感情は観念の確認

怖い

怖いという感情が湧いた時、、なぜ???怖いが湧いたのか????多くの方は現実で何かが起きたから、、怖いが起こった、、、と考えます、、、ですが事実は異なります、、、、その方が持っている観念が、、、その現実を作り出し、、結果、、、怖いが起きました、、、、例えば、、、犬は噛みつくという観念を持っていれば、、犬を見ると怖いが湧きます、、、

世の中はお金が全て

世の中はお金が全て、、、、という観念を持っていれば、、、、近寄ってくる異性は、、お金目的では???という感情が湧いてきます。。。全て観念がベースにあります、、、、観念が現実を作り出し、その現実が感情を生み出し、、その感情が観念を強固にしていくのです。震災などが起き、、全財産を一瞬で失った時に、、多くの方は観念が崩れます、、、一瞬で無くなるならば、、、無理をして我慢して何かにしがみつくのって意味ないじゃん、、と。

全ての観念はいずれ崩壊する

全ての観念はいずれは崩壊します、、、、なぜならば観念自体が嘘だからです、、、先ず「私」というのは実在しません、、、「私」という存在をベースにした全経験は嘘です、、嘘をベースにした価値観は全部嘘ですからいずれは崩壊します、、、嘘で固められた価値観の中は常に苦しいので、、、出たくなります、、そして苦しみを生み出していたのは全部この価値観、観念であることが分かると、、、笑ってしまいます、、、

言葉とは、、、

言葉がどう作用するか

悟りとは言葉のカラクリを解明することです、、、言葉という人類最大の発明は、、、実はこの意識を完璧にこの体の中に閉じ込めるというとんでもないことを起こしました、、、意識の中に全部が在るこの現象界において、、この意識が人類が作り出した言葉によって夢の中に閉じ込められるというミラクルが起きたのです、、、このミラクルを起こしたのは勿論意識そのものではありますから、、誰かが悪いという安易なことではありません。

言葉は変幻自在にこの現象界を作り替える

言葉とは、、音の組み合わせ、、、音の組み合わせですから、、本来何も意味を持ちません、、、ですが人類はこの音を組み合わせ、、それに意味を込めるという発明をしたのです、、、「う・み」「か・ぜ」「わ・た・し」「い・ぬ」という感じに、、、これによって言葉を自由に生み出し、、その言葉を覚えることでこの現象界に意味を持たせたのです。。。

「わ・た・し」という存在

その過程で「わ・た・し」という言葉も作りました、、、これによって初めてこの世に「わ・た・し」が誕生したのです、、、、この言葉の発明以前には「わ・た・し」は存在しません、、、言葉が生まれ、、「わたし」が生まれたのです。。。この世界が夢だと言われる理由はここにあります、、「わたし」とは言葉が生み出した存在なのです。

作ってはみたものの

「わ・た・し」という言葉が発明された結果、、私が誕生したのは良かったのですが、、この私の存在をいつの日か、、実在するという勘違いを起こすようになったのです、人類は。。「私」の人生、、、私の幸福、、、私の敗北、、、などなど、、、、「私」とは言葉ですから実在しません、、ですがなぜか私は、、、幸福にもなれ不幸にもなれる存在になってしまったのです、、、これは事実ではありません。嘘です。

「わ・た・し」を再びラベルに戻す

私とは実在しないのですから、、この私が幸福になるというのは不可能です、、、実在しないのですから。つまり人類の不幸とは実在しない私を幸福にしなくてはならないという脅迫観念が生み出しているのです。私は不幸を感じる、、、不可能です、、実在しないのですから、、、でも不幸という感情は確実にある、、、、そうです、、勘違いはが生み出したこの私物語をやっているから不幸が生じるのです、、しんどいに決まってるのです。

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

諦めまくって残ったのが自我

教育とは、、、

教育とは、、、これはダメ、あれはダメ、、こっちもダメ、、、散々ダメと言われ続け、、唯一許されたことが教育です。。。ほぼ全部ダメだが、、、これだけはいいよと許された、、、部分が、、、自我として残ります。学校に行けば、、、ルールルールの連続、、そのルールの中で唯一許された範囲が自我です。。。。自我とは環境の中で残された最後の自由なのです。。。。だからこそ人は自我に絶対的な信頼を寄せ、自分とはこの最後の自由であると守りきります。

ところが、、、

ところがです、、この最後の自由を握り締め、、、絶対に死守しようと真剣に生きていても、、、この自由は制限が掛かり過ぎていて全く幸福になれない、、、、この自我があらゆる贅沢をしてもまったくもって嬉しくない、、、楽しくない、、満たされない、、となります。なぜならば、、、自我こそが、、、圧倒的に不自由な存在だからです。

そこへきて悟り

この唯一の自由防衛、、自我を悟りはついて手放せと訴えかけます、、、、唯一の自由範囲、、唯一の自由行動範囲、、唯一の聖域を明け渡せと、、、、冗談じゃない、、これだけは譲れない、、、これを譲ったらもう自分には何もないぞ、、、と拒絶反応を起こすのです、、、、ですが本当はこの自我こそが本当の自由を締め出し、、本当の自由を忘れさせている原因なのです。本当は自由でしかなく、、、周囲の環境に合わせて勝手に自由範囲を収縮していただけなのです。

自我を明け渡してみたら、、、

自我を明け渡してみますと、、、まさかの本当の自由がそこにあるのです、、、、今まで守ってきた自由は一体なんだったんだ、、、、唯一の自由だと信じて守り抜いてきたこの行為こそが、、自由を遠ざけていたことに気づきます。収縮して収縮して守ってきた行為こそが、、、本当の自由を完全に忘れ去らせていたことに気づきます。。。

言葉の脅威

落語を聞けば

落語を聞いたことがある人は分かると思いますが、彼らは、、一人で4役、5役と完全にやってのけます。聞いている方はその世界観に嵌まり込み、、、時に笑い、時に大泣きまでしてしまいます。。これはいったい何が起きているのでしょうか????言葉だけ、べしゃりだけで、、なぜこんなことが起きるのか????言葉とは実はただの音の違う形態をただ連呼しているだけです、、ひとつ一つの音には当たり前ですがなんの意味もありません。。。ところがこの音を組み合わせることで、、意味が生じ始めます、、、この音の組み合わせを利用して、、我々の脳は意味を作り出し、、その意味、イメージ、概念を想像し、、、その想像の中に閉じ込めることができるのです。

優秀な落語家とは

優秀な落語家とは、、音の違いを利用したこの言葉を駆使し、、、、言葉が作り出すイメージの世界、幻想の世界に聴衆を一気に引き込み、、その世界の中にさもいるかのように導くことができます。下手な落語家とは、、、本人がイメージする力が弱いがために、、、、イメージを相手に共有する力がないのです。聞き手もこれは同じで言葉をイメージする力がなければ、、、落語を楽しむことはできません。

一人落語をしている

我々は実はこの一人落語を毎日やっています、、、何か物を見れば、、その物に対するイメージが湧き上がってきます、、、誰かに会えば、、、、その人に対するイメージが同時に湧き上がります。。。。このイメージを実在と勘違いすることで、、、本当にそのイメージに沿ったコミュニケーションを展開する、、、、相手を大金持ちとイメージしていれば、、、大金持ち対応の対応をするのです。

真実などには生きていない

我々は現実の世界にしか生きることはできません、、ですがこの現実の世界の中でイメージをガンガン言葉で作り出し、、、一人落語をしているのです、、、その落語が喜劇ならば楽しいですが悲劇ならば辛い、、、全ては自身が作り出した言葉の意味がこれを生み出してします。人は皆裏切る、、このようなイメージを人に重ねれば、、、そのようなイメージの中で生きることになるのです。

本質が常に感じる

マッサージ

マッサージをすれば気持ちが良いを感じます、、誰が感じているのか????この私ではありません、絶対に、、なぜならば私は思考だからです、、、では誰だ???本質です、、本質がこの気持ちが良いを感じます、、、場所が移る、足の裏、、手、背中、、、、全部の場所で本質がその瞬間にこれを感じます、、、顔もやってほしいなーという思考が私ではなく、、その場で起こり、、それを本質が感じる、、、

映画

映画館に行く、、映画が上映されます、、、これを見ているのは誰でしょうか????「私」では絶対にありませんよ、、私は概念でしかないのでそれは不可能、、じゃあ誰が観ているのでしょうか???視界そのものが見ているのです、、、今映っている映像、、そのものの本質がこの映像に気づいているのです。「私」が存在していない以上、、本質が映像そのものに気づく以外ないじゃないですか。。楽しいが起こる、、、誰から「私」では絶対にないですよ、、、するとその場で楽しいが起こり、、、その瞬間に本質がこれに気づきます。

木に触る

木に触れる、、、感触、、、この感触は誰が感じているのか????私では絶対にないです、、私は概念ですから、、すると、、、この感触はその場で勝手に起きている、、、その場所こそがその場でこの感触を感じている、、、葉っぱを見る、この葉っぱを見ているのは誰か????私では絶対にない、、なぜならば「私」は思考です、、するとこの視覚に映る映像は、、映像そのものを作り出した本質が気づいている、、、

全ての経験はその場

全ての経験をしっかりと観察してみてください、、そして「私」という存在が全く居ないという前提で観察してみてください。するとその経験はその場でその場が直接作り出し感じていることが分かります、、、我々はどこまでいってもこん現象の背景であり、、背景がこの現象に気づき続けるということをやっています。そして背景と現象の関係には時間は全く必要なく、、、ただ経験、気づきが起き続けていることが分かります、、、今のこの「分かった」もこの場で起こり、、この場が回収します。

彼らは何をしているか分かっていない

人類とは何をしているか分かっていない人々のこと

人類とは、、、自分が何をしているのか分かっていない人々です。なぜかと言えば、、この自分の行動をコントロールできると真剣に信じているからです。行動をコントロールできると信じておきながら実際には全くそれがえきない、、、全員が全くできないのです。あの人は偉大だからできているはずだ、、全くできません。これがこの人生というファンタジーの苦しみの源です。

我々は背景そのもの

我々の本質は全現象が行われている背景そのものです、、、完全に動き続けるこの現象の起こる場です、、、我々の本質の中でこの現象が起こり続けている、つまり思考も感情も行動もただ起こり、、その場所こそが我々の本質です。。。そしてこの現象の全ても我々だという気づきが起こり、、そしてなぜそれに気づいているのだろう????という疑問が起こり、、、結果この現象が本質の鏡であるという気づきが起きます。

機械運動に反応しない

周囲は完全な機械運動です、、ただ反応を起こす存在でしかない、、そしてまさかのこの体、この体の中の思考、感情すらも機械運動であった、、、まさか!!!そこが理解できますと、、、突然自分がこの背景にシフトします、、、全背景が私だった、、、私という「名前」も消える、、、消え去る、、、なぜならば「私」以外が居ないから、、、私という概念も消える、、、、最後に残る「在る」という感覚、、、、そして最後に「在る」という概念も消える。。。何もない、、、

これをしなくちゃ

劇の中で

朝起きて「これをしなくちゃ」が一番に湧いてきたら、、まだ劇の中にどっぷりです。劇の中で自分という主人公の役にはまっています。朝起きてただ衝動に従った生の動きだけがある時、、それは劇から目覚めています。もう成し遂げる何かは存在せず、そこには生の動きだけがあります。この動きが動きに気づきます。

大人とは騙された人々

子供は朝起きても義務感や、ノルマは湧きてきません、、全くもって自由です、、これが悟った状態、、大人は朝から晩まで目的、義務、ノルマに踊らされ続けるのみ、、、劇の中にどっぷり浸かっています、、そして周囲と同じことをなんとかこなして生きていく。外に見える対象には救ってくれる何かは何もないことを本質では知りながら。

繋がる

この体の中に何かパワーのようなものが湧く場所があることを知ると大人の関心は内側に向いていきます。この内側に何か偉大なパワーがあるのでは???本当はこの体の内側なのではなく、、この3D映像そのものの奥にあるのですが、、そこにある何から直接パワーを貰う感覚が起こりますと、、、大人の関心は目に見える何かではなく、、その真相に行くのです。これが悟りの一歩です。

繋がりを利用する主人公

なんか繋がったぞ、、この感覚を主人公は周囲に見せびらかせ、罵り、またこの劇にのめり込んでいきます。。。繋がった「自分」を生きるのです。これが悟りの副作用です、、、繋がった「自分」は凡夫ではない、、これです。才能がある天才の悲劇の99%はこれでしょう。

主人公は居なかった

次の段階、最終段階、、、主人公は疲れ果て恥をかきまくり、、、もう何もかもを手放そうが起きた時に、、、悟りのメッセージが入ってきます、、、、もう何もないやるべきことは!!!の境地になると、、、入ってくる、、、、悟りのメッセージ、、、、「自分は居ない」「あの人も居ない」「全員がただの幻想」これが入ってくる!!!言葉がこの自分をぶっ壊す、焼き尽くす、完全燃焼。

我が人生の終焉

我が人生に興味なし

我が人生、、に一点の悔いなし、、、、という言葉がありますが、、、残念ながら、、、我が人生は、、、苦しみの連続、、悔いしかないのです。。。。我が人生は実は無かった、、これが真実です。。。我が人生と思っていたこの物語が、、、実は実在していなかった、、物語という幻想以外。

我が人生が終わると

我が人生が実は無かったという気づきが起きますと、、、本当に気楽になります、、、なぜならば心配しないといけない個人が完全に居なくなるのです、、、、この体も、家族も、全部が全部その体の中には個人が居なかった、、、なんという真実、これは完全なジョークです。

誰を心配するのか???

個人という存在が居ないのですから、、、誰を心配する必要があるのでしょうか????全くありません、、、これはとんでもなく気軽な世界です、、、そして孤独???な世界にも見えます、、、ですが、、孤独も何も全体しかなく、、、この全体は無限の全体です、、、、これは孤独とは全くの逆、、、広大無辺な世界、、それが我々の本性です。

助けたいという思いと

結果を気にしない軽やかさ

目覚めが起きますと、、起こる現象の全ては、、、自分の中で起きていることを実感します、、すると目の前で誰かが困っていれば自然と助けてあげたいが湧く、、、これは自尊心を高めたいとか、見返りが欲しいとか、、そんなんじゃなく、、ただ単純に助けたいが湧く、、、、ですがこれは結果にこだわるということもない、、なぜならば大前提として、、この世界には困った「個人」は存在しないからです。ですからただ自然に助けるが起こり、、ただそれだけ、、助けることが出来なくても、、、深刻さはそこにはない、、となります。

見返りを求めているのか???と疑われる

ですが相手の個人は、、こちらの行動を深読みする、、、何か期待をしているのではないか???となります。そこで相手は、、余計にこちらを警戒したり、疑ったり、という流れにもなるのです。個人を信じる者には全く理解がされない行動なのです、、目覚めた行動は、、、、誤解を生み続けます。