何度も何度も「私」に帰る

観察

ただただ全七感だけが起こっている、、、この気づきの状態と、、、、話しかけられれば「私」に戻る感覚を繰り返します。「私」に戻っても、、、、何が起こっていたかを確認します。ああ、、ただここから「私を主語にした言葉がでたんだ」ここに戻ります。マイストーリーが起ころうと、、、いまここに異変があったのか????全くありません、、、「私を主語にした言葉が出た」ただそれだけです。そしてそれがイメージ化され「違和感」という感情が起こったのです。だから苦しくなって、、またいまここに戻ります。あるがままに戻るのです。

マイストーリー

マイストーリーがこのいまここ、あるがままをおかしくしたのでは全くありません。あるがままの中に「私を主語にした思考」が生まれた、、ただこれだけです。あるがままがあるがままではなくなることは絶対にない、いまここがいまここでなくなることは絶対にない、ただその中に「私は〇〇だ」が起こっただけです。ここに気づきます、何度も「私を主語にした物語」は起こりますがその度にそれに気づくのです。

最初は

この広大な空間の中に「私」が一人居るというイメージが拭えません。本当は見える聞こえる感じる味わえる香れる全ては感覚でしかありません。この幻想に対して起こった感覚というよりも、、感覚があるからこの幻想に実態を感じているだけです。この世界から五感が無くなったら、、何もないのです、、この五感がこの世界を100パーセント作っているという事実に気づきます。主導権は全てこの五感にありこの五感が幻想と呼ばれるこの現象を生み出すのです。

五感が幻想を作る

よく観察してみてください。視覚がカップ、椅子、机、この体を作り出しています。聴覚が音を作り出します。味覚が味を作り出します。最初にこれら幻想があって、、そこに気づくのではなく、、気づきこそが、、これらの現象、幻想、幻を作り出しています。ちっぽけなちっぽけなこの私ではなく、、、この五感こそが全幻想を作り出しています。。幻想と五感は完全に同意です。するとこの環境の中のこの小さな体の小さな私は、、、嘘です。でたらめです。全員が全員勘違いをしているから勝手にそう思い込まされています。

私の物語がガッツリあっていい

そこに気づく

私が居ようと、あなたが居ようと、私のストーリーがあろうと、あなたのストーリーがあろうと、、全くどうでもいいのです、実は。どのように起こっているかが最重要、その認識が起こった瞬間映画がガンガン上映されようと、、それが映画であることに気づきます。ここ最重要です。映画は、、この思考を通じて起こります、感情はこの思考に反映されて自動的に起こります。勝手に上映されようと上映されていることに気づくのです。

思考

思考とは今ここに起こり、それがイメージ化され、認識されます。自動的にこれが起こります。私は今強烈に腹が空いている、、これが起こればイメージ化され認識されます。これによって虚しい、悲しいなどの感情が自動的に起こるのです。これがマイストーリーです。空腹感は勝手に起こります、、五感を通じて勝手に起こります。すると思考が湧き(第七感)イメージ化され、、感情が湧きます。これが全部自動で起こるのです。我々にできることは、、そこに気づくこれだけです。

誰が気づく

マイストーリーの登場のメカニズムに気づくには誰かがこれに気づく必要があるのか???残念ながらこれに気づく誰かはいないのです。。ただ気づくのです、、私が誕生し私の物語が起こった瞬間にこれに気づくのです。その瞬間、「違和感」が消えます、違和感を消すための動きが消えます。何度も私も私の物語も起こりますが、、そこに気づきます。

悟り

悟りとは、、この私、私の物語が勝手に湧き上がった思考であることに気づくことです。この私も私の物語もそもそもあったのではなく、、思考として湧き上がったのです。そのメカニズムに気づくことです。最初から存在するモノはこの世界には一切存在しません、幻として視覚に現れ、聴覚に現れ、触覚として現れてもそれだけです。ですからこの私も例外なく幻であり、、この幻を主語にした言葉の全ては物語、つまり幻です。そこに気づきます、私が誕生した瞬間そこに気づきます。悟りを開くのに「私」を利用します、私という幻想の起き上がり、想起、に気づき悟ります。

五感

音楽

音楽が聞こえます、音という聴覚が起こります。音に乗せて言葉が起こります。「思考」という第7感が音を繋ぎ意味に変えます。リズム+言葉の意味が起こります。ミュージシャンには歴史がありその歴史に照らして今回の音楽を楽しみます、これが思考という第7感覚+感情という第6感で起こります。本当は何も起こっていないのです、ただ感覚だけが起こっています。感覚が抜け落ちた時、何も残りません。空です、無です、、そして自身が空、無であるという実感も起こりません。

物語

言葉は思考を作る土台です。言葉がなければ思考は存在できず、ゆえに人間は動物と全く同じです。言葉があるから思考が起こり五感で感じる実感に意味をつけ解釈をつけ、ストーリーに仕立てます。我々はこの五感で感じた事実をベースに思考が湧き上がり、、「この私」「この私の体」「この私の人生」という空想を作り上げているのです、現在も。ただしこの事実に気づきますと、、徐々に徐々にこの空想からリアリティが抜けます。

空想

感覚は100%事実です、、五感は100%事実です。ですがそこから湧いてくる思考(第7感)内容は嘘が多いです、、五感を土台にした空想がひたすらに広がります。事実はこの五感のみです、、、五感以外は何も起こっていません。起こっているという想像は空想です。我々人間はこの五感の上にとんでもない空想を描きそれを共有し、その空想の中で生きるというとんでもないファンタジーをつくたんです。ですがこのファンタジーを描いている期間は「苦しい」「違和感」が継続します。

過去の思い出

湧き出てくる

悟りの学びをしていくと「過去の思い出」が湧き出てきます。これってつまりストーリーに引き戻そうとする動きです。これをしっかりと自覚します。逃げないのです、全体のこの動き、ストーリーに戻す動きから逃げるのではなく立ち向かうのです。なぜこの思い出が湧くかに注目します、注力します。目的がハッキリと分かってしまうと、、逆に今悟りへのシフトが起こっていることに気づきます。加速します。

誰が????

誰がストーリーに戻そうとするんですか???誰ですか???神ですか???大いなる存在ですか?????その人たちがそっちに引っ張ろうと意図するのですか????しません、誰もそんな意図はないんです、誰もないです。生命です、生命の動きが起こるんです。ストーリーを維持しようとする動きがただ起こるのです。慣性の法則です。

その動きに気づく

ストーリーへの誘いが起こったら、、その動きに気づきます。慣性の法則が働いていることにしっかりと気づきます。その動きを読めば冷静に冷静にその動きを見切ることができます。その動き、その動きは多くの場合「思考」「感情」から起こりますから、、それを見抜くのです。過去の思い出は「思考」「感情」を通じてフラッシュバックされます。そしてそこから私の感覚が蘇りストーリーに引き戻されるのです。この動きを把握するのです。

人間ドラマ

本当は

人間ドラマとは、、、ただここで7つの感覚のみが起こっているにも関わらず、、そこに気づかないことで起こる現象です。本当は何も起こってもいません、幻想、現象が視覚として現れ、、それを認識する第七感(思考)が現れ、それに付随して感情(第六感)が現れる、、それだけです。今ここではこの体はあるように見え、あるように感じますが、それも幻です。この体を取り巻く環境は動き続けますがそれもそう見え(視覚)そう感じる(他の感覚)だけです。

見抜く

徐々にそこを見抜いていきますと、、、軽くなっていきます、、深刻さが消えていきます、、、小さいことにこだわらなくなります。リアリティのポイントがずれていきます。それまではこの幻想にリアリティがありました。そうではなくこの7つの感覚にリアリティがあるようの感じるようになります。ですから悟りとは虚無とは全く違います。フワフワ、ホワホワとは全く違います。明確な感覚なシフト、明晰な感覚へのシフトです。

何が起こっているかを見抜く

我々はあまりに当たり前過ぎて、この五感+思考+感情で何が起こっているかを忘れていたのです。大いなる存在、神というざっくりした概念を頭に入れたところで「今」何が起こっているかを明確に把握しなくては意味がないのです、、悟りとは明晰な感覚のシフトです。

7つの感覚

これは練習

今からカフェに歩いて行きます。家を出ます、ドアを触ります。触覚が起こります、ドアが見えます、視覚が起こります。外の光を感じます、視覚が起こります。あらゆる音が聞こえます、聴覚が起こります。道ゆく人の姿が映ります、視覚が起こります。好きなブランドの靴を履いた人を発見します。思考が動きます、第七感です。感情が動きます、「羨ましい」第六感が動きます。カフェに着きます、カフェに姿が映ります、視覚が起こります。椅子に座ります、音楽が聞こえます「聴覚が起こります」コーヒーの香りがします「嗅覚が起こります」

7つの感覚のみ

五感+感情+思考、、これだけが起こっています。これ以外が全く起こっていません。この世界が実在であるという証拠は全くなしに、ひたすらに五感+感情+思考のみが起こり続けていきます。幻想があらゆる形で見え、聞こえ、感じ、香り、味わえますが、、、それは五感のことです。そこに思考、+感情が起こるだけです。これを感じます。この事実に気づきます。

7つの感覚で

七つの感覚で「私がこの世界に居る」というストーリーがこの世界にしっかりと誕生しているんです。この7つの感覚に支えられてマイストーリーが確立します。7つの感覚が間違いなく起こるので、、マイスストーリーが100パーセントしっかりと起こるのです。そして最終的には7つの感覚があるから、、これが幻想、ストーリー、映画であることにも気づけます。なぜならば7つの感覚しか起こっていないことを知っているからです。ここで。

悟り

悟りとはこの事実、真実に気づくことです。本当はいまここで、、この五感だけが起こり、そこに思考という第七感が起こり、そこに感情という第六感が起こります。本当にこれしか起こっていません、、いやいや外には太陽がしっかりとあって、、、、、いえ、、それは視覚が起こっているだけです。そのようなものが見え、、そこに太陽という思考(第七感)が起こったのです。これだけです。

7つの感覚しか起こっていない

人間

人間と呼ばれるこの幻想は、、実は7つの感覚だけが起こっているだけです。この説明も間違い、、この今ここでは7つの感覚だけが起こります。コーヒーカップを手で持ってください。何が起こりましたか????幻想である手と幻想であるカップの境目に感覚が起こりましたね。そして視覚の中で手とカップが起こりました。次にそのカップを幻想の鼻に近づければ、、香という嗅覚が働きます。そしてそれを幻想の口に入れれば味覚が起こります。さらに幻想の喉元を通る時「ゴクリ」と音がします。今触覚、視覚、嗅覚、味覚、聴覚という五つの感覚が起こったのです。

この五つ

この五つの感覚が起こることで、、、第七感である、、思考が起こり「この体がコヒーを飲んだ」という思考が起こりました。次の「私がこのコーヒーを飲んで美味しいと感じた」という思考が起こりました。すると「違和感」という感情が起こったのです。これが第六感です。全部で7つの感覚が起こりました。それ以外は何も起こっていません。ですがこの7つの感覚によって「私のストーリー」がしっかりとこのあるがままに生まれたのです。

見抜く

本当は7つの感覚だけが起こったのです。それ以外はどこを探しても何も起こっていません。「この体は私だ」これは第七感覚の思考です、、、「カップとこの体という幻想」は視覚という五感の一つ、こうやって7つの感覚だけが起こりました。そして我々人間は生まれて死ぬまでこの7つの感覚しか起こりません。さらにこの人間というのも視覚の長物であって感覚の一つです。つまり7つの感覚だけが起こり続けます。もしもこの7つの感覚がなければ何も起こりません、何もないのです。五感がなければ思考という第7感も起こらず、第7感が起こらなければ感情という第六感覚も起こりません。

覚者

覚者がこの世界は無であると称するのは、、、、この五感がなければこの世界は無に等しく、、、この五感がなければ思考も感情も起きえないので、、、神という概念、無という概念、空という概念、色という概念、全てが登場しません。ゆえにこの五感がこの世界の存続において必須であり、、第七感がなくては真理の再発見もない、、よって空の発見も色の発見も起きえない。ゆえに7つの感覚こそが空即是色、色即是空の生みの親とも言えます。

七つの感覚が起こっているだけ

実は

本当に起こっていることをここで観察してみましょう、、この手という幻想が触覚を起こし、鼻という幻想が嗅覚を起こします、、目という幻想が視覚を起こし、、耳という幻想が、、聴覚を起こします、、、口という幻想が味覚を起こします。これで五感です、、、、五感があるから、、体という組織(幻)が実在しているという思考が起こります、、これが第七感です、、、これによって「違和感」という感情=第六感が起こるのです。実は五感はただそこで起こるのみであって、、五感=体があるとはなりません。思考が起こる(7感)があることで体があるぞ!!が起こり、、これによって「違和感」という感情(六感)が起こるのです。

この7感

7感しか実は起こっていません。幻想を証明するようなことは何もなく、、、ただ五感+思考(7感)が起こり、これによって感情(6感)が起こっています。7つの感覚がただここでは起こっているだけです。何一つこの幻想、幻が実在することを証明はしません。我々は7つの感覚だけが起こるこの世界に生まれて死ぬまでいるのです。ここでは7つの感覚だけが起こっています。そこに気づきます。

空即是色、色即是空

空即是色、色足是空が起こるたびに7つの感覚が起こります、、ただそれだけです。7つの感覚が、、空間があり時間があり、、という思考(7感)を作り出し、、感情という6感を生みます。五感はただこの幻想に気づく感覚です、、目の前のカップという幻が実在していると信じれるのは7つの感覚があるからです。逆に言えばこの7つの感覚がなければ我々は完全な空でしかありません。何も感じることはなく何も思考は起こらず何も感情も起こらない存在です、、これが空(不変の自己)(無限の存在であるという自覚なき存在)です。

7つの感覚

我々は7つの感覚があるから、、この現象、幻想を味わい尽くすことができ、、、、結果この幻想を生み出す空という存在に気づきます。もしもこの7つの感覚が無ければ幻想(色)に気づくことは不可能であり、、よって空という存在に気づかず、、空でしかない、、空という存在に気づくことがない空となります。7つの感覚があるから空という実感が持てるのです。

生命

動き

我々の本質とは生命であり生命とはすなわち動きです、、、思考とは動きであり感情も動きです、行動も動き、全感覚は動きです、音を捉える動き、味を捉える動き、触れるを捉える動き、熱を捉える動き、言葉を読み込む動き、言葉を発する動き、幻想を視覚化する動き、、これらの動きこそが我々の本質です。この動きなくしてこの世界は一切の存在を維持できません。この世界は幻想ではありますが、、この動きのおかげで、、まるで存在するかのうように感じる(動き)ことができます。

全感情

感情とは完全に動きです、エモーション、、モーションを起こす、、動きです。この世界で動き以外のものを探すのは不可能です。道を歩く時、、地面を感じる動きが起こることで地面、足が登場し、、風を切る動きが起こり、視界が変わる動きが起こります。光を感じる動きが起こり、、時間、空間があるような感覚(動き)が起こります。この世界は生命であり、、その生命とは動きのことです。

気づくという動き

空即是色による「不変の自己」から現象が起こり続け、、それが気づきという動きにあります。この体という幻想とそれ以外の現象(幻)は五感という動きを起こし、、無限の体験を生み出します。空とは無限のことであり、、色とは無限の幻想としての現れです。。。そしてこの無限の現れは認識されなければ、、無限の認識が起こらず、、、空は存在しないことと同じになってしまいます。空とは全部で在るからその中に自身が無限で在るという認識も起こるのです。

勉強ではない

触れる

私たちは「思考がでっち上げた罠」に引っかかって苦しんでします。思考が作り出した「私」思考が作りだした「私の人生」これによって「違和感」が起こり続け、この「違和感」を解消すべく「新たな思考」が起こり続けるという無限地獄に陥っているのです。全部これは思考ですから、、この思考を新しい思考に切り替えるのではなく真実に戻るのです。思考によっておかしくなった状態を思考を抜いて真実に戻るのです。

真実を思考する????

真実とは思考ではありません、価値観ではありません、概念でもありません、イメージでもありません。真実とは思考をはぎ取って残るモノです。真実とは価値観観念概念を剥ぎ取った後に残るモノです。ですから真実を知識として学んでも見つかりません、知識をヒントに確認していくのです。真実とは実在ですから、、真実を見つけることは実は容易なのです。

起こった事実のみ

真実とは起こったこと、これだけです。これだけが真実です。起こったことに意味づけをして意味づけ解釈を真実と勘違いすることで「違和感」が生まれました。例えば雨が降る、、これは事実です。ですは雨が降ったから気分が悪い、、これは真実ではなく、、感想です、、、雨=気分が悪いではなく、、雨が降ることで、、気分が悪いが起こったのです。雨には意味はありません。

離婚

離婚=残念なこと、、、これは事実ではありません。離婚が起こりました、、結果的に残念、、が起こる可能性もあります。結果的に良かった!!!が起こる可能性もある。。。事実とは、、そういうことです。事実に意味は含まれておらず、、そういう意味が結果的につけられるという事実はあります。こうやって事実だけを拾っていきます、、意味が全くついていない事実を事実として拾います。

事実を拾い続けると

事実のみを拾っていきます、事実を事実として。すると、、、なぜか違和感が起こらない。。。違和感が全く起こりません。代わりに安らぎ、平和が起こります。事実には意味は全くないことに気づいていきますと「違和感」が抜け落ちます。そして代わりに安らぎ、安堵、平和が起こるのです。これが悟りです、、事実に意味などつける必要はなかったのです。ただありのままをありのままに感じます。