神と人間
神様が居て人間が居て、、、、これでは神と人間二つの存在がこの世界に誕生してしまいます、、、これは間違い、、、神から、、、「人間」という言葉が生まれ、、人間という「イメージ」が誕生しました、、人間というイメージ、幻想が神の中で現象として生まれたのです。神がこのイメージを愛する、、、違います、、神から「神が人間というイメージを愛するというイメージ」が生まれたのです。。「かみ」も言葉ですからイメージです、、この世界は(これもイメージ)ただ現象だけがある、、、です。
神様が居て人間が居て、、、、これでは神と人間二つの存在がこの世界に誕生してしまいます、、、これは間違い、、、神から、、、「人間」という言葉が生まれ、、人間という「イメージ」が誕生しました、、人間というイメージ、幻想が神の中で現象として生まれたのです。神がこのイメージを愛する、、、違います、、神から「神が人間というイメージを愛するというイメージ」が生まれたのです。。「かみ」も言葉ですからイメージです、、この世界は(これもイメージ)ただ現象だけがある、、、です。
この世界には本質しか存在しません、、それ以外は何もない、、ですが、、この本質の世界に言葉が現れることで、、、イメージを本質が出現しました、、本質が作り出した創造物、幻想です、、「わたし」というのもイメージ幻想です、、この私が歩む人生というイメージは本質から確実に創造され、、その私の経験というイメージは、、、本質に回収され記憶されます、、、、この記憶、、、この記憶とリンクした新しい「私」が前世を持つというやはりイメージを作り出したのです。ですから前世もこの本質が作り出したイメージです。
私には100の前世がありました、、、、何回でもいいのですが、、重要なことは、、この前世という本質が作り出したイメージの世界の中は苦しいということです、、、このイメージの世界に私が居るというやはりイメーイを持つと苦しい、、、、ですから釈迦は言った「解脱しかない」と。。。解脱だけが、、、苦しみを終わらせると、、、イメージの世界から出ろと、、、
なぜ街をあるけば、、マックがあり、スタバがあり、、吉牛があり、ABCストアがあり、、交差点があり、、信号があり、、車が走り、、、という現象が続くのでしょうか???それは我々がその言葉を覚えたからです。。2、3歳児が生きる世界にはこれらは存在しません、、認識できないのです、、言葉で覚えていないから。。原始人も同じ、、この世界を歩いてもこれらの現象は現れません、、言葉で覚えていないから認識できないのです。視界に入った車を認識するには車という言葉を暗記する必要があるのです、、脳はこれをイメージとして認識に、、このイメージを現象に当てはめることでこれを見ることができます。
言葉を全く覚えない、、すると、、2歳児のまま、、この状態で街を歩いても何も認識できない、、車も、横断歩道も、信号も、歩行者も、、、家を出る時に、、パンツも履けない、、靴も履けない、、服も着れない、、となります、、、なぜならばそれらを認識できないからです。。言葉を覚えそれをイメージ化しそのイメージがあるからそれを探し出せるのです。つまり我々は覚えた言葉のイメージを、、この現象界に重ね合わせてそれを「見る」ことができているのです。
覚者が言う、、我々は夢を観ている、、というのは本当で、、、この「体」すらもイメージ、、この体の中に「私」がいるもイメージ、、見える世界のイメージを見続けています。この私が居て、私のストーリーがある、、、完全なイメージ、、幻想、、夢です。だからこの世界で私が幸福になる、、というのも完璧なイメージであり、、無理ゲーです、、、、なぜならば幸せになる「私」が実在しないからです。
魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。
覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。
原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。
このイメージの世界、言葉が作り出したイメージの中に閉じ込められていることに気づいていない人々は、、この世界の中でなんとか生き延びようと必死です、もしくは享楽的にただこの苦しみから逃げようとする、この苦しみを直視することなく、、周囲の人々に合わせまあこんなもんだよと、、迎合する。。ですが本質に目覚めれば分かります、、これはただの苦しみの延命措置です。
このイメージの世界、ストーリーの世界は基本は苦しい、、ですから多くの方は打算的に生き、、少しでも苦しみの少ない人生を送ろうとします、、絶対的幸福はこの世界には存在せずだからこそ、、苦しさがより少ない人生を歩もうとするのです、、、ですがどんなに苦しみを解消しようとしても、、このストーリー、イメージの中に居るのが苦しいのであって何一つ根本解決にはならないのです。
本質とはこの現象界そのものです、現象を作り出す存在、、それが我々の本性です、、この体はその一部でしかなく、、この体の中には私はいません、、、全ては本質から一時的に現れた現象でしかなく、、この体は便宜上、、名前が付けられた機能でしかない、、この体、、体以外に便宜上名前がつけられ、、便宜上の私と私以外の世界が誕生しました、、ですがこれは便宜上の話であって、、イメージです。ところがこのイメージの世界にどっぷり浸かりますと、、イメージであることを忘れてしまい、、苦しみの渦に自ら飲み込まれていきます。
これが言葉によって作り上げられたイメージであることを見抜きますと、、もうこの体を幸福にしなくては、この体をなんとしても安全に生き伸ばさなくては、、常識に従って生きなくては、、の柵が抜け落ちます、、それよりも本質であることを思い出すことに関心が移ります。。この体を安全運行するよりも、、究極の本質であることを思い出すことに関心が移るのです。
我々が現実と呼ぶこの人間が生きるストーリーの世界は横軸の世界、、そして本質の世界は縦軸の世界、、この夢はこの本質によって支えられています、、本質から全てが生み出され、、人間というイメージが想像され、、その人間が経験する全てを本質が回収し、、この体が全てを経験しているというストーリーが生み出されました、、想像として。個別活動があるというストーリーは、、個を生き伸ばすには成功しましたが、、苦しみが伴います、、この苦しみを終わらせる活動こそが悟りです。
この世界がイメージの世界、夢の世界、幻想の世界であることを見抜けていない人は全員が迷い人です、、言葉が作り出したイメージの世界にこの私が居るという認識があるうちは迷い人です、、全員が。大成功者も、人格者も、リア充も、、全員が迷い人です。。。この体の中に居る私が幸福を手に入れるという感覚を持っている人は全員が迷い人です。
このイメージの世界で、、、何を得ようと、何を獲得しようと、、全く関係なく、、これがイメージであることを見抜けない限り迷い人です。。。このイメージに中には自分が居ないという気づきが起きるまでは完全な迷い人です。。。〇〇太郎という名前がついた個人がイメージであり、、そのイメージの中に実在の自我など存在しません、、自我はイメージです。。。そのイメージが何かを獲得して幸福になるなどあり得ないのです。
なぜこの人生ゲームの中では目標を達成した瞬間しか、、幸福になれないかと言えば、、実在しないからです。。この私というイメージがありそのイメージが何かを獲得しました、、何かしらのイメージを。その瞬間、、思考が抜け落ち思考が消え失せることで、、一瞬苦しみがなくなります、、それだけです。。本当に個人という存在が居るならば、、幸福が生涯続いてもおかしくない、、、、実在しないからみんながみんな一瞬しか幸福が続かないのです。
本質はしっかりと分かっています、ストーリーはイメージで幻想、、本質はストーリーではないことを、、ですから本質に触れる時間が長くなっていきますとドラマ、映画、などなどストーリーに関心が無くなっていきます、なぜならば本質はストーリーではないから、、、ストーリーとは本質の中で作り出された想像物に過ぎません。本質は今この瞬間のみです。
ストーリーの中で主人公が喜怒哀楽を経験していく、、ですがこれはイメージの世界、、本質ではない、、本質に触れることが多くなりますと、、ストーリー内の喜怒哀楽に共感できなくなります。なぜならばそこに価値を見出せないから。。そしてストーリー内の喜怒哀楽は大勘違いが巻き起こしていますから、、ただの勘違いに見えてしまう、、、本当は全く深刻に考える必要がないのに、、と冷めてしまうのです。
本当はストーリー内では絶対に幸福になれないことを知ってしまったらもう本気になって映画が観れません、、最初はこのストーリー内で幸福になれるのでは??と思い映画がそのまま学びになっていました、ですが今はそれがないことを知っています、、ハッピーエンドは全部嘘です、、、このストーリーがイメージに過ぎず、、このイメージの中に居る限り苦しみが続くことを今は分かっています。そうなりますと、、、ストーリーを本気で追いかけるなど無理です。
このような思いを持つ方は多いでしょう、、エックハルトの本をもっと早く読んでいれば、、プンジャジに早く気づいていれば、、、、残念、、、イメージとしてのあなたの行動を決めるのは全部真我、、真我の化学反応によってそれが勝手に巻き起こるだけです、、、ですから悟りへの最短距離などは全くなく、、それを歩める個人も全く居ません、、、個人はあくまでイメージの産物であり、、これがイメージであるという気づきが悟りです。
「さ・と・る」この音の組み合わせを覚えた方はそれぞれ独自の悟りのイメージを所有します、、、このイメージが実態とはまるで違うことから、、、悟りを難しい場所に追いやります、悟りを遠ざけるのです、、ですから悟りという言葉は、、本当の意味でのそれとは全く関係がない、、という気づきが必要になります、、とはいえ、、この二元の世界では言葉でこれを伝えるしかなく、、、便宜上、この言葉が使われますが、、ただこれは言葉という宿命を背負っていますから、、必ずイメージ化されます、、
言葉こそがこの世界をイメージ化させた張本人です、、この言葉を使って今度は悟りを開こうとするのですからこれは矛盾をはらんでいます。悟りとは何だ???これを言葉で聞けば聞くほどに、、悟りがイメージ化されていく、、その悪循環に入り込み、多くの方は断念します。。。。ですがこの矛盾をはらんだ悟りに、、それでも気づく真我の存在があった時にそれは起きます。。。言葉で悟りを理解するという矛盾をも乗り越えた時に、、悟りは起きます。
このイメージの世界に閉じ込められますと苦しい、、どこに苦しみを解消してくれる何かが全くわからない、、そこで衝動が生まれます、、衝動が起きることで今のこの苦しみを隠す、、衝動に意識が向くことで今ここにある苦しみから逃げることができます、、、この衝動とは食欲、性欲、金銭欲、名誉欲、安全欲、、独占欲かもしれません、、これらの衝動は実はこの苦しみを隠すために生まれます、、この衝動を叶えようという動きが今ある苦しみを一瞬忘れさせてくれるのです。
苦しみの根本原因に気づきますと、、、衝動を満たすことに興味が無くなっていきます、、なぜならばこんな対処療法を一生続けたくはないから、、、だったらさっさと根本に切り込んでいきたいと、、こうなるのです、、、今までの私の衝動は苦しみを隠すために生まれていたんだなーという気づきは大きなベクトル変換になります。。もうこの衝動に付き合わなくていい、、、
衝動を否定して我慢すればいいのではありません、、衝動を衝動として受け止めながら、、これは根本解決にならないことを分かって満たせばいいのです、、、すると徐々に徐々にこの衝動は消えていきます、、そしてこの衝動に対し関心が薄くなっていくのです。。。根本解決への関心が高まっていきます、、根本解決のメッセージに触れていくようになります、、そしてそこを目指すだけでも安心感が湧いてきます、、この場所が私が追い求めていた場所だったという究極の安心感です。それがまた衝動を弱めます。
向こうはこうやって思ってるのでは、、本当はこれを伝えた方が良いかなー、、、でもそれを言ってしまったらこう誤解されるのでは、、、、自我はこうやって常に状況の中で最善の結果を出すかを探し出します、、、そこには次のアクションが成否を決めるのではという期待と不安が隠れています。。。これは苦しみのラットレースに中にいます、、、次の行動を決めるのは真我です、、自我ではありません、、、そしてこのえ私が居るというイメージの中にいるから苦しいのです、、この苦しみを少しでも解消したくて今状況に悩んでいるのです。
何故おの状況で最善を尽くそうとするのか???それは今が苦しいからです、、ここをバッサリ切らないと意味がない、、全ての自我の行動、イメージの世界での改善は全く報われないのは、、、これがイメージの世界であるという気づきがないからです。。みんな真剣にこの世界をリアルだと信じ込んでいます。。。リアルの上に独立分離したイメージ「私」「私以外」を作り上げ、、、その中で私の幸福を追い求めています。この初期設定こそが苦しみを作り出すのです。。イメージの世界を作り出し、、その中で幸福を追い求めている、、、しかしイメージの世界に居ることこそが苦しみを作り出している、、という絶対的理解抜きにこれを解決する方法はありません。
言葉を暗記することで、、その言葉をイメージすることができ、、このイメージが、、この現象界に、、分離した風のモノを生み出します。言葉を覚えれば覚えるほどに、、、覚えた分だけのモノが溢れてきます、、視界を見渡せば、、、知っているモノばかりになっていきます、、、このモノはイメージが最初にありますからこれに対するイメージがどんなものかによってこの世界は全く意味を持ち始めるのです。。これが我々が全く異なる世界に居ると言われる所以です。
どんな世界に生きていようと、、あくまでそれはイメージですから、、、そこを見抜きます、、、、高級時計は、、多くの方が価値があるというイメージから生み出された商品です。。。あくまでイメージなのです、、エルメスのバッグが何百万という価値がつくのは価値があるというイメージを多く方が共有したからです。あくまでこれはイメージですから、、、イメージを購入しているのです、、、この私というイメージは、、高級時計をはめるにふさわしいと、、、ここを見抜きます。。。周囲はみんなイメージの世界に閉じ込められ、、見かけ上の私もかつてはイメージの世界に振り回されていたと。。
本当は私もイメージ、全部イメージです、、、そんなイメージの中で幸福を追い求めても無駄、、これを手に入れたら、、あれを手に入れたら、、全部イメージです、、幸福になるわけがない、、その理由は全部イメージだからです。そして周囲からリア充な「私」とイメージを持ってもらってもそのイメージが幸福を作るわけがないのです。イメージの世界に居るのが苦しいのですか。