悟りの学びすらも自我は利用する

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝てない

感情から逃げるだけでは自我に打ち勝つことはできません。パワフルな人は負の感情が自身から発生した時に臨機応変に無我に入り込むことでその場で大いなる一つになることができます。仕事、掃除、勉強、読書、TV、エンタメ各種、何にからでも無心、無我に入り込みこの負の感情を解消してしまいます。ですがこのやり方だけでは自我、自分の存在から一向に逃れることができません。なぜならばその行為が終われば必ずまた自分に戻ってしまうからです。自分に戻ればそのまま負の感情が湧き出してきます。

感情を観察する存在になる

逃げる行為から無心、無我に入ることができるならば、、、感情を観察することから無心に入ることもできるはずです。感情を観察することから無我に入ることもできるはずです。逃避行動から無我に入れる人間がなぜ感情の観察から無心無我に入れないか?という話です。辛い、苦しい、退屈、孤独という感情が湧いてきたらその感情をしっかりと観察しそのまま無我に入っていきます。そこで思考は出しゃばってきますがその思考に主導権を委ねてはいけません、思考は俺に任せろと言わんばかりに主張してきますがそれを無視して観察という行為に入り込みます。今自分から退屈が湧いている、孤独が湧いている、辛いが湧いている、、、、それを観察する大いなる存在になるのです。そこから自我のカラクリを見破り真我に入ります。

全ての感情から悟りに入る

人間から生まれてくる感情はそれがどれほど快適な感情であろうとそれは既に苦しみの始まりです。楽しいは退屈の始まり、嬉しいは悲しいの始まり、刺激的は退屈の始まりです。人間という存在から湧いてくる感情はコインのように両面の感情がセットで湧いてくるのです。楽しいを追求すれば退屈がセットで付いてくるわけです。この感情から逃げるのではなくその感情を徹底的に観察します。その感情から悟りに入ってしまうのです。その感情から大いなる一つになってしまうのです。その感情からワンネスになってしまうのです。

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