もっとこうすればいいのに、、、

それは100%ない

もっとこうすればいいのに、、、もっとああすればいいのに、、、個人は人の行動をああだこうだと判断しますが、、、、残念ながら、、、、その判断は完全なる大誤解、無意味、無理解の象徴です。。。なぜならばこの現象界で起きる全ては真我からただ起こっているからです、、、そこに関われる個人は居ないのです、、、そうすると個人はただの操り人形、、、、そんなもんです。。。

つまりこの現実の全ては、、、

つまりこの現実の全ては神のアート、真我の表現です、、、この表現に意見を言える個人は存在しません、、、もしも意見が出たとしても、、その意見も真我から見かけ上の個人を通じて起きています、、真我が意図的にそれを表現しているわけでもない、、、真我から勝手にそれが起こっているのです。。それを判断するのは全くの無意味です。

ただし被害者になる必要もない

全ては真我の表現、、だとしても、、、それに反応をしないわけではありません、、、隣人の猫が勝手に家に侵入してきた、、、だがこれも真我の表現ならば黙って受け入れよう、、違います、、、ただ淡々と、、隣人にそれを伝えればいい、、、ここに感情は一切入らない、、真我の表現だから、、、だけです。感情がいらないのです、、、ですが嫌なことは嫌とはっきりと言いましょう。。

自由意志がないことに気づくと

道ゆく人々への気持ちが変わる

この人はなぜこんなに疲れているのか??この人はなぜこんな格好をしているのか???この人はなぜこんなに急いでいるのか???これらの疑問が完全に無くなります、、なぜならば一人として自由意志がないから。。自由意志がないならばこればこれは真我からただ起こっただけ、、そこに意味は完全にない。。となるのです。。。意味を考えるのは無駄です、なぜならばそれは真我の現れ以上でもなく以下でもない、、

関わる人間関係

なぜこの人はこうしないのか??なぜこの人は働かないのか??なぜこの人はいつも怒っているのか???これらの疑問が完全に断たれます、、、なぜならば、、、、その全ては真我からの現れだからです。。個人は何も関わっていない、、以上、、、になります。なぜこの仕事を始めたのですか????その人に聞いても実は意味がない、、その動きが真我から起こっただけです。。。

これは究極の手放し

見かけ上の私の言動の全ても、、、見かけ上の他人の言動の全ても、、真我からの起こりです、、ここに自分も他人も何も関与できない、、すると、、、この世界の今の状況は完璧な真我のアート、大いなる一つのアートです、、、何を個人が判断することがあるのか???という話です、、、その個人の行動の全てが真我に依存しているというのに。

責めるべき相手は居ない

全部が全部真我から起こっている

この世界の現象ではどのようなラベルが貼り付けられた人であっても、、、全部の言動は勝手に起きます、、例えば総理大臣というラベルが貼られた人でも、、、関係なく、、犯罪を起こすという現象が起きる可能性があります、、つまりこれはもぐら叩きと同じで、、どの穴から何が起きるか全くわからないのです、。どのラベルにもそれをコントロールできる力がないのです。

聖人君子

成人君子と呼ばれるようなラベルが貼られた人でも、、、、悪行が突然その人を通じて起きる可能性がある、、、ここは全くもって誰にもコントロールができない、、、成人君子にはそこをコントロールする力がないのです、、、ですから彼を叩くのも筋違い、、、になります。この世界においてこの体から起こる言動をコントロールできる人はいないのです。。

究極の脱力

この感覚を一生追い求めていました、、、自分に全責任がない、、自分には自由意志もない、、そして自分すらラベルに過ぎない、、、この脱力感、無責任感、、、、これを最初から求めていたのです、、、全部が全部大人であるあなたに責任がある、、、これを学習し、、重く重く考えてきた、、、だから失敗したくない、失敗できない、、が湧き続ける、、、、ここからの解放、、、無責任感

私という概念が完全矛盾

私という言葉の意味

私という言葉の意味は、、、「この世界から独立分離したこの存在」という意味です、、ですがこの意味は完全に真実と矛盾しています、、、私の体という時、、、この世界から独立分離した存在の体という意味になります。。この「私」に含まれる意味、「自分」という言葉に含まれる意味が真実とかけ離れている、、ここが苦しみを生み出す原点です。

自分は、、、、

自分という意味、、自ら分かれる、、、世界かわ分かれた存在、、自ら。。。この言葉は真実はかけ離れています、、自分はこの現象界には絶対に存在しない、、、なぜならばこの世界はたっは一つのエネルギーの移り変わりしかないからです。たった一つのエネルギーの移り変わりの中に、、なぜ「自分」という意味の存在が存在しえるのか???存在できない、、、つまり自分、私は、、、、このたった一つのエネルギー上に現れたアイデアです。

「私は〇〇です」、、苦しみが湧く

私は〇〇○男です、、、この意味はこの世界の中で独立した存在である私は〇〇○男です、、、という意味になります、、、これが真実とかけ離れているので、、、苦しい、、、そうではなく見かけ上独立分離しているように見える存在、私は〇〇○男、、、が真実です。全ては全て独立分離した存在を見かけ上、、、であるいう深い気づきが苦しみを解消します。。。

努力には何の意味もないという気づき

努力は報われる

努力は報われる、、この言葉の意味は、、、努力の結果として、、成果を期待する、、、ということになります。。これは決して間違いではありません、、種を撒くから、植物が育つ、、、疑いようがない事実です。。ですが人間がこの言葉を使う時には、、、私が幸せになるために「努力してこういう結果を出そう」という意味が含まれます。。人間とは幸福を追い求める生き物だからです。。ですがこの最終目標幸福という観点からすれば努力は一切関係ない、、ということです。。。なぜならばこの体の中の「私」はこの世界では本当の幸福には至れないからです。

条件付き幸福

この「私」が得ることができる幸福は、、、条件付き幸福のみです、、、良い家、良い奥さん、良き子供、良き会社、、、全部は対象があっての幸福です、、これらは、、対象ゆえに得れる時もあれば離れてしまうこともある、、常に不安定な幸福なのです、、、それゆえ常に「私」は頑張らなくてはならない、、条件を揃え続けるために、、、これが苦しいのです。

条件付き幸福ではない

本当に欲しいのは条件付き幸福ではないはずです、、何もしなくても幸福、、これが欲しいに決まっています、、ではどうしたらこの幸福を手に入れることができるのか???簡単です「私」がイメージ、概念、幻想であることを見抜くことです。。。私などそもそも実態はなく、、生命現象の一部、、、この思考も行動も情も全部が全部生命現象の一部だったということを思い出すのです。。。主語が私から大我、真我に変わり、、、今までの私は言葉で作ったイメージであったことを思い出すのです。

それでも「私」の生活は続くが

それでも見かけ上の「私」の生活は続きます、、、ですがこれが見かけ上であることに気づく、、見かけ上「私」はやっていきますが、、全部が全部真我からの起こり、言動は全部真我からの起こりです。これが見かけ上の「私」にただ起こっているだけ、、、すると私の人生の不安、後悔は吹き飛びます。。この見かけ上の私の人生の不安、後悔が吹き飛んだ時に、、無我、真我としての自分が頻繁に現れ本当の至福を感じます。

絶対失敗したくない

最初はここから始まる

自我が形成されれますと、、、一回の人生絶対に私は失敗だけはしたくない、、このように思うようになります、この見かけ上の私は、、、ですが、、輪廻転生の話を聞き、、そうか人生は何度でもあるんだ、、となると途端に今世は失敗してもしょうがない、、こうなります、、、、その次に実は自分なんてイメージ、概念、幻想で、、本当は存在すらしてない、、と気づきますと、、、絶対幸福になります、、今生きてこの場に居るだけで嬉しい、、です。

そういう意味では輪廻転生は価値がある

輪廻転生という発想、思想、概念は、、自我が存在するというイメージを強く持つ場合大変有効です、、自我はむしろ死んだ後もこの自我が続くのか、、と安心します、、、ですからそういう意味では非常に良いアイデアです。。ですがあくまでこれはアイデア、、私もアイデア、輪廻転生もアイデアです、、、このアイデアの世界を継続させることが一番辛いのです。

失敗も何も失敗する自分がアイデアに過ぎない

私は絶対今世失敗したくないんです、、失敗するのは誰ですか???私です、、でも私って、、言葉が作ったアイデアですよ、、実在はありません、、この体(イメージ)を所有しているいうことにしたアイデアです、、アイデアがどうしたら失敗し不幸になることが出来るのでしょうか???勿論見かけ上、この体は多くの失敗をするかもしれません、、ですが、、その失敗をした「私」はアイデアです。そもそも私という存在が居たのではなくこの体に私というラベルを貼っただけです。その証拠に無人島で生き延びた人には「私」は居ないんです。つまり私の失敗も私の人生も存在しないのです。

これは「私」を辞めることではない

とはいえ社会で生活する我々が「私」を辞めることはできません、、便宜上「私」は必要です、、ですがあくまでこれは便宜上のアイデア、概念、幻想です、、、社会生活を便利にするために「私」という言葉が使われ始めただけに過ぎません。そこに気づくと「私」の幸福ではなく、、今この場所が静寂、平和そのものなのが分かってきます。「私」というアイデアから解放され、、本当の静寂を感じます、、感じるのはアイデアとしての「私」ではなく「私」から解放された全体です。

その人の観念がこの世界を作る

見かけ上の私の観念

言葉は対象のイメージを作り上げます、、それぞれの言葉には意味がありイメージがあります。ロレックスという名前には時計としてのデザイン、高級、金属、伝統的、、、なども意味が付加されます。。つまり言葉を覚えそのイメージを作るあげる人間は、、今見ている景色に、、イメージと、意味を持たせ、、現象を見ます。。。その人の価値観、観念がその人の世界を作るというのは本当です。

現象は動く

現象は何の意図もなく動き続けるわけですがその現象を見かけ上の私が見れば、、そこに言葉のイメージ、意味を加えて見ることになります。ロレックスという言葉に大変価値を置いた場合は、、目の前にその時計をつけた男性を見れば、、、羨ましいという感情が自動反応で起こるのです、、、この感情を引き起こしたのは言葉からリンクするイメージです。つまり現象そのものではなく、、どのような言葉を覚えそこに意味づけをしたか、、それがその人の世界を決めるのです。

だったらこの私にとって都合の良い見方をしたい

どんな感情が湧くかは、、どのような価値観を持つかによる、、、だったら最高の価値観を所有して最高の人生を送りたい、、誰しもがそう感じるはずです、、、ですが残念、、その価値観は個人といイメージが引き起こす経験の全てが積み重なり作られる、、、さらに言えばその個人というイメージが引き起こす言動の全てはただ真我から湧き上がるのみ、、個人はイメージで実在はしないからこのイメージが言動を起こすのは不可能なのです、、

つまりどのような価値観、観念でどのような世界を作るかは決めれない

あなたの人生はあなたの価値観に沿って作られている、、、これは事実です、、ですが、、だからあなたが人生の価値観を決めればそういう世界に住めますよ、、これは間違い、、、その見かけ上のあなた(イメージ)にはあなたの言動を決める力が一切ないのです。真我から起こる言動を通じて個人というイメージはあらゆる経験を見かけ上し続け価値観が自動的に形成されていきます。真我から勝手に起こる言動、それによって勝手に起こる経験、その全てが集積して価値観、観念が作られ、、その世界を感じます。

アイドルに夢中になるファン

アイドルというイメージ

アイドル、、これは芸能人、、、人気イメージビジネス、、、ファンがアイドルA君に夢中になるのはなぜか???それはA君というイメージにあらゆるイメージがさらに加わり、、、ドラマの主人公としてのA君、歌が甘いA君、頑張り屋のA君と、、、A君のイメージが十二分に膨らんでいるからです、、A君というイメージにとんでもない意味が加わっているのです、、、そしてなぜそこまでA君にファンが夢中になるかと言えば、、、A君に集中している間は『私」を忘れることができるからです。

「私」を忘れる?

私も言葉ですからイメージです、、このイメージがあらゆる経験を積んだというイメージが重なることで私にとんでもないリアリティーが加わります、、本当はイメージでしかない「私」がリアリティを持つようになるのです、、これが重い、苦しい、孤独、分離感、、、そこで「私」は私を忘れさせてくれる存在「A君」を求めます、、、「A君』を見ている時は「私」を忘れれるから、、、

これは現実逃避

ですがこれは現実逃避です、、、「私」というイメージ逃避といった方が良いかもしれません、、、私にフォーカスが当たるのを逃げる逃避です、、、イメージ上の「私」が大きくなり過ぎてしまい、、フォーカスが当たり過ぎているのです。。。苦しみから逃げたい、、、この衝動を、、、苦しみを断ち切る方向へベクトルを変えます、、、イメージ上の何かを求めるのではなく、、イメージと見抜き、、苦しみを根本から打破します。これが悟りです。

ありのままなど誰も見ていない

作り上げたイメージを見ている

言葉とはイメージです、、言葉を覚えるとはイメージを覚えることです。。 イメージですからそこには意味が加わります。。例えば「ロレックス」という言葉を覚える際には「高級、海外、高く売れる、ゴツい」なども意味を加えます、、、そしてロレックスをつけた男性を見る際に、、、人はこのイメージをそこに見ます。ですから、、、人はありのままでは人を見ていないのです、、、そこにイメージを重ねて見るのです。

この「私」もイメージ

この「私」も言葉だから完璧にイメージです、、、このイメージにあらゆる経験が加えられていきレイヤーが何十層にもなっているのがこの「私」というイメージです。。あらゆる経験を重ねた「私」としてのイメージです、、「私」というイメージにとんでもない意味が加えられれば加えられるほどに苦しみは大きくなっていきます。「私」の肥大化は「苦しみ」の肥大化です。なぜか?「私」と思っている「存在」は本当はこんなに小さくないからです。

「存在」は「存在」で居る時に至福になる

存在とは存在そのものであることが完璧な至福です、、存在が「私」というイメージに焦点を当てると、、苦しくなり、、なぜばらば「私」というイメージではないから。存在が存在そのものである状態を無我と呼びます、、つまり「私」というイメージに焦点が当たっていない状態。「私」というのがイメージ過ぎないことを思い出しますと、、存在は「私」への焦点を緩めます、、、この「私」に焦点を当てると苦しいという気づきが起きますと、、焦点が「私」から外れます、、、これが悟りです。

私が他人と会う時

見かけ上の他人

見かけ上の「私」が見かけ上の「他人」と会う時に何をするか、、、その「相手」をあらゆるイメージを当てはめレイヤーを乗せていきます、、、この人は「性格が悪いタイプ」「相手を見た目で選ぶタイプ」「上昇志向タイプ」「お金に細かいタイプ」。。。私が覚えた言葉(イメージ)のどれがこの人に当てはまるかを確認していきます。。。そして5分も話せば、、その相手はその相手そのものではなく、、私の「イメージ」に変わってしまうのです。。これが人間関係です。

それぞれが「イメージ」を作り上げる

あの人は「男」で「収入が普通」で「性格は怒りっぽく」「幼稚」で、、、と全部が全部イメージとなります、、、そしてその「相手」すらもイメージですから、、イメージが何十層ににもなっただけなのです。。結婚とはこのイメージとの約束です、、、結婚し、、「私」というイメージが考える「相手」のイメージとのズレが生じた時に離婚になります。

イメージとイメージの出会い

本当は存在はイメージではないので、、イメージに焦点を当てて居ると苦しみが湧いてきます、、、つまりイメージとイメージの人間関係は疲れるのです、、、「私」というのもイメージでありこの「私」のコミュニケーションは基本疲れるのです、、、、、ですが「私」は同時に孤独な存在でもあり、、疲れるけども人に会わざるをえない存在でもあります。。。ですからどこまでいっても苦しいのです。「私」というのがイメージであることを見抜き、、苦しみの根本を壊す必要があります。