自我の動きに気づくのも気づきの意識

どうしたら自我を消滅させれるか

悟り系を学ぶ方々は自我という存在を強く強く意識します、自我さえ消滅できれば、、、ですがこの自我ですが、、今この動きがあるのは気づきの意識がそれに気づいているからです。自我という動きは気づきの意識がそれに気づかなければ全く存在できないのです。全てはこの体の中にいる「自分」という存在が動かしている、、この思考に気づくのが気づきの意識です。

構造を理解する

脳が全現象を知覚しているという事実とは異なる概念を信じたことからこのマリオゲームはマリオが全部やっているという大勘違いが生まれていきます。実際は全て気づきの意識が知覚していてその知覚をゲーム上マリオの脳がやっているという、、、思考が生まれ、、その思考を気づきの意識が気づきます。五感と思考が組み合わさり、、この体の中に自分がいるぞ、、という概念が生まれそれに気づきの意識が気づくことで自我は完成します。コミュニケーションとは相互に自我を肯定しあう行為ですから益々自我は強固になっていくのです。

構造が理解できれば

構造が理解できますと、、、それをやったのは「自分」だという思考が湧いてきても、、いやそうじゃない、、が湧いてきます、、脳という機能を信じると、、脳の中に自分という存在が居るように感じてしまうのですがその嘘のメカニズムを打破できます。現象の変化は変化と同時に気づきの意識が気づいている、、この事実が完全なパラダイムシフトを起こします。主人公が自我から気づきの意識に変わるのです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。

経験しかしていない

マリオは実在しない

この世界はあるがままの体験の場所、ゲーム、マリオ体験の場所です。マリオ、クッパ、空間の全て、時間の全てはそおれらを経験する場所でしかなく全ては幻想です。その証拠にマリオにとってこの世界は実在しているように見えているだけ、触っているように感じているだけ、香っているように感じているだけ、味がしているように感じているだけ、、音が鳴っているように聞こえているだけと五感を使った経験しかしていないのです。クッパが実在しているという証拠は一切ないし、マリオが実在しているという証拠が全くありません。経験(無)が100%あり続けるという無(実在ではない)を積み重ねた世界です。経験をどんなに積み重ねてもそれは時間が実在しているという証拠にはなりません。

マリオも時間も空間も経験からの逆算でしかない

この世界があくまでゲーム(虚)である証拠は、、経験以外が何もないということです。経験があるから時間があるはずだ、マリオが居るはずだ、空間があるはずだ、クッパもいるはずだ、、、という推論の余地をでません。つまりあるがまま(スーパーマリオ本体)以外何もないのです。私は100パーセント居るぞ、、とマリオが叫んでも、、、、いや経験しかしてませんよね????で終わりです。

思考して行動しているぞ

確かに経験しかしていないかもしれない、でも思考し実践しているこの私が、、、と思うかもしれません。それも違うんです、私が思考し、実践しているように感じているだけです、、そう経験しているだけです。100%自由意志があって自由行動があるという証拠がないのです。この辺りから我々はこれがゲーム(幻想)でしかないことを、そして私も居ないことを認めるしかなくなってくるのです。

これを今私以外の何かが気づく

この気づきは実はマリオ(私)に起きているのではありません。マリオ(私)以外の何かが気づくのです。そしてマリオ(私)はスーパーマリオ(あるがまま)に再吸収されていきます。本当にそうだ、これはゲームで経験しかしていなかった、、時間もあるように感じていただけだった、、空間もあるように感じているだけだった、、そりゃそうだ、、ゲームだから。。。覚者が昔からいっているように、、、この世界は無で、何もない、、は本当だ。私も居ないしあなたも本当は居ない、、私たちは最初から救われている、全部愛(あるがまま)なんだ、、となります。

マリオの外に至福(ゲーム本体)を求めればそれは全体ではありえない

全体とはマリオも含めてのこと

至福とは全体のことです、至福とは大いなる一つ、至福とはゲーム本体です、、我々マリオはこの現象世界の中で名誉が、所得が、愛すべき人が、愛すべき仲間が、、、マリオを幸福に至らせてくれるのでは??と考えますが、、至福は全体のことですから、、マリオ以外に至福があったとしたらそれは全体では無くなってしまいます。つまりマリオが外に至福を求めた時点で至福は絶対に絶対に見つからないのです。

ゲーム内には至福はない

この現象世界は分離の世界ですから分離している「私」が至福に至るのは不可能です。私という存在自体が分離(不幸)だからです。つまりマリオとしてして至福には至れないことを悟り、マリオがゲーム本体(スーパーマリオ)に再吸収されるほか全体(至福)になる方法はないということになります。マリオ(分離)である限り、分離はひたすら続くわけでこの状態こそが苦しいのですからマリオは至福に至ることは絶対に絶対にないということです。

自分が熟睡する

熟睡時に自分(マリオ)を意識している人は居ません、、自分(マリオ)が抜け落ちた時に熟睡(至福)が訪れます。昨晩私は熟睡を味わい尽くした、、、、これは嘘です、、熟睡時には意識がないはずです。至福とはまさにこれで自分が抜け落ちた時に訪れるのです、、じゃあ我々は一生至福には至れないではないか????その通りです、「私」は絶対に至福に至れないのです。

時間ありきの表現は全てストーリー(ゲーム内)

アセンションが始まる、、

200X年、アセンションが起こり次元上昇が始まる、、、これ時間がないと成立しない表現ですよね???つまりこれはストーリー、ゲーム中の出来事です。ワクワクしたことをやるとラッキーが連続する、、、何かをすると、、次の瞬間何かが起きる、、、これも時間あって成り立つことです、、ストーリー、ゲーム内の話です。ついてる、ついてると連呼すると、、ラッキーが起こる、、、これも時間があってこそ成り立つ話ですよね、、これもストーリー、ゲーム内の話です。パワースポットに行くとラッキーが起きる、、これもストーリー、ゲーム内の話です。

ストーリー、ゲームの中は、、、

ストーリー、ゲームはあるがままの無限の表現ですから、、、ある決まった因果が成立することは絶対にないのです。決まっていたら無限の表現ではなくなってしまいます。こうやったら女性は必ず落ちる、、こうやったら絶対お金を稼げる、、こうやったら人気者になれる、、、法則が決まっているならばこのゲームは無限ではなく有限のアートになってしまうのです。ですがこのゲームは無限(あるがまま)の表現ですから決まったルールはありえないのです。

時間の中では至福に至れない

時間の世界の中では至福には至れません、、こうやったら至福になる、、、この法則に従えば至福に至れる、、全部時間のゲームの中の話です。至福とはスーパーマリオゲーム本体のことで画面の中に至福(本体)は落ちていないのです。時間の中には至福がないことをマリオが悟りこの画面からマリオ共々抜け出た時に初めて至福に至るのだという気づきが重要です。

どうやって目覚めるのか???

意図して目覚めるは絶対にない

自由意志は本質の世界には絶対にありません、ゲーム上自由意思があるように見えているだけで実際にはマリオに自由意志はないのです。ですからどうやって目覚めるのか???という疑問を持っている間は目覚めが起きない可能性が高い、なぜならばマリオが全力で悟ろうとしているからです。大勘違いが続いています。むしろ真逆でマリオが意図して悟ることはないのだから勝手に目覚め解放が起きるのを待とう、、このスタンスが解放に近い感覚です。眠ってやるぞ眠ってやるぞ!!と鼻息荒く準備するよりも眠りに落ちるのを待つ感覚です。

誤解を解き続けることで準備はできる

自由意志はない、それを主導する自分もいない、、、周囲の人間も実は自由意志はない、このゲーム上には至福(ゲーム本体)は落ちていない、、こういった誤解を解くゲームに夢中になっていきますとリラックスが起き始めます、緊張感が抜けてくる、、よく分かんないけど頑張るって無駄だよね、、よく分かんないけど放っておけば寝れる(解放)よね、、、みたいになっていきます。この段階は小さな気づきが起きやすくなります。もう周囲に振り回されて頑張り続ける、、から卒業できるはずです。

死ぬのが怖く無くなっていく

死の恐怖は大変わかりやすいポイントです、死に対する恐怖は自身の本質に目覚めているか否かが判断できます。本質に深く触れていきますと理屈ではなく死への恐怖が減ります、友人の死、親の死などに対してもネガティブな感情が起きません。どこまで本質として生きているかが大きく出るのです。野生動物が親の死を引きずらないのは冷徹だからではなく本質そのものだからです。原住民族が死をお祝いするのは本質的に生きているからです。

あるがままはなぜ今もこのゲームを続けるのか?

最初から完璧ならば、、、

最初からあるがままはそのままで完全完璧ならばなぜこの意味不明なゲームを続けるのでしょうか???必要ないではないでしょうか、完璧なんだから。そうではないのです、完璧完全ゆえに自分自身が完全完璧であるとういうことを体験できないのです、自分自身がそれを体感したいだからこそあるがままの中に不完全不完璧(マリオ)を作り出し完全完璧を追い求めさせ最終的にそれを味わいたいのです(解放)完全完璧を体験するには不完全不完璧にならなくては成れない、ただそれだけです。

最大の悪趣味

最強のイケメンが自身がイケメンであることを実感するには一度ブサイクになってそこからイケメンに成ってみないとイケメンの素晴らしさ、イケメンの重要さを体験できない。こんな悪趣味なゲームをあるがままはやっているのです。あるがままが無限の存在であるがゆえに無限を体感するには無限そのものでは無限を体験できない、そこで無限ではない形(マリオ)を作り出し無限を追い求め無限の経験を体感しているのです。

だから幼児は全てに感動している

自我が形成されるまでの赤ちゃんは全ての物に興味を持ち感動しています、触って遊んで目を輝かせています。これは自分(あるがまま)が自分(あるがまま)を味わっているのです、面白いのです、楽しいのです。自我が形成されるにつれて究極の不完全(思い込み)になるのですがその場所は苦しいからこそ自我は至福(あるがまま)を追い求め続けるのです。やがて対象(アイテム)には至福がないことに気づき対象でないのならば全体(ゲーム本体)が至福なのではと悟り(画面離脱)に興味を覚えるわけです。

マリオは絶対にスーパーマリオ(至福)を発見できない

マリオが移動できるのはゲームの中だけ

マリオの宿命はゲームの中でしか活動できないということです、マリオがどれほど超能力を手に入れても画面から飛び出ることは不可能です。マリオがジャンプ力100倍になろうと走力が100倍になろうと、、画面から出ることは不可能なのです。そして一番重要なこと、スーパーマリオゲーム本体を発見できない。あのプラスティックの箱(至福)を見つけることは絶対に絶対にできないのです。

ゲーム本体(至福)がマリオを消すかも

自分をマリオと思っている限りはマリオは画面の中を走りに走り至福(本体)を探すでしょう、ですがそれだけは見つからないのです。ですがもしもマリオがマリオを辞めて本当はマリオは存在しないのではないか???と疑問を持ち始めた時に、、、ゲーム本体(至福)がマリオを再吸収するかもしれません。その後もマリオは画面上に現れ続けるかもしれませんがその時はもう「自分はマリオだ」という意識はなくゲーム本体(至福)としてゲームを続ける可能性はあります。

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きれば

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きた後も、、今までのようにマリオが血眼になって至福を探すことは不可能です、なぜならば至福はゲームの中のアイテム(対象)ではないことをもう分かっているからです。至福とはゲーム本体のことでありゲームの構成全てでありマリオ、クッパ、ルイージ、ノコノコ全てがその一部であることを知っているからです。

大谷翔平の活躍で人は救われるのか?

救われない

純粋にひたむきに頑張ればどこかで必ず結果が出る、だから自分も今を頑張ろう!!大谷翔平のように。大谷翔平がこれほどニュースを賑わすのは彼の活躍を見て気分が爽快になったり、頑張ろうと思たり、日本人の誇りと思えるからです。ですが彼の存在で人は本当に救われるのでしょうか???答えはNOです。なぜならば彼のように頑張れるか否かは神のみぞ知る、あるがままぞ知るです、、誰にもコントロールする力はないのです。

大谷翔平すらもない

大谷翔平が急遽野球に興味が無くなり試合がどうでもいい、となる可能性はあります。そこに関して大谷翔平は全くのノーコントロールです。。多くの人は大谷翔平ならば努力を怠ることはない、、そう断言するでしょうが、、実は大谷翔平にも誰にもそれは分からないのです。そしてそのことを全員が本質的には気づいています、だから実は本質レベルでは彼の活躍は誰も救っていないのです。

今頑張れている人だけ

俺は今頑張っているぞ!そう感じることができている人は大谷翔平から多くの勇気をもらえるでしょう。ですが今全然頑張れていない人にとっては、、大谷翔平の活躍は耳が痛いはず、、、つまりその人のおかれている条件によって変わってしまうわけです。本質とはそのようなものではありません、本質は至福であり全員が至福の中に居るのです。全員がいつか必ず救われるのは全員が至福で出来ているからです。マリオもクッパもピーチ姫もルイージも全員がスーパーマリオ(至福)のアートです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。