自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

友人の話

内容は何も変わらないが、、、

友人との会話、、、、普段と何も変わらないやりとり、、、でも何かが完全に違う、、、それはその話が神様の会話に聞こえる、、神が自分というこの見かけ上の「私」に話しかけてくる、、、ただ話をしているだけなのに感動が起きてくる、、、神が私の会話に反応を起こしてくれている、、勿論、、、こちらの反応も勝手に起こる、、、、もう当事者はそこには居ない。。。。でもそれが気持ちが良い。

ただの会話

会話に中身を求める、、、ただの世間話では絶対に嫌、、、とれは当事者意識の強化が生み出している可能性がある。。。完全なる分離意識が、、、何かメリットのある会話をしたくなる、、、得をしたい、、が湧いてくる、、、、ですが真実に触れてしまうと、、、、会話は神のキャッチボール、、得をする神も損をする神も存在するわけがない。

会話が起きているというただそれだけ

会話が起きている、、ただそれだけが気持ちが良い、、、起こる現象に神を感じる、、、静寂(神)から相手の声が起こるのをはっきりと感じる、、、内容ではなく、、その声の起こることが気持ちが良い、、、現象そのものを気づくだけでそれでいい。。。こんな平和な、、日常が実はすぐそこにあった、、、ただこれを隠していただけ、、、完全なる曇りガラスで、、、終わらせていた、、、曇りガラスで覆っていただけの真実が、、白い光のように輝きだす、、、

起きる現象は観念、湧く思考は自動

身も蓋もない話

これはもう本当にジョークです、、完全なジョーク、、、起きる現象はこの私が積んできた経験から生まれた観念が映し出し、、、それに反応する「私」の思考は、、、勝手に湧く、、、、何これ????意味がない、、、全く意味がない、、、、「私」など完全に無力、、、操り人形どころじゃない、、、鳥籠、、しかもその鳥の反応は勝手に起こる、、鳥には自由意志もない、、、鳥籠の様子はガンガン変わっていく、、鳥の観念が変わるたびに、、、まさに無間地獄、、、

見抜く!!!

見かけ上の私には確信がありました、、、この世界は絶対に存在しないと、、だから情報を集めまくった、、、集めていくと観念が変わっていく、、あれやっぱりないかも、、、あれやっぱりないかも、、が経験として起こる、、、なぜならば観念が書き換わっていくから、、、だからよりこの世界は絶対にない、、は確かになっていく、、、このサイクルに入ったら止まらない、、なぜならば毎日その感覚が増していくから、、、この感覚が観念を書き換えていく。

信じれば経験できる

「この世界は絶対に存在しない」この確信を得たら、、、もう何も考える必要はない、、他のことは後回し、、だって絶対にこの世界は存在しないのですから、、、あとは情報集め、、、その裏付け情報、、、覚者の言葉の数々、、、すると体験が起きる、、、分かってくる、、、あれ???本当かも、、、が起きる、、起き続ける、、、そのプロセスは完全に無限、、、無限こそがこの世界、、、そしてどこかで全部が繋がる、、、全部の整合性が取れる、、、、なるほど!!!の連発、、、

天使も悪魔も

本当に居ると思えば

天使も悪魔も妖怪も、、、本当に居ると確信すれば、、観念のレベルまでもっていけば、、、それが見えます、、この現象界でそれが姿を現します、、、、見えるということはそれが観念化したということです。見えないということはそういう観念ではないということです。この現象界は「無限」の鏡の世界です、、観念化すればそれが現れます。

だからもう追いかけなくていい

天使が現れ、悪魔は現れ、妖怪が現れ、河童が現れ、、、信じれば出現する世界、、これが現象界です。。。重要なことはこれは観念を映し出す鏡の世界だということです、、、これは「無限」の姿見の世界です。。この観念の世界を観念と見破らない限り、、、終わりがない、、、無限です、、、いつこの無限を終わらせるのか???いつこの無限の世界の表現(私物語)を終わらせるか????今です。

空想を出る

「天使をはっきりと見たんです」、、、事実でしょう、、、ですが天使を見るには「天使」という言葉を絶対に知っている必要がある、、、先ず「天使」とそのイメージを持っている必要がある、、、この大前提が無ければ、、、天使は絶対に現れない、、、、、なぜならばこれは観念が映し出す世界だからです。ここを完全に見抜くことが悟りです。

仏の中で遊ぶ

仏像を拝む

仏像とは、、拝むものではありません、、、実は仏像は、、我々の本質の象徴です、、、我々が仏像という無限の存在であるという気づきを得るものです。。。仏像という無限の存在の中で今はこの体を遊ぶという行為をしているという体感を得る場所です。仏とは対象ではなく、、、まさに自身が完全な仏であり、、これは仏の鏡の姿であり、仏の鏡の姿の中で、、体験だけが存在しています。

無限の体験をできる

一人の人物を大勢で写真を撮ります、、、、一人100枚の写真を撮る、、、、100枚が完璧に違った写真になる、、、たった一人の人物が全く違った絵になる、、、、これがこの世界が無限である証拠です、、、この世界が無限の鏡、仏の鏡の世界である証拠です。鏡の世界の中でなぜ経験が積めるのか????おかしいではないか???感じているのは無限そのもの、仏です。。。無限の経験が起きることで、、無限は自身が無限であることに気づくのです。

本当の神は???

本当の神は???キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、、、、無限です、、、神の本質は無限ですから神は無限の表現をできます、、、、八百万の神、、、無限という意味です。。。どっちが本物か論争は無駄です、、無限の神の表現ができる世界がここだからです。

無限の鏡

この世界には無限しか存在しない

この世界は無限の鏡です、、無限の等身大の姿、、、これが色、現象界です、、、ということはこの世界には全てのジャンルで無限の成功法則が存在します、、無限のジャンルが存在し無限の成功法則、失敗法則が存在します、、それを行う行為者も無限に存在し無限の経験を得るのです。なぜならばこの鏡は無限を映し出す鏡だからです。

悟り方も無限にある

悟る、真実に気づく、、、この方法も無限に存在します、、、なぜならばこの世界は無限が映し出す鏡の映像だからです。この無限の映像の世界では無限の体験ができる、無限の悟り方がある、、、となります。ですからやり方に固執する必要は全くありません。

感じ方は無限

悟りを得る感覚、目覚める感覚は無限大にあります、、これが悟りという感覚は実在しないのです、、、これだ!!が決まっていれば、、、もうここは無限ではない、、無限の遊び場ではなくなってしまいます。ただし真実は一つです、、それはここが無限という存在の鏡だということ、、無限が無限であることを知る場所です。無限が鏡を見て「無限だ!!」と感じる場所です。

イメージを着る

ブランド品の数々

ブランド品とはイメージです、、、エルメス、グッチ、ディオール、、これらはイメージの世界です、、、エルメスには歴史があり、、その歴史の全てがイメージを支えます、、、ブランドにはゆえに時間が必要なのです、、時間という絶対的な概念がブランドを支えます、、、時間がなければブランドは存在できません。ブランド=時間です。

ブランドには意志はない

エルメスというブランド名には意志は存在しません、、、ですが意志があるかのような物づくりをします、、エルメスならではの作品を作ります、、、エルメスらしくないことはしません、、、ですが実際にはエルメスというのは名前であって実在ではない、、意志は全くないのです、、、、ですがまるで意志があるかのうようなブランド展開に成功することがこの幻想の世界での一つの在り方です。

人間の自我も全く同じ

人間には「名前」というブランドが付いています、、、これはただの名前です、、、ですがこの名前を持つ自我という存在が確実に居るという大前提で人は動きます、、エルメスと全く同じです、、、私にふさわしい行動をとります、、私にふさわしいパートナー、私にふさわしい会社、、私にふさわしい友人、、私にふさわしいマンション、私にふさわしい子供、、、です。。。。ブランドが大きくなればなるほどに苦しくなっていく、、、ブランドに耐えきれなくなっていく。

本当は居ないに気づく

自我など本当は100パーセント実在しません、、ブランド同様、、、周囲の反応がまるで居るかのような反応をするから勘違いが起きたのです、、、自我など100パーセント居ない、エルメスという実在、自由意志がある実在は100パーセント存在しません、、、この現象界は、、たった一つの実在、、、空、神、絶対の鏡の世界です。

自我は選ばれたい

存在しないからこそ

自我は選ばれたいのです、、MVP、最優秀賞、チャンピョン、ナンバーワン売り上げ、、、とにかく選ばれたいのです、、、なぜか????存在しないからです、、存在しないから選ばれることで、、存在しているという夢を見たいのです、、、ホッとするのです、、、私は実在していると、、、、ですが存在しないのですからまた次の日から、、、また選ばれることを望むのです。

選ばれても、、、

MVPにはなった、、、ですが全く満足できない、、、全く嬉しさが続かない、、、となり、、、次はまた何かに選ばれなくては、、、になります、、、、、実在しないのですから当然です、、、、これだけの人に選んでもらえたのだから私は実在している、、、、、と喜べない、、、、また虚しさが襲う、、、おかしい、、、つまりは我々はラットレースを延々と走るようになっています。

本当は居ないのでは???

本当は居ないのでは???この発想がある日突然湧いてきます、、、居ないかもしれない、、、、自我の解放、自我の終焉、、、、色々なメッセージが頭をよぎります。でも間違いのない、、この感覚、、、私が居るという感覚は完璧にある、、、、おかしい、、、、違うのです、、、「居る」「在る」という感覚だけが確実にあるのです、、、「私」は後天的に学習したアイデアです、、、「在る」という感覚が絶対的過ぎて、、、「私」という勘違いが、、、、強固になり過ぎたのです。だから我々はもう選ばれなくていいんです。

全てはただ起こるという認識が起こすドミノ

最後の答えは決まっている

最後は決まっています、、最後の最後の気づきは、、「私が神だった」という気づきです。。。この気づきは必ず最後には起きます、、ですがその前に片付けなくてはならない観念があるのです、、それが後悔です、、あそこでこうしとけば、、あの時ああいう選択肢があったはずだ、、、となります、、、これを毎日毎日毎日繰り返すわけです、、、これを止めます、、、真実の力で止めます。

全ての思考、行動はただ起こった

全ての思考、行動は完全にただ起きましと、、、、最後に気づくこと、それが「私が神だった」から逆算すれば明白です、、、神が起こしたのです、全思考、行動を、、、、そして神は自由意志でこの80億人の意思を管理するなどするわけがない、、つまり全部が全部化学反応です、、、、因果、縁起、カルマ、ダルマ、、なんでもいいんですが、、つまりは化学反応がただ起きたのです。。。

ここに気づくと

反省が湧いてこない、後悔が湧いてこない、、将来に悩まない、、期待がないが安心だけがある、、、ただの傍観者という気楽な立ち位置、、、会社で言えば、、何も責任を追わず、、何も責められない、、社長のようなもの、、、最高のポジションがいきなり用意されている、、、、今までそんなポジションが無かったのではない、、、気づきなかっただけ、、、ここからドミノが崩れます、、全くの能天気、形崩れ、、期待も不安も何もない人生が始まります。

全く疲れないから、、、

この能天気な無責任ポジションに座りますと、、、とにかく疲れない、、全く力みがない、、、すると元気が湧いてくるのです、、子供時代の朝から晩まで遊べる元気が湧いてくる、、、、、だから動ける、、仕事も楽しい、プライベートも楽しい、、、となります。。。。これがドミノです、、、そして悟りの理解が進む、、、個人の不在に気づく、、他人の不在に気付く、、、全部が全部の現れに過ぎない、、に気づく、、、神に気づく、、、

何を焦って成し遂げることがあるのか??

究極の安らぎ

今ここに究極の安らぎがあって、、、何を一体焦って叶えることがあるというのでしょうか???今ここに完全な至福があるのに、、、なぜ焦って何かを掴もうとするのでしょうか????これは完全なジョークです、、、人間は脳が進化することで、、その脳が言葉を生み出し、、言葉がイメージ、幻想を作り出し、、、その言葉を絶対的なものであると信じたことから、、、我々は幻想に閉じ込められました。。。。この幻想の中でなんとか幸福になろうともがくのが我々の本質です。

言葉を盲信しない

小説では、、、妄想で10人以上を作り上げ、、、楽しむ、、、、小説を人間が楽しめるのはイメージ力、、、これしかありません、、、このイメージ力が、、、、今目の前の現象にそのまま加わります、、、何かを見れば、、その物には名前がありますから、、、名前に不可されたイメージ、意味ががっつり加わります、、、目の前の現象が、、しっかり意味のある現象に切り替わるのです。。。だから全く同じような現象が起きても全く異なった意味が生じ、、、全く異なった感情が生まれるのです。

そして意味を選べない

ではその意味をハッピーな意味に変えちゃえば、、、全部が全部ハッピーになりますよね、、、、となりますがそうではないのです、、、、この世界において、、個人は幻想で居ません、、ですから意味をコントロールできる個人が実在しないのです、、、勝手に思考、感情、行動が湧き上がりますから、、、、どういう意味が付くかは、、、完全に非コントロール状態です。

我々ができることは、、、

つまり、、だからといってこの我々は能動的に意味づけを変えるなど不可能なのです、、、、できることは、、、、この事実に気づくだけです、、、この事実、、、この事実に触れて、、、今この「私」を取り込む状況を確認するしかありません、、、するとこの環境を変えなくては、この状況を変えてやる、、なんとか這い上がってやる、、、、みたいな思考、感情が湧かなくなっていき、、、観念が崩れてきます、、、、言葉が作りだした幻想が緩んでいきます。