イメージの住人

言葉の世界

見かけ上の我々はイメージの世界の住人です、、、この体も、この木も、このコップも、この椅子も、、、全部が全部言葉で成り立っている時点で、、、その言葉のイメージが想像され、、、そのイメージをこの現象に照らし合わせて生きています、、私というイメージが。便宜上言葉を覚えた我々人類は言葉の力の偉大さに気づいておらず、、、言葉にすっかりと飲み込まれているのです。

一人一人が全く異なったイメージを持ち、イメージの世界に生きている

一つ一つの物は名前がついていて、、この名前について人は各々のイメージを作り上げます、、、このイメージをこの現象に重ね合わせることで、、分離した現象界が生まれます、、、イメージが全員異なるということは、、全くもって異なった世界に生きていることになります、、、、本当は本質のみ、一つのエネルギーのみです。ですがそこに重ね合わせた言葉のイメージが異なるために、、違う世界を生きるというイメージが湧きます。そしてどんなイメージの世界を私というイメージが生きようともそこは苦しいのです。なぜならば本当の静寂の世界、平和な世界、至福の世界を既に幼少期に体験しているのと、、本質はそのことを知っているからです。。つまり本当の体験者(真我)がそのことをいつも分かっています。

言葉というラベルの功罪

言葉が作ったこのラベルは各々に異なったイメージを作り出させ、、この体が生き抜く上で役に立ちます、、、この体は確実に楽に生き延びることができるようになりました、、、しかしどっぷりイメージの世界に閉じ込められてしまったことで、、、精神的にはいつも苦しい、、、なぜだ????となります。生きてはいるけど、、苦しい、、、このメカニズムを打破するには、、、この事実に気づかなくてはなりません。

真実に気づけば

真実に気づいてしまえば、、もうイメージに惑わされない、、、この見かけ上の私もイメージに過ぎず、、だからこそこの見かけ上の私の幸福を追い求めても意味がないこともわかります。本当の私とは、、この言葉を作り、、イメージの世界を作り上げ、、、その中での経験の全てを回収している存在だという気づきが起きます。

全員がピカソのように絵が描けたらピカソの絵には価値はないのか???

人類が苦しむ原因

人類が苦しいのは、、、この人類は比較の中でしか幸福を得れないと考えているからです。。。ピカソの絵を飾っていた家で、、、人類全員がピカソレベルの絵を描くことができるようになった時に、、、その絵にはもう価値はないのか???という話です。。。我々は本質が見えない世界に没入することで本質を求める代わりに他人との比較の中で幸福を得ようという努力をしているのです。

他人より収入が良いから幸福なはずだ

他人よりも収入が二倍もある、、だから俺は良い会社で働いている、、だから俺は幸せに違いない、、、全部イメージの話です、、、そういうイメージを作り上げイメージを感じているだけですね。。俺は幸せに違いない、、という思考(イメージ)を感じているんです。。。そうではなく、、、本質、絶対幸福、に今なってしまえば、、もうイメージの世界を感じなくていい、、、イメージの世界でもがかなくて良くなります。

イメージの世界から抜け出る

これは全部イメージ、、これことに気づくことが悟りです、、、言葉を覚え、言葉がイメージを作り、、そのイメージをこの現象に重ね合わせ、そのイメージの中で生きている、、、これを真剣に信じることで苦しみが生まれる。。絶対幸福、静寂、至福の世界に、、イメージを作り上げ、、イメージを感じていいます。。勿論それを起こす存在は神でありそれを感じるのも神です。。。私は実は神なのです、、この体の中の住人と思っていた(イメージ)この存在は神だったんです。

下北沢

この言葉にイメージを作る

見かけ上の私は下北沢という街に住んでいますが、、やはり見かけ上の他人にそれを話しますと、、「下北沢って古着の街ですよね」「下北沢ってオシャレですね」「下北沢って汚いですよね」「下北沢って若者の街ですよね」「下北沢って美容院ばっかりの街ですよね」と各々のイメージを話してきます、、この下北沢という言葉に全員がイメージを持っている、、つまり言葉とはイメージなのです。

イメージとイメージの擦り合わせ

下北沢にできた「ターリーズ」行きました????広いですよね!、、なんか明るすぎじゃないですか?店員さんがまだ慣れていないですよね、、、各々が「ターリーズ」というイメージを伝え合い、、すり合わせをしています。これが言葉の力です。。。。そしてそのイメージをしながらそのお店に行くと、、、そう見える、、これが言葉の威力です、、イメージ力、、、

イメージの世界に居るのが苦しい

世界中に対して良いイメージを想像し、、その想像の中で生きていようと、、、例えば「私は世界一運は良い」というイメージを持っていきていようとも、、、この「私」をイメージしている時点で本当は苦しいのです、、なぜならば「私」はイメージであって本質ではないからです。。この本質の世界の中にイメージのストーリーを作り上げ経験を作るのが苦しいのです、、本質でしかない絶対幸福(神)がイメージの世界に閉じ込められています。

トムクルーズがミッションインポッシブルをやり続ける

トムクルーズがミッションインポッシブルの映画の役をやり続けるのは大変です、、、あの役ができるのはトムクルーズ本人があの役に成り切れるからなのですが、、、これは大変なこと、、、イメージの世界に居続けるのは大変なのです、、、、これは神も同じで、、、神がイメージの世界に入り込むと、、苦しいが同時に湧いてきます、、これを感じるのは勿論神です。。。この苦しいを終わらせたいという衝動も湧いてきます、神から。この衝動を感じるのは勿論神です。

時間は言葉

言葉は全部イメージ

時間という言葉を覚えるまでは、、、子供は時間という存在は全く存在していない世界に居ました。。。子供は自分が時間を過ごした、、など感じたことがなかったのです、、、、ところが「じ・か・ん」という言葉を覚えたことで時間というイメージができました、、、移り変わる世界に「時間」が登場したのです、、、、これによって「私」が時間の中を生きている、、、というイメージが完成しました。。時間というのがそもそもあったのではなく、、、時間という言葉を覚えることで、、、時間というイメージが想像されたのです。創造といってもいいでしょう。

「わ・た・し」

私という音の組み合わせを覚えることで、、、この世界に「私」というイメージが登場しました、、、この体を現象界の中で見つけると、、、この「私」も一緒に登場します、、、『あ、わたしだ!!』です。私って絶対に居るよね、、、となります、、ですがこれはイメージです。。イメージが現象界と重なり合っているのです。この私は道を歩けば、、、私というイメージが、、、動き、、景色が変わり、、私が歩くというストーリーを創造しています、、、この想像は神が行い、、そしてこれを神が感じます、、、、

私をイメージし、私が感じているというイメージをし、それを神が感じる

唐揚げを食べている時、、、唐揚げというイメージ、、をこの私というイメージが、、食べるというイメージをします、、そしてこの唐揚げを食べた瞬間に味が起きます、、これを神は感じ、同時に私が食べたというイメージが起きます、、次に美味しいが湧きます、、これを神が感じます、、次に「私は美味しい」を感じたというやはりイメージが湧きます、、これを神が感じます、、神は私をイメージしながら全経験を感じているのです。。これは神の一人芝居です。

作り、イメージし、感じる

この現象界は

この現象界はたった一つのエネルギーの変幻自在の活動が先ずあります、、これはたった一つであるゆえに、、、独立分離した存在はこの中では存在できません、、、もしも可能とするならば、、、この世界の中でイメージをするしかない、、これを可能にしたのが「言葉」です。。音の組み合わせを使って、、、この世界の中に「独立分離した風」の作品を作っていきました。この見かけ上の私も全く同じやり方です。これでこの世界には私が居て、親がいて、兄弟がいて、家があって、、学校があってと、、、分離物体が急増していくわけです。

本当は今も一つ

本当は今も完全に一つのエネルギー場です、、、この中で言葉を使いイメージ活動をしています、神が、、神が言葉が作ったイメージをこの現象界に重ね合わせ、、、独立分離した世界にやはり独立分離した私が居るというイメージ活動をしているのです。。。このイメージ活動が上手くいきますと、、、孤独感すら湧いてくるようになります、、、完全な成功、、イメージがしっかりとできている、、、私が孤独だ、、、はイメージ力の賜物なのです。。。なぜならばそんな存在は、、、イメージ上のものです、、、イメージ上の私が、、、孤独感を味わう、、、凄いことです。映画を観て泣くのと全く同じ、、、これもイメージの世界です。

神の感じるという力

このストーリーは神の完全なるイメージの力です、、、、言葉を生み出し、、イメージを想像し、、この現象界を分断し(イメージ)、、その中のやはりイメージである「私」を登場させ、、全経験をこの「私」が所有し、、時間のある世界(イメージ)の中で生きている、、、時間も言葉、、これもイメージです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、、時間はこの世界には存在していません。神はたった一つのこの現象界に独立分離した「私物語」を作り上げ、、、感じています。

神が言葉を使ってイメージを見ている

この世界は言葉が作ったイメージの世界

「り・ん・ご」この三つの音の組み合わせで、、、りんごという果物がイメージできます、、、「ワ・イ・ン」この三つの音の組み合わせでワインという飲みものをイメージできます、、見かけ上の私は、、言葉を暗記して、、その言葉のイメージを想像し、、、その想像とこの現象の組み合わせの中に住んでいるのです。思考しているときは、、言葉を駆使して、、、イメージを作り上げ、、この見かけ上の「私」が織りなす、、イメージの世界のストーリーを制作しているわけです。言葉を暗記することでこの想像行為が可能になりました。

現象を眺める度に

現象を眺める時に、、、その現象が視界に入り、、次のこの現象がかつて覚えた「や・か・ん」というイメージと合致し、、、独立分離した「やかん」を見ることができています。言葉を覚えることで、、この現象界の中で、、分離したことになっている「やかん」が登場します。。この学びが無ければ、、見かけ上のその人の世界には「やかん」は登場しません。

この芸当はができるのは神だけ

この芸当ができるのは神だけです、、音の組み合わせ「み・か・ん」でみかんをイメージする、、これを感じているのは神です、、この音を起こしたのも当然神、、これを見かけ上の私が感じている、、という思考を津壽太のも神であり、、、そうイメージするのも神です。。。これがこの世が夢であると言われる所以です、、、神が言葉を駆使してこの一つでしかない世界に分離した「もの」が存在するというイメージを起こし、それを見ている「わたし」もイメージしました。。このイメージを感じているのは神です。神が作ったイメージで神はそのイメージを神は感じています、、どこまでいってもこれは神の一人芝居です。

神が個人に話しかける???

突然神の声が???

ある日突然神の声がして、、、そんな怪しい話が、、、神話などでありますね、、、、急にご先祖様の声が、、、今見かけ上の私たちが現実と呼んでいるこの世界、、これこそが全部神の顕現です、、、ですからそこで起こる音も全部神の顕現です、、、、神以外に顕現はないのです、、、ですから神の声が聞こえたというのであれば、、、鳥の声も、、友人の声も、、全部が全部神の声です。。。

それを聞くのも全部神

そしてその声を聞いているのは誰か????見かけ上の私か???違います、、、聞くことができるのが神だけです、、、神だけが感じることができます、、、すると神は、、、この体を利用して聞いているんですか??違います、、、神は音を現し、、、そのまま音に気づきます、、見かけ上のこの私はそこには全く関われないのです。勿論見かけ上の私が耳栓をすれば声が聞こえなくなるでしょう、、、しかしその動きも、この見かけ上の私も神の顕現です。

考え過ぎて、、、全く聞こえなかった

考え事をしていたら、、、声をかけられても全く気づかなくて、、、、聞くことができるのは神だけであって、、なぜその神が聞くことができなかったのか???神は無能なのか????違います、、、、神は考え事を感じていたのです、、、思考を感じていたのです、、、神は思考を感じる時に、、思考の意味を感じます、、思考の世界、、ファンタジーの世界を感じていたのです。見かけ上のこの私が居て、、、の世界です。

冷蔵庫の音に神々しさを感じる

真我から湧き上がる音

夜中にブログを書いていると、、、完璧な静寂な中で、、、冷蔵庫の音だけが微かに響きます。。。この音はどこから生まれているんでしょうか???真我です、、、真我からこの音がただ鳴り響きます、、そしてこの音に気づいているのは誰か???それは見かけ上の私ではなく、、真我です、、、何かに気付けるのは真我だけです、、、、つまり真我から湧いた音を、、真我が聞いています。。。悟とか悟らないとかそういう話ではありません、、、真実の話をしています。

冷蔵庫が真我から湧き上がり

冷蔵庫は真我から今湧き上がっています、、、そしてそこから音が鳴る、、、、この音も真我から湧き上がります、、、この音に唯一気付ける存在、、それも真我です、、、、見かけ上の私は一切ここに関わっていません。いやそんなことはない、、、耳に耳栓をすれば音は聞こえなくなりますよ、、、見かけ上の私にそのような動きが起きれば、、、ただ音が消えるが起きるだけです、、、その見かけ上の私に耳栓をさせたのは誰か??真我です。。見かけ上の私が関わったのではなく、、その動きが真我から起こったのです。

ただ音を感じているだけなのに

ただ音を感じているだけなのに、、、そこに神々しさを感じ、静寂を感じます、、、、誰が聞いているか、、、ただこれだけの違いで、、、音が神になる、、、、聞く者が神になる、、、、都会の喧騒の中に住んでいるはずが、、、静寂そのもの、、、これは静寂(真我)が音を感じているからです。全ては静寂(真我)から起こり、、静寂(真我)がそれに気づいているだけ、、、静寂(真我)の一人芝居、、

今迫り来る危機

突然の会社の倒産

例えば見かけ上の私が勤める、、、会社が倒産してしまった、、、このような時はどうのようにすればいいのでしょうか??最初には、、恐れ、、、不安、、、怒り、、、様々な感情が湧き上がると思います、、、その時にその感情がどこから生まれるのかを観察します、、、、その感情は真我から生まれて、、そして真我がそれに気づいています、、、、そのことを理解しますと、、、安心が即座に生まれます、、、この現象に対して安心が湧いてくるのです、、、起きる現象は真我が生み出しました、、、、そこを理解するだけで、、安心感が湧いてきます、、真我から、、、するとその安心感を真我が気づきます。

どの自分で対応するか????

見かけ上の自分に会社の倒産が起きたと思えば、、、、不安が真我から湧いてきてこれを真我が気づきます、、、見かけ上の私にそれが起きたのではなく、、、ただ会社が潰れるが起きたのだ、、、という観察が起きれば、、、真我から安心が湧いてきて真我がこれに気づきます。。全ての現象はただ湧くのであって、、それは見かけ上の私に向かっては起きていない。。。。鳥は見かけ上の私に向かって鳴くことはなく、、ただ鳴くが起きるのです。この鳴くに対して、、真我としてこれに気づけば、、、鳥の声が神の声に聞こえます、、声に神々しさが宿るのです。

倒産すらも真我の現象

会社の倒産、、見かけ上の私にとっての大事件、、、これも真我の現象、真我からただ起こっただけ、、、見かけ上の私も真我からただ起こっただけ、、、この現象に対してただ淡々と行動が湧いてきます、、真我から、、そして真我から湧いているという気づきは、、常に静寂、平和に包まれるのです、、、現象を生み出すのは真我、、それに気づくのも真我、、、これは真我、神の一人芝居です。この状況でどこに不安になる要素があるのでしょうか。見かけ上のこの私すらも、、、真我からの現象に過ぎません。

明晰なNO

被害者にはならない

人間関係とは自我関係ですから、、相手の自我の動きに影響されることになります、、、、例えば恋愛関係ともなれば、、相手の自我は少しでも得をしようと試みるわけです、、、収入、容姿、地位、名誉、家柄、、、自我にとって得であると判断が起き続けます、、、そして損であるという判断が起きれば、、、当然ギクシャクが起きるわけです、、、、その時にこちらは、、その自我の動きに対しどうすればいいのか???ただこれが起こったと全部を受け入れればいいのか????違います、、、明晰にNOでいいのです。

自我の動きの専門家になる

この体の中に自分が居ると勘違いしている相手の自我は、、、損をするのが耐えられない存在、、、人間関係でこの動きは当然でてきます、、、、例えばクラスでこの私が全員から仲間外れをされることになった、、、そのん時に今まで一番の親友だと思っていたA君は、、、、損をしたくないから、、、距離を置いてきた、、、などです。。。この動き、、この自我の動きを冷静に理解し、、、それを受け入れるか否かを決めます、、、

本当の優しさとは

相手の自我の動きに付き合うことが優しさではありません、、相手の自我の動きの全てを容認することが優しさではありません、、、、自我の動きを理解して、、、、自我として対応しないことが優しさです、、、、相手の自我の動きを冷静に観察する無我、真我として対応します。静寂として、平和として、、その在り方によって相手の自我は、、、安心感を覚え、、、、その安心感に相手の無我、真我が開く、、、真我に目覚めるよう促すのです。