愛そのものが本質だから自分は愛されたいと願う

本質は愛

我々の本質は愛です。この愛は対象を必要としない愛です。ですから人間社会で使われている愛とは意味が違います。とはいえ人間、自分は愛されることを強く願います。本当に自分は愛されているのか?という思いを強く持ちます。これこそが我々の本質が愛そのものであった証拠です。自分という全体から分離した存在は愛から分離した存在でもあります。ですからこの分離意識を持った瞬間から愛を追い求めるのです、故郷(愛)を追い求める旅に出るのです。その最もシンプルな形が愛されたいという欲求です。

この二元世界での愛は条件付き

本質は愛そのものであるから自分は愛に飢えます、愛を渇望します。ですがこの二元世界での愛は対象に向ける愛であってこれは本当の愛ではありません。あなたが愛してくれるならば私も愛します、愛しているならば証拠を見せて欲しい、、愛というものが交換条件に使われてしまうのです。本当の愛とは取引を必要としない愛のことです。取引を必要とする愛は偽りの愛です。この自分劇場の世界においては本当の愛は存在しません。

母親が自分を忘れて子育てに没頭する時、愛だけがある

母親が自分を忘れて子育てに没頭する、子供の食事、着替え、眠り、、、この時母親は人間ではなく愛そのものになっています。自分という存在が消え去り愛がそこにあります。見返りを必要としない愛そのものに触れた子供は自身の本質をそこから思い出すのです。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。

成就することは何もない

成就とは主語述語の世界

至福になる、幸福になる、安定になる、、、これらは何かしらを成就する世界の話です。主語があって述語がある世界です。これは二元の世界の話です、つまりストーリーの話になります。自分というのがあってその自分が何かをするストーリーの話になります。動詞というのは主語が必要です、主語が必要な世界は二元の世界になります。主語が必要な世界は幻想の世界です、錯覚の世界です、、、この錯覚の世界に居る限り本当の至福はありません。あるのは全て時間の中での一瞬の幸福、至福、安堵、平和、歓喜です。我々が本当に求めるのは時間を超えた至福、歓喜、平和です。それがあるのは主語述語の世界ではありません。主語が抜け落ちた世界、自分が抜け落ちた世界です。

それでも食べるためには働かなくてはならない、、

そうは言ってもこの自分は今日も生きるために働かなくてはなりません、これは事実です。この体というものがある限り生き抜いていくには食べなくてはならないのは事実です。ですがそのために自分が必要ということではないのです。この体の中に自分が居なくてはならないわけではないのです。野生動物が生き抜くために狩りをしなすがそのために自分という存在が必要なわけではありません。ただ狩りをして食事にありつくだけです。何かをするためには体の中に自分という存在が必要だというのは錯覚です。この体の中に自分という独自の存在が居るという錯覚を育てますとその自分は不足感を湧き出します。

名前を呼ばれても=自分と錯覚しない

この人間社会に生きていますと名前が必要になります、そしてその名前を呼ばれるようになります。相手が自身の名前を呼べばこの体の中に自分が居るという錯覚が強化されます、ですがそれは違います。相手がこの体に対して名前を呼んでも=自分が居ると錯覚しないことです。人は名前を呼ばれることでこのストーリーに浸かります。それによって不足感、孤独感、欠乏感が湧くというスパイラルに入るのです。

「自分=全体」も正確には間違い

自分という感覚は分離したからこそ芽生えた感覚

自分がない時、全体だけがあります。本当に美味しい物を口にした時自分を忘れます、、その時に全体としての自分を感じません。ただ歓喜だけがあります。存在を自覚する自分はそこには居ません。かなり高度なレベルの話になってきました。本当に良い音楽に聞き入る時、自分を忘れます。その時歓喜、幸福だけがあります。これを感じる自分が居なくなります。自分が全体に戻った時にはそれを自覚する存在が居なくなるのです。本当に面白い映画に魅入る時自分を忘れます、その時楽しいだけがあります、、、それを自覚する何かは存在しません。この映画を楽しんでいる「自分」を自覚する時、その映画を楽しんでいません。ナルシストがどこまで行っても薄っぺらいのは常に自分を手放せないからです。

自分は神である、、、間違い

本当に全体に戻っている時、、、私、自分という感覚はなくなります。ですから私は神、私は全体という感覚はないです。私はワンネスもないです。書道にのめり込み書と完全に一体になっている達人は私は全体、神だ、、、などという感覚を持っていません。何もない、、、、ただ認識だけがあります。私は神である、私は全体である。。。これは主体客体の世界、、、二元の世界の感覚なのです。これは非二元、ノンデュアリティーのメッセージです。主語があってその主語が何かを認識する世界は分離の世界です。この体の中に自分が居るという世界と変わりません。

フルマラソンを走り終えて、、、

人はフルマラソンを走り終えた時に、、、自分は安堵している、、自分がやり切った、、、自分はほっとしている、、、という感覚を持てません、、、、本当の安堵、本当の安心だけがあります。自分のことなど一瞬で忘れます。本当の安堵、安心とは自分が居なくなった時に訪れるのです。だからこそ自分は本当の安堵、、などという感覚はありません。フルマラソンを毎年のようにチャレンジする人は、、実はこの感覚を得たくて走っています。自分というものを完璧に忘れ去った時の安堵、安心、歓喜が忘れられなくなって走ります。なんという皮肉でしょう。完全なジョークです。

「実は自分が居ない」という絶望的なメッセージ

悟り、ノンデュアリティーが陽の目を見ない理由

悟りもノンデュアリティーも陽の目を見ることがないメッセージです。実は自分が居ない、、などというメッセージは気が狂ったメッセージであり危険極まりない内容です。自分が居ないなどと病院で話せば、、即入院患者リスト入りです。二度とそこから退院できることはないでしょう。ですが自分がこの体の中に居るという人間の共通認識はどこまで行っても科学的に証明できません、医学的にも証明できません。99.99999%の人々がこの体の中に自分は居ると思い込んでいるからこそこれが既成事実になっていうのです。

朝から晩まで狂ったように忙しい日には自分が居ることを忘れている

この体の中に自分が居るなんて当たり前ではないか?そのように考える人の、、、絶望的に忙しい日にはおそらく自分の存在を忘れているはずです。自分のことを忘れている時が確実にあるということは自分がこの体に居るということを放棄しています。そしてそれでも全く問題なく生活できています。自分がこの体の中に居るという感覚がなくても何も問題なく上手く生活は回るのです。これはどういうことでしょう。覚者が「この体の中に自分は居ない」と気づいた後も普通に生活をし仕事をできるのはこのためです。

むしろ自分の存在を忘れてしまっている人の方が上手くいく

辛い仕事というのはその仕事に集中できない仕事のことです。その仕事をしているとあらゆる雑念が湧いてきてなぜ私がこの仕事をしなくてはいけないのか?と考えてしまう仕事こそ辛い仕事です。楽しい仕事とは仕事に熱中できて自分の存在を忘れてしまうような仕事です。これを天職と呼びます。自分の存在を忘れれるような恋愛、仕事、遊びこそが楽しい、、これは誰でも知っている事実です。

本屋に行けばこの自分を幸福にするための本が並んでいる

「自分」を幸福に、快適に、楽しませてくれる書籍の数々

本屋に行けば入り口からあらゆる情報が揃っています。幸せの見つけ方、最高のパートナーとは?株の儲け方、起業独立の方法、新しい働き方、WEB3.0、動画時代のビジネス、働かない生き方、経済ってそうだったんだ会議、、まーとにかく全方位からこの自分を楽しませ、幸福にし、サバイバルさせてくれるノウハウが揃っています。どの切り口からでも全方位そこにはノウハウがあります。しかし少し冷静に考えてみますとなぜこんなに新書が次々に出版されるのか?これだけの切り口で個人を幸福にできるノウハウが既にあるならばもう必要なノウハウはないはず。。。にも関わらずなぜ次々に新書が出るのか?ということです。

「自分」を幸福にするためのノウハウでは幸福になれない

自分を幸福に、快適に、堅実に、安定的にしてくれるノウハウの書籍の数々が、、、毎年のように手を替え品を替え出版され続けてきます。なぜこれほどまでに「自分」とは幸福になるのが難しい存在なのでしょうか?時代は移り行くのだからノウハウも変わって行かなくてはならない、、これも理解できます。ですが本当でしょうか?そうではなく自分を幸福にするのが難しいのではなく自分とは幸福になれない存在なのだとそろそろ諦めをつけてもいいかもしれません。一瞬一瞬であれば幸福、快適、安堵を味わえますが、、長期的な幸福、快適、安堵は自分には手に入れることはできない、、、こう諦めてしまうのはどうでしょう。これをサレンダーと言います。

実は自分が居ない、、、

本屋に行けばあらゆる方法で「自分」を幸福にするノウハウを発見出来ますが、、、この全部を試しても我々は長期的な幸福を手に入れることはできません。それはこの自分こそが幸福を遠ざける存在だからです。「この体の中に自分が居る」という現代人であれば当たり前の発想こそが幸福を遠ざけているのです。勿論一瞬一瞬、ショートスパンでの安定、歓喜、幸福を手に入れる方法はありますしそれも可能でしょう。ですが自分とは直ぐに不足感に襲われ次の何かを探さずにはいられない存在なのです。この体の中には自分が居ない、、この絶望的なメッセージだけが根本解決を示します。

自己超越というマズローの教え

マズローは悟っていた

私は中学生の頃にマズローの欲求五段階説を本屋で立ち読みした際に興奮したことを今でも覚えています。人間には欲求があり、この欲求に階段がある。生存欲求から始まり、所属の欲求、社会的欲求や承認欲求、最後が自己実現欲求であると。最後の階段は自分が好きなことで世の中の役に立つ、、これに痺れました。立ち読みながらも興奮したのを今でも覚えています。そして自分自身が好きな仕事で食べることが出来るようになった時に実は自己実現欲求の先に自己超越という段階があることを知りました。これは私が25歳ぐらいから研究していたテーマとガッツリ合致したのです。やはりマズローは只者でない、そう確信したものです。

自己超越という言葉は凄い

悟りとは自己超越です。素晴らしい解釈です。自己を超える、、まさに完璧な表現。多くの方は悟りを自己の究極の形であると誤解しています。悟りを完璧な自己と誤解しています。違います、悟りとは自己を超えた状態、自己から離れた状態、自己のカラクリを見破った状態のことです。マズローは人間を研究しそこまで掴んでいたのです。マズローの観察眼はまさに自己を超越しています。非常に興味深い人物です。

自己実現で人生は完璧になると信じていた

20代に仕事でストレスを抱えていた時、私は仕事さえ好きな仕事に就ければ絶対に究極の幸福状態になれると信じていました。これほど仕事がストレスフルならば仕事でストレスさえ無ければ人生は最強になると。幸福でい続けるに違いないと真剣に考えていました、ですが実際はそうではない。どんなに好きな仕事で食べれていてもやっぱりもっともっとが湧いてきます。このもっともっとはいつでもどこでも自分を襲うのです、マジか?!という心境です。ですが今はわかります、人間というこの存在をどう捉えるかで苦悩は延々に続くことを。

さあ自分を卒業しよう

自分とは人間ゲームの表面

ドラゴンクエスト3というゲームがありこれには表面と裏面が存在します。表面をクリアするとまさかの裏面に突入という流れです。私はこの人間ゲームの表面こそが「この体に自分が居る」という設定ゲームだと思います。そしてそこを見破り次第、次のゲームに裏面に突入すると。表面は非常にエキサイティングです、なぜならばこんな小さくて卑小で極弱な体の中に自分が居るという史上最低の初期設定だからです。勿論この体の中に自分が居ないということが分かってもこの体がパワーアップすることは絶対にありません。ですが少なくとも深刻さが消えます、マリオを自分と思っていた自分がマリアは自分ではないと気づく気軽さです。

裏面は「経験はあるが自分はいない」

この体の中に自分は居ないという気づきが起きても当然経験は続きます。朝起きてコーヒーを飲めば美味しいと感じるし、運動をすればスッキリします。人とコミュニケーションを取れば喜怒哀楽全部起こります。ですがそれを所有する個人が居ないという点が全く異なります。経験、感情、思考だけが起こり続けます、そしてそれを所有する個人が消えています。この体に向けてあらゆる人がアプローチをかけてきてもそれはこの体に向けてのこと、それだけです。個人としてそれを所有しないのですから周囲からすれば飄々と生きているようには見えるはずです。多くの方は全てを自分ごととして捉え重くなっているのです。

自分ごとと捉えないのは無責任?!

全ての出来事、感情、思考を自分ごとと捉えないわけですから無責任に映ることもあるでしょう。もっと深刻に悩むべきだ、もっと熟慮を重ねて行動すべきだ、、、と。ですが実際には、、自分ごとと捉えないことで頭脳を常にリラックスさせておくことができますから頭脳が明晰になっていきます。この体に起こる問題に対して迅速に明瞭に処理していくことができるのです。無責任どころか積極的解決に向かいます。

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。