メディア

私じゃない人々

メディアをつけます、TV、YOUTUBE、インターネット、、、そこには「私」じゃない人々が登場し、、「私」に向かってメセージ、エンタメ、音楽、映画、ドラマを流し続けるのです。「私」は私じゃない人々を何時間も見続けて、、この体の中の「私」という箱に収まっていきます。テレビを観ていたら万能感を感じるようになりました、、ないです、、そんなことは。メディアとはこの世界はこの体という小さい箱に収まった私と、、それ以外のその他大勢によって織りなすドラマを見せてきます。

本当は

本当は視覚がメディアを今作り出したんです、、本当は聴覚が今その音を作り出し、、、本当は思考(第七感)が今その音と映像を紡ぎ解釈、意味に変えたのです。だからメディアはこの7つの感覚に完全に依存しています。7つの感覚こそがメディアにストーリー性を持たせ意味を持たせているのです。七つの感覚こそがメディア自体を今生み出したのです。思考が言葉映像を紡ぎ認識し第六感である感情が自動的に生まれたのです。この真実に立ち返ります。

騙されない

TVを見続ければ、、私などは本当に小さい小さいこれっぽっちの人間なんだという勘違いを起こします。本当は今五感が全幻想を生み出し思考が幻想に意味を持たせ感情が湧き上がっているのです。なぜテレビを楽しむことができるのか??????五感+思考(7感覚)+感情(6感覚)が映像、音、意味つけを行い感情を楽しむという創造行為が起こっているのです。そこに気づきます、、全現象は今ここで五感によって生み出されています。

悟り

メディアが楽しいのではないのです、五感が現象化し、思考感情という感覚がそこに加わっているだけです。そこで流れる意味は「この世界と、この小さい私」というストーリーです。だからこれを認識し続ければ、、マイストーリーを信じる動きは強化されていきます。環境に受け身の私が誕生します。環境に適合していかないといけない「私」が生まれます。そこに気づいてください。

いつの間にか

私たちはいつの間にかこの幻を真実と捉え、、この体も真実と捉え、、この壮大な宇宙の中でたった一つ自由になるのがこの体であるという思い込みを始めました。たった一つ自由になるこの体には操縦席があってそこにはこの「私」が座っているというオマケ付きです。この壮大な宇宙は全くもってコントロールできないがこの体この小さい体だけはある程度自由にコントロールできそのコントロールは操縦席の「私」がやっているという思い込みです。

真実

本当は今まさにこの五感がこの世界を作っています、今まさにこの五感がこの体も作っています。一瞬一瞬この世界この体を作っているのです。だからこの世界は幻でもありこの体も幻です。今この瞬間現れては消えていく幻です。外を見てください、その瞬間に視覚が外の景色を作り上げるのです。内側を見てください、、この瞬間に視覚が部屋の世界を作り上げます。

操縦席

あれ????世界はすでにあってこの体も既にあってこの体をなんとか生き伸ばすためにこの操縦席の「私」が居ることになっていますが?????前提変わってきてませんか????その通りです。その大前提は残念ながら嘘です。この世界もこの体も一瞬一瞬この五感によって作られます。だからこの体をこの世界に適応させる必要はないし、、この世界を自分好みに変えるなんて不可能です。

意味なし

だとしたらこの何千万円で買ったマンションは誰のものですか????ストーリー上は間違いなく私のものでしょう。ですが真実では、、今五感がこのマンションを含む世界を作り出し、今五感がこの体を作り出しています。ただそれだけです。それが真実です。我々は五感が今作り出すこの幻想に大金を払って「自分」のものにします。それが悪いとか良いとかの話ではなくて、、ただそうなっているという話です。

悟り

真実と人間常識は180度異なります。真実は人間業界の常識を空気を読まずに切り裂きます。一方人間業界の常識が真実を切り裂くことはできません。切り裂くのは常に真実です。真実が人間常識を切り裂く時、見た目上はトラブルが多くなるでしょう、、ですが「違和感」というこれまで続いてきた感情(第六感覚)が消えるのは間違いありません。真実は人間常識を完膚なきまでに壊し違和感を無くします。

感覚

振り返ってみれば子供の頃は、、この世界が幻だって分かっていました。。全くもって重くないこの世界、軽さしかない世界にこの体も一緒に登場していただけという感覚があったんです。ところがいつの間にか、、この体をこのとんでもなくドライな世界で生き伸ばしていかないといけない、、、という刷り込みをされてしまった。。。そこからです、、世界から軽さ輝きが失せたんです。

あなたはこの体よ

最初の頃はこの名前はこの体という幻の呼び名でしかなかった、、だから名前を呼ばれるだけで嬉しかったんです。ところがいつの日にか、、この体はこのドライな世界を生き抜かなくてはいけないマシーンになってしまった。。なんだかとてつもない重責をこの体の中の私は背負っていたんです。いつの間にか重責を背負った私は何をしたら効率よく生きていけるのかコスパよく生きていけるのかが関心になったのです。

取引、駆け引きの世界に

いつの間にかこの私は取引駆け引きの世界に身を投じ、、、あの学校に行った方が良い、あの学部に、あの四年生に、あの就職先に、、と先に先に向けて生きるようになったんです。本当は今この五感がこの世界この体を作り出しているにも関わらず、、、そんなこととは露知らず、、先に先に関心を持っていきます。ですがこの生き方ではいつまで経っても辛いだけ、苦しだけ、ということも分かってきます。

戻る

悟りとは子供の頃のあの感覚、全ては幻でしかなく、、この世界もこの体も絶対安心の中で起こっているという感覚を思い出すことです。全ては愛の中で五感を通じて世界がこの体が起こるのです。何が起ころうと、その事実は変わることはなく、、思考でそうじゃないとイメージすることしかできません。我々は思考によって騙され、、この体はこの世界の中の小さい小さいマシーンに過ぎず、あなたはこの小さい小さいマシーンの操縦席に座っている小人で在ると教えました。そこから緊張と分離の渦に飲まれ今も苦しんでいるのです。本当は今この瞬間に五感によってこの世界この体が誕生しています。

悟り

いつか「私」は悟りを開き楽になるんだ、、、これは小さい小さいこの体の中の小さい小さい操縦席に座った小人で在る私が悟りを開くというストーリーの話です。本当はこの小さい小さい体の中に小さい小さい操縦席の私は居ません。五感によって今世界が広がりこの体も広がった、、ただそれだけ、、その真実、新事実に戻った時、、そこには私は必要ないのです。私とは操縦席に座って怯えながらハンドルを操る小人ではなく、、この世界、この体をも作り出す創造主だったのです。

過去

喋りたがらない

過去というのは、、振り返ってみて「私」はあの時こうしていた、、というイメージのことです。見かけ上の覚者が過去を振り返りたがらないのは当然で過去とは勘違いをベースにした思考でしかないからです。聞く人々は覚者の過去をヒントに自身の人生に応用しようと考えますが、、その動機は完全に的外れであり、、逆にイメージの世界を強化します。本当はただ五感だけがあって五感によってこの世界、この体が今作られます、幻想として。そのことに気づいた時、、この体の中に私が居て、、、というイメージ、幻想が全て嘘であったという気づ気を得るのです。

私が道を歩いていた途中で

私が道を歩いていた途中で突然、、世界は一つだったと気づいたんです。。この話はあっていいんです、、問題ないです。ですがこれを聞いた人々は、、、この私が悟りを開いたという新しい勘違いを覚えるでしょう。真実は五感がこの世界この体を作り出していたという気づきの中で、、ならば世界はたった一つであるという気づきに至るのです。この世界この体が今五感によって作り出されていることに気づいた時、自分が消え去り、、世界が一つに感じる、が起こるのです。

主語としての「私」

人間業界では主語としての「私」を譲る気持ちは全くありません。悟るのも「私」であり悟れないのも「私」です。ここが不幸であろうと幸福であろうと主語の「私」を手放す気はさらさらないのです。主語としての「私」を手放すぐらいならば不幸でいい、、その覚悟です。ですが真実では主語である「私」の世界は全部嘘、幻想、幻、ストーリーです。主語で在る「私」は本当は何もしていないし何も考えてもいない、、お飾り仮装人物です。

必要ない

準備

ダーウィンの進化論は完全に嘘です、、、この体がこの環境に適するように進化を続けた、、という理論は嘘です。真実はと言えば、、、この世界には時間はなくただこの五感がこの世界この体という幻想を今作り出しています。この変わり行く世界でいかに我々は生き延びるのか?????はい間違いです、、、今五感がまさにこの世界この体を生み出しています。この幻想とはこの五感によって生み出されたものであってこの体同様世界は今後もこの五感によって生み出されていくのです。

主従関係

主従関係が完全に逆なのです、、環境があってその環境に合わせなくてはいけない体があるのではなく、、五感があってこの五感が同時にこの世界この体を作り出しています。この世界もこの体も作り出される側であり、、この体の中に私も作り出される側(幻)です。今まではこの環境の中でいかにこの体「私」が生き延びるかという前提の思考が起こり続け(第七感覚)認識され感情(第六感覚)である違和感が起こっていました。これを「苦しみ」と呼んだのです。

環境に合わせる????

この体が環境に適合していく????冗談は辞めてください。この環境も体も五感に作られた被創造物です、、被創造物はどこまでいっても被創造物なんです。環境に合わせると言いますが誰が合わせるのでしょうか????この私も被創造物ですから適合とか適応とかチャンチャラおかしな話です。チャンチャラおかしな思考が湧くことで第六感である「違和感」という感情が湧くのです。

時間空間

時間空間が無いと断言できるのは、、今まさに五感によって世界が誕生しこの体も誕生しています。この創造行為に時間は介在できません。創造行為は今この瞬間に起こるのです、横軸の時間の流れとはすでに何かがあって変わり続けるという概念です。本当はこの瞬間に五感によって六感覚によって七感覚によって世界もこの体も起こるのです。世界はそうなっています。

五感の回収

夢を見ている人は誰???

毎晩見る夢の夢を見ている人は誰でしょうか?????寝ている「自分」「私」と言いたいでしょうが、、本当は自分、私って存在していません。すると誰がこの夢、毎晩見る夢を見ているのか????となります。答えは、、夢自体が夢を見ているのです。ではこの世界、現実と呼ばれるこの世界は誰が見ているのか???分かりますよね、、現実、世界、現象自体が、、この世界を見ています。悟りを開くとはその事実に気づくことです。

五感はあるよ

毎晩見る夢でも五感ってありますよね????視覚は100%あり聴覚も100%あり味覚、嗅覚、触覚もある、、、100%あります。そしてこの世界、現実と呼ばれる世界でも五感は100%あります。そうです、、全く同じです。。五感が100%あるから毎晩見る夢が成り立つし、この現実と呼ばれる世界も五感があるから成り立つのです。この世界は世界自体が見ていて、、その視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を感じているのは夢同様に世界そのものです。

ただし

ただしこの五感があるからこの体も登場できるわけですが、同時にこの体が五感を所有し「この体には自分が居る」という思考(七感)を起こすこともできる。思考が起これば感情という第六感が自動的に生まれます。夢も世界もこうなっています。この真実に戻る時、、、この体の中に自分が居るという思考が起こらない、、真実の上にはこの思考は昇らない、よって思考による感情(違和感)が起こらない、となります。

五感の所有者

我々は五感の所有者をこの体とする思考(第七感覚)に支えられてこの私物語を誕生させてきました。ですが夢同様に五感は体が起こすのではなく、、夢全体が五感を作り出し、、、この世界、この現実世界も全く同様になっています。世界がこの五感の所有者であり五感がこの世界の所有者です。よってこの体が五感を所有するというのは空想妄想幻であってそれに支えられた全ての物語は幻です。ゆえにこの幻が上映されている期間は違和感、苦しみが同時進行で起こるのです。

悟り

夜見る夢でもそうですが五感は100%信用できる、在ると言い切れる真実です。この真実が夢を創造するのです。この現実世界でもこの五感は在ると言い切れる真実なんです。だからこの現実世界は「在る」と言い切れるわけです。ですがこの五感の所有者はこの体ではなく、まさかのこの体の中の私ではないわけです。むしろこの体こそが五感に支えられた存在です、この私はもっと五感に支えられた存在です。というよりもこの「私」はこの体の中に収まったとされる想像物でしかありません。そこに気づきます、、私がどうやって登場したかに気づきます。私って五感どころか、、第七感である思考に支えられた存在でしかありません。

それでいい

最終回答

見かけ上の私は「悟り」という境地がこの世界にはあって、、そこに至れば、、全部がハッピーになる、、、というメッセージを得て心底安心しました。それだけで安心したんです。やっぱり!!!が起こったんです。成功者の自殺、成功者の犯罪、成功者のドラッグ中毒が指し示すのは、、普通に生きてたら幸せにはなれない、、ことの証明です。我々が考える幸福の先には幸福がないことは先人がはっきりと態度で示しているのです。だからこの人生をかけてそれを後追いするのはまっぴらごめんだ!!!がそもそもあったのです。

何かが間違っていることだけは分かっている

何かが間違っているんです、、じゃなきゃ、、年収1億円以上の人が自殺はしないでしょう、、。。。夢のような生活を手に入れた人が最終的にドラッグ中毒にはならないでしょう。だから間違っていることだけは分かっていた、、でもその間違いが何かは分からなかった。。。ここの答えを示してくれたのが釈迦でした。人間の無知が「苦しみの元」である。無知を改め知にならざれば、、、至福には至れない。。。そう断言したのが釈迦です。

止まる

もう苦しみは懲り懲りなんです、、どうすれば終われますか????どうしたら、、いいですか?????その活動を止めます、、その個人が解決しようとする動きを止めます。そして動きを止めた時に何にが残るかに気づきます、、そこにはただ五感に支えられた幻想があります。それだけが残るのです、思考の渦が終わり感情の渦が終わる。。。そこに残ったのは五感に支えられた幻想、現象だけです。そしてその時こそ「苦しみ」が終わります。「違和感」が終わります。五感に支えられた現象、幻想、幻のみになった時、、「苦しみ」が終わり感情ではない安堵が起こります、感情ではない平和が訪れます、感情ではない愛が訪れます。

五感から逃げない

思考の嘘に気づく前に

エゴは嘘です、思考も本当のあなたではありません。。。。その通り、、その通りなんです。。ですがそこから入っても恐らく気づきに入れないでしょう。今ある何かを「嘘」「幻想」と決めつけたところで我々はそれに頼って生きていくことしかできず、、よってそれでは解決できません。あなたの「刀」は幻想です、そう武士に言ってもその武士はその刀に頼って生きていくのは当然であってそのワードは気づきにはなりません。

五感が全てを作っている

見える世界もあなたも幻想?????から入るのではなく、、、事実としてこの五感がなくては、、、この見える世界見える太陽、見える机、見える椅子、、、感じるコーヒーの味、感じるラーメンの美味しさ、、感じるパスタのコシ、感じる音楽の音色、、、がなくなります。この五感がなければ世界を構成する全てが消えるんです。この事実に向き合うのです、、するとこの現実って五感に依存してるよね!!!!!になります、これが気づきです。そしてまさかのこの体も五感に依存しています、、五感が無ければこの体は見えないし、触れないし、味わえないし、聞こえもしない、、五感にこの体も依存しています。

幻想という本当の意味

覚者は「この世界は全て幻想である」こう大上段から発するわけですが、、、確かにこの五感がなかったら何もないに等しい、、ことに気づきます。何もない、、つまり幻想、、あるように見えて感じるが実際には何もない、、という本当の意味に気づくのです。この体が五感を使ってこの世界を感じているというのも後付けで、、五感があるからこの体は存在していると思考(第7感)できるのです。思考の内容、感情の内容は全て五感に支えられたアートです。

悟り

悟りとは本当のことに戻ることです。本当は五感しかなく、、その上に思考(七感)感情(六感)が乗っかっています。真実とは五感が作り出した幻想がただある、、これだけです。そこから派生した「私」「私の物語」はアート、幻想、幻です。この世界自体が幻でありその幻の上に乗っかった更なる幻が思考の内容になります。その思考の内容に準じて感情が起き上がり、、思考感情の波が起こり続けます。これを六感、七感と呼びます。1、2、3、4、5(五感)+6感覚(感情)+7感覚(思考)が起こり続ける、、これだけが起こっています。。。ここに気づくことが悟りです。

終わった

脱落

悟りとは現代社会からの脱落です。現代社会ではこの体には個人が居てこの個人がこの社会に何かしらの貢献をするという前提で動いています。多くの貢献をすれば世間では褒められ評価され、、貢献を一切しなければ卑下され疎まれる対象になります。よって個人はあらゆる方法で方向で社会への貢献を考えるのです。女性であれば綺麗にあること、しなやかであることで、包容力で、、男性であれば強くあることで、たくましくあることで、知的であることでこの世界に貢献を果たそうとするのです。ですが悟りは「その個人は居ない」という真実を突きます、個人が居ないのですから個人の貢献すらない、、となるのです。

では

では悟りとは全く何もこの社会に貢献をしないのか????厳密に言えばその通りです。ですが個人が居ない代わりにこの社会(幻想)そのものが自分だったっという完全な革命パラダイムシフトが起こります。この幻想(社会)の中にはこの体すらも含まれ、、全部が全部でこの私です。全部が全部ですから「私」という概念すらももう起こりません。五感は100%起こります、思考も感情も100%おこりますが 、、=個人と社会の確立ではないことに気づくのです。五感こそが社会、個人、この体を作り出す大元、根源だったのです。この気づきが悟りです。

そもそも

なぜみんな社会で認められたいのでしょうか???なぜ親に認められたい???なぜ男性は女性に認められたい???なぜ女性は男性に求めてもらいたい???なぜ?????それはこの体という個人の外に渇望があるからです。どうもこの体以外に漠然とした渇望があってゆえに社会に求められ認められようやく、、、お腹がいっぱいになると信じているんです。ですがこの体この個人こそが、、、嘘であり、偽りであり、錯覚なのですから、、その個人が社会に認められても、、いつか認められなくなる恐れを抱えて生きていくことになるだけです。女性であればいつか若い女性に負ける日が来る、男性であればいつか若い男に力で負ける日が来るのです、これを恐れて生きていきます。

悟り

悟りとは個人の終焉です、この体の中に個人が居てそれ以外の社会の中でサバイブするのではなく、、、この体も五感が作った幻想であり、この社会も五感が作った幻想であることを見抜くことです。全部が全部幻想であるならば、、そこには自由意思があるはずがなく自由意志を行使してきたはずの個人も幻想です。幻想とは本当は絶対にないものですから、、そこへの気づきは大きいものです。明らかにあるように見えて実際には絶対にないものが幻想と呼ばれます。そうです、我々は明らかにあるように見えて絶対にないものなのです。ですがこの幻想を100%実感する存在が100%いるのも事実です。これが我々の本質です。

サマーディ

ヨーガ

ヨーガの世界ではサマーディと言って悟りがあります。ヨーガは体から入っていき、瞑想で直接実感として空を掴んでいきます。五感をフルで活用して、、空に触れ空に成るのです。体は最初から悟っていますから、、その体に焦点を合わせていけば勝手に悟るというシナリオです。思考だけが勘違いなんです、思考の内容が勘違いです、、よって極限まで体に意識を合わせていけば勘違いの方が落ちる、、これぞヨーガの真髄です。

ただし

我々はあまりに複雑な情報社会に今入っています。体に意識を向けようとも社会生活自体が頭を中心にしています。ヨーガが終わればまたフル回転の思考仕事が待っていますから、、体に意識を向ける=悟りというのが難しい環境に居るのも確かなんです。ですから悟りを一つの方便のみで達成しなくてはいけないというルールを消します。悟りとはどこからでも到達していい、、、に変えるのです。

悟り

ヨーガにハマっている人はヨーガ以外で悟るなんて不可能、、そう信じています。ですがこの世界を作っているのがこの五感なのですから、、、この世界を限定された世界と想像する方がおかしいのです。この世界は今この瞬間に五感によって現れたんです、、完全にフレッシュな世界が今ここで現れました。この世界は過去とは全く別物の瞬間瞬間に現れ出る生命、フレッシュそのものです。フレッシュに過去の概念は通用しません。フレッシュ、生命を何かに閉じ込めるのは不可能です。ですが何かに閉じ込められた生命(フレッシュ)を思考するのは可能です。