本当の結果

銀メダルで◯殺????

世の中は不思議なものでオリンピックに出れただけで幸せ、、な人も居れば、、、、、最低でも金メダル、、、の人も居ます。結果に対する人の幸福感は全く異なります。なぜでしょうか????なぜ結果に対する人の幸福感は全く異なるのか????結論を言ってしまえば、、、「何か」という結果に対する幸福は、、、全て幻想です。なぜならばそれは現れては消えるものだからです。特定の結果がもたらす幸福は、、現れては消える幻想です。

そこには向かわない

つまり最初からそれは儚い幸福なのです。消えることが宿命づけられている幸福です。でも人はそれ以外を知らないから、、、そこに向かうしかないわけです。では儚い幸せがあるのならば、、儚くない幸せは存在するのですか????はい、存在します。儚い幸せが、、、現れて消える、、それを認識する「土台」「不変」、、、その存在に気づくことです。「現象」と呼ばれるモノが現れては消える大元の存在、これが無かったら、、そのシステムが構築できない。。。その存在に気づくのです。それが本当の「自分」です。

絶対的安心感

まるで我々は彷徨う海藻のように日々、、、現れては消える現象に振り回されています。天気によってこの体は影響を受け、、、経済によって懐事情も変わって行きます。ですがその移り変わる現象の土台の存在に気づいた時、、、そこに絶対的安心感を得るのです。何も変わらない土台というものがあって、、その土台こそが私なのだ、、、と。そう「思う」のではなく事実です。この事実が腹に落ちた時、、、、全ての現象が愛おしくなります。金メダル、銀メダル、、入賞、参加賞????、、、、そこへの執着が消えるのです。執着したくても執着できなくなります。

だから幻想

空腹感

あなたは今空腹であるとしましょう。。。。そしてお腹いっぱいにラーメンを食べます。「あーお腹いっぱいだ」、、、そして一時間後、、もう満腹感は消えています。。。。。二時間後、全く普通の状態、、、6時間後、、既にまた空腹に。。。。。という具合に変化します。当たり前ですよね?????この変化があるからこそ「この体」は幻想なんです。??????え????あなたはなぜ体の感覚が変化したと言い切れるのですか????空腹感、満腹感、、、この変化が起こったことをなぜ?????言い切れるのですか????なぜならばあなたが「不変」だからです。「不変」以外に「変化」に気づける存在は存在しません。

???????

そうです、、、天気が変わったとあなたは気づきますよね??????天候の変化に気づけるのはあなたが「不変」だからです。こんな簡単なことに我々は気づいていませんでした。。。。これって本当に本当にギャグなんです。考えてみれば当然なんです。光の変化、音の変化、味覚の変化、、、、ありとあらゆるものの変化に気づくことができるのは「不変」の存在だけです。あまりに当たり前過ぎて全く見逃していたのです。だからあなた「不変」の存在であり変化の世界には全くもって存在していないのです。

この体では?????????

この体の変化にあなたは気づきます。あれ????体温高くね???あれ調子悪くね???あれ声がガラガラ、、、、、え?????なぜ変化に気づくの????そうです。。。。あなたが不変だからです。体は変化します。変化するものが変化に気づくのは不可能です。ですからあなたは当然この体ではありません。あなたは不変の存在であり、、、それはこの森羅万象の動きの中ではないのです。

こんなん出ましたけど???

固定観念

今あなたが置かれている状況は「固定観念」が反映したものです。固定観念からすれば「こんなんでましたけど???どうすか????」です。あなたの今の固定観念は「こんな感じですけど、、どうすか????」です。これが固定観念です。神は今のあなたの固定観念を「どうよ????」と見せてくれます。あなたは「お、、、まじか、、、これが今の固定観念か。。。。」と気づけばいいのです。

それだけでいい

かといって固定観念の全てがホログラムとして現れでるのですから、、、、、だからってわからん、、、、、になります。それでいいのです。この状況は俺に何を教えてくれるのか?????という疑問を持ちながらも、、、ねり回す必要はありません。ねり回したところで、、、、難しい。。。。そうです、、、不可能です。だからただ真実のメッセージに触れ、、、、、固定観念を取り除くぞ!!!!という覚悟を持てばいいのです。不都合な現実が現れたとて、、、その原料は「固定観念」です。それが分かっていればいいのです。

意識の反転

外から内に

今あなたの意識はどこにありますか???この意識はどこに存在していますか?????多くの人の場合「この世界の中に意識がある」「この体の中に意識がある」そう信じて生きているはずです。この意識が世界の牛耳られている状態です。この意識がこの体に牛耳られている状態です。ですがこれは嘘です。真実ではありません。この意識の中に世界が収まっているのです。この意識の中に体も収まっているのです。

その瞬間

この事実が普遍のものとなった時「世界の中の意識」「体の中の意識」という固定観念が消えます。するとそれに付随するあらゆる観念も消えていくのです。勘違いの記憶が音を立てて消えていく瞬間です。だから何ですか????それに何か意味はありますか?????あります。勘違いの記憶が消えていくことで、、五感が起こった時、、その五感が勘違いの記憶に取り込まれる「編集量」が減るのです。つまりあるがままの世界になっていきます。思考の厚みが減ります。分離感の強度が減ります。苦しみが減ります。

それだけ????

たったそれだけで、、、目覚めちゃうんですか?????たったそれだけで????そうです。それだけです。たったそれだけでいいのです。だって自我とは「この意識」の所有者だった、、、ところが違った、、、つまり自我も消えます。自我に意識が向かなくなった時「自我」という記憶が消えます。自我という記憶が消えた時、自我前提の記憶もまた消えます。こうして記憶がドミノ倒しになっていくのです。そして最終的には勘違いの記憶が全て消えます。

実在は変化しない

時間を超えて

時間を超えた存在「実在」は変化しません。変化とは時間の中で起こることであり時間を超えた存在「実在」は変化できないわけです。逆に言えば変化する全ては幻想です。その幻想は実在の投影ですから、、、その幻想に分離は一切ありません。ですがその幻想中に、、分離しているという思考(幻想)が現れでた時「苦しい」という思考(幻想)が今幻想の中に現れでます。ただそれだけです。この体も変化しますから当然幻想であり分離もありません。森羅万象の動きの一部です。一部ではありますがそこには差異はないのです。全体の動きに過ぎません。

空間を超えた

実在は空間を超えていますから、、それはスペースではありません。実在は無限です。実在が無限だからこそ、その投影の幻想も当然「無限の現れ」となります。だから今目の前の幻想は無限の表現をします。一瞬一瞬変わりゆくのは実在が無限だからです。その投影はまた無限の表現です。無限の表現だから、、、、、ここに無限全てが現れるのではなく部位別に現れることが可能なのです。それが現実と呼ばれる我々の世界です。部位別表現が、、、、この宇宙というスペースの表現となったのです。この「実在である無限」の投影方法が部位別だから「時間」「空間」という概念(幻想)が生まれたのです。それすらも無限の現れに過ぎません。

そうすると

全ては実在である「不変であり無限」の投影であることが分かった場合「この世界」に問題など起こり得ないことが分かります。全ての現象が起こらなくてはならないのですから今まさにそれが起こっているのです。そしてその現象に「問題」という定義を当てはめることも表現の一部です。すなわちこの世界には事実としての「問題」は皆無です。実体がない世界に問題など起こることが不可能です。「何があっても私は気にしない」というクリシュナムルティの言葉はここからくるのです。

他人

記憶

記憶なくして「他人」は絶対に知覚できません。画像の中から「他人」という知覚を起こせるのは記憶が存在するからです。記憶喪失になった瞬間、他人が消えます。他人とはこの幻想の画像の中に「他人」という知覚を生み出す記憶のことです。ですから実在の他人は存在しません。他人は存在せず、他人という知覚が記憶から生み出されるのです。他人とは=記憶のことです。

分離

武道館のコンサート、、、、そこには1万人のファンが、、、ですがその知覚は「記憶」が生み出します。記憶喪失になれば全て消えます。記憶が消えた時、、全て消える1万人とは、、、実在しないということです。だから我々は完全に一体の幻想です。何一つ分離のない幻想があってただそれが観照されているのです。その中から記憶が「1万人」「1千人」という知覚を生み出しているに過ぎません。渋谷駅に行けば何万人という人の群れが存在しているように見えますが、、それも記憶が生み出す「知覚」です。事実では幻想しか存在しません。

では

このブログを読む読者は存在しないのですね?????このブログが読まれようと、、、、読むことができる幻想は存在しないのです。だって幻想には分離がないのですから。分離とは全て記憶が生み出す知覚に過ぎず、、、その事実は否定できません。何度も伝えます。記憶無くして分離の知覚は不可能なのです。私は今このブログを書いていますが、、個人が書くことなど不可能です。個人という分離は記憶がするのですから。実在は存在しません。そのような幻想の動きが起こるだけです。これが森羅万象です。何一つ分離のない森羅万象の動きのみです。

退屈

記憶

なぜ我々は年々年々、退屈になっていくのでしょうか???幼少期、退屈だって言っている幼稚園児は見たことがありません。なぜ?????幼稚園児が退屈を克服しているのに、、、なぜ大人は退屈、退屈、、、退屈侍なのでしょか?????それは「勘違いの記憶」から行動パターン、思考パターン、感情パターン、がエンドレスに沸き起こるからです。「勘違いの記憶」が強固になればなるほどに、、、、全く同じような定型的な「パターン化」した思考感情行動が飛び出てきます。だから、、、退屈なんです。いっつも同じ、思考、感情、行動が「勘違い記憶」から起こります。

そして

何を食べようと、何を聞こうと、、何を話そうと、、、、全てこの「勘違い記憶」に取り込まれ、、編集され、、、、それが現象化します。いっつも同じ味、いっつも同じ音、いっつも同じ行動、、、、になります。だからもう勘違いの記憶を消しちゃいましょう。。。いつまでこの勘違いの記憶に依存した五感を感じているんですか???

じゃあ

じゃあでは、、、どうやって、、、、どうやって、、、、この勘違いの記憶を消せばいいの????どうすれば記憶は消えるの?????至って単純明快です。真実のメッセージに触れるのです。真実のメッセージに触れて勘違いを勘違いと気づくのです。勘違いとバレてしまった記憶は、、、用済みになり、、消えていきます。意識がもう既にそこにはフォーカスがいかず、、、その記憶は消えます。その時、、、ここに起こる言動、思考、行動はかつての記憶に依存したものではないから、、、全くの新鮮な活動に変わるのです。勘違い記憶の影響を排した、、、、活動に変わるのです。

未来=不安

なぜ????

将来は安泰でしかない、将来に不安???あり得ない。。。。こんな発想を持っている方は稀です。聞いたことがありません。「未来=不安」が当たり前の理由は??????それは未来とは記憶が生み出すファンタジーなのです。そしての記憶とは「勘違いの記憶」ゆえにその記憶から生み出される未来は常に常に不安を伴うのです。苦しみを最初から伴います。だって作り手が「勘違い記憶」だからです。そして信じられないかもしれませんが「未来」なんて実在は存在しません。記憶が消えたら未来も消えます。記憶に依存した未来って何ですか???

つまり

未来とは存在しないのです。記憶が見せてくれるファンタジーです。その記憶が勘違いの記憶だから未来も暗い、、重い、、、不安だらけということです。では未来がないなら過去もない????そうです。過去は「勘違いの記憶」が生み出すファンタジーです。どちらも勘違いの記憶が生み出すファンタジーです。では今は????今とは五感の現れ、、そして記憶がその五感を「取り込み」編集した五感の現れです。もしくは記憶が生み出す思考感覚です。

ないのだから

つまり未来とは記憶のことですからないのです。過去も記憶のことですからないのです。在るのは、、私が飲み込んでしまった「この世界」のみです。私が飲み込んでしまったのだから「世界」とは実は微動だにしない存在です。動いているように見えるのは「幻想」だからです。全く変わらない不変の「私は在る」があってその中で幻想が動くのです。だから未来もその幻想の動きです。過去もまた幻想の動きです。未来はないと断言できるのは「幻想」だからです。

巻き込まれていると思うから

苦しくなる

なたはこの幻想の世界で何が起ころうとも事実として巻き込まれることはありません。学校閉鎖、米不足、震災、天災、株価暴落、、、何が起こっても事実では巻き込まれることは不可能です。体は巻き込まれます。体は事実として巻き込まれます。ですが真のあなたはこの幻想空間に巻き込まれることは不可能なのです。その証拠に「私は在る」という感覚を「私は居ない」に変えることは出来ますか????できませんね。そうです。「私は在る」という不変の存在を消し去ることは不可能なのです。さっきまで上原でカフェに行き、今下北沢でブログを書く、、、、でも「私は在る」は絶対に絶対に消えないのです。

小さい頃は

何で大人は大騒ぎするんだろう????分かっていたんです。というかこの体は私という感覚が記憶から湧いてこないうちは、、、分離感覚が湧きません。ですから自分を守らないと、、、という感覚も湧きようがないのです。今再び事実に戻ります。「私は在る」これを「私は居ない」に変えることができないという事実、、この事実こそが全てです。そして全ての現象は「私は在る」を変えることは出来ないし、影響を与えることも出来ない。。。。これも事実です。一切影響を与えることが出来ない幻想になぜ関心を向ける必要があるのでしょうか??

この映画の中になど一度も参加したことはない

映画

ある映画を観にいきます。その映画のガンガンにのめり込みます、その時あなたは主人公に成り切っています。映画の中にガッツリ参加しています。そして映画が終わった瞬間、、、現実に引き戻され、、、映画の中の役は終わります。さて、、もしもこの現実も映画ならば、、、あなたは映画の中には絶対に絶対に存在しません。あなたは映画の外に居て、、、そのままこの「私」という役にのめり込むのです。それがこの現実と呼ばれる私ストーリーです。真実では私は映画の中には存在できません。

私の投影が映画

映画の中に私が存在するのではなく、、、私が「映画」を観ています。そしてこの映画とは「私」の反映です。私が今私の反映である「映画」を観ているのが真実です。そしてその中で主人公の「私」に夢中になり、、いつの間にか観入ってしまっているのです。だから私はこの映画の中になど実は参入などできません。私が映画の中に入ってしまった途端にこの映画も消えます。実在が反映の中に入れるわけがないのですから。

影と遊ぶ

子供は自身の影と遊びます。影と追いかけっこをします。ですが子供の体が影そのものの中に取り込まれることは不可能です。不可能にも関わらず体と影はまるで同じ次元にあるかのうように遊ぶことはできます。そう勘違いする遊びです。今まさに我々はそれをやっているのです。この世界は「私」の影です。この影はあまりにも完成度が高いから思わずこの影と遊んでしまっています。