悟り根性論

気づきを根性で起こすことはできないが

悟りを根性で起こすことはできません、、、ですが悟りとは何なのか??これを言葉で理解することは可能です、、、本質は完全に悟っていますから、、その本質である私が悟りを言葉で理解できないわけがない、、、覚者は、、、言葉でしか、、悟りを伝えることができません。。。その声に真剣に向き合います。。この真剣にというのは完全な理解が起きるまで真剣にやるのです。

観念の障害

我々が信じ切っている価値観は観念となり、、、この観念がこのたった一つのエネルギーを裁断します。そして観念を証明するような現実(夢)がこの目の前に現れます、、ゆえにこれが夢かも???ぐらいではこの目の前の現実(夢)に木っ端微塵にやられます。。。超現実的な出来事が嵐のように吹き荒れます。そういう意味で悟りは真剣勝負です、、誰との真剣勝負なのか???観念が作り上げる、、この現実風夢です。

悟りが起きるまで悟り切る

悟れたらいいなー、悟りって最近気になる、、、全然ダメです、、、それではあなたの観念が作り出す現実風夢に木っ端微塵にやられます。。。悟り切る、、そして悟り切るまで手を緩めない、、抵抗が強ければ強いほどにギアを入れる、、、これが夢だ、、、という完全理解が起きるまで、、、徹底的に学びます、、、学ばない方がいい、、こんなメッセージもいっぱい届くでしょう、、完全無視、、そのメッセージは、、、私の観念が送り込んだ使者です。粉砕してください。

思考の産物から脱出するには??

思考の産物から脱出する

じゃあ具体的にどうしたらこの思考の産物の世界から出ることができるのでしょうか???これが思考の産物だと思って最初は生活してみるのです、、思考が瞬時に作りだした、、イメージの世界、概念の世界に居るということを強烈に意識します。。。意識に意識させるのです、、、これが思考の産物であることを、、、すると徐々にそれを経験できます、、、確かに!!が出てきます。。。

経験するまで学ぶ

悟りとは根性です、、、悟りとは忍耐です、、悟りとは根気勝負です、、、つまり感じるまで学び続けるのです、、、どこから入ってもいい、、覚者は其々全く違うことを言っているように感じます、、、、ですがそれはこちらが気付いていないから、、、全く違うように聞こえるという事実だけです、、、全く違うように感じるという階段を登っているのです。先ずは理解が起き、それが絶対的理解になった時にそれを経験する状況が起きます、、すると経験が気づきを起こします。

この携帯がアイフォンだと理解すると

アイフォンを知らない人の世界にはアイフォンは登場しません、、、、この格好良い携帯、、、アイフォンって言うんだ、、、へー、、、、から突然、、、、その人の人生にアイフォンがガンガン登場します、、、悟りも同じ、、悟りってそういうことなんだ、、、、へー。、、、が起きると悟りの体験がガンガン起きる、、、先ずは悟りってそういうことなんだねーへーが起きなくてはならない、、、そこまでは根性です。

思考の産物

我々は思考の産物の中に居る

私たちは実は思考の産物の産物の中に存在しています、、見えるモノ全て思考の産物です、、信じられないかもしれませんが知らないうちに思考が作り出した世界の中に閉じ込められているのです。。右を見た瞬間、まだ物を脳が認識できていないこの瞬間、、この瞬間だけが、、本当の世界です。。。逆に言えば、、この一瞬以外は我々は思考の産物を見ているのです。そして見ている私、、これも思考の産物です。

なんのことはない

なんのことはない、、我々は自分が作った思考の産物を見ているのであって神の現象そのものを全く見ていなかった、、本当はいつでも見れるのですが、、、思考が作り出した世界を真実、現実、リアルだと勘違いが起きているので、、、、もう本当に現実にしか見えない世界が登場しました。この夢は現実的過ぎるがゆえに完全に騙されます、、そして現実だという観念がさらにこの夢を現実的にするのです。本当の現実はまさにここに横たわっていますがこれがもう絶対に見えな代物に映っています。

宝の上に現れた代物達

今目の前に宝が凛として佇んでいるにも関わらず、、我々は観念によって作られた宝の代物を見ていますから、、何を手に入れても全くお腹がいっぱいになりません、、飢餓状態、餓鬼状態、畜生状態です、、この空腹感はなんだ???というぐらいに空腹です、、それはそのはず、、視界を変えたその一瞬だけ宝が見えているのですが、、その一瞬しか、、至福に気づかない、、残りの時間は観念が作り出した物語の中に閉じ込められてしまい、、常に宝に飢えているのです。

世界中に不幸が存在しなという気づきが起きた時、平和が押し寄せてきた

そうか、、、不幸を恐れてたんだ、、、

これは突然の安堵、平和でした、、、、この世界には不幸がなかった、、、人間から起こる全思考、全感情、全行動が神の現れであるという理解が起きた時に、、、突然平和が押し寄せてきました、、、そうか自分の意志で不幸に誰もなっていない、、、どんなに不幸のどん底に見える人も、、、実は、、、神の現象に過ぎない、、、自己責任じゃない、、だって自己が幻想だから、、、、気づきの連鎖が起きた時、、、景色が平和そのものになりました、、、見たことのない景色、、、幼少期に感じてた感覚、、あの平和、、、、

不幸への強い恐れ

東京は色々な人が居ます、、、凄い大変そうに見える人もたくさん居る、、、ああなってはいけない、、ああならないように気をつけよう、、、この緊張感、この緊張感が、、この私物語に強烈な緊張感をもたらしました。ただ今はない、、全部が全部神の現象ならば、、、不幸は誰のせいでもない。。。運の良し悪しもない、、、なぜならば全部が神が起こした現象だから。

人間の勘違いは最高に面白い

人間とはなんて自己愛が強い生命なのか???体の中に「私」というもう一つの存在をでっち上げ、、その私も同時に大切にする、、、この私の入れ物であるこの体は大切にしなくては、、、なんという防御体勢、、、体を守るだけでは飽き足らず、、体の中のでっちあげた「私」も守る、、、エグい、、、鉄壁の守り、、、だが苦しい、、、人間の超防御システムがまさかの苦しい人生まで作り上げてしまった、、やり過ぎ、、、

鳥の動きが優雅なのは

優雅さの理由

鳥の動きに焦りがなく、小賢しさがなく、優雅なのは、、、そこに自己が不在だからです、、、、在るという感覚の中でただ動きが起こっているからです。。。「私は今飛ぼうかな??明日にしようか、、やっぱり明後日だ???」これらの思考の動きが皆無です。。。私は周囲からどう見られているかな???という思考も湧かない、、、完全に今に在り、、、動きだけがあります。

思考に取り込まれていると

思考に取り込まれ自我全開、完全ストーリーの中に居ますと、、、、鳥の動きの優雅さに気づかない、、音楽の美しさも、植物の神々しさも、、何もかもが、、淀んだ世界に変わってしまう、、、この神の現象が、、、ただのイメージ、概念に浸っていく、、、、本当はただ今ここに神が起こす現象しかない、、、このことに気付いてきますと、、、観念が落ちていき、、その度に、、光が戻ってくる、、、これは幼少期に見ていた景色、、、

全部を神の起こりであると捉え直す

先ずは練習です、、頭でこれが神の起こりであると認識していきます、、全思考、全感情、全行動が、、、神の起こりであると、、、、徐々に徐々に認識が深められていきますと、、。次はそれを体験として感じるようになっていきます、、、体験としてその事実を経験できるようになります、、、次にただそれを感じる状態になります、、、

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

自分へ帰る

最後の帰省場所

私たちは最終的にどこに向かっているのでしょうか???輪廻転生があるのだとしたら、、最終的には何になるのでしょうか????霊格を高め続けて、、最後は、、、、結論は、、、自分に帰ります。。。自分に帰る????本当の自分です、、今の自分が自分だと「思っている」自分ではなく、、、今の私が「考えている」私ではなく、、、今の俺が「想像している」俺ではなく、、、本当の自分です。我々が知ってる私は思っている、考えている、想像している私です。

私をここに出してください、、、

今ここで私を出してください、、、でませんよね、、、なぜ???だって、、脳が作った存在が私ですから、、、脳が作った???脳がどうやって作ったのですか???脳の思考、創造を司る部位が作り出したモノですから出せません。。。つまり脳が無ければ私は居ないわけですよね、、、脳が現在進行形で作らないと無くなっちゃう存在、、それが私です、、、脳が今作らないと消えちゃう存在、、が私です。

脳が作り出し瞬間だけ登場する「私」

私たちが想像する「私」はまさかの脳に完全に依存しています、、、脳が私を思い出してくれないと「私」は存在できないのです、、そんな柔な存在、しょぼい存在が「私」です、、、、本当でしょうか???この私とは全く関係なく明晰に「在る」という感覚があり続けます。。。脳が完全に「私」を忘れている時も確実にある「在る」という感覚、、、これが私の本性です、、、、脳が作り出した想像物「私」をこの「在る」が気付いた時に、、、「私」は在るというストーリーに入ります。

本当の「私は在る」

本当の私は在るは、、、、脳が作った「私」ではなく、、「在る」この本質の存在のことです、、これが「私が在る」なのです、、、多くの人は脳が作り出した「私」が「在る」と信じています、、、、違います、、、「在る」という感覚こそが私なのです、、、「在る」というゆるぎない感覚が最初にあり、、、そこに脳が作り出した「私」が後付けされました、、、急に「在る」が強烈に小さくなったのです。。。本当は「在る」という感覚の中で脳が作った「私」も、、、全ての登場人物もただ起こっています。

私というでっち上げ

所詮は脳のイメージですから

私は脳が作り出したイメージです、、、この体の一部である脳が、、この体の中に私が居るというイメージを作り上げ、、、二重の意味でこの体を守らせようとするアイデアです。。時間というアイデアも作りだし、空間というアイデアも作り出し、、この私というアイデアが、、、この時間空間を歩むというアイデアをでっち上げたのです。。。壮大な壮大な茶番をぶち上げたのです。

悟りとは茶番の終わり

悟りとはこの茶番の終わりです、、悟りとはこれが茶番と見抜くことです、、、悟りとはこれを茶番と見抜き、私というアイデアを見抜き、この時空間も概念であることを完全に見抜くことです。。。全経験を感じているのは真我であって、、私というアイデアではなかった、、、私というアイデアがなぜ経験を感じることなどできるのか、、私というアイデアがなぜ経験を積むことなどできるのか???経験という言葉すらも概念です、、本当は経験という概念すらもない、、、

私物語の終わり

私というイメージが、、この時空間というイメージの中を歩むというイメージが起こり続けた、、脳が作り出した壮大な茶番劇、、本質は再び本質に戻り、、本質として、、感じ続ける、、、私というイメージを通じた経験ではなく、、、本質が本質そのものをただ気づくというそれだけ、、、言葉の全ては概念で、、、その概念が抜け落ちた世界、、、ただこれだけ、、、、

どちらが居心地が良いか

自我、無我

覚者は、、、孤独感、不足感、焦燥感、から解放されます、、、この私というイメージ、妄想が、、この物語を作り出し、、、この中に収まっていますと、、、孤独感、不足感、焦燥感が湧き出してきます。この事実を見抜き、、この物語から脱出したのが覚者です。この体は勿論残りますが、、この体の中に私というアイデアがありません、、構って欲しいという衝動も起きないのです。話しかけられた時に、、「私」というアイデアを想像し、、その時は「私」として振る舞います。ですが会話が終われば「私」というアイデアは消滅し、、全体に戻るのです。

体とは無我そのもの

体とは無我の表現、真我の表現そのものです、、、体は自我ではありません、、自我は体が生み出したアイデアです。。。。ですから静かに体と共にあるとき、、無我です、、、体をマッサージして、、緊張を緩めれば、、自然と無我に入れます、、、、マッサージの心地よい感覚、、これを感じているのは無我です、、、そのまま無我としてそこに在る状態になります。

真我が作り出した体、体が作りだした自我

自我とは突き詰めれば真我が作り出した、、真我が体を作り、体が自我を作った、、この自我の存在を実在だといく勘違いが起き、この自我実在ストーリーが作られました、時間という概念も作り、空間という概念も作り、、完全な劇場です。自我はどこまでいっても脳が作りだしたアイデアですからこの事実をしっかりと見つめれば自我は消えます、、自我ありきのストーリーも消えます。

孤独感を幻想と見抜く

私は一体何をやっていたんだろう、、脳が作り出した「私」というアイデア、、脳が作り出した、、分離社会、、この中で私という幻想がこの分離社会を生きるというでっち上げの中で生きていました、、、この体を安全に維持するのが最大の目的です。このことに気づきますと、、孤独感、焦燥感、不足感が湧いてこない、、、なぜならば私とは、、この世界そのもの、、現象そのもの、、大自然そのものです、、私とは脳が作り出した「私」というアイデアではない、、、それは100%。もうアイデアとして生きるのは終わり、、人と接する時だけ、、、「私」というアイデアをでっち上げ、、対応するだけ。

構ってもうらおうとする自我の動き

無視

自我は無視をされることを一番嫌います、、、自我は実在しません、、脳が作り出したアイデアです、、非常に軟弱な存在ゆえに、、、維持していくためには他人からの肯定を求めるのです、、、そのため相手から無視をされると、、激情します、、、、なんとか構ってもらいたい、、、構ってもらって自我は肯定され安心が起きます、、、

攻撃

構ってもらうためには自我は攻撃も辞さない、、、攻撃すれば相手をしてもらえる、、肯定してもらえる、、このようになります、、、自我は実在しないので、、、、自我という幻想を、、とにかく肯定してもらいたいだけなのです。そのためには、、攻撃をしかけて関心を自我に向けるように仕向ける動きが起きます。

本当は実在しない

本当は実在しないのですから、、周囲から無視をされても全く問題がない、、、、居ないのですから、、、居ないにも関わらず「居る」という壮大なストーリーをぶち上げてしまったばっかりに、、、思考感情行動は居ることを証明するように起こり続ける。。脳はこの自我ありきのストーリーを維持することで、、この体を維持しようとする、、、自分とは脳が作りだしたアイデアです、、、そして本質はこのことに気付いています。。。本質がこの脳が作り出したアイデアに焦点が合うことで、、、このアイデア(私)が実在するかのような物語が起こります。

人間関係が全く無くても

人間関係が全く無くても本質は全く問題はありません、、本質は本質そのもであり、、人間を必要としません、、、必要なのは自我です、、自我は妄想ですから、、、、他者に認めてもらえないと、、消滅してしまいます、、そのため、、、常に他人と関わろうとするのです。人と話をしたい、人に会いたい、、全部幻想の自我を維持しようとする動きです。そのことが理解できますと、、、人間を必要としなくなります。本質には孤独はありません、孤独は自我が作り出します。