苦しみの根源が分かってしまえば苦しみの五割は消える

なぜ苦しいのか?苦しみの根源がわからないから

人生がなぜ苦しいかと言えば苦しの根源がわからないからです。クラスで人気者になろうと、学年で一番の成績を残そうと、学校一のスポーツ選手になろうと、超進学高に進めても、高収入を得ても、子宝に恵まれても、苦しみが終わることはありません。新しい苦しみを解消すると必ず次の苦しみが出現します。新しい目標を達成すると必ず次の目標を目指さなくては苦しくなります。この無限地獄をどうしたら終わらせることができるのか?この答えを明確に持っている人はほぼいません。

苦しみの根源はまさか自分がいないのに居ると勘違いしていること

この人生ゲームの苦しさの原因をほとんどの人が見抜けないのには理由があります。それはこの自分がいるという事実が実は事実ではないということです。この心身こそが自分だということが実は錯覚なのです、ここから欠落感が湧き出しているとは誰も見抜けません。なぜならばこのストレスを解消しようとこの自分が頑張ってきたのです、なぜ自分自身の勘違いがこれを生み出したなど見抜けるでしょうか。ストレスはこの社会、国、人間関係が生み出したのだと信じたいのです、いきなり自分の錯覚がストレスの根源など認めるわけにはいきません。必死に問題解決を努力してきた自分自身こそがストレス源など、、冗談じゃないという話です。

諦めてください、今求めている欲求全てが満たされても翌月には不足感が湧いている

今求めている欲求の全てが魔法によって全て満たされても翌月には不足感は何も変わらず起きているはずです。残念ながらどれほどの大きな欲求が叶ってもこの事実は変わりません。なぜならばどんな夢、目標が叶ってもそれを叶えたと思っている自分自身がこのストレス、不足感を発現し続けているからです。まさか自分でストレスを発生させそれを解消し続けていたとは気づいていないはずです。先ずは自身でストレス、不足感、欠乏感を発生させそれを解消しようとする無限地獄を作っていたとは。この世で最も尊いと思っていた自分自身こそが不足感の発生源であったらもうこの問題は解決できません。

今がどんなに苦しくてもその苦しみの全ては悟るためにある

苦しみの全ては悟り解明の衝動

苦しみとはなんでしょうか、苦しいという感情はどこから生まれるのでしょうか。苦しみを解決する人が現れたならばこれはノーベル賞100個分の価値があるといっていいえしょう。しかしこれまでこの問題を解決して評価された人はなかなかいません。実は釈迦、キリストはこの問題を正確に解明し答えを出しました、結果大々的に二人は評価を受けましたがやがてはその教えは形骸化しそして書き換えられ事実無根の内容になってしましました。苦しみの解明は大変ショッキング過ぎて正確に伝わっていく内容では絶対にありません。

苦しみとは何か?それはこの心身こそが自分だという勘違いから始まった

苦しみとは何か?答えは明快です、この心身を自分自身と勘違いすることからスタートします。この体、そしてこの思考、感情を自分のものと勘違いすることでこの人間ゲームはスタートするわけですがこれが誤解、錯覚、間違いなのです。結果はこの人間ゲームでは何を達成しても、何を手に入れても、何を評価されても不足感、欠乏感が湧いてくるという無限地獄に突入します。答えが永久にでないこの地獄が続くわけです。世界中から評価された俳優がドラッグ中毒になり、世界中から称賛された政治家が自殺をする、世界中から評価された科学者が鬱で苦しみ、世界中の富をえた資産家が飛び降り自殺をするという答えが見えないゲームがスタートするのです。

答えは簡単、この心身が自分ではないと見抜くこと

この心身が自分ではないと見抜いてしまえばこの不足感は湧いてきません。大いなる一つがこの心身を自分と勘違いすることでこの人間ゲームはスタートしますが同時に不足感、欠乏感が自動生成されるというおまけが付きました。この不足感、欠乏感を埋め続けるという人生ドラマがスタートするわけです。大いなる一つの代替品を探し求め続ける旅です。大いなる一つに再び戻る、洗脳が溶けるまでこの欠乏感、欠落感は続きます。

全存在は全存在ゆえにあらゆる世界を許可する

人間ゲームでは浮遊霊も念力も超能力もなんでもあり

全存在は全存在ゆえに人間ゲームにあらゆる可能性、多様性を持たせてくれます。輪廻転生、守護霊、憑依霊、念力、アカシックレコード、チャネリング、空中浮遊、、このゲームはゲームであることが簡単にバレてしまっては意味がないのであらゆる選択肢、可能性を作りゲームに熱中させるようにできているのです。例えばドラゴンクエストには裏面というのがあります、表面をクリアーしたらまさかの裏面の登場です。現実社会をクリアーしたらまさかのスピリチュアルな世界が登場するのも同じです。現実的欲求を満たし切った人間は、精神的欲求、次いで霊的欲求を満たすように設定されているのです。これは全て自我ゲームの不足感、欠乏感、孤独感を埋めるために設定されています。

思考を変えると新しい観念が生まれ新たなゲームが現れる

この人間ゲームを人間ゲームにし続けるための設定は思考を変えること、観念を変えることが重要になります。脳の認識を新しい知識で変えていくことで観念を変え見える世界を変えていきます。ドラゴンクエストの表面、裏面の切り替えを人間の観念を使って変えていきます。その人が思考するような世界が広がるように設定されているのです。こうして人間ゲームは永続的に続くように工夫されているのです。人間の観念書き換えは人間ゲーム継続の鍵です。

現実的欲求、精神的欲求、霊的欲求あらゆる欲を満たしても満足しないこの欲求は人間であるというトリックを見破らない限りクリアできない

マズローの欲求五段階説ではないですが生理的欲求、所属の欲求、社会的欲求、承認の欲求、自己実現欲求、自己超越欲求と、、欲求は延々と続くのがこの人間ゲームです。なぜならば自身を人間であるとい勘違いをしている限り不足感、欠乏感は延々と湧き出てくるからです。このトリックを見破らない限り我々はラットレースのように延々と走り続けていくことになるのです。自分自身がこの心身ではないという悟りを開かない限りこの苦しみは延々と続きます。こんなに努力を重ねてきたのに実はこの心身が自分ではなくてそう錯覚してきた全存在こそが自分だったという夢から覚める体験をしない限り人間ゲームの苦しみが続くのです。

全存在である認識が感じていない世界はない

今お茶を飲んでいる時に全認識がそれを認識する

あなたがお茶を飲む時にお茶を飲んでいるのは見かけ場人間ですがそれを認識しているのは気づきの意識、全存在、全認識です。お茶が口に入り、喉をつたって食道を通っていく途中までを意識しているのはあなたではなく気づきの存在です。いや違う、全て人間である私が認識しているというならば血液の流れも、胃の動きも、腸の動きを認識していないことは説明がつきません。人間である私を使って全認識が認識する、これがこの全存在ゲームです。

目の前にいる友人の口に入る食べ物の食感は認識できていない

では目の前で食事をしている友人の食感、歯応え、美味しさを認識しているのは誰か?それは誰でもないです。その事実はないのです。誰も認識していません。友人は美味しいと曰うかもしれませんがその事実を認識できません。あなたの食感、歯応え、美味しさを認識しているのはこのゲームを創造した全認識ですがその全存在が友人の食感、歯応え、美味しさを認識できていないわけですからその事実はないのです。ゲーム上そう見えているだけです。友人が居るというのは認識していますからその認識は事実です。ですが友人が食事を食べている歯応えは認識できないのでそれはそう見えているだけです。事実ではありません。全認識が認識していないことは存在しないのです。全存在が認識していない事実があるとしたら全存在は全存在ではなくなってしまいます。

あなたが雨を感じ、風を感じ、香りを感じているならばそれだけが事実、それ以外は何も起こっていません

全存在が認識する全てが全てです。あなたが今コーヒーを飲んでいてコーヒーの味を感じているならばその事実だけが世界中で起こっているたった一つのことです。これ以外の事実は世界中で起こっていません。例え起こっていると言ってもそれは情報であり事実ではないのです。あなたの認識は全存在の認識です。それ以外の認識が起きていないならばそれが全てです。世界の裏側で起きた事件の被害者に対し同情を示すことはできますがあなたの目の前でその事実を認識できていないならば実はそれは起きていません。あなた(全存在)が認識していないならば起きているはずがないのです。もちろんその現場に飛行機を使ってあなた(全存在)が見にいけばその事実は起きるでしょう。その時はその事実が起こるのです。

全存在しかいないこの視界以外に存在があっていいわけがない

今この現実を認識している存在こそ全存在

今、この瞬間今を認識しているのが全存在です。今この瞬間認識していないことは何もないのです。もしもあるとしたら全存在が認識しないところで何かが起きているということになります。そんなことがあっては全存在が全存在ではなくなってしまいます。よってこの現実だけが今ここで起きておりそれが全て、地球の裏側では何も起こっていないし太陽系のどこかでも何も起きていません。この目の前の現実だけがあり、そこで五感を通じた認識、経験が全て、それ以外で経験が起きていたらそれは全存在が認識していない認識があることになり全存在はそのまま全存在でなくなってしまうのです。

10年前に別れた友人は今何をしているだろう?

10年前に別れてしまった友人は今どこで何をしているのか?答えを言います、いません。視界にいない人間はこの世にいません。もちろん卒業名簿をから電話番号をかけて10年ぶりに会ったとしましょう。会う瞬間その人はこの世に出現します。その瞬間までは声だけの出現でしょう。小学校時代の友人たちは今この瞬間にいなければいないのです。もしも居たとしたら今この現実を認識している全存在が認識しています。今全存在が認識していないならばいないのです。

会社に行っている間奥さんは自分を待っていないのか?

会社に行っている間、奥さんが姿が見えないならば居ません。存在が消えています、あなたが家に帰ったその瞬間までこの世にいないのです。あなたが会社にいる間退屈に待っているたんだと言ったとしてもそれは今言っているだけであって証拠は何もないのです。全認識が認識していないことは何も起こっていないのです。それだけです。全認識は全部を認識するから全認識であって全部を認識できない全認識は全認識ではないのです。

今ここ以外に事実が隠れているという思い込みから不足感を生産し続ける人間活動

今は平和だが将来はわからない

今は平和に生きれているが将来は不安だから毎日準備を続けよう、これは多くの方が抱き続けている思考のパターンです。今ここは平和だが、、、これが勘違いです。今ここに入り込めれば戦争中だろうが、火事場だろうがそこは平和、安堵、歓喜なのです。これ以外はありません。今ここはいつでも歓喜、安堵、平和なのです。今ここを離れ思考の世界(夢の世界)にどっぷり入り込むとそこから不足感が湧き出してくるのです。歓喜な状況、平和な状況、安堵の状況はないのです。今ここに一つになった時に歓喜、安堵、平和にシフトするのです。

将来のことは分からないが、まずは今ここで平和になる

今ここで平和、歓喜、安堵になれなければ将来なることもできません。そもそもそのような条件はないのです。今ここが歓喜、平和、安堵です。今ここが不足感、孤独感、欠落感ならば恐らく将来もこの状態でしょう、なぜならばこの事実を知らないからです。平和、歓喜、安堵とは条件を揃えて人間が手に入れるものではありません。平和、歓喜、安堵とはそれを求める自分が実はいないことを悟ることです。平和、歓喜、安堵とはそれを探し求める自分ストーリーの夢から覚めることです。

今ここで平和そのものになれてなぜ将来を心配するのか

将来の不安のほとんどは平和、歓喜、安堵になれない人の心理状態です。ですからそのようなものに振り回される意味は全くありません。平和、歓喜、安堵を手に入れる条件と勘違いしている人間活動者の思考がこの将来不安を生み出すのです。全存在の自我ゲームがこの将来不安を生み出します。自我ゲームから降りてしまえばそこには全存在(歓喜)しかないのです。全存在が将来不安を抱えるほどバカらしいことはありません。もちろんこの将来不安ゲームを楽しんでいるのも全存在ですから万事OKです。

究極的に言えば事実以外は何も起きていない

私は生きているということすらも思い込み

全存在が全存在体験をしているこの現象の世界では今起きている事実以外は何も起きていません。もしも起きている事実以外のことが起きているとしたらこれは全存在ではなくなってしまいます。全存在が全存在であるここで全存在以外の現象が起きているわけがないのです。今ここ=全存在です。ここでいう今とは時間とは全く異なります。時間とは脳の記憶が作り出した創造物です。創造物を超えたものが今です。私は生きている、これも思考です。生きているっていうのは多分人間として生きているということでしょうが、その事実はありません、というか認識していないはずです。私がただある、ただこの体が動いている、、ただ語感が作用している、これは事実です。全存在がこれを認識しています、ですがこの私(人間)が生きて人生で歩んでいるというのは思考です。事実ではありません。全存在が認識していないことは何も起こっていないということです。

実は人間活動のほとんどが思い込み

将来のために今勉強をしないと大変なことになる、、だから勉強をしよう。これは思い込みです。勉強しないと大変なことになる、、という事実はここにありません。思考の中、夢の中にどっぷりと浸かる思考です。今起きていること、これが全てです。これ以外は存在しようがありません。私は認識していない事実があってだからこそ今のうち色々な準備をしよう。これは現実ではありません。事実は今ここで起きていることが全てです。事実のみを受け入れているとそこに思考が入り込む余地がないのでそのまま至福、歓喜、安堵に入ります。この事実を理解した時に人(全存在)は思考への取り憑きを辞めます。今ここで至福に入れるのに何の準備が必要なんでしょうか。

今ここから至福に入れる人間(全存在)が準備をしなくては至福に至れないと勘違いするメカニズム

主語を人間とするか全存在とするかで行動が全く変わってしまいます。人間を主語にすれば至福とは準備に準備を重ねて苦しい山を上りようやく辿り着くというストーリーに入ります。主語を全存在にすれば全存在そのものが歓喜、至福、安堵ですからその状態にシフトするだけです。そこに準備は一切不要です。思考を完璧に抜け落とさせれば人は全存在に強制シフトします。なぜならば心身がこと自分であるという思い込みは思考だからです。事実ではありません。今ここで至福、歓喜、安堵になれるのにわざわざ準備に準備を重ねて山登りをする意味はないのです。もちろんその山登りも全存在の苦しみ体験ですからそれもまた良しです。

スーパーコンピュターをアップデートする意味とは

知識が悪い訳ではない

知識をつけることは悪いことではありません。知識をつけることはこの現実社会で生き抜いていくために重要なことではあります。選択肢を広げます。むしろ知識をつけるために無心になって取り組めば学ぶことで無我に入ります、ワンネスに入ります。即歓喜、感動、至福です。学ぶことを通じて人間は神に戻るのです。

受験勉強も悪くない

受験勉強を通じて無心モード、無我モードに入ることは可能です、そこに思考が出る幕はありません、集中して勉学することは悪いことではないのです。人は何からでも無心モード、無我モード、夢から脱出モードに切り替えれるのです。知識を得ることから、無心、無我、全存在に入ります。

ワンネスがスーパーコンピュータを有効に使う

知識をつけることで無心、無我、ワンネスへの切り替えができたら次にこの知識を使ってスパコンを使って明晰に考察することもできます。スパコンを使い続けていれば不足感が湧いてくることを自覚できていれば危険なこともありません。スパコンを使う時は人間、自我モードに切り替わりますから長時間使用は避けなくてはなりません。思考=この心身こそは自分であるという自我モード起動スイッチです。

思考は自我モードに自身(全存在)を切り替える

思考を使えば自我モード全開に

思考自体は何も悪くありません。思考はこの体をサバイブさせるためのスーパーコンピューターです。だからこそこのスーパーコンピューターが優れているほどにこのスパコンを使い倒したくなります。ですがこのスパンコンは人間にしか使えません、つまりスパコンを使い倒す時に人間に戻るのです、人間であるという錯覚を強めます。人間モード、自我モードは苦しみ生み出しモードです。不足感湧き出しモード=人間モードですからスパコンを使い倒せえば使い倒すほどに不足感が湧き出してくるのです。スパコンで問題解決が終わった時には同時に不幸になるというおまけがつきます。

スパコンを使ったら即無心モード、無我モードにシフトする

無心モード、無我モードは幸福、至福、歓喜、安堵です。このモードにいる限り全存在が全存在に戻ります。人間錯覚モードが解除されます。幸福が幸福行為をするだけのゾーンに戻ります。スパコンはたまに使うのみにして基本は無心、無我、真我モードでいるのが得策です。無心。無我、真我モードには時間、空間という縛りがなくなります。思考、人間、自我モードでは時間と空間の制限を受けます。思考、人間、自我モードは全存在との分離ですから不足感、欠落感、孤独感湧き出しモードです。

優秀なスパコン使用者が自殺に至る理由

優秀なスパコンを持っている人はこのスパコンを使い倒したくなります。なぜならば大変大きな結果を連発できるからです。ところがこのスパコンを使っている時、自我モード、人間モード全開になるので不足感、欠落感、孤独感も全開になります。大きな結果を出すとともに不足感が全開になるというおまけが付いてきます。優秀なコンピュータを持つ人は、結果が出た後に自身の欠落感に絶望して自殺を図りたくなるのです。優秀なミュージシャン、優秀なエンジニア、優秀な実業家がたまに自殺しますがこのパターンは大いにあります。

全存在が見ていない世界もない

あなた(全存在)が見ていない世界は存在しない

あなた(全存在)が見ていない世界があるとしたらあなたは全存在ではありません。あなたが見えている世界は全存在が見ています。全存在が見ているのが一部だとしたらそれでは全存在の意味がありません。全部が見えているから全存在なのです。ということは今あなた(全存在)が見ている世界が全世界です。それ以外に世界は存在しません。あなたが今四畳半の部屋にいるならばその世界が全世界です。それ以外に世界は存在しません。

両親と離れて暮らしているならば

両親とは一年間に一回ぐらいしか会わないならば両親は一年間で1回しか存在しません。それ以外はこの世に存在していません。もしもあなた(全存在)が見ていないだけで実は存在するとしたらあなたは全存在ではなくなってしまいます。全存在とは全て見えているから全存在なのであって全存在が見えていない世界はこの世にないのです。故にあなた(全存在)が見ている世界=全存在です。

あなた(全存在)の背後には何もない

全存在(あなた)の背後に何かがあるとしたら全存在以外の何かがあるということになり、全存在は全存在ではなくなってしまいます。故にあなたの背後には何もないということになります。あなたの見えていない世界で何かが存在しているとしたらあなたは全存在ではなくなってしまいます。故にあなたが見ている世界=全存在なのです。