負の感情の解決を思考に委ね続けた結果

負の感情を思考は一時解決する

思考とは負の感情にとって強めのお酒のような存在です。飲めば一瞬その負の感情を完璧に消し去ることができます。ですがそれはあくまで一瞬でありまた負の感情は勢力を増して襲いかかってきます。なぜ勢力が増すかといえば思考こそがこの偽の自分、自我、エゴを構築している主犯人だからです。思考は決して悪いわけではありません、ですがこの思考は偽りの自分をこの世に作り出します、偽りの自分を作り出しこの分離の世界を創造する張本人です。ですから負の感情の解決を思考に委ねればどうなるか?自我が強化され偽りの自分は強固になり分離の世界はさらに分離を極めていく、結果負の感情はより激しく湧いてくる、このメカニズムに入り込みます。

負の感情を解消するのではなく見つめる

負の感情を解消するには何かしらの気晴らしに逃げるか、もしくは他に何か集中できることを見つけ出し逃げるのが人間の常套手段です。要は逃げるというのが普通です。ですがそれをしない、思考を利用して負の感情回避をしないと決める。逆に負の感情をしっかりと見つめ見つめる存在、気づきの存在になる。大いなる存在にそのままなってしまいます。負の感情こそが人間を人間たらしめてきた大きな要因ですがそれすらも悟りに入る道具にしてしまうのです。

楽しいから逃げる人はいない

何かをしていて嬉しい、楽しいが湧いてきた時にそこから逃げる人はいないでしょう。そこで思考を使い逃げてしまう、、、このケースはないのです。逆に辛い、悲しい、孤独、これらの感情が湧いた時に人間は逃げます、思考フルスロットルで逃げ出します。だからこそこの負の感情こそが悟りに入るポイントになるのです。これこそが悟りへの入り口です。楽しいを意識的に観察する人はいないでしょう、観察する必要がないから。ですが辛い、悲しいを観察するには意識的でなければならない、、、、逃げる癖が付いているからです。だからこそこれは悟りの入り口なのです、意識的でいる時それは大いなる一つの状態です。それを意識的と言います。無意識であるときとは思考に乗っ取られた状態です。

負の感情から悟る

負の感情は悟りへの入り口

負の感情を嫌がる人間は多くいます、というよりも負の感情を歓迎する人間などこの世にいるのでしょうか?いないはずです。それが人間を人間からの解脱を阻止します。そうではなくこの負の感情を観察することでそこから悟りに入ります、負の感情を徹底的に観察し、見つめることでそこから大いなる一つになります。自分というものから湧いてくる感情を観察できるのは自分(体)ではなく大いなる一つです。大いなる一つは常に人間の感情を観察できるのです。

負の感情が湧いてきたら、嫌悪しない、、、

多くの方は負の感情を嫌悪します、人生でいかにこの負の感情を味わわずに済むかを真剣に考え逃げ続けていきます。負の感情を味わわない生活を確保するために人は思考をフル回転しそれを一時的に達成しますが実はこれは自我の罠、エゴの罠です。それは実は自我、エゴの存続方法なのです。そこで思考を使ってくれれば人は思考を信用するようになります、思考を信頼するようになります。この思考こそが自我、エゴの養分です。これはトリック、罠です。負の感情から逃げるごとに自我は肥え太っていくのです。

負の感情すらも悟りへの入り口にする

負の感情が湧いてきたらそれを利用して悟りに入ります。その感情をしっかりと見つめる存在になることでその場で悟りに入ります。負の感情を観察し続け大いなる一つにそのままなってしまいます。負の感情を見つめる存在、観察する存在、止観する存在として悟りに入ります。これは人間ではありません、自我ではありません、エゴでもありません、大いなる一つです。

悟りの学びすらも自我は利用する

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝てない

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝つことはできません。パワフルな人は負の感情が自身から発生した時に臨機応変に無我に入り込むことでその場で大いなる一つになることができます。仕事、掃除、勉強、読書、TV、エンタメ各種、何にからでも無心、無我に入り込みこの負の感情を解消してしまいます。ですがこのやり方だけでは自我、自分の存在から一向に逃れることができません。なぜならばその行為が終われば必ずまた自分に戻ってしまうからです。自分に戻ればそのまま負の感情が湧き出してきます。

感情を観察する存在になる

逃げる行為から無心、無我に入ることができるならば、、、感情を観察することから無心に入ることもできるはずです。感情を観察することから無我に入ることもできるはずです。逃避行動から無我に入れる人間がなぜ感情の観察から無心無我に入れないか?という話です。辛い、苦しい、退屈、孤独という感情が湧いてきたらその感情をしっかりと観察しそのまま無我に入っていきます。そこで思考は出しゃばってきますがその思考に主導権を委ねてはいけません、思考は俺に任せろと言わんばかりに主張してきますがそれを無視して観察という行為に入り込みます。今自分から退屈が湧いている、孤独が湧いている、辛いが湧いている、、、、それを観察する大いなる存在になるのです。そこから自我のカラクリを見破り真我に入ります。

全ての感情から悟りに入る

人間から生まれてくる感情はそれがどれほど快適な感情であろうとそれは既に苦しみの始まりです。楽しいは退屈の始まり、嬉しいは悲しいの始まり、刺激的は退屈の始まりです。人間という存在から湧いてくる感情はコインのように両面の感情がセットで湧いてくるのです。楽しいを追求すれば退屈がセットで付いてくるわけです。この感情から逃げるのではなくその感情を徹底的に観察します。その感情から悟りに入ってしまうのです。その感情から大いなる一つになってしまうのです。その感情からワンネスになってしまうのです。

思考と感情の繋がりから悟りに入る

感情から逃げない

パワフルな人は負の感情が湧いた来た時点で思考ではなく行動、アクションを起こしてこの負の感情からの逃避を図ることができます。私などはその一人で負の感情が湧いてきたら筋トレ、仕事、ブログ制作、断捨離、読書と何かに集中してこれを取り除いてきました。この行動は無心、無我、大いなる存在と一つになることを可能にしますから積極的にこれを行ってきました。ですがやはり負の感情から逃げてきたという事実は間違いなくそのため私は悟りというモノに対する関心興味が尽きることはなかったのです。覚者、悟り人はどうも自分とは違う、この確信だけが私をそこに貼り付けにしたわけです。エックハルトトールの書籍を読むと何かに集中すること、そして思考、感情を観察すること、この二つを大いなる一つになるやり方と提案しています。

感情が湧いたらそれをただ観る

パワフルであればあるほどに負の感情が湧いたその瞬間に何かしらのアクションを起こしそれを回避できます。ですがそのやり方だけでは負の感情の根源を見つけることはできません。特に集団で一緒に居る時など何かしらのアクションを起こせないですから非常に苦しい時間になってしまうのです。その点思考、感情を大いなる一つになって観察するというのは素晴らしいアイデアです。思考、感情と一緒になってしまうのではなく思考、感情を観察する気づきの意識、大いなる一つにその場でなる。これが私にとっても新しい大きなチャレンジになりました。

感情が湧いたらそれを消し去るのではない

感情が湧いた時にそこから逃げる、この時逃げる自分という存在は継続されます。負の感情が湧いた瞬間にその場から立ち去れば確かに負の感情を味わうことを避けることができますが逃げる自分の存在は付いて廻ります。そうではなくその感情をしっかりと観察する、その思考をしっかりと観察する、、、その観察する存在とはまさに大いなる存在、気づきの意識です。今自身から負の感情が湧いてきている、その感情を徹底的に観察してやろう、、、この新しいメカニズムが自身から自我を抜け落としその場で大なる一つになれます。このメカニズムが新しい自分、大いなる一つを出現させます。その場で歓喜、平和、安堵が訪れます。

思考は果たして人間を至福にできるのか?

思考には人間を至福にすることはできない

人間という存在は基本不快、快適、退屈、刺激的、悲しい、嬉しい、悔しい、爽快、、、、という二極の世界に生きています。これはコインと裏表のようにセットです。快適でなくなりと不快になり、刺激的でなくなると退屈に成ります。要はこの二つは行ったりきたりの関係なのです。どちらか一方だけを感じ続けることは絶対に不可能なのです。お酒を飲んでハイになればその後に確実にローが来るようにどちらかだけを味わい続けるのは不可能です。この状態を釈迦、ブッダは苦と表現しました。

人間から湧いてくる感情を思考で解消する限り、、、

人間から湧いてくる感情を思考で解決する限り、このコインの表裏から脱却することは絶対にできません。負の感情を一時的に解消しても必ずまたその負の感情は湧いてきます。このいたちごっこは延々に続くだけではなくさらにこの負の感情は威力を増していくというおまけまで付いてきます。なぜならば思考に解決を頼めば思考を所有している自我、自分はさらに大きくなっていくからです。反社会勢力に一度でも問題の解決を委ねればもうその問題はより大きくなって返ってくる仕組みによく似ています。これ思考による解決の大きな問題点です。

それでも思考は常に俺に解決を任せろと言ってくる

思考こそが自我を形成する張本人です、この張本人こそが負の感情を生み出す根源です。この根源が負の感情の解消に乗り出せば当たり前ですが負の感情はより激しく生み出されるようになっていきます。ですがそれでも人間の中に生まれた負の感情を思考は黙っていません、とにかく俺に任せろとシャシャリ出てきます。こうして人間は負の感情を生み出し続けるという生き地獄から抜け出せないのです。生き地獄とは借金を抱え、大きな問題を抱えた人だけのことではありません。これはほぼ全員の人間が抱える問題なのです。

思考乗っ取り時代は終わるのか?

私が思うにこのメカニズムを理解できている人間はまだ少しです。ですが人間はこれだけのテクノロジーを生み出してもまだ苦しみから脱却できていないことに対し違和感を覚え始めています。幸福になるための心理学にはもう興味が湧かなくなってきています。思考を変えれば成功する、ポジティブシンキング、、、これらに対し違和感を感じ始めています。思考こそがこの苦しみを生み出している、、、これに気づく時代がすぐそこに来ています。

思考と感情の兄弟関係について

ネガティブな感情を解決しようとする思考の罠

ネガティブな感情が湧いてきた時多くの方はその感情を思考を使って解決を図ります。そうしたらこの感情をなくすことができるか?どうしたらこの感情を感じなくて済むかを思考を使って考えるのです。例えば退屈という感情が湧いてきたならばゲームをしよう、友人を誘おう、飲みに行こう、、、と言った具合にこの感情をいかに解消するかを思考を使って行います。結果確かに退屈という感情を感じないで済むようになるかもしれません、ですが結果的には思考を使ってこの問題を解決することでますます負の感情が湧き出すようになっていくのです。これが思考と感情の罠です。

思考を使えば使うほどに負の感情が湧き上がる理由

思考というのは過去の記憶をベースに作られます。自分という架空の存在が経験したことをベースにしてそこから思考が湧いてきて問題の解決を図るのです、つまり思考を使えば使うほどに自分という架空の存在が強化されていくのです。自分が思考を使って問題を解決したというメカニズムが強固になっていくのです。そうなるとどうなるか?大いなる勘違いが加速されることで負の感情が湧いてきます。思考を使って解決を図れば図るほどに負の感情が湧いてくるという恐ろしいメカニズムが構築されるのです。これが人間という生き物がどこまで行っても苦しい理由です。

思考を頼りにしない、思考は意識的に使う

このメカニズムが理解できてきますと、下手に思考を使って問題、負の感情を解消しようという気持ちが湧いてこなくなります。思考フル回転で次から次へと負の感情を解消しても益々自我が強固になり負の感情が湧いてくるのです。思考を使えば使うほどにそれを駆使する自分が確固たる存在になっていくのです。この自分という存在こそが負の感情を生み出す根源です。逆に負の感情が湧いてきたならば何かに集中して意識的に無我に入るか、その感情をじっと観察し痛みの根源を理解します。感情が湧いてきたということはまさに自分というこの偽りの存在が居るのだと認識します。これにより負のスパイラルを強制的に遮断します。

負の感情が湧けば思考フルスロットルが当たり前

思考とは過去の記憶の集積から成ります。問題が起きた時に過去に入り込みそこから最適解を導き出し最も効果的な負の感情解消方法を見つけ出します。これが思考の役割です、思考とは自分の所有物みたいなものです、自分が思考を使いこなし問題を解決しても自分は全く解消されない、むしろ強固になっていく。これが究極の負のメカニズムです。多くの方はこの事実を本能的に知ってか負の感情の解決を諦めていきます、ジタバタしてもしょうがない、、といった具合です。ですがこれは本質的な問題解決にはなりません。そうではなく負の感情をしっかりと見つめる大いなる一つになるか、無我に入って大いなる一つになっていきます。

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

選択を失敗したマリオはいない

選択を失敗したと思い煩うマリオ

マリオがどれほど思い煩い自身の失敗を悔やんでいたとしてもそれは茶番です。マリオがクッパとの対戦で大間違いを起こしジャンプするところをダッシュをしてしまった、、このことについて10年以上悔やんでいる、、これは無意味です。なぜならばジャンプボタンと間違えてダッシュボタンを押したのはマリオではないからです。それはプレイヤーです。もしもマリオに記憶機能があり過去の失敗を悔やんでいても無駄です。記憶機能が作り出した幻想ということになります。記憶ははっきりとマリオの失敗を記憶します、ジャンプではなくダッシュをしてしまったマリオ自身を。ですがこれは記憶違いです。本当はプレイヤーがジャンプボタンの代わりにダッシュボタンを押した、、、これが真実です。

記憶とは勘違いを明確に刻んだモノ

記憶機能とはマリオの行動を完璧に記憶していきます、記憶が重なれば重なるほどにマリオの失敗傾向、気分の浮き沈み、マリオの長所、マリオの交友関係、マリオの対キャラ別成績表が刻まれていきます。最近のマリオは調子がいい、過去何年間は気分にムラがあり失敗が多かった、、、と反省もできるし喜ぶこともできる。ですがこれは全部幻想です。マリオは一度たりとも自身でプレイしたことなどないのです。記憶がそう確実に見せているだけです。5年前のマリオは頭がキレキレで冴えていた。という感じです。残念ながら我々人間もこのパターンです、自分で全部決めていると思っていますが実は決めていません、そう思わされているだけです、記憶と自我のメカニズムによって。

だったら徹底的に自暴自棄になってやる、、、

自分の意思でプレイしていなかったと突然気づいたマリオは、、、絶望し、呆気にとられ、、もうプレイする気力がなくなります。そんなバカな、、、、もうプレイはしない、、、もう冒険はしない、、冗談じゃない、、、こうなります。ヤサくれます。さじを投げます。焼け酒に走ります。、、、ですがまた次の日に冒険に出ました、、、なぜか?マリオに自由意志はないからです。マリオの感情に関係なくプレイは続きます。これは人間も同じ、今日まさかの真実に気づき自分は何も選択していなかったと分かっても明日も何か選択をしていきます、明日からも選択の日々が続きます。ただし人間自分としての選択は皆無です。ただ選択したと思いこまされる日々が続くだけです。

人間ゲームの製作過程が面白い

人間だけが自分の人生を歩む

「我が人生に悔いなし」これは人間ゲームとしては最高の言葉、、ですが悟りの観点から説明すれば「自分の人生はなかった」これが答えです。マリオの人生はなかった、、、これがマリオに訪れた悲劇の気づき、、、でもこれでマリオは救われます。もうクッパとの格闘で胃酸過多にならなくていい、円形ハゲにならなくていい、、ストレス性アトピーにならなくていい、、、嘘だ、、これだけ壮絶な戦いを続けてきたこの人生(マリオ)が作り物だったとは、、マリオという全体と完全に分離した存在が誕生したことでいきなりマリオの大冒険が始まったのです。クッパもプヨプヨも、ノコノコも全部敵、ヨッシー、ルイージなど仲間はいるがみんな分離した別々の存在ということ。マリオが断固として確実に存在するのだというこの間違いが全てを起こします。

この体は確実にある。。。

この体は確実にあります、ナイフで刺せば痛い、抓れば痛い、くすぐれば耐えられない、、ですがこの中に「自分」がいるというのは記憶をベースにしたアイデアです。マリオの中に人格があると錯覚するのと同じです。この体の中に別個の人格がありその人格向上こそが人生、、これがこの人間劇場を作ります。人格も個性も記憶に基づいたアイデアです。もちろん、クッパ、ルイージ、よっしー、このボディーによって活動、性質が異なるのは間違いありません。ですがこの中に人格があると考えると途端にその人生がスタートしてしまうのです。経験を記憶できることによって経験者(マリオ)が誕生しマリオの人生がスタートしたに過ぎません。

それでも周囲は皆我が人生を生きている

自身がマリオであったと気づき全体が作り出した一部に過ぎないと自由奔放に生きていても周囲は皆自分の人生、我が人生を生きています。周囲は皆人生を考えろ、老後の人生を慎重に考えろとアドバイスをしてくるでしょう。どんなに周囲が「自分の人生」を生きていてもそれは思い込み、錯覚であることを知ってしまいますともう真剣に聞くことはできません。地球が回っていることを知ってしまった後に、天動説集まりの会に参加しづらいのと一緒です。どんなに周囲が人生を生きていても、人生とは記憶が作り出したストーリーであることに違いはありませんから事実に向かって全体は動いていきます。

マリオは覚醒後全体とともにプレイが続く

マリオに何かが起きるわけではない、視点が変わる

覚醒とはこのゲームのメカニズムは理解できてしまうことです、腹落ちすることです。覚醒後マリオはゲームのキャラに成り下がります。それまでこれは現実で自身でこの自分だけを頼りに必死に生きてきました。ですがそれからはこのゲームのキャラ、主人公としてのキャラの全うだけが役目になります。この広大な宇宙で頼れるのは自分だけという絶望状態が終わり実はこの宇宙そのものでその中でマリオというキャラを演じていたことに気づきます。マリオという分離した存在はいなかったというビックリするオチです。しかも自由意志と思い込んでいいたこの思考は全体からの現れであり、記憶に基づいてこの思考が湧いていただけだという理解が起こります。感情も記憶とリンクしてこの得体のない不足感、孤独感が変換されたモノだったという気づきが起こります。

気づきの意識はマリオにはなり切れない

全体、気づきの意識はもうマリオになり切って頼れるのは自分だけという心境にはなれません。マリオの裏にプレイヤーがクリエイターがいてそこから自動運転が起こっていたという気づきの後に再びマリオに成り切るのは不可能です。記憶のメカニズム、自我のメカニズムの解明が起きることでもう自我に1日中振り回されることもできなくなります。これまでは何か悲惨な事故にマリオが巻き込まれると、、過去を振り返り何が悪かったのか、何の準備が足りなかったのか?親との関係か?など記憶との格闘が始まりました。ですがその記憶に頼った格闘こそがこのマリオをストーリー夢に引き込む要因です。マリオという分離した存在が所有した記憶に答えを求めてきました。ですがこれが錯覚であることに気づくのです。起きた事件は全体がただ起こしただけ、それにマリオが関わっただけ。もしくはそれを自己として認識するマリオがいただけということになります。全体が起こす出来事に本来は善悪はないのです。

何か事件が起きる度に反省を続ける人間

何か事件が起きる度に反省を続けるのが人間です、事件は全体が起こしたモノでありそこに善悪は全くありません。全体が作り出したアートです。そのアートが人間にとって都合が悪い時にそれを深刻に受け止め反省します。全アートが人間活動を重くしていきます。そうではなく全体が作ったアートとしてそれを観察しマリオは今日もやりたいことをしていきます。自身が全体、気づきの意識であることを認識しマリオをプレイしていきます、全体と、全体がプレイするマリオの遭遇がただ起こり続けていきます。マリオと脇役との重要度の違いはもうなく、マリオも脇役も同価値、同列です。マリオと同じぐらいに価値がある脇役がたくさん出てくるのですから楽しい。