今という誤解

誰もいない

街を歩けば全員が今ではなく過去に存在するか、、思考を思考しています、、、空想の世界に居ます、、、空想に意識を向ける理由は、、、今感情を味わいたく無いからです、、、仕事に行きたくない、、、、嫌だ、、、、この時人は思考に逃げます、、、、「私」がやりたくないことをすれば、、、感情が湧き、、、これを隠すために思考がフル回転します、、、幻想のこの世界で、、真実に触れるのではなく、、幻想に意識を集中させます。

居る場所が違う

会話をしていても、、、相手は、、感情を味わないように思考していますから、、、内容がありません、、、その思考は、、、感情から意識を逸らすための思考であり、、意味はそれしかないのです。。。。負の感情を生産できた体に居ますと、、、思考に逃げるという行為がなくなるため、、、無駄話に意味を見出せなくなります、。。今は話をしたいことを話ししたいのです。

幻想の世界で幻想する無駄

ここがまさに幻想の世界です、、、無限の無在が現す鏡の世界です、、、この鏡の中の世界で、、思考に意識を向けるとは、、写ったこの鏡の幻想に触れずに、、、さらに幻想をします、、、何も経験が起きていません、、、経験だけが真実ですから、、真実に触れていない、、、真実を感じていない、、、

幻想の中で幻想を作りその中で経験を積む

ここが幻想の世界です、、この幻想の中で思考するとうのは、、幻想の中に居て、、さらなる幻想を想像し、、その中で擬似体験をしています、、、擬似体験に逃げているのです、、、ここの経験は虚の中の虚ですから虚しい、、、が湧きます、、虚しいという感情は、、、経験の密度が低いのです。そうではなくこの幻想の世界で思考を見抜き、、思考の取り込まれず、、ただ経験を積めば、、、、充実、満足が湧いてくるのです。

全員が今に居ない世界

今過去を思い出している

私を生きてる全員は過去を生きています、、残念ですが、、、過去を思い出すことを毎瞬やっています、この瞬間、、、過去を思い出しています、、、、いやいやそんなことはない、、、、私は今ここに居ます、、、残念!!!!それはない、、、私とは何ですか?????思考です、、、この思考は過去が作り出した「私」です。。。過去を振り返らなくては、、、、この私は消え去ります、、、私は、、、、と言った瞬間、、、記憶を意識しています、、記憶とはデータです、、、記憶の集大成である「私」が今に居ます、、、おかしい、、、

私を想像すること、と今に居ることは不可能

「私」を強く強く意識しながら、、、ゴルフをする、、、集中できない、、、なぜか????「私」とは記憶だからです、、、、記憶を意識しながら、、、今プレイをする、、、不可能、、、、です。。。。多くの方はこうして生きています、、、私を思い出しながら、、、行動をします、、、意識のベクトルがバラバラなのです。。。記憶と行動の組み合わせ、、記憶と行動の、、、錯綜状態です。

私の嘘を見破ると

私というのは絶対に存在しない、、、ここに気づきますと、、、私に注目するという行為、私にまつわる思考のあれこれ、、感情が消えていきます、、、隙間が生まれます、、この隙間から静寂が入り込んでくる、、この隙間から平和が入り込んできます、、、、私が消えれば消えるほどに、、、隙間風が心地いい、、、私など、、暗号、名前、コードネームに過ぎない、、、この理解が「今ここ」に居る感覚を掴みます。

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

生き辛さという救い

実は救い

生き辛いというのは実は救いです、、、今まあまあ幸せな生活をしているという実感は悟りを遠ざけます、、、快適よりも不快な生活の方が真剣に悟りを求めるからです。見かけ上の私は25歳ぐらいに悟り以外に道はないことを悟りました、、そこに気付けたのは苦しみ以外にありません。そこからの苦しみの全部は、、悟っていないから当然というどこか他人事のような苦しみに変わりました。

全ては悟りが解決する

私は全幸福の術は悟りしかないことを20代で悟りました。その結果、、、あらゆる苦しみの出来事を悟りのせいにできたのです、、、全苦しみは悟っていないから、、、、これは大成功であると同時に悟りへの衝動を維持できたのです。悟以外に解決はない、、、これは間違いのない事実です。どんな成功者も、、悟っていなければ確実に苦しんでいます、、むしろ手に入れた後の苦しみに毎日追い詰められているはずです。

ベクトルがまるで違う

何かを達成したり手に入れることでは人は絶対に幸福にはなれない、、、これが悟りです、、そして次の段階に至ると、、個人がそもそも居ないのですからこの個人を幸福にすることが実は不可能だったという気づきを得ます。個人とは、、実は錯覚で、実在していない、、、むしろこの錯覚を作り出す大元の存在、、それがこの私だ、、、そして見える全ては錯覚であり、、錯覚の中で経験だけがエンドレスに続く、、この経験だけは間違いのない真実、、この経験を寄せ集め、、、集積したものが空、神、絶対と呼ばれる無限の不在です。我々はこの無限の不在の鏡を今見ています。そして鏡に写った景色の中にこの体も現れ、、これを私と誤解しながら生きてきたのです。

見える世界が究極の現実に見えるのは、、

見える世界は究極に現実に見えます、、それもそのはずこの映像は無限の不在の姿だからです、、、無限です、、無限が映像化されているのですから、、、その緻密さは無限なのです、、、細胞はどこまでも細かく解剖できます、、無限の現れですから、、、知り合いを作ろおうと思えば無限にできるでしょう、、無限の鏡ですから、、、何もかもが無限、、、それがこの宇宙が無限である証拠です。

今この場所

今この場所が無限の現れです、、、つまりこの場所以外に何かを求めても無駄なのです、、、この場所で至福に至れなければ、、次の場所でも至れない、、、ということが自然と分かる、、ですがこの場所に縛られる意味も全く無い、、、場所とはどこも無限の現れ、、、このことが分かると、、人生の目的はこの私の欲望追求ではなく私の追求に変わります、、私とは誰だ???の追求です。

現実に住まない

同じ場所

同じ場所に居てもこの場所を幻想と見抜かず居る場合と、、完全に幻想であると見抜いてここに居るのでは、、、全く意味が変わってきます、、、ここを本当の実在の場所だと思えば、、この体も実在し、、ゆえにこの体には私という存在は実在し、、、と実在の連鎖が起こる、、、これは勘違いの連鎖と言ってもいいでしょう、、この勘違いの連鎖は輪廻転生、、、時間を超えて起き続けるという無限ループに入ります。本当はこれは幻想であり、、ゆえに目の前にはただ幻想が起こり、、、我々はただ経験だけをしている、、、そこには何の意味もなく、、ただ経験だけが積み重なっていく、、、、この体も幻想ですから私など居るはずもなく、、居るという思考だけがある、、、、

随分違う

要は同じ場所(幻想)に居ながら、、まるで違う展開が起こっていくのです、、、、真実に住めば(住む自分は居ない)静寂、平和が漂い、、、この自分に執着すれば苦しいが続く、、、これだけです、、、これを幻想と見破ると、、、鳥の声さえ神々しく聞こえ、、、太陽の光も神々しい、、、なんという幻想、、、何という緻密で正確な幻想、、、、なんという感覚、、、、と感動が嵐のように巻き起こります。。

感動の嵐

これが幻想だと思えば、、、、見かけ上の私が行く場所、行く場所にとんでもない、、、展開が広がり、、、、世界はエンドレスに湧き上がっていきます、、、、、品川駅に着いたら、、、何も無かった、、、が起きえない、、、、毎秒毎秒現象が起き上がり、、、、去っていく、、、、これが寂しいとか、切ないとかではない、、、、壮大な神のアートです。。。。

思考は直ぐにストーリーに持ち込む

全ての現象を

思考は何でもストーリーに持ち込みます、、、例えば雨が降る、、、という情報が起きたときに、、、では明日は傘を持って行こうか、、辞めとこうか、、そういえば明日は残業が、、、などなど、、、全部の現象の私のストーリーに持ち込み、、善悪、良否、損得の判断でもってこれを迎えます。本人はそのことで本人の得るメリットが向上すると思っているのですが、、そのストーリーの中こそが苦しいのです。重要なことはこの場所はストーリーの場ではないという気づきです、、、その時その時何が起きるか全く分からない超現実、、それが真実です、、、超現実に住むと、、そこは静寂、平和が漂います。

現実という幻想に住まない

多くの方が思っている現実は幻想です、、この幻想の中に、、私というやはり幻想を作り出し、、、私(幻想)が存在する場所(幻想)を作り上げました、、、その中でなんとかこの私は安全に楽しくそれなりに生きていこうと、、頑張っています、、、、だから全ての現象は私ごとに捉えられ、、、進んでいきます。。。これが苦しみの歩みになります。本当はこれを幻想と完全に見抜き、ゆえにこの体も幻想であり、、ゆえに私と呼ばれるこの存在も完全な幻想であることを見抜きます。この幻想の世界に、経験と呼ばれる感覚だけが真実としてあり、、、その経験がただ毎瞬毎瞬起こっている、、、この経験を全部集めた存在は真実、神、大いなる一つと呼ばれます。

あの手この手

幻想の数々

この世界は幻想です、、幻想と思って生活してみてください、、、すると面白いことに気づきます、、、直ぐに現実だと勘違いが起きます、、、あまりにも現実的直ぎて、、、、確実に現実の中に閉じ込められます、、、なぜここまで現実的なのでしょうか???それは私の観念が、、、そう信じ込んでいるからです。鳥のフンが落ちてくる、請求書の山、、家族間のトラブル、、、全部が全部現実的なのは、、、これは現実だ、、、という観念が織りなす世界がこれだからです。

思考が敵

このあまりに現実的な世界を見たときに、、あらゆる思考が湧いてきます、、、ああしよう、こうしようと、、、、これがまた一番の敵になります、、、、この思考に巻き込まれ、、、感情に巻き込まれ、、、また振り出し、、、、ゲームオーバー、、、、この思考を幻想と見抜きます、、感情を幻想と見抜きます、、、気にしない、、

幻想に取り込まれない

幻想に取り込まれない、、、取り込めるのは、、思考、感情です、、、周囲の幻想ができることは限度があります、、、重要なのは、、、こちらから湧いてくる思考、感情、、、ここが一番の敵になります、、、、先ずは目の前の現実を!!!!とワンサカ湧いてきます、、、、それらを全無視し、、今目の前の幻想に向き合う、、そして、、、、感じるという100%真実に浸る、、、すると、、、雑念、雑現、、、に振り回されていない、、本当の自分が現れる、、、それが静寂の場所、平和の場所です、、、、なんだいつだってここに帰れるんだ、、という気づきが起きます。

不在の遊び

不在の鏡

この世界は不在の鏡です、仏教では空の鏡が色、、、色とは現象、、、この現象は空という不在の鏡です。ですがこの不在は無限の不在、、無限ゆえにこの鏡には無限が広がります、不在として。。。だからこそ圧倒的リアリティーに見える物事、人物は、、、実在しているように見えるだけ、感じるだけ、、、それだけ、、、、その世界で、、、どんなにあらゆる物を手に入れても全く満足できないのは当たり前、、実在しないからです。

人からの評価

どんなに周囲から評価を受けても満足できないのも当たり前、、実在しない人物から実在しない私が評価されて誰が満足を経験できるのでしょうか???できません、、満足するためには満足するための心が必要になりますが無いのですからそれは無駄、、、一時の錯覚しか経験できません。批判されればしばらく悔しいですけど????それは批判を実在と勘違いすることで、、、その批判という経験を思考が長期に所有した場合に起きます。

究極の明晰さ

これを不在の遊びと見抜いてください、、すると、、明晰さが取り戻されます、、、もうこの幻想の世界で私を頑張るという茶番が起きなくなります、、、、、そうは言っても生活が、、、違うんです、、幻想を幻想と見破り生活してみてください、、くだらない思考、感情が全く湧いてこない、、、湧きようがない、、、究極の明晰が押し寄せてきます、、、そしてその時に思い出すのです、、これを求めて生きていたと、、、この感覚をどこかに忘れ去っていたなあ、、、と。。。。本当に手に入れるべきはこの明晰さだったと、、、

形への同一化

幻想に同一化する

この体は幻想です、、100%幻想です、、この100%幻想であるこの体の中に自分というのが居て、、その自分として生きることでこの苦労がスタートします。100%幻想であるこの体の中に自分が居ると100%信じて生きているのが我々の真実です。これはどこまでいっても勘違いですからこの勘違いからくる苦しみからは解放されることはありません。

体が幻想????

そんなはずはない、、、体はしっかりと感覚を持っている、、、、そうではないんです、、五感で感知できるということのみです、、これだけが真実です、、、それ以外は全く証明できません、、、これが体が幻想である証拠です、、、ですからこの幻想の中に自分が居てという初期設定を辞めます、、、、幻想を幻想と見抜き、、自分の存在を無視します。

思考を観察する

思考を観察してみてください、、、多くの思考は、、自分という存在ありきの思考ではないでしょうか??それらの思考は完全に無駄です、、意味がありません、、、実在しない私に関するあれこれは無駄になります。そしてそこに付随する感情、、これらも意味を持ちません、、、全観念は私が居るという前提で構築され、、それに付随して感情が湧いているはずです。

その時起きること

そんなファンタジーのような発想は危険???違うんです、、今まさに我々はそのファンタジーに取り込まれ、、ファンタジーに閉じ込められているんです、、だから苦しい。全くもって実在しないこの世界で、、そこを見破れずに生きています、、、我々は経験、感じる、、という100%真実に立ち帰る必要があります、、この感じる、、、という実感(実在ではない)にしっかりと意識を向けます、、この実感の世界に意識を向けます。。。嘘の実在には目を向けません、、嘘の実在についてあれこれ考えても無駄です。

実在から実感へ

今目の前に幻想がある、、これは100%事実です、、、そしてその幻想に触れる、、100%事実、、そしてそれを口に入れる、、感じる、、、それも事実、、、この事実はこの世界の真実です。逆言えばこれ以外は真実ではありません、、、TVニュースで、、地震で五名死亡、、、これは言葉です、、言葉が作ったファンタジーです、、、幻想です、、、事実ではありません。。

この世界は無限の不在でできている

この世界はどう考えても無限の不在で構成されています、、、無限の不在なのですから見えるもの、触れる物、、、全部が全部不在です、、実在ではない、、、、ここをしっかりと認識する、、、すると今まで流れていた実在を前提にした思考が止まります、感情が止まります、、、静寂が増えてきます、平和が増えてきます、、、これらの静寂、平和は、、、これまで感じたことがない、、、いや幼少期に感じていた、、本当の静寂、、真実に触れる静寂です、、、そして、、触れている私も不在なのですから、、、不在の世界に漂う静寂に気づきます。

真実が観念思考プログラムを削除する

真実に触れる

観念思考プログラムを、、、思考のみで壊すのは不可能です、、、体験、経験という真実に触れることが、、、この観念思考プログラムを壊します、、、、、観念とはこの世界はこうなっているはずだ!!!という思考の集積です、、、あらゆる経験を積んだ記憶が、、、この観念を作り上げ、、、、その観念がこの世界に映し出します、、、現象を。そしてそれを直に経験することで観念通りの世界を体感するのです、、、その中でこれが真実であるという体験をしますと、、、この流れを断ち切ることができます、、、真実を真実のままに経験したら、、観念を通した世界が崩れていきます。

真実とは

真実に触れるとは、、、、経験そのものです、、、、経験は真実です、、、経験は絶対に嘘はない、、、、その経験に対して湧く思考は真実ではなく、、、観念です、、、、湧いてくる思考が観念の自動反射であることを見破ると、、思考を真実とは思わなくなります、、、思考、感情は観念が生み出した自動反応です、、、真実は経験だけです、、、、、経験だけですから、、意味はないのです。

経験に決まった意味があるのならば

経験に決まった意味があるとしたら、、、それは無限の現れでは無くなってしまいます、、経験には何も意味はないのです。。。あらゆる意味を付加することはできます。無限の意味をつけることができます。。ただそれだけ、、、真実は経験だけ、、、です。

経験を経験のまま感じ始めると

経験を経験のままに味わうことは真実を真実のまま味わうことです、、、真実に触れる機会が増えていきますと、、、、静寂、平和を味わえるようになります、、、思考、観念という世界に触れずに、、、そのまま経験という真実に触れるトレーニングをしていきます、、、、そこに意味をつけるという思考、観念の世界に入り込まない、、、そこは苦しいを感じる場所です。