成就することは何もない

成就とは主語述語の世界

至福になる、幸福になる、安定になる、、、これらは何かしらを成就する世界の話です。主語があって述語がある世界です。これは二元の世界の話です、つまりストーリーの話になります。自分というのがあってその自分が何かをするストーリーの話になります。動詞というのは主語が必要です、主語が必要な世界は二元の世界になります。主語が必要な世界は幻想の世界です、錯覚の世界です、、、この錯覚の世界に居る限り本当の至福はありません。あるのは全て時間の中での一瞬の幸福、至福、安堵、平和、歓喜です。我々が本当に求めるのは時間を超えた至福、歓喜、平和です。それがあるのは主語述語の世界ではありません。主語が抜け落ちた世界、自分が抜け落ちた世界です。

それでも食べるためには働かなくてはならない、、

そうは言ってもこの自分は今日も生きるために働かなくてはなりません、これは事実です。この体というものがある限り生き抜いていくには食べなくてはならないのは事実です。ですがそのために自分が必要ということではないのです。この体の中に自分が居なくてはならないわけではないのです。野生動物が生き抜くために狩りをしなすがそのために自分という存在が必要なわけではありません。ただ狩りをして食事にありつくだけです。何かをするためには体の中に自分という存在が必要だというのは錯覚です。この体の中に自分という独自の存在が居るという錯覚を育てますとその自分は不足感を湧き出します。

名前を呼ばれても=自分と錯覚しない

この人間社会に生きていますと名前が必要になります、そしてその名前を呼ばれるようになります。相手が自身の名前を呼べばこの体の中に自分が居るという錯覚が強化されます、ですがそれは違います。相手がこの体に対して名前を呼んでも=自分が居ると錯覚しないことです。人は名前を呼ばれることでこのストーリーに浸かります。それによって不足感、孤独感、欠乏感が湧くというスパイラルに入るのです。

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