「在る」という感覚はどこから湧くのか?

空、絶対から

この世界で確実に存在する「在る」という絶対感覚、、この感覚は何をしていても存在します、、この現象の回の全ての動きに気づく存在「在る」という感覚です、、ではこの感覚はどこから生まれたのでしょうか。。この感覚こそが、、空、絶対という場所から生まれました、、「在る」という感覚を生み出す存在がある、、このことでしか空、絶対を感じることはできません。この空、絶対を感じることこそが究極の感覚、色即是空を感じることになります。

「在る」を生み出す存在としての自覚

空という絶対の場所、全てはここからスタートします、、ビッグバンを生み出した根源、この根源に我々の滑っては在ります、、、この場所に感覚を覚えることは最終段階、究極です。。空即是色を感じれる段階です。色即是空は、、この在るという存在を自覚することから気づきが起きます、在るが全部を起こし、それに気づいている、、、、その「在る」を生み出す存在、、「空」「絶対」という場所、、

これが分かったから何なんだ??

この質問が出ている時点で分かっていないんです、、ここに気づくのは絶対幸福、至福、静寂に気づくということ、、もう何も求めないということ、、、我々が現実の世界で探し求めていたのは全部これらの代替品であったという気づきが起きます。万物を生み出す存在が本当の私ならば、、この物理世界であらゆる種類の幸福を探すのは当たり前。この気づきが起きます、、、

探求が真我を隠す

探究とは???

探求とはこの個人が真実、悟りを発見するというイメージの世界での活動です、、、ですからこの探求活動はイメージの中で行われていきます、、、それゆえ、、、このイメージの中ではこれは成し遂げることができません。むしろ活動こそが真我を隠す結果にさえあります。では探求しないでいかにして悟りにたどり着くかという話です。

探求ではなく、真実をただ理解する

矛盾するようですが、、この探求という活動が、、いかに真我、真実を隠すかを理解してしまうしかありません、気づきと言ったほうが良いでしょう、、、探していたはずの個人が実がイメージの中の存在だった、、そのイメージが強化されることで、、この苦しみが始まったのだという絶対的理解です。個人という存在がいかにこの世界に苦しみを生み出すかという絶対的理解、、これだけが救いです、、この救いはイメージである個人を救うのではなく、、イメージの世界からの解放です。

探求活動すらも

探求活動、、この活動は真我が作り出したイメージ上での活動です、、、この活動が悪いということは全くないのですが、、この活動が、、苦しみという感情を自動発行します、、この活動の中が苦しいということで、、、さらにこの活動を活発にすれば益々苦しくなる、、、、だからもうこの事実にどこかで気づくしかありません。個人という人間活動が悪いのではなく、、ここは苦しみを作り出す場所なのです。。。この活動を作り出した真我、、そしてこの活動に気づき続けるのも真我、、二つは一つで、、、それが本当の私です。

悟りとは投げやりとは全く違う

投げやりは、、そこに価値を見いだしていない

悟りとは究極の諦め、、ですがこれは投げやりな生活とは全く違います、、、究極の諦めとは全部が全部自動反応であり、全部が全部神からの起こりであり、、全部が全部神が気づいていたという事実に気づくことです。この見かけ上の私は何一つ関わっていなかったという気づきです。。。その気づきが起きたときに、、、全現象、全感情、全思考、全行動が同価値になります。同価値ということは投げやりとは全く違います。

全てが神の表現、、

見かけ上のこの体も、、私というアイデアも、、、全部が全部神の表現すから、、、全ては神です、神そのものです、、、これでどうして投げやりな感情が生まれるのか???全てに神を感じます、全ての行動に神を感じます、、、これは投げやりとは真逆な感覚です。。。。損得にこだわるということは、、全部が全部神の表現であるという感覚を忘れています、、、この状態で、、得を極限まで追っかけても虚しいだけです。

これは情報ではない

情報の前の世界

景色が入れ替わった瞬間、、我々は一瞬ワンネスを見ています、、、何かを食べた瞬間、、我々はワンネスを感じています、、、見る、感じるも、、これも二元の世界でのことであり、、、視界そのもの、味そのものになっているのです、、その次の瞬間には、、、あらゆる物が溢れ出し、誰が何を経験した、、というドラマが湧き出します、、、非二元のメッセージは、、その何もない瞬間、ワンネスそのものの瞬間に誘うメッセージです。

情報は新しいレイアーになる

知識を覚えるその知識がその人の中の新しいレイアーになります、、、全く何もない世界に新しい現象を生み出すレイアーになります、、、悟りとは、、、これが全部レイアーであるという気づきです、、、新しいレイアーを構築することではありません。ですが多くの場合、、悟りのメッセージはその人に新しいレイアーを作ってしまいます。

レイアーをレイアーと見抜く

悟りとは、、、全ての情報がどうやってこのレイアーになりうるかに気づくことです。。。名前を覚えるとそれがこの現象界に出現する、、、この仕組みを理解しますと、、、、もう今までのように目の前の出現に緊張しなくなります。。。だってただの現象に対してイメージを重ねているだけですから。。。この人は有名人なんです!!!と紹介を受けても、、、というイメージがついた人というイメージだという気づきがあります。。これで終わりです。イメージを本質と勘違いし、、そのイメージの中で本質(絶対幸福)を見つけようとする試みが苦しみを生み出します。

TVとは別の思考へのフォーカス

TV中毒

TVを見るのがストレス発散になるのは、、、自分という存在を忘れることができるからです、、、この自分ストーリーから一瞬外れることができます、、、、映画もこれと同じ、、、見ている期間は、、、見かけ上の私ではなく、、映画の主人公になりきり、、そのイメージに同化できます、、、だから多くの人は一日中TVを見たりするのです、、、ですがこれが苦しみを根本から解決できないのは、、、私の人生というイメージへのフォーカスから他人の人生へのフォーカスに一時的に移り変わっただけだからです。。夢の世界に居るという意味では何も変わっていないのです。

映画の世界に逃げる

映画に夢中でいれるのは、、、見ている間、、、この私の人生という映画から目を逸らすことができるからです。映画が終わればまた私の人生がリスタートします。。。そしてそのことを知っているからずっと映画を観続けようが、、、起こるのです。。ですがこれはどこまで行っても、、、イメージの世界です。。このイメージの世界には絶対幸福は存在しません。

映画の主人公がピンチに

映画の主人公が絶対的ピンチに、、、でも楽しい、、、これが映画の良いところです。。これが映画であって幻想であってイメージであることに気づいています。。。。これが答えです。。。この世界、現実の世界も言葉というラベルを貼ったイメージの世界です、、つまりこの見かけ上の私もイメージなのです。。これが分かるともう焦りがなくなる、、怖さがなくなる、、どうでもいい、、、だってイメージですから。。。イメージ上のキャラとしてのこの私は、、、このストーリーの中では絶対に幸福になれない、、、という気づきが起きます。

自分の辞書に敗北はない

あの人の辞書には敗北という言葉はないのでは???

この言葉は非常に意味深いです、、、あるサッカー名将監督を評して、、、あの人の辞書には敗北はないのかもしれない、、、と表現します。。。その通り、、、その人の辞書に収まっている現象以外がこの世界には登場できないのです。。言葉を覚えそのイメージを形成しなければ、、例えその現象が目の前で起こっても気づかない、、つまり存在しないことと一緒。キムタクという言葉を知り、キムタクをイメージできていない人はキムタクが目の前で飲んでいても全く気づかない。。。つまりその人の世界にはキムタクは全く存在していない、、これがこの現実のカラクリです。これがこの世界が夢だと言われる理由です。

多くの感情はこのラベル張りで起きている

キムタクを知りイメージができる人は東京でキムタクに気づいたら感動するでしょう、、、自然発生的に感動が起きます、、、ですがキムタクの名前すら知らない人は、、目の前にいても何も感じない。。。これがこの夢の特徴です、、言葉を知り、イメージ化ができ、、感情が生まれる、、、人間に喜怒哀楽はこのように形成されます、、とするならば、、、この仕組みを理解すれば、、、もう悲しむなど感じなくていい。。。

親友が死んだ

全部はイメージ、、、親友の存在もイメージ、、、そのイメージが死んだ、、、すると、、悲しむという感情の湧き方が変わる、、、親友という存在を出現させていた真我は一滴も何も失っておらず、、、これは移りゆく現象に過ぎない、、、この絶対的理解が、、、感情を変えるのです、、、、友人からの裏切り、、これも友人というイメージに、、、それが起きた、、、どうしても憎めない、、、、となります。夢の世界への没入が薄れていきます。

イメージと見抜く

言葉はイメージ製造機

言葉はプログラミング言語です、、、このプログラミング言語を覚えると、、そのイメージが形成され、、、、そのイメージが実際の現象界で、、、合致した場合にそのイメージがこの世界に出現します。。。東京に長年住んでおる人が見る銀座と、、地方から初めて出てきた人が見る銀座は全く違います。先ずブランドの名前を知らない場合、、、そのお店があることに気づかない、、、そのお店がその人の前にあっても全く視界に入りません、視界が気づきません。。。。それはその人の中にそのブランドが存在しないからです。

エルメスを知っている人

エルメスという名前を知ってる人は、、、エルメスビルの存在に気づきます。。。エルメスというイメージが既にその人の中に存在するからです、、、そのイメージがエルメスビルを発見します。。。だからそのビルを見て感動が生まれたりします。エルメスという名前を知らない人はエルメスのイメージがない、、だからビルが目の前にあっても気づかないのです。

名前を覚えることで

名前を覚えることでそのイメージがその人の中に生まれ、、そのイメージがそれをこの現象界の中で生み出します。。。探し出すと言ったほうがいいのかもしれません。これがこの現実が夢だと言われる所以です、、、名前を覚えなければ、、、それがこの世界に登場しない、、、名前を覚えて初めてそれがこの世界に独立分離した実態として登場します。。。この仕組みを理解し全ては脳が作り出したイメージであることに気づくと、、、、世界が軽くなります、、、どうせイメージの世界で、、、、が分かります。

ラベルの世界からの脱出

人間たるものこうこう常識を重視して、、、

人間たるもの、、こういうことはやらない方が良い、、これは従おう、、常識を少しづつ覚えて、、、とまあこのイメージの世界では、、社会人としての嗜みが求められます、、、ですが何であろうと、、この私も、、相手も、、全部が全部言葉で支配された世界の住人ですから、、イメージでしかありません。。言葉で決められた物が全部が全部イメージです、、、このイメージの世界で、、この私というイメージを向上させようとい試みは、、イメージの社会で多少は役に立っても、、、至福とは全く関係がありません。。至福とはこれがイメージあるという気づきが起きる以外にないのです。

イメージ同士の強化

他人と一緒に居るのがなぜ苦しいかといえば、、、その他人がイメージする役柄を演じ続けなくてはならないからです。相手も見かけ上の私がイメージする役柄を演じ続ける、、、これが辛いのです。。。本当はこの私も相手もイメージでしかないのです、、、、イメージという創造行為をエンドレスに続けていくのは苦しいのです、、本質ではないから。本質は本質の時に至福になります。本質はイメージになり切る時に同時に分離感が生まれます。

木を見ても木とは思わない、、不可能

我々は、、、木を見ればもう自動的に、、木というイメージが湧くように設定されてしまっています。コップを見ればコップというイメージが即座に湧く、、ですからこれを止めるのは不可能です、、、ですがこの仕組みを理解することはできる、、、、今見かけ上の私は、、、木という生命現象を見て、、木というイメージをそこに重ねた、、、だから木という独立分離した(見かけ上)存在に気づいた、、、となります。。全部はイメージ、、イメージのというレイヤーを現象に重ねただけ。。。。だからこの世には何の意味もないですよ、、と覚者は言います。。。たった一つのエネルギーにラベルを貼り付けまくり、、イメージを創造し続け、、、この私というイメージが、、この独立分離した世界を旅するというイメージを作りあげます。そこに意味はないです、、意味とはまさにこの言葉の世界が作り出したファンタジーです。

悟りのメッセージも言葉

言葉は全部イメージになる

悟りのメッセージこれは言葉です、、言葉はその人の中で全部イメージ化されます、、あたらしいイメージが出来上がります、、、悟ってことは、、こういうイメージなんだろうな、、です。。ですが悟りとは、、全部がイメージでありそのイメージを作り出す根本に帰りましょうということですから、、これはもう真逆のこと矛盾が発生するのです。

悟りを頭で理解しようとすると

頭で悟りを理解しようとしても、、頭は悟りをイメージ化します、、、この私がいないことをイメージで創造する、、これが夢だということをイメージで創造する、、、、このイメージが全くない世界、、これが悟りです。ですから悟りをイメージで探してはいけない、、、メッセージはあくまでも実践のための、確認するための課題として捉える、、、そのメッセージを五感を通じて再発見する。。

悟りのメッセージを食べる

悟りのメッセージは暗記しても無駄です、、ただ悟りがイメージ化して終わるからです。これまでの人生はイメージの中にありました、、この私もイメージ、この人生もイメージです、、、悟りはイメージではないのです。。。これがイメージであるという気づきです。。。悟りとは暗記ではなく、、気づきです。。。言葉を理解することは重要です、、言葉の理解がなければ確認のしようがない、、ですから悟りのメッセージを学ぶことは良い、、、ですが学ぶの延長線上に悟りがあるのではなく実践による気づきの先に悟りはあります。

自分を許す、、の本当の意味

本当はこうやるべきだけ、、、まいっか、、ではない

自分を許す、、、というのは、、、「本当はこうやるべきで、、、だけどできない自分を許します」というのではありません、、、、この見かけ上の自分には一つたりとも自由意志はなく自由行動もなく、自由責任もないということを認めることが本当の許すです。この究極の許しが起きた時に、、他人を攻撃したいという衝動が完璧に終わります。自分を攻撃しまくっているから他人を攻撃したいのであって、、これが完全に終わります。自分を一切責めれず、、他人を責めれない、、、

今回だけは自分のことを褒めてあげたい

今回はよく頑張った、、今回の自分だけは褒めてあげたいです、、違います、、、全部全自動、、頑張っていない時も頑張っている時も、、、全部全自動なので、、、全部褒めていいのです、、、、朝から晩まで飲み歩いている日々も、、全部全自動です。。。神が行う経験、神が感じる経験に優劣があるならば神は神ではなくなってしまいます。。

全ての行動は神から起きる

見かけ上の私という体を通じて起こる全思考、全感情、全行動は神から直接起こります、、この全言動に対して判断を下せる存在は誰でしょうか???神です、、、神が自分で全言動を作り上げ、、それを自分で判断するとう動きが起きているのです、、、ですがこのメカニズムに気づいてしまったらもう判断は意味がない、、、だって判断したって、、どうしようもない。。判断を下しているつもりのこの私は神が作り出したイメージです。