波が実は海だったという気づきは経験なのか?

最後の気づきは経験ではない

波としての人間活動が続きあらゆる経験を積んでいきます、最初は経済的欲求を求めていく、次に精神的欲求を求めていく、、、それでも全く満たされない。なぜならば自分を波だと思っているから、そしてこの波の中に自分という存在が居ると勘違いをしているから。この勘違いが苦しみを生み出しているのですから波としての波活動は全く報われないわけです。ですがその本質が分かり本当は自分は波ではないんではないか???そしてこの波の中に居ることになっている自分はフェイクなんではないか???という疑問が起き始めます、なぜ起きるのか??それは本質は海だからです、当然なのです。そうだ海だ、、は波の状態での気づきです、波が海そのものになるときにそれを経験する自我がもういない、、自我こそが波を維持してきたわけですから。この経験、波から海へのシフトは経験とはいえません。

主語が変わってしまう

波だと思っていたら実は海だった、、波を取り巻く環境の全てが自分だった、、、これは経験とは呼べないような経験でしょう。この経験とは呼べない経験が波の最終目標です、波の最終地点です。波は自由意志で動き回っていたと思っていたら実はその自由意志と呼ばれるような思考は海としてのものだった、だから時に全く上手くいかず時には上手くいくというシステム。思考は海からガンガン起こり、この波が自分だという思考もやはり起きる。そして同時に常に閉塞感、違和感、孤独感が起き上がります、海から。

孤独感が起きるのがおかしいのだ

簡単にお伝えすれば波として完全分離しているならば孤独感が起きるっておかしいのです。完全分離したらその状態がパーフェクトなのだから「足りない」という感情、「寂しい」という感情が起きるわけはないのです。つまり孤独感こそがこの波が自分という思い込みが真実ではないことを教えてくれているのです。私は波として完全独立しているという思い込みこそが孤独感を生み出す最大原因なのです。

不快感が生まれることがおかしいのだ

もっとこういう生活がしたい、できればお金が欲しい、できれば高級車が欲しい、できれば別荘が欲しい、できれば有名人になりたい、できればインフルエンサーになりたい、できれば人気者になりたい、、、全部全部波だからこその願いです。波が波として完全独立したらこの世界は完璧の鏡ですから欲求不満なんど起きえないのです。波という状態、そして波が独立しているという思考が真実は異なっているからブザーが鳴り続けているのです。それが不快感です。

あらゆるノンデュアリティスピーカーが必要な理由

エゴは最短距離では解体されない

エゴ、自我は、、、最短距離では解体されません。そんなに甘くはない、、何年もかけて育てあげた自我が簡単に消え去ってしまうほど甘くはないのです。そこで大切になるのが各スピーカーの方々です。あらゆる角度から真実を説いてくれます。経験しかないですよね!!と担当直入に説明する方、、ストーリーの方向から自我に完全に寄り添って説明してくれる人、、スピリチュアルな分野から、、悟りに導く方、自我の特性を詳細に描き自我を俯瞰していく方、エネルギーワークから解放に導く方、、、あげればキリがありません。なぜか???それはこの世界があるがまま、無限の存在の表現の場所だからです。

真実ほど面白いことはない

私は真実がどうなっているのかを探求するのが大好きです。真実ってどんな映画、アニメ、SFよりも面白いのです。人間はこの真実を知らずに自分たちが信じていることに振り回されて生きています、勘違いしながら生きているんです、これって最高に面白いコントです。勘違いは時に生命を落とすほどの悲劇まで作るのですから作り物の映画よりはるかに面白い、リアリティーショーです。

このリアル映画を解明したい

釈迦が伝えるメッセージを本屋で立ち読みした時に私はようやく辿り着いたと確信をえました、幼少期からなんとなく疑問に思っていたことが氷解したのです、、これだ!!!と確信しました。私ではない何かがこれだ!!と叫んだのです。そこから既に20年の歳月が流れています。今も私は私というストーリーを毎日歩んでいますがその当時のような重いストーリーでは全くなくなっている、この事実が真実への探求を起こし続けます。

エックハルトトールの功績

スピの部分を一切排した

エックハルトトールは悟りブーム、非二元のブームの火付け役です。彼は専門用語を一切排してエゴの特徴だけを説明していきます。自我、エゴの特性を説いていくだけでなぜ人は悟りに至るのか???それは我々がいかにエゴ、自我の動きに無頓着で無警戒で無意織かということです。つまりその存在を認識さえしていないぐらいに当たり前になってしまっているのです。

そうか、エゴってあるよね???

人間の苦しみは間違いなくこのエゴが大きく大きく関わっています。例えば恥をかいてしまい死にたくなるぐらいに悩む、、、としましょう。。。恥をかく、プライドを傷つけられた、、当たり前ぐらいの感情ですが、、ここに大きくエゴが関わっているのです。もしもエゴが肥え太っていないならば、、死にたくなるようなことにはならないでしょう。つまりエゴの大きさによって全く気にならない、と死にたくなる、、ぐらいの差がでるのです。 

人生の苦しみって結局エゴ次第

これだけ文明が進化したにも関わらず人類はストレスを手放すことができたのでしょうか???答えはNOです。ストレスは増大傾向にあるのです。つまり物質的豊かさは人類を救ってはいないのです。では精神的豊かさは今後人類をストレスから解放するのか???しません。YOUTUBEが発達し今子供は朝から晩までYOUTUBEを観て過ごすことができます、ストレスないですよね????そうじゃないんです、飽きるんです、YOUTUBEによってエゴが刺激されて新しい衝動が起きます。

豊かさを追いかける足算ではなく本質を理解する時代へ

物質的豊かさを追いかける時代が終わり精神的豊かさを追いかける時代に、、それでも幸福にはなれない人類は次に構造を理解する時代に入ります。構造とは実は自分など存在せず、自由意志など存在せず、見えるこの世界ただ一つしかないことを知る時代です。真実に近づく時代に入ったのです。

名探偵コナン

たった一つの事件から全てを読み解く

名探偵コナンとはたった一つの事件から全てを読み解いていく探偵アニメです。殺害された人の容態から取り巻きの発言を紐付け、矛盾を見つけ出し、、犯人を暴いていきます。人間は時にこのコナンのように立ち回りあらゆる詮索をします、そして紐付けが当たった時には「やっぱり!!」と唸るのです。真実、ノンデュアリティからこのコナンを解析すると全く異なる展開が始まります。

コナンは事件から過去に遡るが

コナンはいつもこうです、、、被害者の容態、周囲のアリバイから過去に遡り仮のストーリーを作り上げていきます。被害者は三日前ここで働いていて二日前は自宅に居た、そして当日ここで殺された、、、このように事実をストーリー化していきます。そして一番近くに居た同僚のストーリーを同じように作り上げます。奥さんのストーリー、浮気相手のストーリー、そして全員のストーリーを並べてみて矛盾点がないかを探るのです。

真実は異なる

真実のみを伝えれば、、事件が起きたその景色(被害者が倒れている)に過去は存在しません。殺人という現象すら起きていないのです、そんなはずはない殺人されなかったら、、なぜ今ここで倒れているのか????血を流して、、、、答えを言いましょう、、、あなたが居る世界ではあなたの許可なしには何も起きえないのです。つまりあなたが認識していないことは何も起きることができないのです。

もしも殺人現場を見たことがないのならば

多くの人は目の前で殺人など起きたことがないでしょう、、となると、、、この世界には殺人は一回も起きたことがないのです、、あなたの目の前以外では何も起きていないからです。殺人件数0件です。なんて平和なんでしょうか、なんて安全な世界なんでしょうか、、この世界では殺戮が多発し、、、嘘です、起きてないですから、、、残念!!

名探偵コナンは廃業

真実から説明すれば、、名探偵コナンの推測は何も起きていない、、、たった一つも起きていません、、ということでコナンは廃業に追い込まれるでしょう、、、真実を知る世界からは。でもなぜあのアニメは人気なのでしょうか???それは全員が想像の世界で生きているから、、そして想像の世界で右往左往しながら生きているから、、楽しいのです。

脳が無限の表現を可能にした

脳はなぜあらゆることを想像できるのか????

脳はなぜファンタジーを想像できるのか????100年後の地球、宇宙人の生態、スターウォーズのような映画、、、人間の想像力は無限です、本当に無限のように湧いています。なぜでしょうか???何がそれを可能にするのでしょうか????それはこの世界は無限の鏡、あるがままの鏡だからです。「無限」MAKEユニバースです。もしくは無限ISユニバースです。ですからこの宇宙ではどのようなファンタジーも脳内で表現できるのです。

いや所詮は脳内ですよね????

脳内の話であって実際には起きえないじゃないですか、、脳内のビジョンであって現実ではないですよね????では脳内に現実では起きえないようなビジョンがなぜ人間の脳には湧くのでしょうか???見たことがないような世界をなぜイメージできるのか???人間の脳は。それだけでも凄いのです。そしてもっともっと言えば脳は幻想であって実在しません、、本当はただビジョンだけが起きたのです。

本当は脳はなく、、ただビジョンだけが起きた

脳は実在しません、幻想、3D映像です。つまりビジョンはただ起きたのです、、、凄いことです、、ただビジョンが湧き起きたのです。では今見ている景色と想像のビジョンは何がいったい違うのか????実は何も違いはないのです、、現実と呼ばれる世界のビジョンも、、空想のビジョンも見るという経験でしかないのです、同じ経験です。現実のビジョンは触ることができる、、、、そうです、、触るという経験が起きます、それだけ。

ところが

本当の本当のことを言えば、、我々は空想のビジョンの中で、、、ラーメンの香りを嗅ぐという経験、味わうという経験、、コシを楽しむという経験、、、器を持ち上げるという経験をどこまでも緻密にできます。つまり現実と呼ばれる世界で起きることと、、想像のビジョンで起きることは同じなのです。

無限の経験を積む場所

この現実世界も空想の世界も経験というものを積むことができる無限の場所なのです。無限の経験を積める無限の楽園です。私という思考をぶち上げ、、その私がいる人生というストーリー、ファンタジーをぶち上げ、、その人生を楽しむというファンタジーをぶち上げています、、、まさに無限のための無限による無限の表現(経験)です。我々の本質は無限(あるがまま)なのです。

事件が起きた時に

なぜ???

自転車が取られてしまった!!!なぜ???なぜ私の自転車が、、、目立っていたのか???高級そうに見えたのか????昔から目を付けられていたのか???盗まれたとして個人情報はどうなるのか???どこかに売られてしまうのだろうか????事件が起きるとその原因究明、そしてその後の被害拡大、、とエンドレスに「思考」が湧き出してくるでしょう。その思考とは今ここで起きていない、、真実と結びついた空想の話です。空想って言っても盗まれたのは事実だからそれまでのプロセスを「考える」って重要ですねよ!?そして今後起こりえる「可能性」を考えるって必要ですよね???残念!!!!必要ないんです。

本当は時間がない

過去があってそこに要因があり、今その要因によって事件が起き、将来その事件によって次の何かが起きる、、、これが人間が考える普通の発想です。ですがこれって時間ないと成り立ちませんよね????時間ありきの発想ですよね???ですが時間はないんです、過去現在未来という流れがないんです、実は。そうなると過去も将来も因果がないということになります。勿論自転車が盗まれた背景を探れば、、誰がなぜどういう理由で盗んだのか???は分かるかもしれません、ですがそれはたった一つのエネルギー(いまここ)がその映像を今こしらえたのです。残念ながら過去にそのようなことがあってという真実ではありません。今事件のストーリーが湧き出たのです。そして将来どうなるか???は今こことは全く関係なくどうにでも起きえるのです。

たった一つのエネルギーが変化するのみ

変化といのも時間ありきなので表現がズレますが、、、いまここ、あるがまま、はただ移り変わるだけです、、無限が移り変わるのですから変化も無限なのです。それを今繋ぎ止めると時間(思考)が今誕生します。それだけ。自転車がどうやって盗まれたのか???は今そのストーリーが生まれたのです。ある人がこうやって盗んでという事実は全く起きていません!!!なぜか????その人が盗んだという事実は「あなた」がいる世界では起きていないからです。ストーリーとしてそれが今立ち上がったのです。

そこを詮索する無駄

起きていないのですからそこを詮索するのは全くの無駄なのです、、どういうストーリーが浮かび上がるか、、それを楽しむのは良いでしょう。ですが真剣に真剣になぜ盗まれたのか???を考えるのは真実とは異なっています。真実では盗まれた背景は存在しないのです。真実では自転車が消えた、、これだけであり、、その背景は存在しないのです。

悟る!悟る!悟る!

眠る!眠る!眠る!

寝るためにベッドに入ることは重要なことです、ですが入ってから集中して集中していざ眠ろう!は逆に眠れない。それでは無理です。悟りも全く同じ、そこに意識を向けることは大切、ですがそれが執着になると逆に難しい。そのバランスは重要です。

真実を理解していくことは

真実を理解していくことは寝具を整えていくのと同じです。寝具が整っていきますと当然眠りに落ち易いわです。ベッドを掃除し枕を綺麗にし加湿器をつけて暖房を入れる、、、こうしていくと瞬時に眠りに落ちることができます。悟りもこれと同じ、真実の仕組みを理解していきますと悟りに落ち易いということです。

再吸収、再吸収、再吸収

眠りに落ちる時、主語は自分じゃないんです。自分が眠りに落ちるってちょっと違和感があります。眠りに落ちる時って自分が無くなる感じですよね。悟りも全く同じ、自分が無くなるのですから主語は自分じゃないんです、、では誰が主語なのか????自分を眠りに落とす主語って誰ですか???居ませんよね、それをあえてあるがまま、全体、ワンネスと表現すんですがこれは非常にやっかいでどの言葉を用いても違うんです。言葉を当てはめれる存在ではないんです、眠りに落ちる時、どこかに吸い込まれうような感覚があります、、そのどこかです。でも間違いなく我々は眠りに落ちれう時にそこにアクセスしてます、そこに波長を合わせてる。悟りとはまさにそのどこかに波長を合わせ再吸収してもらう感覚です。

眠る時にあそこに行こうとは思っていない

眠るに落ちる時に、、さああそこに行こうとは思って寝ないですよね、、、あそこではないんです、、今ここに間違いなくある、今確実にあるこの場所です。悟りとはどこか遠くに行くことではなく元々ここにある場所に帰る感覚です。本当はずっとここにあるのに見えなくなってしまった場所、そこに再吸収されるように準備を重ねていきます。

江戸時代に将軍様に褒められる

今で言えば億万長者

江戸時代に最も名誉なこととは将軍様に褒められることでしょう、徳川将軍から直に褒められるとなればそれは国民栄誉賞並みの永栄です。仮にそれが叶ったとしましょう、、その人はその後一生幸福なのでしょうか????なわけないのです、、、嬉しいは一瞬です、その時だけ。。当たり前です。ですがこの状況とは現代日本においては億万長者になるようなもの、、ということはそんなことでは幸福にはなれないのです。

人間が思う名誉、評価、賛美など

人間が思う名誉、賛美、評価など、、、所詮は思考が作り出したものです。。このようなもので一生の幸福が約束されることはない、、なぜならば幸福とは一瞬ではなく一生を叶えたいものだからです。思考が作り出したそのような栄誉が人を至福に至らしめるなど構造上不可能でしょう。では人はどうしたら至福に至れるのか???それは人を辞めることです、自分を辞めるしかありません。なぜならば苦しみとは自分がこしらえたものだからです。

自分を辞める

この世界で至福に至る方法はたった一つしかないのです、、それは自分が何かを手に入れるのではなく、、自分を辞めることなのです。自分を辞める以外に至福に至れる方法はないのです。自分は様々なこと、ものを手に入れて一瞬だけ幸福になることはできます、ですがそれは一瞬です、自分とはそういうものなのです。逆に言えば自分を辞めてしまう以外に至福はないのです、自分という状態を維持した状態で至福はありえないのです。

宇宙って既に完璧なんです

宇宙が不完璧ならば

宇宙の完成、、そんなのありますか???宇宙の理想の姿ってあるんですか???あるわけがない、、では地球の理想の姿ってあるんですか???あるわけがない、、、ではこの人間の理想の姿ってあるんですか???あるわけがな、、です。宇宙が既に完璧ならば全部が完璧なはずです、、、人間だけが完璧を求めて努力を重ねている、、、いやいやおかしい。。我々も間違いなく完璧なんです。

自由意志があると思うから完璧を求める

自由意志があって自らをコントロールできると思っているから、、、全然完璧じゃないと勘違いするのです。もっとコントロールできる人間にならなくては、、です。違います、全然違います、、、コントロールなどしたことがないしこれからもできないんです、全く。そして自由意志などないんです、、全部自動発信、自動出現です、、、言動の全てが。

ということは既に完璧

ということは既に完全完璧なんです、、、これ以上はあるわけがないのです、、、だってこの言動の全てが完璧の表現だから、、、、完璧の表現に未完成があったら表現は完璧じゃなくなってしまう。この宇宙の表現者は完璧なんです、つまり完璧の表現には誤りは一切ないのです。全部が完璧完成です。その表現に対し批判が起きてもその表現も完璧なんです。

進化する必要などない

完璧な世界で進化は必要ない

この世界は完璧なあるがままの表現の世界です、そもそもが完璧がアートしている世界において個人が進化する必要などあるわけがありません、既に完成完璧なのです。ですから進化成長を善とする文化は矛盾している、履き違えているのです。既に完璧でしかないこの世界になぜ進化を求めるのか?という話です。もしもこの世界が不完全に見えるのだとしたらそう見えるだけです、この世界はあるがまま、完璧のアートでなかった時などないのです。

それでも個人は成長すべきでは???

なぜ個人は成長するべきなのでしょうか???環境が完璧なのですからその中で個人が成長すべきという発想がおかしいのです、、、個人は成長することに意識を向けることで今ここで発生する苦しみから意識を逃れようとしているのです。成長とは完璧を否定する行為です、この世界はどこまでいっても完璧の表現でしかないのです。

輪廻転生はファンタジー

輪廻転生、これってあるんですか???という話ですがこの世界は大いなる一つ、あるがまま、無限の表現の世界ですから何でもあります、、輪廻転生という概念が現れるのはここが無限の表現の場所だからです、、だからあります。と同時にここは完璧の表現の場所ですから進化しなくてはいけない理由は一切ありません、進化も退化も許される場所です。地球が進むべき姿などないように個人も進むべき姿などない、現代社会の進むべき姿などありません。世界は本当に自由にどのような変化もありえるというただそれだけです。