マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。

マリオは気づいた、動いているのは自分ではない

マリオゲームをやっていても騙される

大人はマリオゲームをやっていると気づきます、動いているのはマリオではない、背景だ。ゲームクリエイターならばそれは常識、キャラがゲーム上を自由気ままに動いているように見えますが動いているのは背景です。これはこの人間ゲームも同じ、動いているのは人間ではない、背景です。ではなぜ人間が動く感覚は実感できるのに、全体、背景が動くのは実感できないのか?これはこのブログ史上最重要質問です、答えは簡単、自分自身が実は背景そのものなので自身の動きに気づかないのです。いやそんなことはないではこの私の動きを私が感じるとはなぜだ?これも最強の質問、自分自身が背景そのものだからこの体(自分)異物の動きを敏感に察知しているのです、全体が。いや全体が察知していない、察知しているのはこの自分だ、違います。全体が察知した経験を自分(異物)のモノとしているシステムこそ自我です。

マリオは何も知らずに今日も自分が動いていると活動する、呑気者

この地球に住んでいる人間の中でどれだけの人がこの事実に気付いているでしょうか?恐らく1%もいないでしょう。この自分の五感、感覚、経験には絶対的なモノがありこのカラクリを見抜くのは至難の技です。ですが覚者と呼ばれる人々の意見が一致していることからもこの新しい事実は真実です。天動説が地動説に切り替わった時の大発明、「動いているのはマリオではない、背景である」「動いているのは人間ではない、全体である」動いているのはマリオではなく背景だ、、、この事実を突きつけて驚く大人がいないのは当たり前だからです。ですが人間に置き換えると途端に納得がいかなくなる、なぜならばそれほどまでにこの人間ゲームは緻密だからです。

大人を信じるな、大人は人間の苦しみを全く解決できていない、、

思春期になり大人に近づく若者が親のことを絶対的に信頼していない理由は何か?それは両親が幸福そうに見えないからです。ほどほどには幸福そうに見えるかもしれません、ですが絶対的に幸福には見えない、むしろ日々のニュースに狼狽、振り回され、絶望すらしているではないか。若者が将来に対し日々不安になっていくのは当然です。答えは簡単、地動説を信じこの自分の存在を勘違いした状態で至福に至ことは不可能ということです。

マリオの動きは全体がメイン

マリオが進んでいるのではない、全体が変化している

マリオゲームを進める時、マリオが前に向かって進んでいると多くの方は思っていますが実際は画面が動いているだけです。画面上の画面そのものが変化することでマリオは先に進んでいる錯覚を起こしています。これ実はこの物理次元でも同じでして人間が動いているではなく画面が変化しています。我々が駅に向かって歩く時変化しているのは全体景色の方です。我々の動きに連動して景色が確実に動いているのです。人間が動き回り景色、背景は全く動いてないというのがこの人間の共通認識ですが実際は逆です。

景色が変化している実感が湧かないのは我々が景色そのものだから

我々の本質は全体です、全体の方が本質であり、この体の中に居るとされる私、自分こそが偽りです。偽りの自分が駅に向かって歩く時に本質である景色が変化してみせます。本質が景色そのものですから景色が動く時に何も感じないのはそのためです。コーラは中のコーラの動きを感じることはできません、中の異物(自分)の存在しか認知できないのです。コーラとは景色、異物とは駅に向かう自分です。

目の前で動いている昆虫の前に進む感覚が湧かないのは自分自身だから

人間は完璧な勘違い、180度の勘違いをしています。実感が湧くこと、感じることは異物の全体の中での動きです。全体が全体のまま動く時そこには何もありません。目の前の木の成長をあなたは実感できません視覚以外で。気が伸びるそのものの感覚を感じることは不可能です。それは全体の全体による動きだからです。コーラのコーラによる動きです。コーラの中で異物が動く時にコーラはそれを認識します、その認識を自分のモノとするのが自分、人間です。覚者がいう「自分は全部だった」というのはこのことです。「自分が消え去り全体だけがあった」全体を感じる自分(異物)の消滅です。

全体は異物である自分が行うことを全部認識する

全体は全体の動きを認識せず異物の行動のみを認識する

全体は全体が行うことを認識できません、コーラがコーラの動きを認識できないように。ところが全体は全体でないモノの行動は認識できます。コーラは異物の存在のみ認識できます。全体にとってこの自分は異物です、ですから自分が行うこと食事をする時の感覚、会話をする時の感覚、音楽を聞く時の感覚を全部認識します。全体と異物の接点は全て認識します。これが人間の五感の真実です。人間は自分が感じていると信じていますが実は全体が異物(自分)を感じているのです。そしてその経験を自分が所有します。そしてまた自我(異物)が発達します。

全体は友人の感情を認識しない

ではなぜ全体は私の友人の感情を瞬時に認識していないのでしょうか?それは友人が全体の一部だからです、友人の中に湧いているだろう感情も思考も全体の一部だからです。そして私の感情だけを異物のモノとしているからこそ全体がそれを認識しているのです。そうです、この私が見ている世界には私しか異物は存在しないのです。他は全部全体です。私だけが異物で他は全部全体、だからこそこの自分の感情だけを全体が認識しているわけです。

全体は全体以外に接触して初めて感覚を作る

我々が所有している感覚の全ては全体が経験したモノです。全体がこの自分と接触し経験を積みました、その経験をこの自分が自分のモノとしているだけです。今私がコーヒーを飲みます、コーヒー(全体)が私に接触しました、感覚が起こります。美味しいという経験が生まれました、これを自分、私が所有します。全体が自分(異物)の美味しいを認識しているのです。私がお腹が空くとします、、これは全体が私(異物)の変化を感じたのです。コーラが氷の減少を感じたのと同じです。ではなぜ私は血液の流れを感じないのか?それは血液の流れは全体の動きだからです。全体にとって血液の流れは全体の動きです。

主体客体の逆転現象

全体が私で、この体は異分子

例えばここにコーラが並々と注がれたグラスがあるとします。このグラスの中にコーラを注いだら?コーラが増えます。これは当たり前の話です。もしもこのコーラに意識があるとしましょう。グラスに入ったコーラに意識がある、もしもここにコーラが注がれても入ってきたコーラはその中で混じり合い入ってきたコーラを意識することはできません、なぜならば同じコーラだからです。ところがです、このコーラの中に凍らせたコーラを入れたらどうなるか?コーラはこの凍らせたコーラをはっきりと認識するはずです。コーラにとって凍らせたコーラは振動数がはっきりと異なるため認識できます。私たちが目で見ている世界を全体とした場合、この全体は全体の中で起こることを認識できません、なぜならば全体自身だからです。コーラの中でコーラの動きを認識できないのと同じです。全体の中にもしも異物が混ざり込んでいたらどうなるか?全体は異物を認識します。全体は観葉植物の成長を認識できません、なぜならば全体の一部だからです。ところがこの体の尿意を感じます、なぜならば異物だからです。全体は風の動きを認識できません、なぜならば風は全体の一部だからです。ですがこの体の中に起きた風邪は認識できます、異物だからです。

我々が認識しているのは、、、全体が異物を認識しているだけ

かなり話が混沌としてきました、全体は全体の中で起こる変化は認識できず、、、この体の中の変化のみ認識できます。全体は異物の変化は認識できますが全体の変化は認識できないのです。コーラは中のコーラの動きを認識できず中に入っている異物のみを認識します。全体にとってこの私、自分は異物なのです。だからこそ思考が湧けば気づきます、異物のモノだからです。感情が湧けば全体が気づきます、異物だからです。自我の中で起こる思考、感情を全体は直ぐに感知します、そしてそれを自我は自分のモノにします。全体が感知した思考、感情を自我は自分のモノにします。全体と自我のスーパー連携プレイです。

全体は全体が起こした現象を認識できない

全体は海の動きを認識できません、なぜならば海は全体そのものだからです。コーラがコーラを認識できないのと同じです。ですが全体はこの自我の動きを全部認識します、自我が話すこと、自我が聞くこと、自我が思考を回転させること、自我が落胆すること、、、これらは全体の中に起こった異物の動きです。コーラの中に起こった氷の動きです。自分の中で起こる思考、感情、あらゆる動き、自我が発動した動きを全体は瞬時に認識しそれを自我が自身のものとして所有します。全体と自我の二人三脚です。これが我々の日常で行われている真実です。

快楽主義が悟りを開く

快楽も実はヒント

楽しいってなんでしょう?面白いってなんでしょう?実はこれ悟りを開くヒントになります。楽しんでいるのも、面白いと思っているのもこの体の中に居る「自分」です。ここ実は重要です、楽しいも、面白いもこの「自分」っていうのが関わっている。そしてこの自分は「楽しい」「面白い」に飢えている、、、なぜか?それはデフォルトが苦しいから、、、この苦しみを一瞬だけ拭い去ってくれる瞬間、それが楽しい、面白いです。人間は朝起きてから延々とこの楽しい、面白いを追い求めるのは「苦しい」から一瞬救ってくれる救世主だからです。だから人間はこれを追い求めすがるのです。

本気で大笑いしている時、鏡を見るナルシストは消える

大笑いしている時に自分の笑顔を鏡でチェックしていたらそれは嘘笑いです。本気の大笑いは自分の存在を完全に消滅させます、一瞬ですが。本気の大笑いはこの世から自分を消し去り、対象も消し去ります。大笑いしている時に何か物を凝視する人はいません。大笑いはこの世から全てを消し去るのです、自分も自分以外も。実は楽しい、面白いは、、、自分を一瞬消滅させることです。「苦しい」という核弾頭魚雷から逃げ惑う「自分」を消し去ります。その時自分も「苦しい」も消えてなくなります、一瞬。

神はこの世に笑いを作り悟りのヒントを与えた

楽しいを侮ってはいけません、面白いを侮ってもいけない。これは神が人間に教える悟りのヒントです。神は人間に100万通りの悟りのヒントを与えますがその一つが「楽しい」です。人は大笑いしている瞬間神に戻っています、自分が実は神エネルギーで構築された神であることを思い出しているのです。大笑いした瞬間自分が消え去りそこには全体、神だけがあります。そして自分に戻った時に自分も神だという感覚を実は味わっています。だからこそ人は今日も楽しいを追いかけるのです。

苦しい、、が悟りを開く

楽しいが悟りを閉じる

苦しい、、この感情を人間は嫌います。当然です。いかに苦しいから逃げ続けるか、、ここが勝負です。ですがこの苦しいから逃げ続ける限り悟りは開ません、この人間ゲームのカラクリに気付けません。生きていると湧いてくる「苦しい」この感情はどこから湧いてくるのか?この苦しいは「自分」という存在、この体、思考、感情を自分のモノとするこの存在がどうも関わっている、、、大人になると苦しいから逃げる手段を覚えますがどうやらこの苦しいは子供時代よりも大人になってからの方が激しい。自分という存在は記憶に依存しています、記憶がなければ自分は維持できません。苦しいは実はこの記憶に維持された自分から生まれそしてこの自分を壊してくれる可能性を秘めています。なぜならばこの苦しいは「自分」がこの世にいる限り延々を湧いてくるからです。「苦しい」は自分が解消されるまで木っ端微塵に壊れるまで追いかけてくる核弾頭魚雷のようなモノです。

「苦しい」から逃げ続けれると思ったら大間違い

「苦しい」は核弾頭魚雷のように「自分」がこの世から居なくなるまで追いかけてきます。自分とは記憶が支えていますから経験を積めば積むほどにこの自分は強化されます。そして自分が大きくなればなるほどに「苦しい」という核弾頭魚雷も大きくなり追いかけ続けてきます。「苦しい」は「自分」が生み出しそして「自分」が木っ端微塵に壊れるまで追いかけてくるという恐ろしいメカニズムです。釈迦はこの世を「苦」と見抜き、キリストは人間を「原罪」と表現したのはこの理由です。人間とは自ら核弾頭魚雷を発射しそれに追いかけられるというギャグのような仕組みを作りました。ただこれを裏で操るのは全存在、神です。そして苦しんでいるのも人間という形に成り切る、遊ぶ神です。人間も神、苦しみの感情も神エネルギーです。

何もない

この世は神エネルギーで全部できています。見える世界の全て、触れる世界の全て、匂える世界の全て、味わえる世界の全てはたった一個のエネルギー神でできています。そしてそれを感じる人間の体も当然神でできている、この体が湧き上がっているように感じる思考も感情も全て神エネルギーが振動数を変えたモノです。この神エネルギー以外のモノはこの世には存在していません。もしもこのことが腹落ちしますと突然自分が居なくなります、全部になります、神エネルギーそのものになります。そこには分離は一切なくただ揺れ動く神エネルギーだけがあります。この体を自分と思い込むのも神エネルギーです。自我も神エネルギーだった。。。何もない。。この突然の理解が自分を木っ端微塵に壊します。

神エネルギーがただ揺れ動く世界

神は動く神を作って見せた

動かない神いこれを空と呼びます。動く神それを色と呼びます。オーロラの光は確実にあるように見えるが実はない、、、これぞ色の世界、動く神の世界です。蜃気楼は確実に見えるが実はない、、これが動く神の正体です。この地球、日本、東京は確実にあるように見えます、ですが無い。これが動く神の正体です。全部が全部蜃気楼です、この蜃気楼は見えるだけでなく、触れて、匂え、聞こえる蜃気楼です。人間とはこの蜃気楼の中で「我が人生」を構築できる蜃気楼です。だから人間の体には月偏が付いてて、胃、胴、脳、腸、、、となります。人間が見ている月は惑星自体ではなくそこを照らす太陽の光です。要は蜃気楼です。この人間の体が蜃気楼であることを太古の人々は見抜いていたのです。

この世の真実を知った人間は活動を止める

この世は神エネルギーが揺れ動く世界です。本当はただそれだけ、今もこの世は揺れ動いています、だから朝が来て昼があり、夜がきます。この神エネルギーの揺れ動きの中で人間は独自の進化を遂げまさかの独立した自分が居るという意識を発明しました。この人間は神の揺れ動くエネルギーの中で自分と自分以外というアイデアも発明しました。そして人間目線での経験を記憶し「我が人生」すらも発明したのです。私の人生、あなたの人生、あの人の人生、、、奇跡の大発明です。そしてこの人間はこの人生が終わってからも次の転生があるという発明までしてのけ、この自分を永遠のモノにまでしていったのです。奇跡です。

人間社会は慌ただしく真実が隠れる

この人間社会はとにかく慌ただしいのが特徴です、蜃気楼である人間は何もしないで止まっていると途端に苦痛、退屈、孤独、不足が襲ってきます。この苦しみはこの蜃気楼が独立した別個の存在であるという意識、人間意識が発達ことから生まれました。なぜならばそれは幻想、錯覚だからです。この錯覚は錯覚ゆえにじっとしていると壊れてしまいます。常に対象を見つけ、対象があるから自分もあるという維持機能を発動させなくてはならないのです。自分が居ると錯覚し続けるには常に新たな対象が必要になります、何かを食べているから食べる自分が居る。友人と遊んでいるから自分が居る、称賛を浴びているから自分が居る、喧嘩しているから自分が居ると、、、この自分を維持し続けるには何か対象が必要になります。自転車に乗り続けるには漕ぎ続けなくてならない、、人間であり続けるには動き続ける必要があります。そして動き続ける限り真実が隠れます。

この私も目の前に居る友人も同じエネルギーで出来ている

全く同じモノで出来ていてなぜ違いが出るのか?

この世を構成している物質は全て神エネルギーです、そうなるとなぜ違って見えるのか?ということになりますがこれは水蒸気、水、氷で理解出来ます。この三つを構成するん分子はH2Oです。この分子の状態、振動数が異なるだけでこの世では全く違う形状に見えるのです。振動数が違えば全部バラバラに見えてしまうそれだけです。物理学者はこの分子を解剖していくと全部同じモノで構築されていることを知ります。そうするとこの世に見えてい全部は分離していないことを認めざるを得なくなるのです。では人間にはこの世界が分離しているように見えるのか?人間の体こそ世界を分離して感じることができる機械、マシーンだからです。五感が振動数の違いをキャッチして分離しているように見え、聞こえ、匂え、味わえる「振動数違い分離勘違いマシーン」です。

人間だけがこの体、他の動植物を分離して見れる

最重要な説明をしていきます。人間は五感が発達していてこの世(神エネルギー)の振動数、回転数の違いをはっきりと認知することができます。これによってこの世を究極のレベルまで分離して見ることができます、さらにその震度数の違う塊に名前を付けて整理していきます。この整理方法を世界中の人々で共有するというところまで進化を重ねていきました。これによりこの自分は間違いなく独立していて他の生命現象も独立しているという大いなる勘違いをして見せたのです。ですが本当は人間のこの五感能力がそのように振動数の違いを分解整理しているだけなのです。だから覚者は目覚め「何も無かった」と宣います。自分もこの世も分離しているように感じていただけだったとなるのです。

赤ちゃんはこれを知っている

赤ちゃんはこのことを知っています。実は何も分離していないことを、、人間がなんとかこれを強引に分離整理して生きていることを知っています。何も分離していない世界で分離しているという強引な理論で必死に生きている動物、それが人間です。「自分も世界も分離しているに決まっている、なぜならばそう感じるから」このガンコ親父のような屁理屈を必死に死守する民族こそ人間です。

自分はこれが全てと聞いて絶望する

神は遠い彼方にいて欲しい

自分、自我は神という絶大な存在がこの世にはあってそれは遥か彼方に居るはずだと信じます。まさか6Kのアパートにそれが居るとは信じたくない。自分はこの広い宇宙のどこかに神がいてこの宇宙を創造していると信じたいのです。ですが実際は今目の前に広がるこれ、それが神です。そんなはずはない、神はもっと神々しい出現をするはずだ、6Kのアパートが神だったらショボすぎる、、、こうなるのです。ですが実際はどこまで行っても神は目の前『のみ』居ます。結論をお伝えすれば私たちが見ているこの視界は神エネルギーで構築されています。全部構成分子は神です。ということはこの私、この体、この思考、感情も構成分子は神です。神以外の分子でできるモノなど存在しません。もしもあったらもうそれは神(全部)ではない。神とは全部だから神なのです。神は遠く彼方にいるはずというその思考も神です。徐々に理解できたでしょうか。

空間とは神

見える世界、この空間は全部神エネルギーで構築されています。人間の体も神エネルギーです、そしてこの人間の体は五感がありこの空間を触れ、匂え、見れ、味わうことができます。これはこの体が神でできている証拠です。もしもこの体が神エネルギーで無かったらそんな感覚を味わうことができませんし、この神の空間に居れないでしょう。我々は神によって作られ、神でできたモノなのです。そして本質は神エネルギーそのものですからこの空間で起こる全てを神エネルギーとして認識できます。それはこの体(神エネルギー)を通じても全体(神)を通じてもです。自身(この体)を神エネルギーであると理解できたら、、逆にこの体のみを自分とすることができなくなります。なぜならば全部神エネルギーでできているからです。

もしも苦しくなったら

もしも苦しい時は、、、この体、思考、感情は何でできていたっけ?と自身に問いてみてください。この体は神エネルギーでできています。ということは自身は神エネルギーです。そしてこの体の外部全ては神エネルギーでできています。ということは自分とは全部だ、、、こうなります。構成物質のレベルでこの視界を眺めて見れば見ている独立した存在も見られている独立した存在もいません。なぜならば全部神エネルギーだからです。この事実を物理学者は分子解剖で発見します。全部が同じモノでできている、、、ということは自分はいない、、