ユニフォーム(私)はただの番号

ユニフォームが突然、、、

スポーツ選手のユニフォーム、、ユニフォームには選手の動きの全てを、、、何もコントールする力はなく、、ただの番号として機能します、、ここを勘違いする人はいません、、、ところが、、、これを「人間」に当てはめると、、、体に付けられた「名前」これはユニフォームでしかないのですがこのユニフォーム「名前」がなぜ全思考、行動のコントロールをしている、、、という大勘違い起きます、、、ここで重要なのは、、、私は名前「ユニフォーム」であるという動きは、、、ユニフォーム「名前」にはできません、、これをできるのはこの体から思考を起こす存在、真我です。。

自己意識という罠

多くの方は自己意識、、この体の中に自分が居る、、という発想はこの体の中から起こっていると信じていますが違います、、、この体の中に真我からそれが起きているのです。。自己意識は神、真我作り出したものです、、この辺りが悟りを非常に難しくします、、、、この世界で何かを起こすことができる存在は神、真我、無我であり、、、この体、ユニフォームには何の力もないのです。。。

私の自己意識が、、、やっちまって

私の自我が、、私の自己意識が、、、私のユニフォームが、、、全部勘違いです、、、この説明こそが苦しみの元なのです、、、自我、自己意識、ユニフォーム、、、ここには力がないのです、、何かを起こす、、、起こすことができるのは神、真我です。。。ここさえ整理がつけば、、、あとはドミノが倒れるように、、気づきの連鎖が起きます。。。「昨日もううちょっとお酒を押さえておけば」、、、、、違う違う、、、それを決めることができる個人、自我、、ユニフォームは居ないのです。。。。動きは全部根元、神、真我から起きます。

真我の勘違いを前提にした自動反応=自我

自我という言葉の功罪

自我という言葉をハッキリと理解する、、これはもう悟りの全てです、、、ここが理解できてしまえば、、もう人生は苦しむことができません、、、ですがこの自我、覚者によって説明が曖昧ゆえに、、、混乱を究めます、、、、、そして自我に対応する言葉、、真我、無我があることで益々混乱が起こるわけです。。ここを整理したいと思います。。。

自我は実在はしない

自我という、、、物質はまず完璧に実在しません、、、この体の中に自我があって、、、自我は物質ではない、、、この体の中に「私」という存在が在ってこの私が言動の全てを行っているという勘違いが起き、、その勘違いを元にした全ての反応を自我と呼びます、、、要は人間の発言、行動はほぼ自我そのものです、、これを自我がやっている、、、という表現が出ることで、、、自我という、、実態がないものがまたここで生まれます。。ここが悟りを非常に難しくします。

つまり人間の動きは自我そのもの

あの人の自我が、、、というよりも、、勘違いを前提にしたその動きが自我です、、、悪口を言ったら、、、相手が怒り出した、、、、この動きが自我です、、、全ては真我、根源から言動が自動的に起こっている、、この理解が起きていない、、真我から起こる動き、、これが自我です、、、逆に言えば周囲の見かけ上の人間全ての動きが自我です、、、、自我が居て、、、この表現が混乱を招く気がします。

勘違いを起こしたのはユニフォームではない

ここで重要な

体が真我、、ユニフォームは自我、、、体が動きユニフォームは番号に過ぎない、、にも関わらずいつのまにか、、ユニフォームが体の動きを決めている、、、という大勘違いが起きました、、そして今も起きています、、、、その勘違いはユニフォーム(自我)がしたんではありません、、、体(真我)がしたんです、、そして今も。。。ですからユニフォーム(自我)には全くもって罪はないのです、、、

悟り業界では自我の悪口が多くなるが、、、

ここが非常に難しいところ、、悟り本では自我の悪口が列挙します、、、ですが本当のところ、、自我(ユニフォーム)には悪さをする力がない、、悪さをするのは体(真我)です、、、、しかしそこも本当のところ、、真我の動きも自由意志はなく、、、勝手に起こっています。。。ユニフォームが全部が全部を決めているんだ、、という勘違いが真我(体)から起きちゃった、、、ということです。この気づきが悟りです。

本当の自我とは

悟り業界でいう自我とは、、、真我がユニフォームに全部を決める力があるという勘違いが起こりその勘違いを前提にした真我の反応=自我です、、、自我とは反応です、、、ここを覚えてしまう、、、あまり深く考えずにここを理解してしまいますと、、、悟り本で何回も出てくる自我という本性が見えてきます、、、すると、、、自我は実在などするわけがなく、、、それは真我の勘違いを前提にした自動反応(自我)であることは腹落ちします。。そしてその腹落ちは、、ユニフォーム(仮の私)でもなく自我(自動反応)でもなく、、真我そのものから勝手に起こるのです。

なぜユニフォーム(自我)に体の動きを決める力があると勘違いが起こったのか???

そういう勘違いが起こった

真我が体、、ユニフォームが自我と呼ばれています。スポーツ選手は体が動き、ユニフォームはその上に乗っているだけです、、、ユニフォームは選手の動きにまるでノータッチ、、、これが真実です。。。にも関わらず、、ユニフォームが全てを決めている、、、こういう勘違いが起こったのが人間関係、ユニフォーム関係です。勘違いが起こってしまったので、、、、一人の選手(ユニフォーム)が調子が悪いと、、その選手(ユニフォーム)に向かって監督は注意します、、、今日はどうした???と、、、ですが注意を受けた選手(ユニフォーム)は何も決める力がないにも関わらず答えます、、、、全力で頑張ってみますと、、、ギャグです、、人類全員のギャグです。

ユニフォーム(自我)はただ体の動きに付いていく

なぜこんなことが起きたのか????人類の大ハプニング、、、便宜上ユニフォームを着るのは便利です、、ユニフォームには番号が貼ってあってこれがあるとプレイがしやすい、、、ですがそのユニフォームが体の動きを決めているという勘違いが起こってしまったのが最大の不幸、、この不幸を生きて死ぬまでやっているのが、、、このユニフォーム(自我)です。。。この話を聞いても、、、ユニフォームには何の決断を動きを出来ませんから、、、ただ体の動き(真我)に従うだけです、、最初からユニフォーム(自我)は何もしていなかった、、、ただその気づきが起きれば十分です。

「自分」とはスポーツ選手のユニフォーム

ユニフォームは何もしていない

スポーツ選手はユニフォームを着てそこに番号を付けます。見かけ上の自分という存在はこのユニフォームです。自分は何もしていないのです、、走るのか、蹴るのか、歩くのか、、、これを決断しているのは体であってユニフォームは何もしていない、、、にも関わらず、、ユニフォームがしているという勘違いだけが起きます、、相手のユニフォームをみて、、なぜあのユニフォームはあんなプレイをしたのかと非難します、、なぜあそこで蹴ったのか??あのユニフォームは、、としかしユニフォームは何もしていない、、、これが見かけ上の人間の苦しみです。

最近のあの人(ユニフォーム五番)は頑張っている

最近あの選手(ユニフォーム5)頑張っているよね、、、違います、、ユニフォームは何もしていないのです、、、それでもそれを伝えます、、、いやー最近の君(ユニフォーム5)は凄い頑張っているね!素晴らしいよ!、、、ありがとうございます(ユニフォーム5)、、、なんか色々反省してみてやる気が湧いているんですよ(ユニフォーム5)、、、、、今度他の選手(ユニフォーム)にもハッパをかけてみます、、、

大いなる勘違い

全員(ユニフォーム)が何を考え何を行動すかにおいてユニフォームは全くもって無関与です、、にも関わらず全員でユニフォームが全部を全部決めているという夢を見ているのです、、ユニフォームはただ体(真我)の動きに従うだけ、、、ユニフォームはその動きに付いていっているだけです、、、外から見て、、ユニフォームが全部決めているように見えても全く関係ありません。

あの選手(ユニフォーム10)は何をやっているんだ!!

監督(ユニフォーム)が怒ります、、、今日の10番(ユニフォーム)は何をしていんるんだ、、全く動きが悪いではないか、、、違います、、ユニフォームは何もしていないんです、、、あとでしっかりと注意しなくては、、、ユニフォームは何もしていない、、、見かけ上の人間にはそう見えているんです、、、この事実がはっきると分かると人間関係(ユニフォーム関係)はまるで違ったものになります。

全く動かない仲間(ユニフォーム)にはどう伝える????

何を伝えてもいいんです、、もっと動いて、、もっと歩いて、、もっと守って、、、でもそれを決断する力がユニフォームにはないんです、、、では体(真我)にその力があるのか???実は体(真我)にも自由意志はありません、、体は勝手に動いています、、、つまり、、、、それを決めることができる存在は存在しないということです。

スマホが手放せない

苦しいが孤独

言葉が作り出したイメージの世界、ストーリーの世界に閉じ込められますと、、スマホが手放せなくなります、、なぜならば、、、孤独だからです、、分離感全開、孤独感全開になり、、スマホで友人からのLINEを待ち続けます、、、ですがストーリーの世界に閉じ込められたままでは苦しいは全く解消されない、、友人から連絡がきても苦しいままです。本当は苦しい、だけど孤独感を解消するためにLINEを待ちます。

私というイメージ

私というのはイメージですから、、意識しなければ、、存在しません。。意識することで私というイメージが現れ、、孤独感が湧いてきます、、、つまり私というイメージを意識しなければ、、、孤独感も湧いてこないということになります、、、ですが多くの方はこのことを知らないので、、、一日中私というイメージを意識し続け、、孤独感解消のために人にLINEに奔走します。

私というイメージを意識しない

私とはイメージであり、、意識しない限り存在しない、、このことに気づきますと、、、あえて私をイメージする必要がなくなります、、、完全な真我として一日中過ごすことができます、、、過ごすというのもイメージですね、、、真我としてそこに在ることができます、、、この状態が静寂、平和です、、

音が鳴った瞬間

音は音が起きた瞬間に、、存在が気づきます、、、ストーリー上は、、鳥が音を作り、、それを人間が鼓膜で広い脳で認識する、、になります、、、ですが真実はその場で音が起こり、その場で音に気づきます、、、存在が。人間が鳥の声を聞く、、これはイメージの世界の話です。。人間というイメージが、、鳥と声というイメージの音を聞くというイメージです、、、本当は独立した人間も独立した鳥も存在しません、、なぜならばこの世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

味が起きた瞬間

味が起きた瞬間、、、私が今ステーキを食べました、、、というストーリーが起きます、、本当は美味しいという味が起きただけです、、それしか起きていません、、、人間もイメージ、ステーキもイメージです、、、たった一つのエネルギーにイメージを当て込み、、そのストーリーをでっち上げたのです、、だから本当は味覚が起きただけ、、、イメージを削ぎ落としていきます、、イメージを削ぎ落とすと味が鮮明になっていきます。

風を感じた瞬間

風を感じた瞬間、、、、私が自転車を漕いで風邪を感じた、、、というストーリーが起きます、、本当はただ風が起きた、、です。。私もイメージ、自転車もイメージ、、私が漕ぐもイメージです、、この現象界に独立分離したものなど一切ありません、、言葉でイメージを作り、、そのイメージでこの現象界を切り抜きました、、結果としてこの私が自転車を漕ぎ風を感じる、、というストーリーが生まれたのです。本当は風を感じる感覚しか起きていません、、、経験以外実は何も起きていません、、経験以外はイメージがでっち上げたストーリーです、、

ここを見抜く

経験以外の全ては完全にイメージ、幻想、ストーリーです、、言葉で切り抜いたイメージをこの現象に当て込み、、イメージ同士が動くことで、、、経験のみが起きました、、、この動きでストーリーを信じるという動きが起き、、このストーリーに閉じ込められます。。ですが冷静に観察すると経験しか起きていません。悟りとはイメージをイメージと見抜き、、経験しか起きていないことに気づくことです。経験しか起きていない時見かけ上の私は何も経験に参加していないことに気づきます。経験だけがただ起き、、それに気づく気づきの意識があります。

時間の中では至福になれない

時間こそが苦しみを生み出す

明日幸せになろう、、来年こそが幸せになろう、、、この発想が既に不幸の中にいます、苦しみの中に居ます、、、時間軸の中で幸福になろうという試みが既に苦しみを生み出すのです、、、「じ・か・ん」という言葉はイメージです、、事実として時間が存在し、、その存在する対象に、、「時間」という名前を当てたのではありません、、時間という言葉を覚えることで時間というイメージを創造し、、、時間がこの世界に現れたのです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、時間はその人には全く存在していなかったのです、、

つまり、、時間はイメージ、幻想

時間という言葉を覚えることで見かけ上のその人に時間が誕生しました、、時間の中で私が生きるというイメージが誕生したのです、、、これが苦しみを生み出します、、、時間の中で私は至福に至る、、これは不可能なのです、、なぜならば至福は時間や私というイメージの外にあるから、、、時間の中の私が生きるは、、イメージであり、、イメージの中は苦しいのです、、、頑張って明日から死ぬまで至福でいよう、、これは不可能なのです、、、人類全員が。

時間も私もイメージ、幻想

時間も、この私も言葉が生み出したイメージ、幻想です、、、この言葉を覚えるまでは時間も私も存在しないのです、、無人島に生まれ住んでいる人は、、時間を感じたことがないのです、、、時間とは生物が誰しも感じることではなく、、時間という言葉を覚えた者だけが感じるイメージです、、真実ではないのです。これが腹落ちしますと、、時間、私というイメージから抜け出せ至福、静寂の世界に入れます。

インナーボディー

感じるということ

エックハルトは著書の中でインナーボディーの覚醒の重要性を説いています、、、体はマッサージなどをすると感じます、気持ちが良い、、と。。この感覚、、この感覚を感じているのが神です、、、神が感覚を経験しています、、、つまり体の感覚に沿ってマッサージをしている期間、、神がそれを感じています、、だから見かけ上の私はマッサージを好みます、、、

美味しいという感覚

何かを食べて美味しいという感覚を覚えます、、この感覚は神が感じています、、、見かけ上のこの私ではありません、神です、感じているのは、、、だから人は大金を払ってでも美味しい料理を食べるのです、、その瞬間神になっているのです、、、感じるのは全て神です、、、美味しいお水、美味しいご飯、美味しいお酒、、全部神が感じています。

感じるを意識する

体の感覚を良くして行きますと、、、この体は中からエネルギーを作り出します、、空から直接エネルギーが注がれてきます、、、空即是色の場になります、、この体が、、エネルギーが溢れ、、何もしていないのに、、何の目的もなくてもやる気が溢れてきます、、、

個人のお役御免

個人を辞めてみる

これをしなきゃ、、あれをしなきゃ、、、個人は自身に自由意志があると思い込み、、その大前提での思考活動が連続します、、、ですが本当は個人には自由意志がない、、、だったらばそれを確認すればいいのです、、、何も自分からは考えない、、ただ衝動にしたがって行動してみよう、、、です。

すると何も変わらない、、、

何も変わりません、、思考なんてしなくても全部行動は回る、、ただ衝動に従って動く、、、行動量は何も変わらず、、、ただ日常が過ぎていく、、、個人という存在はやはりラベルだった、、、そこに存在価値は全く無かった、、、となります。。。本当に面白い、、、こてまで自由意志を発揮してきたと思ってきた個人は、、実はラベルに過ぎなかった、、ラベルが実在するという前提の言動があっただけ、、、、

個人をラベルと見抜いて、、、

個人をラベルと見抜いて生活します、、ラベルですから自由意志も自由行動もありえない、、、ただ衝動にしたがって行動します、、、何もかもが変わらず回っていきます、、、自由意志の責任が抜け落ち、、、重さが抜けます、、、自由意志の責任が抜け落ち反省がなくなります、、、軽くなる分行動量が増えていきます、、、反省時間がない分気分が良くなります。人を批判する気持ちが無くなります、、人を称賛する気持ちがなくなります、、、人の上下がなくなります、、