虚無主義ではない

究極の願望

全ては自動反応、そしてただ観察するだけ、、、これは虚無主義ではありません、、、これは究極の欲望達成、、究極の欲望成就です、、、なぜか????この状態こそが究極の静寂だからです。。。何かを達成して得る快感など数秒、刹那、一時です、、、ですがこの観察はエンドレス、、、しかも観察に深さが加わる度に静寂も深みを帯びていく、、、

軽く軽く

何もかもが自動反応、、これは絶対的な責任放棄です、、、え???責任放棄しちゃっていいんですか???いんです、、、本当にいいんです、、、、、これまで全責任を負ってきた自我は喜んでこれを手放す、、、、、なんという快楽、気楽、抜苦、、、、、そしたら軽いから、、、、やる気、元気が湧いてくる、、、、なんか行動的に、、、なんか積極的に、、、、

一般の願望実現

一般の願望実現は終わりがない、、、一時の達成感を追い求め、、、ただ走る、、走る、、、きつい、、、辛い、、、でも止めるわけにはいかない、、、、自動反応を観察する、、、行動、思考、感情の自動反応を観察するだけ、、、、軽い、楽、無責任、、、、全然違う達成感、、、もう何もしなくていいという安堵感、、、

自動反応を観察する瞑想

全ては自動反応

縁起、因果、、、仏教では現象の仕組みをこの二つの言葉で表現します、、自動反応、自動プログラミング、、なんでもいいのですが我々の行動、思考、感情の全ては自動反応で起き続けていきます、、、本当に絶え間なく起き続ける、、、これをコントロールできる個人は実在しません。ですから生まれて死ぬまで、、、この活動がひたすらに起き続けて死ぬのです、、、完全自動現象システムです。

これをただ観察する

完全自動オートメーションシステムならば我々は何をすればいいのでしょうか???ただ観察します、、、ことの起こりを観察します、、、何を経験し、何を思い、何を行動するかを観察すればいいのです、、、瞑想です、、、圧倒的他者になってこの動きを見守ります、、、するとそこに静寂が広がります、至福が広がります、明晰が広がります、、、観察者ですから湧いてくる思考をどう処理するかが湧いてきません、、、怒りに対し、孤独に対し、どうするかが湧いてこなくなります、、、思考、感情のラリーが止まるのです。

二日酔い、、、

二日酔い、、多くの方は反省します、、、なぜ飲みすぎてしまったのか???あそこで止めておけば、、、違うんです、、、二日酔いが起きた!!!で終わり、、、そういう自動反応が起きた、、、で終わり、、、、また観察者に戻ります、、、自動反応を見守る存在として経験だけを感じていきます、、、24時間瞑想状態、、この状態が至福、静寂、平和です。。。。そしてそのうちに観察者でもなくなります、、、

真実を探す

今ここにある

真実とは予測、推測ではありません、、、真実とは間違いようのない事実です、、、これを我々の日常で探すとどこにあるのか?????コーヒーを飲んだ瞬間の味、、、温度、香り、、、この経験だけが真実です、、コーヒーは名前、真実とは異なります、、、コーヒーという実在、、、、これは分かりません、、、本当に実在しているという証拠は分かりません。。。。

この体

この体が本当に実在しているのか????全く分かりません、、、、ただし触れる感覚、香り、思考、感情を感じているということ、、、これだけは真実です、、、、これをずっとやっていると面白い事実が見えてきます、、、、物があろうとなかろうと、、、人が居ようと居まいと、、、経験という紛れもない事実だけがガンガン進んでいく、、、重なっていく、、、現れては消えていく、、、、、、あれ????これを生まれて死ぬまでやるんだという紛れもない確信が湧いてきます。

経験しかない

どうやら経験だけが真実でそれ以外は真実ではないぞ、、、、思考を寄せ集めた観念や価値観は、、、真実とは何も関係がない、、、、真実とは経験の寄せ集め、、、経験は有るが、、これは物体ではない、、、真実とは、、、物体がない経験の寄せ集めではないか??????真実とは実在しない経験という寄せ集め、、、無限の経験が集まった、、実在しない無限、、、、

どの感情も観念から生まれる

感情はまだ手放すべき観念がある証拠

感情とは実は観念が作り出しています、、、例えば小さな子供がぶつかってきても怒りは湧きません、これが大人であれば怒りが湧きます、、、、同じぶつかる、、、でも、、、、子供と大人では感情が異なる、、、つまり観念が感情を生み出しています。真実は観念ではありません、、、真実とは信念ではなく、、、ありのままです、、、、真実に浸っている時、、怒りは湧きません、、、なぜならば子供からのぶつかりも大人からのぶつかりも全くの自由意思不在の自動反応であることが分かるからです。

怒ることができない

子供には怒れず、大人には怒れるのは、、、自由意志の不在か実在かの違いです、、、大人であれば責任を持って、、、と怒りが湧くのです、、、大人とは自由意思という責任を負った存在なのです、、、責任と自由です、、、ですが自由はないんです、、、大人も子供も自由がないんです。そうなると怒りが湧くわけがない。。。

追いかけるべきは観念ではなく

なぜ人は真実を知りたくなるのか????それは今までの人生、、、全ての観念において本当の幸福に出会ったことがないからです、、、考え方を変えても変わっても、、、本当の幸せに出会えていない、、、、ということです。それならば真実を知るしかない、、、大当たりです。本当の真実とは、、個人は存在せず自由意志もない、、経験しかない、、実在する存在は皆無、、これだけです。

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

拍子抜け

これはジョーク

完全なる全自動、経験は完全な受け身、個人は実は居ない、、、、これらが腹落ちしていきますと、、、拍子抜けに次ぐ拍子抜けの毎日です、、、、、あの大活躍なサッカー選手は何一つ、、、自分で選択をせず、、、自我も存在していない、、、、拍子抜け。。。。

大作家

あの有名な大作家も、あの有名な大講演家も、、、実は自我が存在せず、、、何一つ選択をしていない、、、、マジか、、、、の連続です、、、、この人間世界には自我があるという勘違いしか起きていない、、、全人類の消滅、、、自我不滅帝国に、、、、今我々は住んでいます、、、、その住み心地は????最高に気楽、、、もう何一つ頑張らなくていい、、、頑張る責任を追う自我が存在しないからです。

誰も目指さなくていい

この世界には誰一人目指すべき人は居ません、、、誰一人です、、、何かを達成しているように見える人は居ますが実在しないのです、、、誰一人、、、そう見えるだけ、、、実在が完全に不在の世界、、無限の不在が展開する世界がここです。今までのように誰かに憧れてもいい、誰も憧れずお気楽に生きるのもいい、、なんでもいいのです。

思考の戯言

私が居て、自由意志があって、、、

私が居て、、自由意志があって、、、を前提にした全会話は無駄です、、、なぜならば、、、根底が真実と異なるからです、、、根底が間違っているにも関わらず、、、その上に理論を重ねても、、、いずれは崩壊します、、、、ですからその会話に興味が無くなるのは良いことでしょう、、、そしてそれが分かってしまうと、、そういったコミュニケーションが減るでしょう、、自然と。

だからといって

だからと言って、、、、そのコミュニケーションは、、全部全自動で起きていますから、、、、誰にも責任はありません、、、、責任をとるべき個人は全く居ないのです、、これは自然現象です、、、勘違いをベースにした自然現象が起きました、、、、猫が鏡に写った自分の姿を敵と勘違いする、、、、というような勘違いが起きたのです。

分かるとコミュニケーションが変わるだけ

鏡に写った姿を敵と勘違いしていた猫が、、、それに気づけば、、、もうその行動はしません、、、、これと全く同じ、、、それに気づけば、、、もう勘違いを前提にしたコミュニケーションに興味が無くなるのです。次のステップに移ります、、、完全なる全自動をベースにした人生のスタートです、、、この人生はお気楽、ワクワク、、おっかなびっくりの世界です。非コントーロールを受けいれてしまったのですから。

これかあれか

同価値

全ての生命現象は同価値ですから、、、AかBかで悩む意味はありません、、、Aの方が優れている???いやBではないか????これを多くの方は悩むわけですが、、、、全部が同価値、、、そしてAを選ぶという思考も、Bを選ぶという思考も同価値、、、全部同価値です。つまり我々が人生で悩んできた全ては全くの検討外れだったということです。

その時の選択

その時の選択が完全なる全自動で起こります、、、それを我々は完全に今までやってきました、、、、大人になってもこれは同じです、、、、つまり我々の経験は完全な受け身でただエンドレスに引き起こされていくだけ、、、完全なる受け身、受容、手放しです。

こんな人生に価値はあるのか???

こんな人生に価値はあるのでしょうか????おおありです、、、子供の時に全く自我を自覚なく生きていた時に退屈なんてあったでしょうか???ないですね、、、気楽を遊べばいいのです。モーマンタイを遊べばいいのです、、無責任男を遊べばいいのです。

どうでもいい、、ではない

全ては同価値

悟り、ノンデュアリティのメッセージは、、、ある種世捨て人的な概念、イメージを植え付けます、、、ですがこれは全くの誤解です、、、、全てが同価値になるのです、、、、母親も、近所のおばさんも、その猫も、、、全部が全部同価値の世界、、、全くの虚無主義です、悲観主義とは真逆です。なぜそうなるのか???それは真実の現れに優劣が全くないからです。。真実はたった一つ、、目の前の経験であり、、、それ以外もそれ以内もないのです、、、ただこれだけ、、、、

全人類が生徒

全人類が学校の生徒、、、、先生は生徒の価値に優劣をつけません、、なぜならば成績の優劣は、、生徒の価値の優劣とは全く異なるからです。。。これが悟りです、、、、全生命現象に優劣がなく、、、全人類の思考に優劣もあるわけがなく、、、全人類の行動にも優劣がないことが完全にわかっった時に、、、この感覚が芽生えていきます。

真実だけを見つめる

個人など居ない

大好きな歌手のコンサート、、、間違いなく視界に、、誰かは映るでしょう、そして歌声も聞こえる、、、熱気も、、間違いがない、、、、ですが、、、その人が実在しているという事実はない、、、その体の中に個人が居るという証拠がない、、、居るだろうという観客の推測は間違いなくある、、、ですがそれは推測、、、、インタビューでその歌手に「あなたは実在しますか???」となれば、、、、「居るに決まっている」という推測、思考をもらうだけ。

物もない

PCのキーボードを叩く、、、叩く感触は事実、PCという画像も事実、、機械臭も事実、、重さも事実、、、ですが実在しているという証拠だけがない、、、、私の体もそう、、、触れば感じる、、、匂いもする、、、視覚でも確認できる、、、、ですが、、、、実態だけは証明できない、、、、

経験しかない

どこまでいっても経験しかない、、、どこまで行っても感じるしかない、、、それ以外が全く証明できない、、、、真実とはこの経験の寄せ集め、、思考の寄せ集め、感情の寄せ集め、、、しかない、、、間違いのない真実のみを集めると、、、、そこにはりんご一個という実在すらないことに気づきます。全くの実体のない感覚だけしかない世界、、それがこの現実の真の姿です。