雨と同価値

何も違いがない

私というのは自然現象の中に出来た「名前」でしかなく、、、それ以上でもそれ以下でもありません、、、雨も自然現象、、木も自然現象、、、そして私も、、、つまり「私」という名前は完全に自然現象の一部、、雨と同価値です、、、その証拠に体は死ねば、、、自然に帰ります、、、何も残さず自然に帰ります、、、、思考、行動、感情も消えます、、、、「個人」が居るという思考も消え失せます。

自然の中に居れば

自然の中で過ごせば、、、個人などいうのがただの名前に過ぎないことは勝手にわかるでしょう、、なぜならば本当にそうだから、、、本当(自然)に囲まれれば勝手にそれに気づくはずです、、、、本当(自然)が嘘を溶かしてくれます。嘘は、、、本当の中で立場が弱いのです。。。都会は嘘の共有の場所、、嘘が真剣にまかり通る場所です。

「私は明日死にます」という相談

死ぬ個人が居ない

例え友人にこのように相談されても、、、死ぬ個人が居ないのです、、、全自動システムでその言葉が起きたのです、、、、便宜上、、勿論必死に止めるでしょう、、、ですが、、、実はその個人は実在していない、、、実在していない個人が死ぬのは不可能です、、、体が朽ち果てても、、、それを所有する個人は実在しません、、、ただその体を通じて起きる全自動システムが終わることになるだけです。

生きる個人も居ない

死ぬ個人が居ないのですか、、生きる個人も当然居ません、、、、ハッピーな個人、憂鬱な個人、ラッキーな個人全部嘘です、、、そのような個人が居るという思考が起きているだけです、、大自然で、、、ですから誰も心配しなくていいのです、、心配すべき個人は存在していませんから、、、大自然にただそれが起きています、、、ですが相手は大自然ですから何も問題がない、、、大自然がそれを許容しているのですからそれは大自然に丸投げでいい。

究極の安らぎ

全部が全部自動反応ならば

残炎ながらこの世界で自分の意思で何かを行える個人は存在しません、、、自分の意思でやっているという思考は起きます、、、ですがそれは事実ではありません、、、実際には誰も何もやっていない、、、ただ自動反応が起き続けているだけです。ここに個人という存在が居ない以上、、、憎むべき相手も、感謝すべき相手も誰も居ない、、、これだけが真実です。これが本能の安らぎ、、、、平和、静寂です。

この世界が大自然になった

鳥も犬も、蝶も、バッタも全自動システムに組み込まれ動きがあります、、、人間も全く同じ、、全自動システム、、そしてそれを見る「私」も全自動システムの中で、、、思考が起き、感情が起き、行動が起きます、、、、何も誰も全く居ない、、、、完全なる大自然、、、分離も全くない、、、大自然が広がります。

救ってあげなくてはならない「人」は居ない

苦しみはいくらでも起こります、悲しいも起きます、、、死にたいも起きるでしょう、、、ですがそれを感じる個人が居ないのです、、、、個人がその感情を感じていないのです、、、大自然の中でただその感情が起きているだけです、、、救ってあげるべき個人が全く存在しません、、、、そして救う「私」も居ない、、ただの全自動システムです、、、

ど根性

これが真実じゃないことは分かってる

覚者の書物を読めば、、、これが真実じゃない事は絶対にわかるのです、、、覚者は、、、皆、、同じような雰囲気のことは言っている、、、だから今目の前に広がる世界は実は違うんだと、、、、ここは分かる、、、、だけど、、、、分からない、、、、真実が見えない!!!!ア・ベ・シ

騙し絵みたいなもの

悟りに能力が関係があるか、、、全くない、、、悟りに人格が関係があるか???全くない、、、悟りに愛嬌が関係あるか、、全くない、、、全く何も関係がありません、、、、、在り得ないほどに何も関係がないのです、、、、根性だけです、、、騙し絵を見抜く、、根性だけ、、、、

偽りの世界に閉じ込められるなんて冗談じゃない、、、、これは私の本音でした、、、なぜ偽りの中で死を迎えなくてはならないのか、、、冗談じゃない、、、、仕事???どうでもいい、、、プライベート???どうでもいい、、、とにかくこの偽りの世界から出してくれ、、、、です。今は分かります、、、完璧なタイミングでその理解が自動的に起きたことを、、、、そして世界は完璧なタイミングしかないことも理解できます。焦って解決する問題など皆無です。

そんなんじゃない

個人の成長、霊格を高める????

全員を救ってあげなくては、、世界中の迷える人々に光を!!!!!!そんなんじゃないんです、、そう思えるはずがないのです、、、真実に気づいてしまうと、、、、そんな情熱が起こるわけがない、、、、誰もいない、、、という気づきが起きた後に、、、、全員を救わなくては!!!!はおかしい、、、完璧な生命現象が完璧な形で起きているのが分かるので、、、、何も問題がないのです。問題が起きようがないのです、、個人が居ないんですから。

個人が居なくてどうやって会話を?????

個人が居ないのにどうやって会話をするんですか?????不可能です、、、個人との会話は不可能です、、、ですが、、会話はできます、、、いとも簡単に、、、簡単すぎるほどに簡単にできます、、、、個人との会話は絶対にできません。会話を楽しむことはできます、、ですが個人と会話を楽しむことはできません。仕事もそうです、、仕事は簡単にできます、、、ですが個人と仕事はできません。。。

講演会は????

1万人を前に講演会をすることはできません、、ですが、、、1万人というイメージの前で講演会をするのは簡単です、、、講演会をする「私」は居ませんが。。。。講演会は簡単にできます。食事をすることは簡単にできます、、ですがもう個人が食事をすることはできません、、、その観念が抜け落ちるからです、、、個人が食事をするというのはイメージです、偽りです、虚像です、、、ですがそのイメージは完璧です、真実ではありませんが。

個人を手放す

手放すというよりも、、、

手放す、サレンダー、解放、、、あらゆる言葉がありますが、、、どうしても悟りの言葉というのは、、個人が何かをすることをイメージさせます、、、個人が強烈に匂います、、、これは至極当然のこと。。。。ですがこの認識のまま悟りを学んでも、、入りにくい。。。どうしても個人の観点から本を読んでしまうからです。どちらかと言えば、、、一回個人という観念を外して完全なるフラットな視点で読めば理解できるかもしれません。

誰目線???

この世界は、、、個人という絶対的存在が間違いなく居るという前提で全てが構築されていますから、、、それがない、、、、なんて言われてしまっても拒絶に次ぐ拒絶です、、それで終わり。個人が居るという観念が、、全思考、全感情、全行動を起こしてこの個人を守っていますから、、、拒絶が半端がないのです。ですがそれは至極当然のこと、、、それも完璧です。

やられた!!!!

最初の気づきはこんな感じです、、、、確かに個人はいない、、、相手もいない、、、誰もいない、、、やられた!!!!!騙されてた、、、、まあしょうがないか、、、ですね。。。こんな流れです、、、気づきとは。。覚醒という大袈裟な言葉に違和感も感じながらもとはいえ、、この気づきは、、、人生の中ではトップクラスの気づきです。それは間違いない。

個人はただのラベル

全ては全自動で起きている

我々はあまりにも長い期間、、個人が「何かをする」「何かを思う」「何かを信じる」という原理で物事が動いていると信じ込んでしまったのでこの観念が崩れません、、、これが現実であると完全に信じています。するとその観念が反映した世界が人がありますから、、益々その観念が映し出す世界が本物だ!!という経験をしていくことになります。。本当はこれは観念で、、真実、現実とは異なりますから、、この観念の中に閉じ込められている限りは苦しみが続きます、、、なぜならばこれは事実ではないからです。

言葉では分かる

言葉では分かるんですが、、、、、そうなんです、言葉では分かっても、、、、あまりにも長い期間、、個人を中心に物事を構築するのに慣れてしまったので、、、観念を書き換えることができません、、というよりも観念を捨てることができない。これは至極当然のことで、、この個人を守るために言動が構築されてきたのですから、、、簡単に理解できてしまったら危ないのです。

信じる者は救われない

個人が居るという観念を信じる者は救われません、、真実の世界の中で嘘の信念で生きていけば苦しいに決まっています。真実の世界の中で偽りの観念に沿った物語を構築しても、、苦しいが湧くだけです。ただこれを終わらせるだけ、、、ただこの間違いに気づくだけ、、、悟りとは非常に簡単なことです、、ですがシンプルだからこそ、、シンプル過ぎるからこそ、、、拒絶も大きいのかもしれません。

無限なる存在(空)の反映(色)

この世界(色)

この世界は無限なる存在(空)の反映の場所です、ゆえに全く実態がなく、、実在しません、、空想、幻想、と呼ばれる所以です、、、ですがここでの経験には実態があるのは、、、その気づきが(空)から起こるからです。。空は空ゆえに絶対、、ここに反映である色が現れれば色に気づきが起きます、、、動く世界(色)に気づくが起きるのです。。。。色は空の反映ですから、、、無限なる存在と無限なる存在の現れ(反映)に気づくが起こることで無限の経験が起こり続けるのです。

無限の経験が起こる場所

この現象界は無限の存在の反映の場所ですから、、、無限の経験が起き続けます、、、全自動であらゆる経験が起き続け、、それがデータに蓄積されます、、この蓄積されたデータに新たな経験がデータとして集積された時、全く新しい経験(化学反応)が生まれるのです。無限の存在(空)とその反映(色)が同時に起こる事で気づきの連鎖が起き続けるのです。

全データ同士が反応を起こし続ける

全ての会話は新しい体験

私という存在を通じた全体験がデータとしてあり、、相手の存在を通じた全体験のデータが存在した場合、、、会話の全てはそれぞれの経験として刻まれ、、経験が蓄積します、、、その経験のデータ全てが会話という経験によって全く新しい化学反応を起こし、、全く新しい経験が生まれ続けるのです。この新しい経験がエンドレスに生まれ続ける世界がこの現象界(色)であり、、その気づきが起こるのは空の存在(無限の存在)があるからです。

この現象界は無限の反映

この現象界(色)は無限の存在(空)の反映、鏡です、、、この現象界で起きる経験は無限にエンドレスに増えていきます、、なぜならば無限の存在の反映の場所だからです。そしてその経験に気づきが起きるのは空という存在があってこそです、、鏡は鏡自体には気づきません、、、鏡に気づくのは空から生まれます。全ての経験が完全に新しいのは、、全データがベースになった化学反応ゆえに全く同じ経験(化学反応)が起きようがないのです、、、これこそがこの現象界での経験が空(無限)の反映である証拠になります。

全自動だからこそ

全自動だからこそ、、、反応が反応を呼び、、、それが全く新しい経験を作り出します、、全経験が記憶されているからこそ、、全く新しい経験が化学反応的に起こっていきます、、化学反応が化学反応を起こし続けることになるのです、、、、これらの動きをコントロールする自我など存在するわけがなく、、自我とは、、名前に過ぎないのです。。。ただし自我があるという前提の化学反応は全くもって新しい経験を生み出しますから、、これも空の反映(色)において起こり、、、この経験が無駄であるなどは全くありません。

誰も居ない世界

この世界には誰も居ない

この世界には実は誰も存在しません、、、実在しているという思考だけが起こり、、それ以外は誰も存在していないのです。全ての言動、思考をコントールをしている自我というのは全くの空想で、、本当は記憶によるただの自動反応です、、、その反応を起こす機能に「私」という名前を付けてただ淡々とコミュニケーションというプレイが起きていたのでした。

誰も実在していないが完璧に事は起きる

誰も実在していないのになぜ事が起こり続けるのか????逆です、、誰も居ないからこの世界は完全なる自動システムで完璧に動いていたのです、、、この完璧な自動システムこそが、、、たった一つのエネルギーの現象化の証明です、、、、たった一つのエネルギー、、空の反映がこの現象界であり、、まさにこの世界はたった一つのエネルギーのアートでしかないことが証明されました。

幸福な誰かも不幸な誰かも誰も居ない

高校時代の友人はみんな幸福にしているかな????幸福になる個人が完全に居ません、、、自動反応です、、、全体の自動反応に「名前」が付けられただけです、、、、pepper君同士が会話を続け、、相互の経験が増えていき、、反応が毎回変わるということをこの人間を通じてやっているだけなのです。pepper君が全会話の内容を記憶し、記憶によって生み出す会話が変わるように、、、この人間社会も全く同じシステムで運行されています。