過去を後悔する無駄

自由意思がないのならば

自由意志がないのならば過去を後悔するといことが一切できなくなります。あの時こうしておけば、、、年齢を重ねると多くの人はこのことを常に思います、、あの時もう少し頑張っておけば、あの時にこうしておけば、あの時にもう少し優しくできたら、、、、ですがそれは絶対に絶対にできないのです、、、自由意志がないのですから。

もしかしたら

もしかしたら将来お店で万引きをして捕まる、もしかしたら将来痴漢をして捕まる、、、一瞬の気の過ち、、、そして深く深く後悔するでしょう、、、これも全くの無駄です、、、誰にもその行動を止める力はないのです、、誰にもその行動を抑える力はないのです、、、全自動ですから、、、もう少し慎重に考えていれば、、、それも不可能なのです。ですから将来に多くの期待をするのは辞めた方がいい、、自分を信用しないことです。そしてもっと重要なことは人を信用しないことです。

将来を憂う無駄

人生とは最初から最後まで全自動システム、それをコントロールする力は誰も持っていない、、、このことが分かってしまったらもう簡単、、ただただ見守るだけです。。ただただ自分の人生がどう流れるかを見定めていくだけです。風に流され、川に流され、、最終ゴールが全く見えない流れに従う以外に何も答えはありません。そして全員がそうであるならば完全フェアゲーム、、人を羨み、人をそねむ、人を僻む、、一切の無駄です。これは悲観主義ではありません、究極の楽観主義ゲームです。

人に期待をして不幸になる

その人の反応は全自動

親は子供に期待をして全財産、全労力を子供に費やしたりします、ところが実際には子供はその労力の全てを裏切るような行動に出たりするわけです。そして親は子供を嘆く、なんて気持ちのわからない馬鹿息子なんだ、馬鹿娘なんだ、薄情な子だ、、、と。ですが実際にはその馬鹿息子、馬鹿娘には一切の自由意志が許されていませんから子供がどのような行動を取るかは全くの未知なのです。その事実、真実を知らないからこそ、、全てを誰かに期待する人生を人は歩むのです。

信用していた人に裏切られる

手塩にかけて育て上げた社員が会社を裏切って独立してしまった、よく聞く話です。ですがここでも大きなポイントを忘れています。手塩にかけた社員には自由意志がないのです、ですからその社員は好きで独立したのではなく勝手に独立に至ったのです。そんなことはない、結果的には最初から独立するつもりだったらしい、、、たとえそうであったとしても、、その思い、思考、思惑すらも勝手に湧き上がったのです。その社員の意図とは関係なく。

人間の争いの全て

人間の争いの多くは裏切り、妬み、嫉み、誹謗中傷、、などがほとんどです。多くが感情のもつれです、、、こんなはずじゃなかった、、あんなはずじゃなかった、、などなど。ですが、、、人間の行動、感情、、この全ては全自動で起き上がっていますから誰にもこれをコントロールする力がないのです。あると思うからどうしたら悩みが無くなるか、どう生きたらいいか、などの解決方法を探す旅にでるのです。ところが一点の真実、人間には自由意志はない、、という点のみを認めてしまえば、、悩みはなくなります。

苦しみの本質に迫る

条件が全て

こういう家に住んで、こんな収入で、こんなパートナーが居て、こんな仲間に囲まれて、、我々は無意識にそのような条件を幸福に求めます。私レベルであれば最低限こんな環境に身を置くべきだ、、、この思い込みを叶えるために人は生涯を注ぐわけです。そしてこれらとは全く異なる環境、理想とは程遠い会社、家、パートナー、仲間に囲まれてしまえば私は絶対に不幸になるはず、、、それを恐れて生き続けるのです。ですが実際にはそのような理想とは程遠い環境に身を置いた時に初めて気づくのです、いやそれほど悪いものではないなと。これが人間の苦しみの本質です、勝手に思い込みそれを恐れて必死に踠いているだけなのです。

理想を手に入れても

どんなに理想的な生活を手に入れても人が苦しみから逃れなれないのは手に入れた個人が存在しないからです、手に入れるまでの全功績を享受するはずの個人が実は存在しないのです。自由意志に基づいて確固たる結果を出したはずの個人、自分、自我が実は存在しないのです。そのことをどこかで分かっているから常に不安に苛まれるわけです。そして理想とは程遠い環境に身を置いた時にも、、、実は全ての責任は責任を取るはずの自分が実在しないことを本質では分かっています。だから軽いのです、だからそこまで苦しくないのです。理想を追いかけている時は存在しない自我が出しゃばるばるわけですが失敗した時にはその自我が存在を隠します、それで楽なわけです。

理想を追いかける時、、

理想を追いかける時「自我」は大仕事を担います、自由意志を行使して理想に向かって直走れるわけです。本当は自由意志はないにも関わらず起こる自動反応を「自由意思」と捉え続け走る続けていきます。だから自我には理想が必要であり恐るべき環境も必要なのです。ところが突然の災難に襲われ全てを失った時に実はそこまで苦しくないという事実を突きつけられ自我の策略が暴かれるという事故が起きるのです。大借金、倒産、闘病、、、などなどです。

自我に踊らされてきただけ

我々は実は自我に踊らされ、、、、理想を追いかけ、恐れから逃げていただけなのです。この自我主導での奔走逃避行動こそが苦しみの原因であったわけです。ではこれからはどう生きればいいのか??先ずは自由意志がないことを認めることです、自由意思がないということはそれを行使する自我も存在しません、、、そこが理解できますと嫉妬そねみが湧いてこなくなります、、、有名人の大豪邸を見ても、、、たまたま、、、、ホームレスを見ても、、たまたま、、、その事実が分かってしまうのです。なぜならば自由意志がないからです、この世には。

騙し絵

世界がひっくり返る

それまで老女の絵と思って10年間家に飾っていた絵画が実は若い女性だった、、、騙し絵とはそのようなものです、見方によって全く絵の見え方が変わってしまうのです。実は悟りとはそのようなものです、、、今まで見ていた世界は見方の変化によって180度変わってしまう、、、、全員が自由意志によって行動していると思っていた世界が、、実は誰も自由意志で生きていなかった、、、、。道ゆく人々の全員が意志ではなく自動反応で道を歩いているだけ、、、花屋の店員さんも、カフェの店員さんの笑顔も会話も全て自動反応、、

着ている衣服

表参道を歩けばファッションに敏感な人々が思い思いの服装を楽しんでいる、、、違います。完全な自動反応でその服装が選ばれただ着られただけ、、全部たまたまです。なぜこのキャップを被っているんですか???そうインタビューすれば、、、「今年の流行りだから」「このデザインが今日のファッションに合うと思って」と様々な回答を得られるでしょう、、なぜならばファッションに敏感な人々だから、、、ですがその回答すらも自動反応で起きているだけ、、、

コミュニケーションをどう楽しめばいいのか???

全員が自動反応で生きているとしたら今後私はどうコミュニケーションを楽しめばいいのでしょうか?簡単です、自動反応だと思って楽しめばいいのです。好みの自動反応を起こす人とは付き合い、好みではない自動反応を起こす人とは距離を空ける、、このようになるでしょう。というよりもそれしか解決方法がないのです。自動反応を止めることができる個人は存在しないのですから。

周囲の反応は自動反応

怒るというのは「自由意思」があると思っているから

友人の誕生日にプレゼントを送ったにも関わらず「お礼」の連絡がない、、、こんな時個人は怒りの感情が湧いてきます、、なんで電話の一本もしてこないのか!!この怒りの感情とは友人には自由意志があり、、その自由意志においてしっかりとお礼を伝えるべきだという大前提があります。しかしながら真実を伝えれば自由意志が存在しない、、ただそのような反応が起きただけ、、、です。ですからそこに怒りは湧きようがなく、、それを認めるだけ、、、そして今後その友人と付き合っていくかを考えるだけです。

旦那の不倫

芸能人の不倫騒動が年に何回も報道されますがこの騒動が終焉することはない、、なぜならば不倫を起こ有名人には自由意志がないからです。ただの反応です、それを止める個人は存在しないのです。つまり化学反応みたいなものでそれを抑えれる個人が居ないのです。そんなことはない「私」はそのようなことをしない自信が間違いなくある、、それはそのような反応がこれまで起きてきただけ、、先のことは誰にも分かりません。重要なことは不倫を決定する自由意志が「人間」の体には存在しないということを認めることです。それを認めた上で旦那を怒ることはできません。

やられたい放題でいいのか???

旦那の不倫は旦那の意思ではない、、だから放置するしかない、、、のか???違います。自由意志ではなく化学反応、自動反応ですから、、今後もその旦那は不倫をする可能性が間違いなくあるという事実を認識しその上でその旦那と関わっていくかを冷静に思考するのです。自由意志ではないのならば許せると思うかもしれない、それでも許せないかもしれない、、それは誰にも分かりません。少なくとも旦那に怒りを抱えながら重く重く生きていくという地獄から抜け出せるのです。これが軽くなるということです。

怒りではなく、、、ただ冷静に判断する

浮気癖のある旦那、この旦那には一切の自由意志はありません、、、もしもこの行動が許せないのならば「次に浮気をしたら必ず離婚する」これを伝えて様子をみます、、それでも浮気が続くならばその旦那の浮気を止めることはできないでしょう、なぜならば旦那には自由意志が無いからです。そのような病気、、そう捉えることも自由です、、ですがこれは病気でなく全人類がそうだということです。聖人君子と呼ばれるのような人格者も次の人の行動を決める自由がないのですから、、、

信用できる人は誰もいない

絶望的かもしれませんがこれが事実です、、誰も100%の信用などできません。なぜならば自分の行動をコントロールできる個人が存在しないからです。あの人は信用できる、、これは幻想、理想です。たまたまこれまでその人の行動が「自分」にとって信用に値しただけ、、これからは全く分かりません。あの人は変わってしまった、こんな人ではなかったのに、、、違います、、たまたまこれまでがそうで、、たまたま最近が違ったのです。これが軽く生きる極意です、誰も信用などせず全自動のあらゆる人の言動を楽しむのです。

「何もない」は「自分」が困る

世界は何もない

この世界は突き詰めれば「何もない」です。何もない「意思決定」する個人は存在せず人間を含めた全生命がただただ自然現象として行動が起きています。意思決定する個人が不在のままただ現象だけが起きる世界、それこそが今我々が眺めている世界の本質です。その本質の世界が、、、あらゆる自由意志を持った人間によってコントロールされているように「見える」世界が幻想の世界です。ですがこの真実は「個人」にとっては実に都合が悪い、それを認めてしまえば「自分」が出る幕が無くなってしまうのです。

問題解決請負人「自分」

世界は自由意志を持った人間が集まり構築されている、あらゆる問題は個人が解決に当たる、解決能力が高い「個人」は尊敬され豊かになり満ち足りた人生を歩むことができる、、、これがこの世界の風習です。にも関わらず実は自由意志を持った個人、自分など存在せず、、ただただ全自動運転で人間は運営されていることが広まってしまえば、、「個人」「自分」「自我」はたまったもんじゃない、、、存在が消滅してしまいます。みんなで集まって公然の事実として「個人」は存在していたのですから、、認識が無くなってしまったら存在しえないのです。

周囲はどうでもいい

周囲は「自我」「個人」「自分」大前提の暮らし社会をこれからも構築していくでしょう。ですがそれも全く問題ありません、どう周囲が認識しようと真実は一つ、自由意志を持った個人は存在しないのです。ですからその事実だけを認識しながら生きていけばいいのです。どのような社会問題が起きようとそこに個人は何も介在していない、、つまり全てが自然現象だということです。雨、嵐、台風、猛暑、と何も変わらない、、解決方法は皆無、なぜならば解決できる「個人」は存在しないからです。そしてそれらの問題によって苦しむ「個人」も存在しません。

スイッチ

スイッチを押したのは誰だ?

前回の「スタバに行こう!」の続きの話、この思考感情をスイッチを使って説明しましょう。このスタバに行こうという思考感情を生み出したのが「自分」ならば自分がそのようなスイッチを脳内で選んで押したとしましょう。自分がその脳内スイッチを押したのだと。ではその「スイッチを押す」という動きを作り出した動きが必要になります。突発的にそのスイッチが自然現象として押されてしまったのでは「自分」の存在は無くなってしまいます。ですからその「スイッチ1を押す」ためのスイッチ2を押したのも「自分」のはずです。

スイッチ2を押すためには

スイッチ2を押すためにはスイッチ3が必要になり、そのスイッチ3を押すにはスイッチ4が必要になるのです。こうして我々は遡ってエンドレスにスイッチを押し続けなくてはなくなりその起源はビッグバンに行き着くのです。つまりこの体の中に居ることになっている「自分」は「スタバに行こう」に介入できないのです。こうして自分が「スタバに行こう」と思いついた、、という理論はやはり破綻します。この物理次元では何かを宇宙空間に湧き出させのは「自分」ではできませんから自由意志を所有する「自分」という存在は理論破綻するのです。

自分が居ない

自由意志を所有する自分が居ないのならば、、今までのコミュニケーションは破綻します。自分がやりました、あなたがやりました、友人がやりました、、全部嘘です、、、その体、あの体、あの人の体を通じてその行為、その思考、その感情が湧いただけ、、、全自動システムで起こり続けているのです。これが事実です。これが真実です。世界は完全自動システムで運営されていてそれはこの人間も例外ではないのです。

ニュースを見れば、、

不倫をあの人がやった、万引きをあの芸能人が、不正受理をあの政治家が、、、全部自然現象、全自動システムで起こっています、、、その行動、感情、思考がただその体を通じて起こっただけ、、、これが事実です。ではそうなった時我々は今後どうやって生きていったらいいのか???簡単です、、これからも全自動システムで起こり続けることを認めるだけです、、、これまでもそうだったのですからこれからもそうだということです。それを認めた時にこの世界は軽くなります。

今からスタバに行こう

この感情はどこから?

今からスタバに行こう!この感情、思考が突然自分の中で湧いてきたとしましょう、ではこの感情、思考を湧かしたのは誰ですか?当然自分自身だと思っっています99.9999%の人は。ですがもしもスタバに行こう!という思考を自身が作ったならばこの思考を作り出す材料が必要になります。この思考の材料を手配しなくてはならない、思考を作り出すのですからそれには材料、要因が必要になるのです。それを例えばエネルギーとしましょう、その思考を作り出すエネルギーを自分が作り出したのだと。

ではそのエネルギーの原料は?

ではその感情、思考を作り出したエネルギーの原料は何でしょうか???そのエネルギーをこの宇宙に誕生させるにはそのエネルギーの原料が必要になります。それを使って自分がそのエネルギーを作り出したのですから。そのエネルギーをエネルギーAとしましょう。私がエネルギーAを使って「スタバに行こう」という思考、感情を作り出したのならば、そのエネルギーAを作り出した原料エネルギーBが必要になるのです。

エネルギーCも必要になる

エネルギーBが宇宙空間に突然湧かせることは「自分」にはできませんからエネルギーBを作るにはエネルギーCが必要になります。エネルギーCを宇宙空間に突然湧き上がらせることは「自分」にはできませんからエネルギーDが必要になります。つまりエンドレスにエネルギーは必要になるのです。そこでおかしなことが起きます、「スタバに行こう」は瞬時に湧いてきていますから、、スタバに行こう!に莫大なエネルギー重層構造を構築する時間が必要であっては困るのです。ということでこの理論は破綻しているのです。

スタバに行こうは突然湧いただけ

つまり「スタバに行こう!」という思考感情はただ突然湧いただけということになります。「自分」という存在は作り出したのではなく、、突発的に、事故的に湧いたのです。そして全て思考感情は「自分」という存在とは全く関係なく湧くのです、すると意志決定してきたとされる「自分」という存在が崩壊し始めます。何も思考感情を作り出していない「自分」はもはや自分ではなく存在すらしていないのではないか?となるのです。これが自我の終焉です。

思い通りにならない

この世の苦しみ

この世の苦しみを一言で説明すればこれになります、思い通りにならない、、です。思い通りにならない、とは個人が考えるような理想に全く近づかないということになります。ですが実際にはそうではなく理想通りにいけば次は物足りないが生まれるのです。楽勝なゲームを想像してみてください、簡単に辞めてしまうでしょう。つまり思い通りに進めば退屈で、思い通りにいかないと苦しむ、、、これが人生なのです。そしてそのような人生をまさに神は望んだのです。全知全能の神にとって無知無能の人間活動は自身(神)は全知全能であることに気づかせてくれるのです。

これが分かってしまえば

これが分かるということは自身が神であるということに気づいたということです、このような人間活動を作り出した大元こそが自分であり、、これまでの体に宿った自分は幻想に過ぎないということです。すると自然にこの体の中の自分の衝動、欲望、感情に振り回されなくなっていきます。なぜならば本質の自分はそこには居ないからです。本質の自分とはこのゲームを成り立たせるシステムそのもの、、システムですから時間も空間も実は存在しません。幻想として時間、空間は存在します。

個人の思い通りになどなるわけがない

簡単に言ってしまえば個人など存在しません、幻想として存在します。その幻想はどこまでいっても幻想ですから何かを動かすパワーなど存在しないのです、、結果個人という幻想は日々周囲に振り回されることになります。そして個人という幻想を信じ続ける限り苦しみが終わることはありません。

安心して苦しむ

宇宙に無駄はない

現象の世界に個人として生きることは苦しみの人生です、、どんな煌びやかな生活を送っているように見える人も確実に苦しんでいます、、なぜならば個人という存在こそが不足を生み出す根源だからです。周囲が羨むような容姿の女性も、、常に不満を抱えていますし、、周囲が羨むようなお金を持っているような男性も常に不満を抱えています。苦しみとは不満足が生み出しますがこの不満足を作り出すツールが個人です。

その個人も

その個人も、、周囲からの声かけによって勝手に作り上げられるものであり、、全くもってその個人には責任がありません。個人は周囲からの声かけによって徐々に徐々に作り上げられていくのです。ですから気づいた時には自我が形成されこの自我を守るために、自我を満足させるために人生は構築されていきます。

苦しのがデフォルト

なぜ私の人生は苦しみがあるのか????それについて考えるのが無駄です。人生とは=苦しいだからです。これに例外はありません、、、苦しみとは不足感であり、、不足感は個人という存在そのものだからです。今苦しいのならばそれは当たり前なのです、、、いや私の人生は苦しくない、、、そんなことを表面上使う人もいるでしょう、、ですがそれは不可能、無理ゲーです。

どうしたら、、

ではどうしたら個人の存在という嘘、虚像を虚像と見破れるのでしょうか???それは簡単です。この現象界において実在する存在など存在しえないからです。そして全ての現象が虚像、幻想としてその幻想の動きに気づくことができるのはたった一つ、実在です。すると今起こる全てに気づいているのは自分という幻想ではなく絶対の実在であることが分かります。これが我々の本質です。