現実は小説よりも奇なり

そりゃそう

現実は小説よりも奇なり。そりゃそうなんです。そりゃ当然です。なぜならば目の前の現実は「固定観念が現れる幻想」なのですから。そしてこの幻想は無限の現れを起こしますから、記憶では到底処理できないような現れ方をします。トランプの大暴走をここまで予想したアナリストは居たでしょうか?????いないでしょう。彼の行動の源泉は「無限」です。無限ということは予期できない現れであるということです。

自我は怯える

無限の現れを処理できない「自我」は怯えます。いやいや、、恐ろしい。。。。恐ろしいから先ずは真面目に目の前のことをコツコツと。。。。。現状維持、現状維持、、、、、と守りを固めます。こんなことをやりながら一生が終わるのです。ですが真実では「固定観念」を支える幻想が無限の現れとなって目の前に現れ出ただけです。なんてことのない話です。システムに気づけば、、、完全な自作自演、自縄自縛、、笑っちゃうぐらいにシンプルな話です。

それでも何も問題はない

それでも何も気にしなくて大丈夫です。そのような気づきの流れが森羅万象の動きとしてあるがままに起こるだけですから。誰一人このシステムに抗える者など存在しません。究極を言ってしまえば誰も存在すらしていません。ですから今このような体験をたださせられているのだ、、と天に任せてしまいましょう。森羅万象の動きの任せてしまいましょう。

そうは言っても現実は、、、

スピじゃなくて

普段真実のメッセージを学んでいる人でも「今月の電気代が払えない。。。。」このような状況に置かれた瞬間、、、、「そうは言っても現実は。。。。。」と一瞬で思考が切り替わります。これで負けます。本心が出ます。そうは言っても現実は。。。。。。そう周囲に呟けば「そりゃあそうだよ。。。。」となります。周囲は当然同調します。こうして表面上は真実を学びながら、、、本音では「現実主義」を貫くのです。

それじゃダメ

真実のメッセージは建前、、本音はリアリスト。。。。それではダメなのです。あなたが思っている「リアリスト」は、、、ただの固定観念崇拝者、、、、なのですから。あなたが思っている現実は「固定観念」のことです。そうは言っても現実は、、、、、の現実は、、、、固定観念のことです。真のリアリストとは「これを幻想と見抜き、、ただの固定観念の現れに過ぎない」と見抜いた者です。

解決しよう

現実を変える努力

頑張って頑張ってこの現実を変えよう。。。そのためにこれだけの努力を!!!!!と多くの方は生きます。ですが現実とは幻想でありそれは固定観念の現れに過ぎないと気づけば、、、このやり方は完全に無意味であることに気づきます。なぜならば頑張った先にある「現実」は頑張る前にも存在した固定観念の現れだからです。頑張る前の固定観念と頑張った後の固定観念が同じであるならば、、同じ「現実」がそこに「ドカン」と広がります。

頑張っても意味ねーし

頑張ることに意味があるとすれば頑張ることに意味がないことを知ることです。目の前の現実は常に「固定観念」ですから、、その前では努力は完全に無意味です。つまり固定観念が変わる以外に目の前の現実を変える方法はないのです。ですから唯一の努力と言えば、、、真実を知る、、、これに尽きます。これからはこういう固定観念を持つように気をつけます????不可能です。そうじゃないのです。

出来事=儚い

全て消える

今日の飲み会は最高に楽しかった、、、今日が最高だから、、、これから毎日飲み会しましょう。。。。。とはならない。なぜ?????毎日となれば、、多分、、、最高ではなくなる。。。。なぜ、、、、それは、、、、たまにだから最高であって毎日であれば最高ではない。。。。。つまりこれは刺激と同じ。。。刺激は毎日だと、、、、逆に苦しい。。。つまり「最高に楽しい」の正体は「苦しい」なのです。「最高に楽しい」を重ねて重ねて重ね尽くせば「苦しい」になる。つまり原料は「苦しい」が正解です。

出来事

出来事とは、、、全て幻想です。幻想ですから当然現れては消えます。現れては消える出来事を追い求めることを儚いと表現します。全ては出来事です。出来事とは儚いものなのです。ですから出来事に関心を向けること自体が「儚い」に関心を向けることになります。関心を向けるべきは儚い出来事ではなくその出来事を生み出す存在です。儚い出来事が常に現れようと「私は在る」というこの感覚は微塵も揺れ動くことなく「ドカン」とここに存在します。私とは儚い出来事の享受者ではなく、私の中にこの儚い出来事が起こるのです。その時、、出来事は「私は在る」の愛の表現にシフトします。

私は在る

「私は在る」に意識の焦点が合えば、、、出来事は愛の表現になり、、、、、、、、出来事自体に意識の焦点が向かえば、、、、儚い、、、になります。幻想に関心が及べば、、、、その幻想は必ず消えていきますから「儚い」になります。何が起ころうとも「私は在る」の中でしか起こり得ないという事実に帰れば、、、それは愛の表現になるのです。儚い世界を生きるのか「私は在る」の中で愛の表現を楽しむのか、、、選んでください。ただ選んでください。それだけです。

いつか幸せになる???

今ない????

私はいつか素敵な王子様と結婚して「幸せ」になります。。。。。ということは今その幸せは「ここ」に存在しないということです。今ここに存在しない「幸せ」がいつか現れるとするならばその「幸せ」はいつかの「ここ」に「ボコッと」現れる以外にありません。つまりいつか「ボコッと」現れる幸せとは幻想だということです。なぜならば「ここ」にボコッと現れるためにはそれは幻想以外には不可能だからです。つまり星の王子様との結婚がもたらしてくれる「幸福」とは幻想体験ということです。

というと????

つまりその幻想体験は、、、幻想ゆえに必ず消えます。幻想とは現れては消えるのが運命だからです。つまり最初から消えることが宿命づけられている「幻想幸福体験」を追い求めているのです。ということはその作戦は必ず失敗に終わるのです。では????では????どうしたらいいのか????幸福はどこかで現れるものではなく「今ここ」に確実に存在しなくてはならないのです。そしてそれはただ「発見」されていないことに気づく必要があります。発見されていないだけで既に存在する「幸福」以外は幻想です。

どこ??????

じゃあその今既に存在する「幸福」はどこにあるのですか?????これが究極の問いです。今既にここに幸福があることは分かっています。今だからここでそれを探す以外に道はありません。だって今確実にここにそれがあるのですから。ではどこでしょうか????このブログはそのありかを再三に渡って説明しています。このブログはその場所を何度も何度も伝えています。将来ボコっと現れる幸福は幻想の幸福です。そこを目指しては最初からダメなんです。既にここに100%存在する幸福を見つけてください。

塩が海水に溶けていく

マハラジ

マハラジの表現は常に的確です。塩が海水に溶けていく、、、その塩がこの現象界です。色即是空でいう色です。色とは塩であり色は現れてはまた海水に戻っていきます。どんな塩が起ころうとも返る場所はいつも海水です。どんな形の塩が現れては消えても海水の量は全く変わることがなく塩の量も何も変わりません。私とは海水であり、、、この普遍の海水は塩の形態によって何一つ損なうものはありません。今目の前に大惨事が起ころうともそれも塩です。形を変えた塩です。その塩は確実に海水に返る以外に選択肢はないのです。

そして

それが分かった時、、海水の自覚が芽生えた時、、、、塩の形状に無関心、、が起こりそれが塩の形状を穏やかに変えていくのです。思考という塩の形状が変わっていきます。思考はもう他の塩に関心が起こりません。塩の宿命は海に帰ることであることが既に分かっているのですから。つまりてーへんだ、てーへんだ、、、、という「思考=塩」がもう起こりません。代わりにただ海水として塩を眺める状態に入ります。

その時

あるがままの塩の動きと、、それを観照する海水、、という二局が生まれます。ですが塩は海水の一部であることが分かっていることから、、二つは一つなのです。この自覚が芽生えていく時、、、、ではこの海水と塩の動きに気づく存在は何だ???という次なる疑問が起こるのです。それこそが真の自分、、気づき、無限です。

意識を本当の自分に向ける

普段

普段我々は意識を本当の自分でない幻想に向けています。この体だったり、自我という思考だったりです。意識が偽物の自分に向かった時、、、苦しみが起こります。意識が偽物の自分(自我)に向かわない時、苦しみは消えます。火事場のくそ力という言葉があります。意識が「自分という思考」を完全に忘れ行為そのものに集中した時、とんでもない力と開放感が起こるのです。ですがそんな非常時でなくても意識が「真の自分自身」に向きさえすれば、、、即解放です。即開放です。

では????

では意識はどこに向ければいいのですか????どこに本当の自分が存在するのですか????それは体とは全く関係のない「私は在る」という感覚です。幻の体の外にある「私は在る」です。ここに意識が向かった時「自分が自分」に出会うのです。「真の自分(意識)が真の自分(私は在る)」に出会うのです。聖なる結婚です。思考の私ではなく「意識」が「私は在る」を意識した時、、、真の繋がりが生まれます。

そこから

そこからはただ「私は在る」の中で幻想の動きのみが起こります。幻想が幻想と見破られているのです。意識はもう幻想の動きに関心がなくなります。だって本当の自分「私は在る」はもう収まるべきとこに収まっているのですから、、、幻想がどんな動きを起こそうとも、、、関係ないわけです。幻想の動きは幻想の動き、、以上です。どんな思考も感情も何もかもが幻想です。かつての私も100%幻想です。それに気づいた「意識」はもう幻想に惑わされることはありません。

「私は在る」は無敵

損なえる存在など皆無

我々の本性は「私は在る」です。「私は在る」である我々を傷つけることができる存在は皆無です。あなたが私に罵詈雑言を放っても強烈に放っても「私は在る」が消え去ることが全くないのが事実なのだから何も起こっていないのです。傷つくことができるとすれば「私が在る」がこの体の中に収まった何かであるという確信が起こった時、、、辛い、、、がでます。つまり勘違いなしに「私は傷ついた」という思考は起こり得ないのです。

想像??????

つまり我々が傷つくことができているのは、、、、この体の中に「私が在る」という感覚が存在し、、その私が罵詈雑言を放たれたと勘違いしたからこそなのです。大変複雑な勘違いを徹底的に徹底的に社会によって組み立てられ、、、ようやく、、ようやく、、、、、傷つくことに成功したのです。今も「私は在る」は健在であり、、それが無くなることは不可能なのです。「私は在る」の中で幻想が動き回り、、この体に向かって罵詈雑言が放たれたという事実が起こったに過ぎません。つまり「私は在る」というあなたの中でドラマが動いたに過ぎないのです。

あまりにも

真実はあまりにも常識とは正反対なので、、、このメッセージは脳によって完全遮断されるでしょう。一万人に一人しかこのメッセージを鵜呑みにはできないでしょう。。。実際には脳も幻想であり、、ただ勘違いの記憶(カルマ)によって遮断されます。こんな危険なメッセージを一人で信じて生きていたら私は爪弾きにあってしまう。。。。。これが本音です。ですが安心してください、、どうなるかを決める個人など幻想でしか存在しないのですから。全てはあるがまま、なすがままです。

思考の役割

指し示す

思考の役割は何でしょうか????思考を覚えた時我々は思考で遊びます。思考にドキドキします。幼児は思考を覚えながら、、ワクワクしています。いつしか思考の内容を信じるようになった時「固定観念」が現象化し思考の中に閉じ込められます。これが悟りが閉じた状態です。思考を覚えていたら世界が変わってしまったのです。もう手遅れです。あなたの前には固定観念という記憶が生み出した世界が幅を利かせます。

分かってくる

ですが何となしに分かってきます。あれ、、、固定観念が変わると見える世界も変わるぞ!!!!という気づきです。思考の力、観念の力に気づくのです。思考がそうかこの世界を作っていたんだ、、、という気づきです。思考によって完全に騙され、、思考の力に気づき、、、思考こそが真実を発見させる流れに在ることに気づくのです。思考によって悟りが閉じて、、思考によって悟りが開くのです。思考が真実の場所を指し示していきます。

面白い

思考の存在、思考の正体に気づき始めますと、、、面白くなります。固定された世界の中に閉じ込められた「私」が解放されてそこに隙間が生まれます。なんだ、、、、世界は私が生み出してたんだ!!!という解放です。何だ誰一人悪役なんていないじゃん、、何だ、、、誰一人俺を不幸にできる存在などいなかった、、、という気づきです。思考がまさに今現れる究極の場所に戻っていきます。思考が真実の場所、真我、をちゃんと教えてくれていたのです。

知るべきことは何もない

よく聞く言葉

覚者の言葉で「あなたには知るべきとは何もない」というものがあります。知るべきことが何もない????だったら覚者が書く本も読む必要ないのでは????何も知る必要がないなら、、何で本を出版するのですか????と言いたくなります。これ天動説の中で天動説を進化させる知識は必要ない、、という意味です。天動説をさらに進化発展させよう!!!ではないという意味です。あなたが信じる天動説は100%間違っていてその根拠が「悟り本」です。ですからそういう意味では知る必要はあります。

天動説がどう間違っているか

このブログが意味することは「天動説は100%間違っている」という証拠を出すことです。天動説が間違っている根拠を挙げていきます。それは天動説上の「知識」の上書きではなく、、、天動説自体を木っ端微塵にしてしまう内容です。だから悟りのメッセージは天動説愛好者には徹底的に嫌われます。嫌悪の対象、絶対に顔も見たくない相手です。

ですから

私は肩を叩いて「本当はこうですよ!!!!」などは絶対に絶対にやりません。今地動説で幸せならば、、、それでいいのです。今地動説がしっくりくるならそれでいいのです。今の幸福を完全否定する内容をこちらから叩き込んだら大変です。失礼です。ですからこのブログは地動説はだいたい分かった、、、もう飽きた、、、もう十分だ、、、という方に向けて書いています。地動説を真っ向から叩き潰すブログです。大変危険なブログです。