今のパワー

波及する

実在の存在に気づき、、、実在として非実在に気づくという状態が続きますと、、、この世界、この幻想の世界に「今のパワー」が波及していきます。実在のパワーと言ってもいいでしょう。勿論これまでも実在による気づきは当然あったのです。間違いなく全てが実在によって気づかれてきたのです。ですがそのことに自覚的になった時、、、非実在のこの幻想世界に、、、実在のパワーが波及します。

安心の安心

どこにも行かなくていのです。何も目指さなくていいのです。既にかつて目指してきた「絶対的安心領域」が今ここに既にあるのですから。そこから、、あらゆる幻想が現れては消えていきますが、、、それもこの絶対的安心領域から現れ消えていくのが分かっています。その大安心の中であらゆる現象が現れて消えていきます。何も目指さなくていい、何も期待しなくていい、、、この境地こそが、、、今のパワーをここに現します。

見抜く

どんな思考も

全てが分かったとて、、あらゆる思考が現れては消えていきます。ストーリーを生み出す思考が現れては消えていきます。そしてどんなストーリーを思考が奏でようとも、、それは現れては消える思考に過ぎません。そしてその思考は勘違いの記憶から自動で湧くのです。ですからそこに深刻になる必要も全くありません。記憶から自動で湧く思考をコントロールできる誰かは存在しないのですから。ただ見抜けばいいのです。お、、ストーリーを奏でる思考が勘違い記憶から出てきたぞ、、と。。。。。これが見抜きです。

では、、、

どうしたら勘違い思考は止まるのでしょうか???それは真実のメッセージに触れる以外にありません。そういう思考が出力しなくなるまで真実に触れるのです。真実が分かった時、、、勘違いの思考が現れてもそれが勘違いの思考であると見抜かれます。つまりそこに深刻さがないのです。森羅万象の動きに「間違い」は一切ありません。ただ勘違いの思考も現れる、、、という事実があるだけです。その視点に立った時、、、何一つ深刻に考えるべきことはないことも分かります。

劣化

劣化するもの

劣化するものに実在は存在しません。実在は断じて劣化しません。つまりこの体も世界も大自然も何もかも実在しません。なぜならばそれらは劣化するからです。PC も使おうが使わまいが、、劣化します。スマホも然り、、、洋服も、、、靴も、、、何もかも劣化します。つまりそれらは実在ではなく幻想です。よって実在ではなく幻想をいかに集めたところで事実ではそこに実在は皆無なので満たされることもありません。唯一の実在はこれら幻想に気づく気づきです。気づきは劣化しません。気づきが疲れて今日は、、、太陽に気づかない、、とはならないのです。

それが分かって、、、

それは分かりました。ではそれが分かったところで何になるんですか?????それが分かるということは、、、全ての価値観がひっくり返ります。もうこの体を実在と信じる必要がなくなり、、この体という弱い弱い存在の維持に怯えることはなくなります。この体が病気になったらどうしよう???この体がお金を失ったらどうしよう????という怯え、恐怖は、、、、この体を実在と信じる動きこそが生み出すのです。つまりもうこの体の維持で怯えなくていいのです。この体がどう評価されようと、、気にならなくなります。

気にするから

この劣化する体を心配するから、、、怯えて、消極的になり、、、退屈な生活を送り、、、老化します。弱体化します。この劣化する体は実在ではなく幻想に過ぎないと悟ることで、、行動が大胆になり、、、活発になり、、、若さを維持できます。全ては初期設定のミスです。初期設定のミスが解除されますと、、、、もう恐れるものが無くなって、、、、自由になります。真の自由です。経験が体に回収されません。経験が私に回収されません。経験が経験そのものになります。解放です。

不満

現れる

不満とは何ですか????不満が何か分かってます????我々は不満とは何か分からずに生活します。だから目の前の不満が解消されてもまた新たな不満に悩むのです。不満とは何か???この結論がついていないのだから、、今目の前の不満が消えても意味がないわけです。不満というものがなぜ発生するのか????ここと最終決着がついていないのです。ということで今回は不満を分析します。

不満

不満と書いて「満ちていない」と読みます。満ちていない、、、何が満ちていないのか????この場合は「私」ということになります。ですが私とは何か????と言えば、、、私とは『「全知覚」に気づく存在』ということになります。その存在がこの世界とは個別分離したこの体の中に収まっている、、、初期設定のことです。そう想像したのです。その想像行為こそが「分離感」「不足感」「不満感」を作り上げます、同時に。ですから初期設定=不足感、不満感です。だから、、、、、何かがあって不満なのではなく、、初期設定こそが不満なのです。その不満感が、、、それを裏打ちする状況を作り上げます。

つまり

最初にあるのが「不満感」であって条件が不満感を作り上げたのではないのです。だから条件を変えたとて、、、何も変わりません。その条件とは全く違う条件、新たな条件がまた起こるのです。つまり不満を作り上げてきたとされる条件にフォーカスしても無駄なのです。不満感そのものを生み出す勘違いこそを解消する必要があるのです。その勘違いとは唯一無二の実在=気づきが、、、この体という幻想の中に収まってしまったというものです。唯一無二の実在は幻想の中に収まるような柔な存在ではありません。実在が全幻想を生み出すのです。この勘違いが消え去った時、、、不足感、不満感が消えます。不満感が消えた時、それを裏付ける状況証拠も消えます。なぜならばそれは全て嘘だからです。

幸せっぽい幻想を求めて

CM

テレビCMを観ますと、、そこには幸せっぽい幻想の姿が映し出されています。幸せっぽい幻想です。家族団欒、美人妻、健やかな子供たち、郊外の一軒家、庭に犬、、、、まあ色々です。ですがあなたが手に入れようとしてるのは幸せっぽい「幻想」です。そしてそれを手に入れるのも幻想である「私」です。幸せっぽい幻想とそれに囲まれる私という幻想、、、これだけです。これが現れ、、、それが唯一の実在に気づかれています。ですがその事実には気づかず、、、この体の中の私という幻想が全てに気づいていることになっています。

おかしい

あれ????おかしい、、、長年夢見てきた、、、この幸せの形を私は手に入れたにも関わらず心の中は「騒然」としている。。。。。おかしい。。。。。なぜ??????それはそのはず「手に入れた」という主体がまさかの幻想です。幻想が幻想を手に入れるのは構造上不可能です。ただ俺は全てを手に入れたという勘違いの思考が起こるのみです。そしてそこには手に入れた「私」が確実に登場するが故に「分離感」「不足感」「恐怖心」が合わせてセットでついてまわります。

何も問題が消えないけれど、、、、

気づいてみれば、、、また問題の日々、、、、、幼稚園の送り迎え問題、ゴミ出し問題、学習塾問題、生命保険問題、親の介護問題、、、次々に姿形を変えてやってくる問題たち。。。。なぜ?????なぜならば問題とは恐怖心が姿形を変えたものだからです。だからこの恐怖心とは何だ?????という究極の「問題」にフォーカスするまで止まりません。ですが人間は面倒臭いことは考えたくない、、できれば何も考えずにやり過ごしたい、、、。だってそんな面倒なこと考えなくても平々凡々、、、幸せそうな人いっぱいいるじゃん!!!だから私だってそっち側でやらせてよ、、、、、です。

無理

本当に残念ですがそれは不可能です。恐怖心とは「絶対に消えて無くならないといけない存在」です。それが全員が全員です。ですから恐怖心を抱えた全員はこの問題に必ず立ち向かうことになります。それをいつやるか、、、です。周囲がそんなことやっていないのだから、、、、は通用しない。。。どこでタイマンを張るか、、、です。あなたはいつ恐怖心とタイマン張りますか????

週末の居酒屋

喧騒

週末の居酒屋に行きます、、、、とんでもない笑い声、叫び声、店員を呼ぶ声、説教の声、、、、、、なぜ????なぜあの騒音を聞くためにお金を叩いてでも行くの???????一方カフェに行くのは、、、良い音楽、、良い香り、、静寂に浸るため。。。。。。。どういうこっちゃ??????一方では半端ない喧騒の場所にお金を払い、、、、その後に静寂を浸りにカフェに行く。。。。。。どういうこっちゃ。。。。。。です。

嫌だ

騒音が嫌だ、、、、これ心の動きだけです。カフェで騒音は許し難い、、、、という固定観念が「嫌だ」を生みます。居酒屋はうるさくても構わない、、、、、という固定観念が「嫌だ」を生みません。子供は何をやってもいいんだ、、、、という固定観念が「子供の喚き散らし」に嫌悪感が湧きません。大人は常識を守るべしという固定観念が「大人の叫び声」に嫌悪感を抱きます。全て固定観念が起こす感情です。

だったら

どんな感情が湧き起こっても「俺の固定観念」が動いたな、、、と見切ります。全ての感情は「それを許さない」という固定観念が起こすのです。発生源が「固定観念」にあるのです。震源地は全て「固定観念」です。その湧いてくる感情が嫌ならば「固定観念」を消す以外にありません。震源地を消すしかないのです。真実のメッセージに触れていきますと、、、震源地「固定観念」が消えていきます。すると、、、これまでの感情が消えます。

心の動き

それだけ

この世界は幻想です。幻想というからには何もない、、ということです。何も存在しないのです。何も存在しないにも関わらず空を見れば「太陽、雲、鳥、青空」が確実に存在しているように見えています。では何も存在していないにも関わらずそう見えさせる動きは何ですか???それが「心の動き」=「記憶」です。我々が空を見た時に見るものは「心の動き」=「記憶」です。マインドの動き、思考の動き、、と呼んでもいいでしょう。

つまり

我々は何かを見ているつもりで実は、、心の動き、記憶を見ているのです。だって本当は何も存在しないのですから。。。何も存在しないというならば、、、では「この何も存在していない」を見ているのは誰だ???という疑問が湧いてきます。この体も事実では存在せず、、、では一体何がこの何も存在しない何かを見てるのだ???気づいているのだ????という疑問が湧きます。それが心の動きで「今」動きました。何も存在していない幻想の中でその幻想の動きが今起こったのです。そしてその幻想の動きも今気づかれました。

実在

幻想という存在しない存在に気づくことができるのは唯一「実在」です。実在以外に幻想に気づいくことができる存在は存在しません。つまり我々はその唯一無二の実在なのです。その実在が今幻想の動きに気づくのです。その動きとは「心の動き」「記憶」です。実在って何なん????実在とは、、、この幻想の動きに、、気づくのですから、、、幻想中には絶対にない存在ということになります。「思考でもなく、感情でもなく、、五感の全てでもない、感情の全てでもない」存在です。そして今も我々はその実在です。我々が実在だから、、今目の前の景色が現れてもそれに気づけます。今音楽が流れていてもそれに気づきます。今会話が起こっていてもそれにきづきます。唯一無二の実在が存在しなければそれは起こりません。「これ」「それ」に今気づけるのは実在が「これ」「それ」ではないからです。

目標達成

イメージ

目標達成とは「イメージ」を作り出し、、、この現実と呼ばれる幻想を、、、そのイメージという幻想に近づける作業です。イメージされた「幻想」に現実と呼ばれる「幻想」を近づけ、、、最終的にイメージ幻想そのものになった時「ゴール」となります。ですがこの取り組みが不毛に終わるのは「意識」を他に移した瞬間、、その現実と呼ばれる幻想はまた違う幻想にシフトしていきます。現実と呼ばれる幻想をイメージのままに保つのは至難の技なのです。

実在

真の実在とは何の努力も必要なくただ「それ」であるものです。そこには一切の努力が必要ない「それ」です。「それ」であるために何一つ努力しなくていい「それ」が実在です。ですから悟ると、、、もう何一つ私は努力しなくていいことを自覚し、、大安心に包まれます。「目標」とはこの幻想の私が「そうなったら」幸福になれるのではないか????という推測ですが、、、残念ながら、、、それでは絶対になれないのです。なぜならばこの幻想の唯一のルールは、、、現れた幻想は必ず消えるからです。いつ壊れてしまうかを恐怖し生きるのです。

皆それぞれ

周囲は皆ぞれぞれ、、、「最低限こんな暮らし」というイメージを生み出し、、そのイメージを維持することにエネルギーを注ぎます。ですが覚者は、、、最初から絶対不動の存在として今ここに在るのです。ですからそこから何一つ努力をする必要がなく、、そのままで至福に至るのです。そしてこの幻想の私が努力をしようがしまいが、、、、何一つそのことが幸福に繋がらないことを知っています。

私はまだまだ悟れない

記憶

目標を設定しそのための努力をすることをやってきた我々は、、、当然悟りも努力の果てに叶えるもの、成し遂げるものと考えます。今までそうやってきたのだから、、今回の案件「悟り」も当然そのやり方しかないだろう。。。。これが我々の思考が考える方法です。慣れ親しんだメソッドです。ですが断言しますが、、このやり方では悟りは開きません。なぜならば勘違いの記憶の中で、それが生み出した私が、、、将来悟りを開くと決めているからです。悟りとはこの勘違いの記憶自体を崩壊させることです。その中に含まれる私も崩壊させることです。悟りを開くことになっている私も記憶の消去と一緒に消えてなくなることです。

記憶が生み出すストーリー

真実のメッセージは記憶が生み出すストーリー自体を消去してしまいます。つまりこの記憶が生み出す私も木っ端微塵に消え失せるということです。記憶が生み出す私物語、マイストーリーも記憶と一緒に木っ端微塵に消えてなくなります。そんなことは可能なのか??????逆に言えば記憶喪失になればそれが起こります。記憶喪失にならずに勘違いの記憶だけを消去します。どうやって????真実に触れるだけです。

だが

ですが、、、勘違いの記憶が「真実」を「三顧の礼」で向かい入れることは絶対にない。。。。自らの存在を消去してしまうようなメッセージをなぜ「ようこそ」と向かい入れるというのでしょうか。。。。ですからこの拒絶こそが「真実の証拠」であるという俯瞰が必要です。意識がここを俯瞰しない限り、、そこには至れません。

成功???

成功者

この物理次元で「成功者」と呼ばれる人々は、、、紛れもなくこの物理次元での「私」を意識します。どこへ行ってもちやほやされ、褒めもてはやされます。だからこの物理次元でのこの「私」という存在を強く強く意識します。。。。あれ?????これって危ないことをもう分かってます。。。。。物理次元での私を強く意識した時、分離感全開、苦しみ全開、孤独感全開になるのです。なぜならば本当はこの物理空間は完全完璧に幻想であり、、この体も幻想であり、、物理空間とこの体には一切の分離がないからです。にも関わらずこの私を強く意識するとは一切分離のない世界に「ガツン」と分離の壁を作りだすことになるからです。

なんで?????

なんでこんなに居心地が悪いんだろう????なぜ?????せっかく成功したのに。。。。。成功したら幸福になるって聞いてましたけど。。。。。。なんで??????聞いてないよ!!!!!!と叫びが聞こえてきます。おかしいよ、、、無名で、、、ただがむしゃらに頑張ってた頃の方がはるかに幸福だった。。。なぜ?????それは分離の一切ないこの世界に分離の壁を自らぶち上げたからです。

それもいい

ですが断言しますが、、、幸福に向かって愚直な努力を重ねた人は、、、、この分離の事実にぶち当たっても、、、、へこたれない場合が多い。その愚直な努力が「目覚め」へのベクトルにシフトする可能性を秘めています。自身を信じる気持ちが揺るぎないから、、、この混乱から立ち上がります。何がおかしいんだ????何だ?????絶対に明かしてやる。。。。と真実への扉を開けた時、、、びっくりする世界が待っています。