意識

どこに????

分かってしまうと簡単なのですが、、、我々の世界というのは「どこに意識するか」で全てが変わってしまいます。どう行動するか????という次元は「幻想の中」に意識が意識されています。個に意識が向かう時、、自我が発動します。「私は在る」「生」「意識」に意識が向く時、、、不変に意識が向くことから、、、見える世界は幻想になり、、、何が起こっても気にならない、、、という感覚に至ります。そしてその「私は在る」「生」「意識」すらも気づきによって気づかれている、、、、という視点に意識が向かうと、、根源の至福、愛が満ちてきます。

全ては視点、視座

一流の選手は視点が違う、、、これはよく聞く言葉です。あいつは見ているところが違う。。。です。そして実際にそうなのです。今ここに全てが実はあります。ですがそれが幻想によって見落とされてしまっている時期がありその期間が苦しみの時期です。何も変わらない「私は在る」「生」「意識」が最初にあって、、その中で動きが続く、、、という「不変」に意識が移った時、、、移り変わる幻夢を自分とする動きが消え、、、自身が「不変」「神」にシフトします。

もう個人には意識が向かない

「私は在る」「生」「意識」に意識が意識される時、、、その中で動く動きは幻夢であることが見抜かれます。するとこの体も幻夢の一部であり、、その幻夢の動きに関心が薄れます。個人という幻想ではなく「不変」で在る「私は在る」「生」「意識」が自身の正体であったことに気づくからです。さらに「私は在る」「生」「意識」はなぜ存在できているの」のか????という次なる疑問が生まれ、、、それは「気づき」によって気づかれているのだ、、、ということが意識されます。「根源=気づき」に意識が向かう瞬間です。

生きながらに死ぬ

悟り

悟りとは「生きながらに死ぬ」ことです。え?????そんなん有り?????そんなこと不可能????ですよね。。。。ですが事実で言えばその通りなんです。悟りとは生きながらにして死ぬことです。自殺とは全く違いますよ。。。むしろ逆なです。「生」そのものになるのですから。「生」そのものだったという気づきがこの体を超えてしまうのです。体すらを超えた存在だったという気づきです。だから体を無駄にしていいとかじゃないんです。体と同じぐらいに全てが同価値だったという話です。体だけが私のものでかつ生きている、、、じゃなくて「生」そのものの中に体も含まれていた、、、という話です。

体も机も何もかもが

我々は「生」そのものだったんです。「生」そのものが最初にあってその中であらゆるものが、、、踊っているんです。「生」そのものの中で体、テーブル、机、カップ、、、思考、感情が、、、踊っているんです。全て「生」の分身です。つまり体は生きているけど、、、机は生きてない、、、じゃないんです。「生」しか存在しなくてその中で、、、体、机、テーブル、太陽、、思考、、、感情が踊っているんです。その知覚も「生」の中の踊りです。

生そのもの

あなたが生そのものである証拠をお伝えしましょう。。。今あなたは「生」を感じてますよね???感じてないとは言わせませよ。あなたは生きていると断言できるのは「生」を感じているからです。「生」があるから当然思考が生まれています。「生」があるからこの体は生きていると言い切れるわけです。体が生きているのではなく「生」の中にいつも体があるから、、体は生きているという思考が「生」まれるのです。「生」そのものが最初にあってその中に体、思考、感情が生まれています。全ては「生」に依存したあらゆる現象は生の踊りです。

結論

あなたは誰ですか????という質問があれば答えは「生」そのものです。「私は在る」でもいいでしょう。「意識」と答えてもいいでしょう。。。「あなたは誰ですか????」という質問は「生」の中の踊りです。「生」があるからその質問も起こったんです。それに対して回答は「生」そのものです。この体は誰ですか????という質問であれば「生」の中に現れた現象、踊り、、となります。体には勿論名前はついています。

無知に無知

多くの場合

自身の無知が「苦しみ」を生み出している、、、これに気づいている人は既に無知からの卒業に挑んでいます。既に無知でないのです。多くのケースは「無知であることに無知」な状態です。つまり苦しみが「無知」から起こっていること自体にも無知なのです。つまり、、、今もこの幻想の世界を現実と勘違いし、、この現実をどうにかしてやろう、、、と思っています。これが残念ながら事実です。ですからこのブログを読んでいる方は完全にそのゾーンを抜けています。「無知に無知」な状態を脱出しています。

苦しみ

苦しみが人間特有の病であるならば、、、、人間が他の動物と何が異なるのか????ここを徹底的に精査しなくては「苦しみ」から解放されることはあり得ません。人間が他の動物と違って何をしているのか???ここに迫ることなしに、、、ただ「何かを手に入れれば」この苦しみから解放できると信じるのは盲信としか言いようがありません。

思考

人間と動物の違いは何か????それは思考を使うということです。この思考が苦しみを生み出しているとしか考えられません。そしてそれは事実なのです。思考です、、、、思考の集積「記憶」こそが、、、苦しみを生み出すのです。今もそこはかとなく「不幸」なのは記憶が生み出す幻想によって「焦り」「プレッシャー」「恐怖心」が生み出されているからです。この記憶が原因なのだから一時的な「快楽」がこの苦しみを消すなどあり得ないのです。もしも快楽が苦しみを解消するならば独裁者の「大量虐殺」は絶対にないわけです。彼らは常人では考えられないような快楽に日々溺れているのですから。。。

私という個人

「私は在る」

「私は在る」という感覚が最初に今存在します。「私は居ない」と言い切れる人は存在しません。「私は在る」という感覚、、、、この感覚が最初にあって、、、その後に「個人としての私」という思考がこれにぶら下がっているのです。全ての概念は「私は在る」「生きている」というこの感覚に依存した思考です。最初にこの感覚が存在しなければ全概念は崩壊します。つまり全概念、全思考、全記憶は、、この「私は在る」「生きている」という感覚なしには成立しないのです。

では、、、、、

では、、、、「私は在る」は何に依存しているのでしょうか????何にぶら下がっているのですか????何が存在しなかったら「私は在る」は存在しないのでしょうか????それが「私は在る」「生きている」という感覚に気づく「気づき」です。この気づきがなかったら、、、「私は在る」「生きている」という感覚は存在できません。つまり根源では「気づき」があってその「気づき」によって「私は在る」「生きている」が生み出され、、、その「私は在る」「生きている」によって全思考、全概念、全記憶が生み出されているのです。

熟睡中

熟睡中は「私は在る」「生きている」という感覚が消えます。よってそこから生み出される全思考、全概念、全記憶が消えています。「気づき」から「私は在る」「生きている」が生み出されていない状態です。「私は在る」「生きている」という感覚が「気づき」から生み出されていなくとも「気づき」は消えることはなく、、ただ「在る」のです。

真実と信仰

違い

「世の中って本当はこうなっているんですよ!!!」これ信仰です。信じる考えです。真実とは「今ここで明晰に確認できること」だけです。今ここで実証できないものは信仰です。どこか遠くに神様がいて、、、これ、ここで証明できません。つまりこれは信仰です。真理とは真実とは、、今ここで実証できる、実感できること、、だけです。信じていれば神様がいつか現れて、、、いやいやそれここで今実証できません、、つまり信仰です。

信じる、、、から離れる

悟り、覚醒、目覚めとは、、、、想像、信仰から離れ、、、、事実のみに向き合うことです。事実のみに向き合った時、、、、、全ての幻想が幻想と見抜かれ、、、幻想と実在の違いがはっきりと理解できます。我々は今まで幻想を実在と勘違いして「苦しんできた」ことがはっきりと分かります。実は幻想を実在と勘違いしなければ「苦しみ」という幻想も現れないことがハッキリと分かります。そうか、、、、ただ嘘を信じて苦しんでいただけなんだ、、、という事実がハッキリ分かります。

お金ない、友人ない、恋人ない

結論から言えば、、これらは苦しみとは全く関係ありません。全くです。ですが我々はこの状況を「苦しい」と教わり、、、、そう信じて苦しんでいるのです。事実ではこれは苦しみとは何も関係がないのです。苦しみとは「幻想を実在と勘違いして生み出された幻想」です。この事実がハッキリと分かった時、、、、何かをして苦しみを脱却することはあり得ないことが分かります。行動と「嘘を見破る」ことは何も関係ありません。

自我と真我の共存

不可能

自我と真我の共存は可能でしょうか????それ結論から言えば不可能です。真我とは唯一無二の実在であり、、自我とは幻想に過ぎないという自覚のことです。つまり自我の存在を全否定することが真我の自覚です。一方自我とは何かといえば、、この世界を実在とみなし、この体を実在とみなし、、この体の中に全体験の経験主が存在するという概念のことです。自我の自覚とは真我の全否定なのです。ですから真我と自我は共存できません。

真我を自覚した後にどうしたら会話ができるの????という次の疑問が起こります。だって自我が存在しないのならば、、、会話って不可能じゃね????となります。ですが自我とは勘違いの産物であり、、私とはこの世界という幻想の中の一部に付けられた「名前」に過ぎません。その名前に勘違いも何もないわけです。テーブルという名前に勘違いはありません。幻想の一部に付けられてた名前です。私もテーブルも何も変わりはしません。自我とは、、、私、テーブル、机、、、、に気づく「気づき」という意味であり、、それは真我のことです。

自我

つまり自我とは「私という名前に真我の役割を押し付けた」勘違いの動き、、、ということになります。勘違いの思考です。ですから自我とは事実ではありません。勘違いの思考としては真実です。ですがこの体も幻想であり世界も幻想、、この幻想の動きに気づく、気づきは、、、幻想の中の何か、、、では絶対にないのです。だから自我はいつか必ず崩壊します。勘違いの思考といつか必ず見抜かれ、、意識がそこに向かわなくなり消え去ります。消え去ることが最初から宿命づけられた思考、記憶です。

意識の変革

世界があって私があって

これまでの我々の意識は「世界があって私があって」という対立構造の中にありました。ですが真実が明らかになった時、実在にも意識が及びます。そして実在から現れだす、、、この全幻想にも意識が及びます。全く同じ空間にありながら、、全く違う意識状態が出現します。周囲から見れば何も変わってはいないわけです。にも関わらず、、、意識は「実在」を捉え、、全幻想を全幻想として捉えます。そこには個の中に押し込まれた意識は存在しません。

意識が実在を実在として捉えると

実在が意識されることで実在(至福)が拡大されてきます。気づき(実在)が意識されることで至福が拡大していきます。無限(実在)が意識されることで至福が拡大していきます。実在を意識しながらエゴを意識するのは不可能です。なぜならばエゴとは実在がこの体の中に押し込められているという概念だからです。この二つを同時に意識することができません。意識されないエゴは小さくなっていきます。つまりその時点で楽なのです。

個も幻想

真実に目覚めていきますと100%の実在と信じてきたこの体が「非実在=幻想」であることが分かってきます。そして100%実在だと信じてきたこの体の中の魂も幻想だと分かってきます。つまりかつて確信してきた存在が全て幻想だったという価値観の崩壊が起こるのです。かつて1%の疑いもなかった「自我=魂」がただの幻想に過ぎなかった、、、しかもその幻想とは「実在=気づき=無限」をこの幻想の体の中の存在と信じる構造であったことに気づきます。その構造も幻想の思考です。

非実在の奇跡

存在しないのに

この世界が奇跡なのは、、、実在しない幻想が、、、次から次へと100%現れることにあります。目が覚めた時、、、意識はあるけど視界がない、、この世界がない、、、とはならない。。。。。。意識が現れれば必ずこの世界も現れます。これが凄いのです。100%現れるのですから、、しかも幻想が。。。。。そしてその現れは必ず新しい、、何か違う幻想が現れます。この体も毎日確実に変化します。それこそが奇跡です。

実在からすると

実在からすれば、、、、この非実在の幻想は凄すぎるわけです。毎瞬毎瞬確実に現れます。現れない瞬間が絶対に絶対にないのです。それが実は凄いわけです。にも関わらずそれが当たり前過ぎて、、、、この非実在の幻想が現れるのが当然だから、、、その奇跡に気づいていないのです。「実在」は無限であり気づきです。我々の本質はその実在です、、、、そしてその実在としてこの非実在に気づき続けています。今も「これ」という幻想に確実に気づいています。絶対に失われない「実在」として今この非実在の幻想に気づきます。

もう頑張らない

自我

我々の動きの全ては全自動です。ですから頑張るとか頑張らないとかの決定権が全くありません。そのことが分かった時、、、ただひたすらに、、、自我活動を見守る、、、という意識の状態に入ります。どうしたらいいか????という戦略に関心がいきません、、なぜならばどうすることができる「誰か」は既に存在しないことを知っているのですから。「結果」の責任を負う「自分」は存在しないのです。

ところが、、、、

何もかもの活動に一切責任を置くことがなくなった時、、、、観察者の視点が芽生えてきます。実在としてただこの幻想の動きを観察する、、、、という視点です。意識が実在に意識した時、、、この幻想の世界での結果に関心が薄れ、、、真の自由がここに起こります。本当の自由ってこういうことだったんだ、、、という解放感です。「昨日これをしなきゃ良かった」という表面上の後悔は起こりますが、、、その後悔は自分を責める後悔ではなく、、ただの改善です。こうして全く深刻さがない中で日々が起こっていくのです。

思考が唯一できること

非実在を実在とみなす

記憶喪失のとき、自我も消え、勘違いの記憶も消え、、「苦しみ」も「分離感」も「不足感」も「孤独感」も全て消えます。思考だけが、、、非実在つまり幻想を実在と勘違いできます。思考がやっていることは非実在のこの体を実在とみなす、、、これだけです。この体が100%の実在なのだから、、、世界という幻想(非実在)も実在に違いない、、という妄想を起こすのです。ですが事実では全て幻想、非実在です。

なぜ?????

なぜ思考という幻想は、、、この体を実在とみなしたのでしょうか?????そのような動きがなぜ起こったのでしょうか????それはそのような動きが起こらなければ「非実在を実在と勘違いする動きがなければ」本当の実在は何か????に気づくこともできないからです。先ずはこの体という幻想を実在と勘違いし、、、本当の実在は何だ?????という究極の疑問を起こし、、、「そうか唯一無二の実在は、、、この万物(幻想)の動きに気づく(気づき)だ!!!!!」という気づきに至るのです。そのために思考は勘違いをする必要があったのです。

だから

この体を、、この魂を実在とする思考の動きは完璧なのです。この完璧な勘違いがなかったら、、、真実に気づくこともできません。苦しみを解明しようともせず、、、よって勘違いが勘違いのままであれば、、苦しいだけです。ですが思考は、、、この苦しみ解消に必ず動きます。なぜならば思考は快楽に動き続けます。皮算用に動き続けます。取引に動き続けます。この終わらない動きはいつか必ず「苦しみ」の解明に乗り出します。そして真実の解明に乗り出すのです。そういう意味では思考を信頼してください。終わりのない動きを続ける思考を信用してください。