探求が真我を隠す

探究とは???

探求とはこの個人が真実、悟りを発見するというイメージの世界での活動です、、、ですからこの探求活動はイメージの中で行われていきます、、、それゆえ、、、このイメージの中ではこれは成し遂げることができません。むしろ活動こそが真我を隠す結果にさえあります。では探求しないでいかにして悟りにたどり着くかという話です。

探求ではなく、真実をただ理解する

矛盾するようですが、、この探求という活動が、、いかに真我、真実を隠すかを理解してしまうしかありません、気づきと言ったほうが良いでしょう、、、探していたはずの個人が実がイメージの中の存在だった、、そのイメージが強化されることで、、この苦しみが始まったのだという絶対的理解です。個人という存在がいかにこの世界に苦しみを生み出すかという絶対的理解、、これだけが救いです、、この救いはイメージである個人を救うのではなく、、イメージの世界からの解放です。

探求活動すらも

探求活動、、この活動は真我が作り出したイメージ上での活動です、、、この活動が悪いということは全くないのですが、、この活動が、、苦しみという感情を自動発行します、、この活動の中が苦しいということで、、、さらにこの活動を活発にすれば益々苦しくなる、、、、だからもうこの事実にどこかで気づくしかありません。個人という人間活動が悪いのではなく、、ここは苦しみを作り出す場所なのです。。。この活動を作り出した真我、、そしてこの活動に気づき続けるのも真我、、二つは一つで、、、それが本当の私です。

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