない

生まれて死ぬまで失敗は存在しない

全ての思考、感情、行動が、、真我からの起こりならば、、、失敗というのは存在しなくなります、、見かけ上の「私」が世間的には失敗したように見えても、、それはただ起こっただけということになります。世の中に失敗という概念があるのは自由意志が存在すると信じているからこそです。もしも自由意志が存在しないのならば、、失敗という概念はなくなります。

生まれて死ぬまで成功も存在しない

全ての思考、感情、行動が、、、真我、根源からの起こりならば、、、成功も存在しなくなります、、、成功は比較で起こりますから、、、出来事が全部真我からの起こりであるならば、、、実在の成功者というのは居なくなります。。自由意志がないにも関わらずあの人は成功者だ、、、という認識が起きない。。。成功者という概念が途端に稚拙に思えてくる、、だって個人が成功させたわけではないからです。

全人類の解放

悟りとは全人類のパラダイムシフトです、天動説から地動説にシフトしたように、、、自己意識が超意識にシフトする、、、自己意識から自己が抜け落ちる、、、意識そのものになる、、、これが人類に起き始めます。生死は決して怖いものではなくなり、、、この体の消滅でしかない、、意識は何一つ傷付かず、、意識のまま、、我々は個人を意識していた意識そのものだったという気づきが起きます。

自由意志があるという勘違いが「私」への強烈な執着になる

もしも自由意志がないとなると、、

この世の住人で、、自由意志があることを信じる人はほとんどでしょう、、なぜか???この私、イメージの私、概念の私、、、を強化するためにこの自由意思という概念は非常に強力な武器になるからです。。。この自由意志を起こしているのは誰だ???私だ!!!です。ゆえに自由意志の否定は自己意識があるという設定の夢物語から強烈な拒絶反応が起きます。。。

ただ起こっている

思考も感情も、行動も、私が居るという概念もただ起こっている、全体から、、、このような認識で過ごしてみてください、、本当にそれで成り立ってしまいます、、、私というのは概念で概念が自由意志を駆使するっておかしいよね、、だとするとこの思考、感情、行動はただ全体から起こっているとしてもおかしくはない、、、今は信じられないかもしれませんが本当にこれで生活が成り立ってしまいます。

「私」がこの体を守っているという概念

皆なぜ「私」に固執するかと言えば、、この「私」がこの体を守っていると本気で信じているからです。。この私が居なくなってしまったら誰がこの体を守るのか???という話です、、、ですが本当は大丈夫なのです、、自我を俯瞰する超意識を持つことができれば、、思考を要所要所で使うことができますから、、、自我はもう必要なくなります。今までは自我意識でこの体を守ってきました、夢を現実と信じて。。ですがこれからは自我もこの世界も夢であることを俯瞰し、、夢を利用して生きていきます、、

波が浜辺で消滅した時に大海に戻る体験をする

波(個人意識)は消滅し、大海(真我)を知る

波(個人)はこの体の死を体験する時に大海(真我)に戻る体験を積みます、、、これが悟りです、、実は波ではなく大海だったという気づきです。波ではなく思考ですから、、、ただ大海である状態を知ります。個人は言葉が作ったイメージ、概念、思考ですから、、これが幻想であることを腹の底から理解しますと大海(真我)だったという気づきの体験が起きます。

究極の体験

我々(波)においての究極の経験こそが大海だったという気づきです。この気づきが起きることが悟りです、、ということでこれを完全に理解してしまいます、、自我形成(波)のプロセス、波と大海の違い、、自我(波)の動きの特徴、、波物語のカラクリ、、波としての経験が観念を作りそれが体験する世界を作り出す、、分離の世界の構築方法、、

確かに私は海だ!

知識の上での、、私は海だ!!という理解は重要になります、、なぜならば我々は腹落ちした感覚を体感するように設定されているからです、、、私は被害者だ、、これを完璧な感覚で信じていると、、被害者を経験します。。私はラッキーだ、、これを完璧な感覚で確信していますと、、これを体感します。。私は海そのもの、真我、、これを完璧な感覚で理解が起きますと、、それを体感する経験が起きます。

悟りを知る、そして体験をする

悟りとは何たるか???

悟りとは何かを感じるためには先ずはこれを知る必要があります、、、どういうことなのか???知識としてこれを知ります、、そして完全なる理解が起きますと、、次はこれを体験できるようになります、、なぜか???人はその人の観念が作り出した世界を経験するからです、、、つまり十二分に理解をしたならば次はそれをこの幻想の世界で体験できるということです、、、

この私が居ない世界がある

今までの私はこの体の中に居る私だけでした、、、ところが悟りとは、、、このイメージとしての私が本当の私ではなく、、、この世界そのもの、この現象そのもの、、そしてそれに気づく存在そのものであるという理解が先ずは知識として起こります、、本当のこの理解が進めと、、次にそれを経験するというプロセスに進みます。「あ、確かにこれは私ではない、、全部が私だという体験」

体験を起こすには先ずは理解する

我々が体験をしているのは我々の観念です、、つまり本当のところで感じている世界観、、これを我々は体験します。。。観念において悟りを全く理解していなければこれを体験することは先ずない、、ということになります。ですから先ずは完璧な理解、頭での理解、、観念に落とし込むような理解が重要になるのです。その先に、、、体験が待っています、、、そしてそれを味わい尽くした時に、、本当の気づきになります。

必要悪としての自我

セルフイメージは脳が作り出した必要悪

私、自分、我、、、なんでもいいのですがこの自己意識は、、脳が作り出した生命維持機能です、、、これは錯覚ですが、、この錯覚があるがゆえにこの体は、、その中に自分を所有し、、二重の意味でこの体を安全に維持活動させようとします、、、危ないとこに近寄らせない、、という動きは体、自己意識この二つで防衛されるのです。この自我、セルフイメージを作り出すことで、、人間という種は飛躍的に人口を増やしました。

苦しい

ただし問題点もあります、、苦しいということです、、、孤独感、不足感、焦燥感を自我(セルフイメージ)は生み出します、、必要悪をこの場合は捨てたいのですが体は絶対に手放さない、、、なぜならばこれは体を維持する上で有効だからです、、、だとしたら自我が必要のない状態にするしかない、、この自我の働きを俯瞰して、、自我の活動をしなくてもいい状態にする、、これが大切になります。

より俯瞰する

自我というのがいかに働きこの体を保っているのかを理解します、、、自我の目的はこの体を守ることにあります、、体が食べれていれば基本はいい、、そしてこの体がより長期的に安全である状態を目指します、、地位、名誉、社会的評価に関心が出るのもこの一つです。自我の動きを完璧に理解することで、、自我の暴走、自我への完全集中、意識が自己意識に取り込まれることを防ぎます。意識を自己意識ではなく、本当の意識に戻します。ここが静寂の場所、平和な場所です。

自己というイメージの解体

そもそもは存在しなかった

私とは言葉です、、言葉はその場でイメージを作り出し、、そのイメージがなるで実在するかのように感じることができます、、これが人間の脳が作り出した体平和維持装置です。この体を所有する私という存在を作り上げることで、、、、この体はより安全にこの体を保持できるようになったのです、、体だけじゃない、この私も、、この体に組み込まれ、、、めちゃくちゃ大事な存在になった、、この私は必死になってこの体を守ろうとする、、なぜならば、、、この体の中には「私」が居るのだから。

覚者は「私は居ない」を連呼する

大人になって悟りの本を読んでみる、、、「私は居ない」もうその頃にはすっかり自分というイメージが定着し、、、全く疑いもしない存在に、、、私はがっつりこの体に組みこまれVIP扱いになっています。人間同士はお互いにこの名前がついた「私」を呼び合うまでに、、イメージを共有し最大限強化しています、、、私がいない、、なんて何を言っているのか???です。

私と決着をつける

これだけ強化されたブランドイメージ、、、このイメージが実は実在しないなんて、、どうしたら思えるのか???これをするにはブランド立ち上げから確立までの流れを俯瞰するのが一番、、なぜ我々は名前を呼び合っているのか???そもそも私が居たから、、、名前が付いたのではない、、、名前をつけることで「私」というイメージが誕生したのだ、、、この気づきを得ていくことで、、「私」というイメージに対する関心を薄めていきます。