「自分=全体」も正確には間違い

自分という感覚は分離したからこそ芽生えた感覚

自分がない時、全体だけがあります。本当に美味しい物を口にした時自分を忘れます、、その時に全体としての自分を感じません。ただ歓喜だけがあります。存在を自覚する自分はそこには居ません。かなり高度なレベルの話になってきました。本当に良い音楽に聞き入る時、自分を忘れます。その時歓喜、幸福だけがあります。これを感じる自分が居なくなります。自分が全体に戻った時にはそれを自覚する存在が居なくなるのです。本当に面白い映画に魅入る時自分を忘れます、その時楽しいだけがあります、、、それを自覚する何かは存在しません。この映画を楽しんでいる「自分」を自覚する時、その映画を楽しんでいません。ナルシストがどこまで行っても薄っぺらいのは常に自分を手放せないからです。

自分は神である、、、間違い

本当に全体に戻っている時、、、私、自分という感覚はなくなります。ですから私は神、私は全体という感覚はないです。私はワンネスもないです。書道にのめり込み書と完全に一体になっている達人は私は全体、神だ、、、などという感覚を持っていません。何もない、、、、ただ認識だけがあります。私は神である、私は全体である。。。これは主体客体の世界、、、二元の世界の感覚なのです。これは非二元、ノンデュアリティーのメッセージです。主語があってその主語が何かを認識する世界は分離の世界です。この体の中に自分が居るという世界と変わりません。

フルマラソンを走り終えて、、、

人はフルマラソンを走り終えた時に、、、自分は安堵している、、自分がやり切った、、、自分はほっとしている、、、という感覚を持てません、、、、本当の安堵、本当の安心だけがあります。自分のことなど一瞬で忘れます。本当の安堵、安心とは自分が居なくなった時に訪れるのです。だからこそ自分は本当の安堵、、などという感覚はありません。フルマラソンを毎年のようにチャレンジする人は、、実はこの感覚を得たくて走っています。自分というものを完璧に忘れ去った時の安堵、安心、歓喜が忘れられなくなって走ります。なんという皮肉でしょう。完全なジョークです。

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