現象界の幽霊

幽霊を恐れる前に

幽霊を恐れるのは自由ですが、、、我々は実はこの現象界の幽霊そのものです。なぜか???この現象界を現実と誤解して生きています。本当は夢の中に生きているにも関わらずそれに気づかずに生きています、これって幽霊ですよね、、、幻想の中を現実だと勘違いして生きている人々、、それが我々現代人です。

死んだのに生きていると勘違いする

死んでしまったのに生きていると勘違いしている想念、、これが幽霊ですね、、、、我々はこの超リアリティのこの現象界の中で、、、時間、空間という幻想を生み出し、その中に「私」という幻想を生きる幽霊です。勘違いという意味では実は何も変わらないのです。幽霊が成仏する唯一の方法は勘違いを終わらせることです。

答えが必要ない

質問が湧くが、、

思考は次々に湧いてきます、、、いつ何時でも湧きます、、ですがこの思考は自然現象であり、、その思考には意味は全くないのです、、、ですから、、思考が湧いても、、その思考に意識を向ける必要がありません、、重要なことは、、思考とは自然現象であるというこの事実の認識です。「なぜ宇宙は広いのか???」このような疑問が湧いてもそれも自然現象です、、これを考えなくては!!!と思うのも自然現象ですが、、そこには意味は全くありません。

人間活動には意味はないのか???

全ては自然現象であるという認識を欠いた人間の人間活動には意味は全くありません、、人間の欲望を叶え続けることがあっても、、、それで思考が止まることはなく、、感情が収まることもなく、、無間地獄を歩むのみです、、、ですから思考、感情、全現象が自然現象であるという理解以外は意味は全くないのです。

時間がないのに動く????

この現象界は、、、

我々が見ている世界は変化します、、、変化するからこそ、、時間がある、、、という思考は最強に安定します。時間とは思考、概念ではなく事実であると多くの方は信じています。間違いない、、、と。ですが真実は異なります。真実は時間はなく、、ただ変化だけがある、、、となります。そんなことがあり得るのか???ありえます。今という瞬間の現れが、、、異なった表現に変わり続けるということです。漫画のレタッチと同じ、、異なった画像の連続が動きを作るのです。

一方で

一方で、、空は全く動きません、、空は何も起きない、、ただ無限の存在のみ、、空の中で何かが起こることはない、、、それが空、絶対、、、、この現象界はあくまでその反映、反射、鏡です。。。空が全く動かないのになぜ鏡である色(現象)は動くのか???それは空とは無限の存在だからです。。無限の存在である空の鏡である色は無限を表現するのです。つまり無限の動き、無限の経験、無限の輝き、無限の香り、無限の感触、無限の味を表現します。

色(現象)が全く動かなければ

色、現象界が全く動きを見せないことがあるのか???絶対にありません、なぜならば、、それでは無限の存在の鏡ではなくなってしまいます、、色は無限の存在の鏡である以上、必ず変化を起こすのです。色は有限の世界ではなくやはり無限なのは、、無限の鏡だからです。そして今現在有限に見えているという事実がこれが夢である証拠です。変化が絶対原則のこの鏡の世界で、、全く変化が起こっていないように見えるという事実、、これが夢出である証拠です。

自我の分裂

思考、感情、行動を起こしていない自我

実は自我は思考、感情、行動を起こしていなかった、、、この事実が理解できますと、、、、自我の存在は急激に小さくなります、、、絶対王政を敷いていたはずが、、、、突然、、、自我は、、ただの名前に成り下がってしまいました。絶対王政、、全部が全部この「私」がやっていたと信じていたのが、、、何もやっていない、、、窓際の係長と同じ、、何もしてない、、、、名前のみ、、、、、

名前のみなら、、自我ではない

名前のみ、、、これが自我です、、、すると自我というネーミングも堅苦しい、、、となります、、、これが自我の終焉です、、、ですが日常生活を送れば、、、さもこの「自我」ありきの反応がエンドレスに続きます、、、〇〇さん、、仕事を責任持ってやってください!と、、、、責任を持ってやるのは〇〇さんという自我の存在が絶対的にあるという前提の話ばかり、、、、、これでは辛い、、絶対に辛い、、

社会は自我ありきで周る

社会に出ると何が辛いのか???それは責任の全てがこの自我にかかってくるわけです、、、ただの名前でしかないこの自我に全ての権限が集まっているかのうような、、話の展開の数々、、、、で辛くなる、、しんどくなる、、、なぜならば、、、自我にはそのような力が存在しないのですから、、、統制できる力がないにも関わらず、、、できることになっていて社会が成立している、、、なんという悲劇でしょう。

至福が至福になろうとは思はない

既に至福であれば

幸せになりたい、、、これは不可能です、、なぜならば、、なりたいのが自分だからです。幸せは幸せになりたいとは思いません、、平和は平和になろうとは思いません、歓喜は歓喜になろうとは思いません、、静寂は静寂になろうとは思いません、、、つまり、、、自分とは絶対にこれらになれない存在なのです。

そもそも違うから

自分はなぜ幸福に憧れるのでしょうか???幸福になれないことを絶対的に知っているからです。知っているから憧れるのです、、、そもそも幸福であればそこを目指さない、、ではなぜこの自分は幸福ではなくなってしまったのか???もしくは幸福でない時間を過ごすことがあるのか???それは自分という存在こそが幸福から逸脱させたからです。全く存在しない自分という自我を形成し、、自分が全てを決めているという観念を作り出し、、そのストーリーを生きるという物語を想像し続けています。この行為が幸福、至福、平和を遠ざけているのです。

逆に言えば

自分という存在を信じる以外に不幸、孤独、悲しみ、鬱になることができません、、自分を信じることでしかこの感情を味わうことができません、、、不幸、孤独、焦り、憂鬱を味わいたければ、、、自分という存在が居ると信じることです。。悟りとは苦しい感情を味わうための唯一の存在「自分」が実は居ないことに気づくことです。「自分が居る」という洗脳を解き、、この世界から自分を解放することなのです。

なめんなよ

存在しない自我のために、、、

我々は存在しない存在「自我」のために、、、完全に振り回されていきてきました、、、存命していると信じて戦ってきた戦士が、、実は何年も前に王様は死んでいた、、と聞かされた状態、、、許せない、、、となります。ですがこの自我は当初は体を両親から守るために形成されました、、両親から嫌われてしまったら死んでしまう、、、そこで両親に合わせたキャラを作り上げるのです。。。。これが自我の正体。

これが本気になった

両親に好かれるために勝手に形成された自我、、、、この自我が実在すると本当に思い込み、、、この自我を永続させようとする動きが起こる、、、、なんという不運、なんという悲劇、、、、だからこそどこかでこの自我を成仏させなくてはなりません。本当は居ないのですから。死んだら成仏する、、とんでもない、、、、生きているうちにこの自我は成仏させるのです。

自我形成を完璧に理解する

自我というのがなぜ形成されたか、、、ここを徹底的に理解します。両親に好かれるために勝手に形成された自我、、、この自我を手放すには、、、体がそれを許可する必要があります、、、体がこの自我を作ったわけですから、、体がこれを手放せる状態にしなくてはなりません、、、つまり極度の緊張で自我を手放すのは不可能です、、、緩めて緩めて、、、体が、、もう自我は必要ない、、、そう感じるまで体を緩めていきます。

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。

自分が今に居れない理由

自分は記憶が作り出した思考だから

記憶が作り出した思考が「私」。なんともこの「私」は手間がかかった存在です、、なかなかに面倒な作業をしてこの私は今に存在しています、、、というよりも存在できないのでは???今には。なぜならば手間がかかり過ぎている、、、時間が必要ですよね、、記憶が立ち上がり、記憶から私が立ち上がる、、非常に面倒な作業が起こっている、、、どっちにしても思考ですね、、、ですからどちらにしても「私」という実在が、、、この現象界に降り立ったことはないのです、、、空想、妄想、アイデアとしての「私」が浮かび上がっただけです。

私を確認するには、、、

私を確認するには記憶を、、、探るしか方法がない、、、あの時私はこれをした、、、という思考を起こすしかない、、今。これ以外に私を発見できる方法はないのです。私とは本当は一瞬たりとも、、この現実に降り立ったことがない、、ゆえに過去を振り返って私は実在していたという夢を見ているのです。つまり時間がなければ私は実在しないことと同じです、、、だからこそ過去はないんですよ!と伝えると混乱します。「私」は過去にしか居たことがないからです、夢の中で。

自分が居なくなれば、、、

自分という存在は消え失せれば、、、過去も同時に消え失せます、、、過去が必要なくなるからです。。。過去とはこの自分を証明するものだったのです、、、過去を振り返ってみて「私がこの思考を起こした」と信じているのです。事実はただ思考が起こり、行動が起こっただけ、、、この体を通じて。過去は幻想なんです!!なんて言わなくたって、、自分が居なくなれば、、過去は勝手に消えます。すると未来も勝手に消えます。すると将来不安も勝手に消え、過去の悔やみを勝手に消えます。

個人が消え失せ、、

個人が消え失せますと、、相手も消え失せ、、自我の全てあが消え失せ、、生命のみが残ります、、、この生命に気づきているのは誰だ???が起こり、、、、それは生命を起こす存在なのでは???が起きます。。突然、、たった一つ、、空、絶対の存在に気づきます。空があって色があって、、、空と色は一つだ!!が起きます。

夢の中の会話

昨日みた夢の中で

あなたが昨日みた夢の中で、、、何人かの登場人物が現れたとしましょう、、、例えば中の良い友人三人組、、、この三人での居酒屋での会話の内容の全て、、、誰が考えているのでしょうか???瞬時に起こる会話の全て、、全くもって詰まることがない三人の会話の掛け合い、、これは考えてやっているでしょうか???あなたは全く考えず、、、ただの観賞者となってこの会話を聞いているはずです。なぜこんなことが可能なのか????一人で三役をやっています、、こんなことなぜできるのか????

会話など何も考えずにできる

会話など何も考えずにできるんです、、完全に湧いてきたことを話しているだけなのです、、1秒でも考えず、、ただ湧いてくるから成り立つのです、、、「私」など全く介在せず、、、湧くがままに口から出ています、、、これが真実です、、、夢の中では一人で三役を演じ、、会話を作り上げるわけです、、、こんなこと考えながらやれるわけがないのです。

自我など存在していない

つまり会話を考える自我、、思考を統率する自我など全く存在していないのです。。。全く存在していないにも関わらず、、、存在していることにして会話をしています、、、そして「あの人は面白い」となります、、ですがその人=自我ではなく、、、その人を通じてその会話が起きただけなのです。。。三人組で会話をしても、、、それを考える「人」「自我」「自分」「私」は一切存在せず、、、ただ会話が起こったのです。

自我が吹き飛ぶ

自我が吹き飛びます、、するとそこに何が残るか????誰もいない、、誰もかもが消える、、、ただ全体だけが残る、、、全体しかないのですから全体という「名前」すらも必要ない、、、、ただ「在るがまま」の状態、、、そこには時間も消えます、、、、そして在るがままに気づくが起こる、、、これは誰が気づいているのか????音でも光でも物でもない存在が先ずあって『空』、、、この投影(現象の全て)が在り、、気づきが起きます。

迸る情熱

情熱はこの体には無い

情熱はこの体には存在しません、、、情熱は、、存在そのものから湧き上がります、、、情熱は自我防衛システムとは全く関係のないところから生まれます。。。情熱とは、、、自我防御システムが起動していない時間かもしくは自我防御システムを俯瞰している時間、、、その時間に起きます、、、時間、、、とはこの自我防御システムが起動している状態のことであり、、、これが起動していない状態は、、時間から実は抜けます。自我防御ソステムを俯瞰すると、、、時間から抜け出し、、、そこに情熱が在るのです。

自我を形成するOS

自我とは記憶をベースに作られた、、プログラムです、自我というプログラム、、そして自我が在るという前提で起こった経験の全てが記憶されたデータが存在し、、この二つがリンクされることで、、思考、感情、行動が常に湧き上がってきます。この動きの中には情熱はありません、、ただのプログラムの起動に過ぎないのです。このプログラムの起動時間は基本苦しいので、、人は、、、、癒しを求めるわけです、、それが温泉だったりパチンコだったり読書だったり、TVだったりです。感じるというのは自我防御システムにはできないので、、その瞬間、この起動を安ませれるのです。

自我防御システムを起動させない

自我防御システムはこの体を守るために形成されました、、ですから、、この体を守る必要性が起これば、、このシステムは必要なくなります、、、ならば、、、さらに優秀なプログラムを作り直すことで、、ここから脱却できます。ではそのプリグラムとは???その偉大なプログラムとは何でしょう??それが、、、宇宙というプログラムです、、この宇宙全体を引き起こすプログラムに同期してしまえば、、いいのです。神というプログラムでもいいでしょう。。。これが起これば、、自我というプログラムは消えます。

真我というプログラム

自我というプログラムから真我というプログラムに同期させるには、、真我というプログラムを理解しなければなりません、、そのために我々は真我を学んでいます、、今このブログもそのために書かれています、、ヨガは体を感じて、、真我を感じ、、真我そのものが感じ、、自我から真我への自動シフトを起こすメソッドです。瞑想も思考を感じ、真我を感じ、、真我が感じ、、自我から真我への自動シフトを起こすメソッドです。