恋愛中毒

相手が私の自我を確かなものにしてくれる

なぜ人は恋愛、結婚に大きな意味を込めるのか????それは相手から認めてもらったという大きな達成がそこには隠れているからです。。。世界中の中から、、、「私」が選ばれた、、、、という満足感は、、自我の永続を絶対的なものにします、、、、相手が選んだのは「私」という自我です、、、「私」が絶対評価を受ける、、これで自我OSシステムは、、、恋愛に嵌まり込むのです。

ところが、、、

双方が自我を圧倒的に認め合うことで成り立つ恋愛ですが、、、自我は実在しませんから、、、もっともっとが始まります、、、、そして認めてもらうための演技が削ぎ落ちた時に、、、苦しい、、双方の自我OSシステムが双方を縛り合う、監視しあう関係になるのです。。。自我とは本当は存在せず自我を意識している期間は苦しいのです、、、この時間が圧倒的に増えるのです、、、このイライラはやがて双方において攻撃しあう結果になり、、疲れ果てた方が別れを切り出すのです。

そしてまた

疲れ果てたのちに別れるわけですが、、、自我は再び評価に上ます、、、自我は評価されてこそ存続できますから、、、次の相手を探すのです、、、、本当に自分のことを分かってくれる相手を、、、、この人に選んでもらうということは私は間違いなく、、、存在する、、、存在を圧倒的保証できる相手を探すのです。。。。そして相手もそうのように思っているのですから、、、自己評価を下げるような動きを相手がするならば大変、、、自分の評価も同時に下がってしまうのです。。。。ということでこの関係は首の締め合い、、評価を下げることが絶対に許されない戦いが始まります。

それじゃ無理

シーソーゲーム

体の感覚を鋭敏にしていきますと、、、幸福度が上がっていきます、、、思考で考える概念よりも、、感覚が優位になっていくからです、、、感覚とは真実との接点であり、、、真実をダイレクトに感じる力が増えるのです、、例えば悩み事をしている時、、、料理の味がまずくなります、、、味を感じにくくなります、、悩み事が無い時、、、料理の味が美味しくなります、、、、体の感覚を鋭敏にするとは、、、真実との接点を増やすことなのです。ですがここで得た幸福度をさらに増やしていくと、、、自我が消滅してしまうので自我OSは、、、ここでマッタをかけます。。。全ての功績を自我が成し遂げた、、自我がもっと評価されるべき、、、と思考を起こします。

これだけは見抜けない

評価をされたい、、この欲望を自我OSは使います、、、もっと評価されてしかるべきだ、、、、これぞ自我OSシステムの罠、、、、せっかく体を鋭敏にし、、、幸福度を高めていったのに、、、その功績を自我が握り締めることで、、、幸福度が高い自分を成立させます、、、、自我の正念場です、、、ここで見抜きます、、この功績を握り締めようとする働き、動きこそが、、、これまで苦しみを起こしてきたのだと、、、、この最後の戦いで自我の正体が明るみにでるのです。

自我OSを追い込む

自我OSを追い込みます、、自我の働きを丸裸にします、、、自我の動きは丸裸にされると機能できなくなります、、、、マジシャンのトリックを裸にします、、自我は実は存在しないため、、、経験を「私」がやったとだという思考で、、騙し続けているのです、、、体の感覚を鋭敏にすると、、、真我に直に触れることができるため、、経験が鮮明になり、、、真我そのものに吸収されていきます、、、この動きを止めるが、、、それをやったのは「私」だという思考です、、、もっと評価されるべき!!!という思考が湧いて、、、そこに意識がフォーカスすると、、、また思考に取り込むことができます、意識を。

最後の作戦

自我システムとは、、、意識を思考にフォーカスさせますから、、、あの手この手の思考を湧き出し、、意識がそこに食いつくかを確認するのです、、、全く思考にフォーカスしなくなると、、、この自我OS防御システムは、、パワーを失い、、、消滅に追い込まれます、、、「もっと評価されるべき」「もっと良い暮らしをしていていいべき」「もっと、もっと、もっと」が現れ、、意識に訴えかけてきます、、、、この全ての作戦を見抜ききり、、、思考に全くフォーカスをしない時、、、突然自我OSシステムは崩れ、、、森羅万象、万物を動かすOSにシフトチェンジします。大周天、サマディ、太極、自然無為、悟りなどと言います。

怒りすらも瞑想に使う

怒りが湧いた時に、、、

この怒りは何だ???何が原因だ????あいつのせかい、こいつのせいか、、いやいや、、私がこれをやってしまったからか、、、、エンドレスに続く、、犯人探しの旅、、、、、、残念!!!!その全ては間違っています、、、怒りを引き起こす、、個人という存在が皆無なのです、、、、個人が100%幻想であって、、居ないんです、、、、、全部は全自動システム、、、ただそれが起きたのです、、、、そして怒りもただ起きました、、、この怒りはどうすればいいのか、、、、その怒りをどうにかしようとせずに、、、怒りすらもただ観察します、、、、

怒りを感じることも、、、静寂

信じられないかもしれませんが、、、怒りを感じることで静寂になるのです、、、、怒りすらも静寂の中で感じます、、、怒りとは解決すべき感情ではなく、、、怒りを感じることで静寂に入ります、、、怒りを解決する個人は居ないのですから、、、思考しても無駄です、、、、怒りを解決すべき思考現象に関心をもう持たなくていいのです。。。

思考の全ては間違っている

個人が居て、、自由意志があるという前提の全思考は間違っています、、、間違った思考に関心を持ち、、そこに意識をし続けても、、、不幸が続くだけです、、、無駄です、、、そうではなくこの日常を、、、個人が存在せず、、自由意志もないことを感じる場所にします、、、実践の場所です、、、すると、、、、本当にそうであることが分かってきます、、気づきの連鎖が起きます。。

判断という罠

まだ判断してるの???

いつの日か、、、本当は時間はないんですが、、、、判断するのってダサいよね!!!!という時代が来るはずです、、絶対、、、判断????いつの時代の認識ですか????になります。天動説????ぐらいのオールドスクールになるでしょう、、、つまりはこういうことです、、、地動説のメカニズムを知ると、、、太陽が動くという錯覚をもうできません、、、、悟りを開くと、、、、思考を個人が起こしているという錯覚に騙されることがなくなります。そこが分かってしまうと太陽の動きに騙されなくなるように、、思考の動きに騙されなくなるのです。

太陽は動き、思考を個人が起こす

太陽が絶対に地球の周りを回っていないように、、、思考も、、個人が自由意志では起こしていないのです、、、そう感じているだけ、、、太陽が地球の周りを動いていると感じていたように、、思考を司る自分という存在も感じていただけです。これが全てです、、、これが分かってしまうと他人の意見を判断するということに興味が無くなるのです、、自然現象にケチをつけることに意味を感じますか???という話です。

世界は全部不自由意志で回っている

地球とは最高に面白いのです、、全員が不自由意志で動き回り、、その行動を反省し、時に喜び、、勘違いを起こし続けているのです、、、、お互いに行動を批判し合い、称賛しあい、妬み合い、嫉み合い、、憎しみあい、愛し合い、、をする、、、その全てが不自由意志であることを忘れ、、、こんな面白い活動を続けているのが地球の惨状です。。。ですがこれも見かけ上の「私」の観念が引き起こしていますから、、そこがまた面白いのです。

観察の卒業

全ては観察から

自分が自由意思で何かをしている、、、という思い込みをしている人は、、、先ずはこのシステムを俯瞰して、、、、全ての現象の真相を理解する必要があります。今目の前の現象はどのように起きているのか???ここを理解する必要があるのです。実は「自分」など存在せず、、、自由意志もないことを言葉で理解します、、、するとそのような認識で観察する日常が始まります。あれ、、、本当だ、、言葉が勝手に現れ、行動も勝手に現れ、、全てが自分抜きで動いている、、、

この観察は十分に威力を発揮する

この観察は見かけ上の「私」に様々な気づきを促します、、この私という存在が実在していないということ、、周囲も実在していないということ、、、この世が幻想と呼ばれる理由、、、この世が一つと言われる理由、、経験しか起きていないということ、色即是空であるということ、、私は神だ、、ということ、、、全部が分かってしまいます、、、すると突然、、、観察する自分が消えます、、観察ではなく、、、生命、幻想、そのものになってしまう、、、

観察の卒業

最初は観察から始まります、、観察という実戦からスタートします、、、観察という行為からスタートします、、その行為によって様々な気づきが雪崩のように起きていきます、、これらの気づき、雪崩のような気づきが終わると、、、静かな静寂と、、見かけ上の私を取り巻く生命現象だけが残ります。友人と話をすればそこには間違いようのない自我の存在を想像します、、ですが直ぐに、、、真実に引き戻されます。

大草原で生きる家族

自我が存在しない世界

大草原で生きます、、、鳥や昆虫、野生の動物に囲まれて、、、見渡す限り自我という存在が全く居ない世界に居ると何が起きるのでしょうか????自我を忘れます、、自我を思い出す時間が減ります、、、やがて自我というアイデアが消え失せます、、、この状態が不快でしょうか????静寂と平和に包まれた世界です。自然無為、大周天、サマディ、、、呼び方は何でもいいのです、、自我という本来存在しないアイデアが消え、、大自然を覆うOSに変わるのです。

大都会

大都会は自我OS全開の場所、、全員が自我OSに操られて生きています、、、自我OSの自動反応を「私」がやったという思考は自動で現れ自我OSは益々幅を利かせていきます。ですがこのメカニズムを見抜くと、、、自我OSも自然現象と何も変わらない、、という真実が見えます、、、鳥も幻想、、人間も幻想、、、この私も幻想です、、、

父親が怖くて、、、

父の存在に悩んでいます、、

残念ながら、、この父親は幻想です、、幻想としての活動があるだけ、、、この幻想の活動が気に入らないのならば、、、逃げればいい、、、、「いや残された父が心配で、、、、」ですので父親は実在しないのです、、、父親というアイデンティティーが存在しますが、、これは思考、幻想です、、、父親と呼ばれる幻想の活動があるだけです、、、ですからそれを心配するのはエンタメです。。。

母親が病弱で、、

母親が病弱で、、、今後介護をしなくてはならないのでしょうか????母親は幻想です、、母親という幻想活動をしています、、人格も、、性格も、、個性も、、、幻想です、、、この幻想を助けるのが楽しいならやればいい、、辛いならばやる必要は全く無い、、、幻想ですから、、、、見捨てろ!!と言うんですか????違います、、幻想を見捨てることができないのです、、居ないんですから。

幻想と見抜いてからが楽しい

幻想なんだから

この幻想は見抜いてからが最高に楽しいのです、、、なぜか???周囲は真剣にこれを現実と思い込んでいます、、真剣に真剣にこれを現実と思考して生きています、、、その様子が最高に可愛らしい、深刻なあの人も、悩み続けるあの人も、、、全部がエンタメになっていく、、、その中でこの見かけ上のこの私は、、、周囲にこれは現実ですよ!!!と伝えていくが起きていている。これまではこれが現実だ!!!!と本気で思っていたのだから、、なぜ苦しいかが完全に理解できる、、、だから救いたいが湧いてくる、、、ですがこれは深刻なミッションではなく、、完全なるエンタメです。

悩んでいる「人」は居ない

なぜこれはエンタメなのか????それは悩んでいる様子はあっても、、悩んでいる「人」が実在しないからです、、、深刻そうに見えているだけ、、、人が実在しないのですから。。。。だからエンタメなのです、、、全く救うべき人は居ないにも関わらず、、救済活動だけが起きるのです、、、助けるべきピーチ姫は実在していないにも関わらずマリオは救出ゲームをやります。

会いたい「人」も居ない

会ってみたい人、、、、これは居ないんです、、実在はない、、、全部幻想です、、、ビヨンセに会って涙を流す、、、ビヨンセという活動があるだけです、、、ビヨンセという実在は居ません、、、、マイケルジョーダンという活動があり、マイケルジャクソンという活動がある、、、キムタクという活動がある、、、母親という活動があり、、父親という活動がある、、、幻想が動く様子、、それが活動です、、、

現実は厳しい、、

面白い、、、

現実は厳しいから、、、、、大人が頻繁にこの言葉を発します、、、残念!!!!幻想です、、、幻想しか存在しません、、、幻想だけが、、、この世界に漂います、、、その幻想が厳しいというのは理論が破綻しています、、、幻想は厳しくなることができないのです、、幻想ゆえに。幻想には何の力もなく、、ただそこに漂うしかできません。

いやいや、、働かなくては食べれないじゃん

この体が幻想だろうと、全部が幻想だろうと、、、食べなくては生きていけないですよね、、、、てことは働かなくてはダメですよね?????それを厳しいと言っているんです、、、、この体という幻想が水という幻想を飲まなくては生きていけないのは事実です、、、ただだからと言って働かなくてはいけない、、、というのは思考です、、それは思考でしかありません。昆虫を食べて生き延びれるならば、、、働く必要はありません。

周囲の幻想に合わせているだけ

我々が本当にやっているのは、、、周囲の幻想から外れた行動はしてはいけない、、、という思考に振り回されているだけです、、、、周囲は働く、、だから私も働く、、、、周囲は学校に行く、、、だから私も学校に行く、、、これをやっているから疲れるのです、、、周囲は幻想です、、、、幻想にどう思われる????何も起きていないのです、、、残念ですが幻想は何も感じず、何も思考せず、何も行動は取れません、、、そう見えるだけです、、それを幻想と言います。

この体はなぜ体験ができるのか???

意識のフォーカス

映画に夢中になっている時、主人公にどっぷり意識が集中し、、、殴られたら本当に痛い、、、という感覚が湧く時があります、、、、意識は意識をそこに集中していくと、、感覚を作り出すことができるのです。。。。人間とは意識が最大限体に意識を集中させ、、、五感を感じるまでに感覚が作られた状態なのです、、、本来体は幻想です、、、幻想にも関わらず五感が働くのは意識のなせる技です。

熟睡とは

熟睡とは、、体向いていた意識が、、、意識を止め、、、意識が意識に意識している状態です、、、悟りと同じです、、、意識のベクトルをこの体ではなく、、、意識そのものに戻します、、、、意識が意識していない状態に戻します、、、するとこの体での五感体験が終わり、、意識が意識上で起こる幻想をそのままに気づくという状態が始まるのです。

体が在るという絶対的盲信

この体の五感は絶対的過ぎて、、我々はこの体の存在を絶対的に盲信します、、、本当は意識がこの体にフォーカスすることで五感が生まれました、、、、逆なのです、、、幻想はどこまでいっても五感体験など出来ません、、幻想に意識が意識した時だけ五感体験が生まれるのです。。。。全てが幻想であることが分かったら、、体に意識を向けるのを辞め、、、全現象をそのままに受け入れる時に、、、、この幻想の素晴らしさに気づきます。