あなた(海)なしには何も存在しえない

見える世界は全部あなた(海)が居てこそ

あなたが居ないでこの世界は何一つ成立しません、、なぜならば今見ている世界はあなたの存在があって出現し、認識されているからです。あなたはこの体だけの存在では全くなく、、、見える世界の全てに気づく存在です。目の前に大河が流れているならばその大河を今の姿にして出現させているのはあなたであり、大河に気づいているのもあなたです。あなた(海)なしに大河はその姿を認識してもらえないのです。この広大な大河が自分ありき???海とは大河どころではないのです。。。夜中に望遠鏡で宇宙の星々(波)を眺めてみてください、、これらはあなたが居て初めてその姿を姿たらしめているのです。

急に自分が大きくなった気がする??

そうです、、、あなたはとんでもなく大きな存在であなた以上に大きな存在は居ません。そして同時に目の前のこの人もあの人も、、、全員が海としての活動を今もしているにも関わらず波としてこじんまり生きています。その方が毎日田植えをして生活をしているにせよ、、、海として生きるか波として生きるかによって人生の満足度が全く異なるのです。勿論この体(波)は全体から見れば小さいのですが、、海全体の能力を保持したまま波として生きるのを自覚するのと、自覚しないのでは全く違った人生になります。

特別(波)を目指すのではなく

なぜ我々は常に特別(波)を目指すのでしょうか???今海の能力をフルに発揮しているにも関わらずこれ以上の能力(特別)をさらに手に入れようとするのは滑稽です。既に自分(波)は海であり万能なんだということを認めてしまった方が良いのです。ですが特別(波)であろうとする自我はそれを認めないでしょう、、なぜならば全員が海(万能)であることを認めることは自身の存在(万能を目指す)を否定することだからです。

全員が悟っている

波だけど全員同時に海

音が聞こえ、光が見え、料理を味わえ、触れば感じる、香りも嗅げる、、、、これ全部海でないとできないことです、、波の機能では不可能なのです、、、波が持っている機能では実はこれはできないのです。というよりも波には何の機能もないのです。つまりつまり全員が海の機能を所有し、、それを波の機能と「勘違いて」生きているのです。

海の機能を持ちながら、、波として萎縮して生きる

全員が海でしかできない能力をフルに発揮していながら、、波として萎縮して萎縮して生きています。自分(波)なんてしがない人間ですから。なんの取り柄もない人間(波)でござんす。生きていてもこの先何にも良いことないし。。です。本当は波なんていうちっぽけな存在ではなく、しかも海の機能を全発揮しておきながらメンタルだけは波として生きるというおかしなことをしているのです。

萎縮するのは終わり

見える現象(波)の全てに気づき続けてきた海でありながら、、自身を波として生きている、、この滑稽なコントをしているのが波物語です。ですがそのコントこそが無限(海)のアートでもあるのです。海(無限)は波活動を通じて無限の体験を積んでいるのです。波(自我)とは海の無限体験を積むための道具です。ただしこの体験は苦しみを伴うため全波が海を目指して生きていきます。どこかに桃源郷(海)があるのではないか???と。ところが今自身が海であることには気づきません。

お前(波)は既に悟っている(海)

既に悟っているんです?!

ノンデュアリティ、悟り本にたまに出てくる言葉、、あなたは既に悟っているんです。。。この言葉、、こんなこと言われて全く救われない、、、となります。既に悟っているならなぜ今苦しんですか???という話です。個人にとって自分にとって全く役に立たない言葉「あなたは既に悟っているんです」これってどういう意味なんでしょうか???

音が聞こえて、物が見えて、料理を味わえて、、、

友人との食事会、、友人の声が聞こえて、食事を味わえて、、友人の笑顔をみえて、、この当たり前の人間能力、、五感の働き、、これら全てを当たり前と個人は考えていますが、、これ全部、、海(悟った状態、解放)でしか出来ないことです。波(個人)にはこのような能力は存在しないのです、、、????波は海の上を漂うだけですから五感という能力は持ち合わせれないのです。いやいや、耳、鼻、目、口、舌、、、全部五感を司どる機関がありますけど?????違います、、これらは全部幻想です、実在しません。

実在しない耳、鼻、口、

この物理次元の物質は全て幻想です、あるように見えているだけです。実際には海(スクリーン)が現象(波の動き)全てを認識するのです。海が海の中で起こるあらゆる動きに察知し気づくのです。スクリーンがスクリーン上の画像に気づきスクリーンが気づいたことを個人が所有して自我が発達したのです。その全ては幻想です。だからケンシロウは相手にいうのです、、おはえは既に死んで(悟って)いる。全部知覚できているということはあなたは既に海、スクリーンですよと。

雲の動きに因果はない

雲に名前をつけて

雲のある部分を犬、雲のある部分を猫、、、この二つの雲の動きは全く予想がつきません。犬がより大きくなったり、猫が小さくなったり、、時に犬と猫がぶつかって犬が壊れてしまったり、、これを因果で説明すれば、、あらゆる説明が付くことにはなりますが実際にはただ雲が動いていただけです。因果など全くないのです。因果とは流れの中に理由という解釈をねじ込んだに過ぎません。

雲の動きは因果ではない、、流れだ

雲の動きはただ変化していきます、、そこに理由はないのです、、その一部に名前をつければ犬が大きくなったり、小さくなったり、怒った表情になったり、笑顔になったり、、ですがこれは変化がそう見えているだけです。因果というような理由はないのです。犬の形をした雲が、猫の形をした雲に近づいたから、、犬が笑顔になった、、、違います、、たまたまです、、本当は犬も猫もいません。

何十年因果に縛られればいいのか???

私はこうやったから失敗した、、こうやったから成功したんだ、、次はこうやったら上手くいくのでは????何十年間こんなことをやれば済むのか????雲の動きはただの流れのように、、人間の形をした雲の流れがどうなるかは雲にも分かりません。雲の形の変化に人間はあらゆる理由を付けたがりますが、、、全部こじつけです。真実ベースで言えば、、ただ変化だけがある、終わりです。

時間はない

雲の動きはただ変化します、、ただそれだけ、、、変化はあるが、、時間は存在しません、、本当は。変化しているからそれを繋ぎ合わせ、、時間が存在するというアイデアが生まれただけです。本当はただ移り変わる雲が存在するだけです。移り変わることに気づくことができるので、、時間というアイデアが突然浮かび上がったのです。

普通の日常

普通の日常がいかに奇跡なのか

朝起きたときに、、普通に太陽の光が燦々と輝きます。これって別に当たり前のこと、太陽があって地球があって、、、こう個人は思うわけです。ですが太陽が輝いているというこの映像、、この映像を作り出すためには、、何も輝いていない光が必要になります、その上に太陽の光が重なることでそれに気づくが起こるのです。この何も輝いていない光こそが私の本質です。

友人と会話ができること

会話をするためには音に気づかなくてはいけません、、この音に気づくということを可能にするには音の下に静寂がないといけないのです、、常に静寂が下にあるからこそ、、、音に気づき続けるということが起こるのです。静寂の存在なしに音に気づき続けることは不可能なのです。

自分が居るという誤解を作る

我々が自我を維持し続けるためには自分が居るという思考を保持し続ける必要があるのですがそのためには思考に気づき続ける必要があります。そのためには無思考という状態が元になければならないのです。これが我々の本質なのです。我々はいかなる時でも本質ではない時はなにのです、、本質が本質であり続けるからこそ、、この人間ドラマも成り立つのです。勿論この人間ドラマは苦しいわけです、、その苦しみに気付けるのは、、至福が根底にあり、、我々の本質が至福だからこそ気付けるのです。

明晰夢

夢だと分かって夢が続く

たまにありますよね、、夢の際中にこれって夢かも????と気づきが起きる時。これって自然で何がきっかけかは分からない、、、何故かわからないけど、、、、突然この気づきがおきるのです。この気づきの特徴、、この気づきは夢の中の「私」には起きない、、、私は一切関係ない、、、突然何者かが、、、これって夢かも、、って気づくんです。私の奥にある誰かが。

この現実世界も、、

この現実世界も全く同じ、、、、この私がこれがファンタジーって気づくわけではないんです。。突然私の奥にある何かが、、これって幻想だよね!!!となります。主人公である「私」ではないんです、、、、私が気づくと思い込んでいたら、、、恐らくこの気づきは起きない。夢から覚めるのは私ではなく、、奥にある何かです。

明晰夢では、、

明晰夢では、、、これって夢かもという思いが湧いた後も夢が続きます、、、主人公は相変わらずにトラブルに巻き込まれていきます、、、ですがですが、、、かつてよりも感情移入できない、、、どこかで冷めてる、、、どうせ夢だし???、、、、そしてそのドラマがある程度続いたあと、、、目が覚めます。解放も同じ、、私の奥の何かが、、、これって夢じゃね???と突然気づくのです。

雲の動き(犬と猿)の戦いの勝負に意味はあるのか?

全く無い

ある雲の形状が犬に似ているから犬と名付け、ある形状が猿に似ているから猿と名付けました。やがてその二つの雲の動きがぶつかりあい結果猿の形状が残り、犬の形状は消滅した。ドラマで言えば猿の勝利、犬の敗北です。すると猿の自我からは喜びの感情が湧き出る、犬の自我からは悲しみの感情が溢れる、この戦いに意味はあるのでしょうか??このドラマに意味はあるのでしょうか???真実ベースとしては全部嘘です。ですがストーリーとしてはあらゆる感情が起き上がりそれは事実です。その感情には一切嘘はないのです。

どっちが本当なのか???

真実をベースにすればただ雲の動きがあるだけ、、時間もない、、何もない、、です。ですがドラマで言えば犬猿の戦いがあり感情が揺れ動きます。ドラマとしては100%時間も空間も感情もあるのです。ですが本当は何も起きていないのです。解放とはまさにこのこと、、何も起きていなかった、、そして何も起きていなかったという思考すら起きない、、なぜならばそれが起きる自我が真実では存在していないから。ただ犬が消え、猿が消え、感情が起きないだけ。

それでも雲は動き続ける

それでも雲は動き続けます、勝ち残った猿の動きはそれからも続くのです。ですがこれまでのように犬に勝った、猫に勝った、ネズミに勝った、、という感情は起き得ない、、、真実ベースですから。ただ雲の動きを観察し雲の動きを感じるだけ。吾輩は猿である、吾輩は犬である、、はもうない。猿に見える雲の動き、犬に見える雲の動き、、、という気づきが続くだけです。これは面白いのか???これに感動はあるのか???今までのような感情は湧かないけれど至福が続きます。

世の中の感動ドラマって結局何なんだ?

ハッピードラマを目指す

世の中って七転八倒、右往左往、喜怒哀楽、様々なドラマを歩みそれに感動するストーリーが多いものです。ですがこれって結局悟りの観点からしたら意味ないんでは????となります。そうです意味はないんです。この世界は無限の表現の場所でしかなく、、これがいい、、これが悪いっていう特定の解釈は真実とは何も関係がないのです。真実には解釈はありません、真実とはたった一つのエネルギー。です。たった一つのエネルギーが変化するだけです、そこに意味を付けるのは自我ストーリーの話です。

プールに浮かぶボール群に名前を付けて遊ぶ

幼少期プールの上に多くのボールを投げて遊んだりしました、そのボールが集まって魚の形をしたり、犬の形をしたり、蛇の形をしたりして子供は喜びます、魚が居る、犬が居る、蛇が居る!!と子供は喜ぶわけです。ですがこれらの動物は数秒ごとに形を変えていきます、、、もしかしたら魚と犬がくっ付いて合わさって、、、これにドラマをつけるならば魚と犬が衝突して魚が消えちゃったとなります。ですが実際にはそもそも魚を犬も実在しないのです。

我々はこの現実世界でそれをやっている

我々はまさにこの現実世界でそれをやっています、ある特定の動きに対し犬、猫、魚、花、、、と名前を付けはしますが実はそれは実在ではなく、、ただ見える輪郭に名前をつけているだけなのです。そしてまさかの人間も同様です。つまり本当は何もかも実在ではないのです。輪郭に名前をつけてそれが動くからドラマが始まったように見ているだけです。だからこそ世界は私の思うようにはいかない、、となるのです。

苦しみからの解放

この世界の苦しみとは無いものをあると信じて、、そのドラマに入り込み、、思うようにいかないと嘆くことです。ないものをあると思い込むことで、苦しい、違和感を覚え悩んでいるのです。本当はこの世界には何もなく、、生命の動きだけがあるのです。それが理解できると、、、こう生きねばならぬ、これが我が人生、、とかどうでもよくなるのです。その時本当の解放が起きます。

悟りは実生活で役に立つのか???

悟りって結局のところ得があるんですか???

損得勘定で言って、、、悟りって結局のところ意味があるのでしょうか????正直に言いましょう、、全くありません。だって得をすることになっている「自分」が居ないと断言するメッセージだからです。自分が居ないなら得はないですよね!!そうです、この世界のメソッドで最も個人に有害なメッセージです。ではなぜこのメッセージが必要なのでしょうか???簡単です、、個人は個人のままでは絶対に絶対に至福に至れないからです。なぜならば苦しみを作り出しているのがこの個人だからです。

動き回っている波に、、、実はあなたは波ではなく海の一部ですよ!!!

自由奔放、やりたい放題で調子に乗っている波に、、、あなたは波なんて大そうなもんじゃなく海なんです、、波なんていうのは名前でしかなくなて本当は存在しないんですよ!!!!と伝えれば、、冗談じゃない、、こっちは全部責任でやってるんだ!!!!変なこと言うな!!!と一喝されるでしょう、波に。

波という独立した何かは本当じゃない

波はいったいどこからが波でしょうか????海と波を分ける明確なボーダーラインってあるんでしょうか???あるわけがない、、つまり波という完全独立した存在など本当はないんです、便宜上つけた名前です。にも関わらず俺は〇〇○助という波であると宣う輩が生まれました、、それが人間です。これは真実じゃないんです、真実では波なんてものはないんです、、人間も同じ、そしてこの体の中の自分とやらも同じです。どこからがこの体ですか???体毛は??フケは???爪の垢は?大便は???出血中の血は????ボーダーラインがないんです。これって波と全く同じですよね。

悟りは個人には全く役に立たないが

悟りは個人には全く役に立たないのですが、、、究極のリラックスに至るのは間違いありません。究極のリラックスに至るのは個人ではありません、個人が実は究極のリラックスの一部でしかなかったという気づきが起きるのです。個人が実は至福の構成要因でしかないことに気づくのです。個人が気づいていたと思っていた全気づきが、、実は空即是色で自動的に起こっていたことに気づきます。これは究極のリラックスに至ります。

空はなぜ色を生み出したのか???

空は絶対完全ゆえに何もしない

空とは絶対完全完璧です、、ここに意識が生まれ、、、などはありません。ですが空は完全完璧完成ゆえに、、、空の中には空の鏡が存在します(完全完璧ですから何でも存在します)、、、この鏡に空が映し出されたわけです、、、するとその鏡には完全完成完璧が映し出されるわけです、、、、この映し出された完全完成完璧が、、色(現象)です。つまり今目の前に広がりる世界(私の前)は完全完璧完成の姿が映し出されているのです。

いやいや、、、全然完全完璧完成じゃないですけど、、、、

ちょっと待ってください、、この不況の日本が、、この大気汚染の日本が、、この税金が高い日本が、、、なぜ完全完璧完成なんですか?????じょうだんじゃない、、、、と思うでしょう。。ですがそれは全部「自分」にとってですよね?????目の前の景色を良く良くみてください、、この景色はアートです、、完璧なアート作品なのです。「私」だけがこの景色にあらゆる意味をつけて不平不満を言っているのです。

目の前に一匹の鳥が

目の前に一匹の鳥が居ます、、、鳥しかいない景色の、、、何が不完璧なのでしょうか???もっと羽が大きければ、、もっと羽が綺麗だったら?????それはこの自分の趣味ですよね、、、鳥は鳥のままで完璧なのです。鳥の進化系???ありません。つまり世界はどのように見えようと完全完璧完成なのです。その中で突如自分という登場人物が現れ悪戦苦闘するわけですがそれすらも、、、無限(空)から派生した、、、無限の表現です、、悪戦苦闘というアートが始まったのです。善戦楽闘もあれば悪戦苦闘もある、楽勝もあれば辛勝もある、、無限になんでもあるという意味でここは完璧なのです。