心は忙しくしていたい

次から次へ

忙しくしていないと落ち着かない、、忙しい状態でないと不安で不安で仕方がない、、、、これ自我の動きの特徴です。忙しくしてくれないと困っちゃう。。。です。何かしてないと、、、困ってしまう。。自我にとって怖いもの、、、それが静寂です。静寂な状態だと自分が消えてしまうような気がするのです。だからいつも忙しくしていたいのです。静かに何もしないでここでリラックスしましょう、、、ができない、、、急に不安が襲ってきます。

では

ではどうしたらいいのでしょうか????簡単です。思考の動きを放っておけばいいのです。どんな思考が現れようとも、、、放っておいてください。なぜ放っておいて大丈夫なの????それがその思考は勝手に「真実の私」から湧いてくる現象、幻想、幻夢に過ぎないからです。だから放っといても何も失われないし問題も起こりません。問題だとするその思考こそが幻想に過ぎないのです。その思考を真実と捉えた時だけ問題とい幻想が起こるのです。そして何が起こっても認識できてしまうことは全て幻想です。だから放っておけばいいのです。

悟りという出来事

期待

多くの方が期待するのは悟りという出来事です。悟りも当然出来事だろ????という期待があります。お酒を飲んで気持ちの良い状態があるのだから、、同じように悟りも気持ちの良い状態なのだろう、、、、という期待を最初にもち、、、それを目指すのです。そして今回も違った、今回もそこまでじゃなかったと、、、、経験としての悟りを探し求めるのです。ですが悟りとは残念ながら、、出来事でも経験でもないのです。出来事も経験も、、、、現れるまでは存在しないのですから、、、つまりそれは幻想なのです。

幻想を求めて

お酒を飲んだ状態の100倍気持ちの良い状態があるのではないか、、、、という期待が悟りだったわけです。ですが現れる気持ち良さは必ず消えます。なぜならば幻想以外にそれは存在しないのですから。そんな消えてしまう悟りを追い求めても悲しいだけです。そうではないのです。経験、出来事には悟りは絶対に絶対に存在しないのだ、、、という気づきが重要になります。経験としての悟り、出来事としての悟りを諦めた時、、、真の悟りが見えてきます。

真の悟り

真の悟りとは、、、今ここで既に確実に「在る」存在でなくてなりません。かつてはなかった「存在」は現れてはいけないのです。だから悟りは今ここで完結しなくてはならないのです。新しい登場人物、登場存在であってはいけないのです。それは何か????ということです。真我とは全ての現象に気づく「気づき」であり我々は「それ」なのです。そのことに気づいた時、、、全現象、全出来事、全思考、全感情、全五感が私の子供になります。これが真の悟りです。

自分を消そうとするもう一人の自分

何十年の勉強

何十年も悟りを学んでいるのに、、全然、楽になりません、解放されません。。。なぜですか????頭では分かっているのに、、なぜ解放されないんですか????あなたは自我という自分を消し去るために一生懸命もう一人の「自分」を作り上げているのです。だから頑張って自分を消そうとすればするほどに頑張るもう一人の「自分」が登場するのです。だからいつまで経っても苦しいままです。

自分を生み出しちゃダメ

今のこの自分を消してしまえばいいんですよね???だったらそれが出来れば大成功ですよね????残念ですが、、、消そうとして消えるなら苦労は要らないのです。そうです、、、、つまり自分を消そうとしたら負けです。そうではなく「本当の自分」を思い出せばいいのです。本当の自分が思い出されて、、偽りの自分が永続できるわけがないのですから。。。

本当の自分

本当の自分とは映画で言えば「スクリーン」のことです。映画の上映中完全に忘れ去られたスクリーン、これが本当の私です。で、、、このスクリーンは何をしているのでしょうか???それが「気づき」です。全現象に気づく「気づき」こそがスクリーンであり本当の私、真我です。自らがスクリーンであることを自覚して映画中の登場人物に完全没入できますか???できませんね。。。つまり気づきである真我を思い出した状態で、、この幻想映画には没入できないのです。つまり自我に没入できません。

「人生」を変えようとしない

そっちじゃない

我々は「この人生」を少しでも良くしようとします。どうしたら人生が上向くか、、、どうしたら人生がマシになるか、、、どうしたら人生が底を抜けるか、、、、、そのためには「この人生」に何か刺激を加えて、もしくはマニュアルを活用して、、、どうにかしようとします。ですがその時この意識はこの人生に意識が向かいます。この人生を良くしたいのだからこの人生に意識が向かって何がまずいのか????絶対にそれで正しくないですか????

残念

人生に意識が向かったから人生で苦しむようになったのです。人生に意識が向かうことで人生が確固たるものになり苦しくなったのです。なぜならば人生とは「個別分離存在ストーリー」だからです。だから分離感全開、孤独感全開、苦しみ全開です。だってあなたがこの分離存在に意識を向けたのだから当然です。この分離感覚こそが苦しみの原因なのですから「個別分離存在」に意識を向けちゃダメなのです。

じゃあじゃあ

そんなこと言ったら、、、何に一体意識を向かわせればいいのですか????人生以外にどこに意識を向ける場所なんてあるんですか????それがあるんです。それが「神の活動」です。「真我の活動」です。そこに意識を向けた時、、、、本当の自己が目覚め偽りの自己が消滅します。それが全現象に気づく「気づき」の存在です。かつての「私」に気づく「気づき」の存在です。真の自己「気づき」に意識が気づいた時、、感情ではない至福が現れます。感じる「幸福」じゃない「幸福」です。幻想ではない「愛」が溢れてきます。

変化じゃない、目覚める

世間

世間では、、、、変化しよう、改善しよう、進化しよう、、、、このスローガンです。今、、変わるのは、、今だ!!!!の大合唱です。今変わらなくていつ変わる??????、、、、、です。ですが、、、ですが、、、、残念ながら変化では、、、救われない、、、、変化、進化、改善では救われない、、、、、のです。重要なこと、、それは変化ではなく、、、、目覚めです。

夢の中

毎晩見る夢の中で、、、あなたは変化、進化、改善をひたすらにひたすらにしていきます。さて、、、、その夢は楽になりましたか?????絶対に絶対になっていませんね!!!!!そうです、、、、夢の中のあなたがどうなろうとも、、、その夢は楽にならないのです。なぜ??????だってそれが夢だと見破られていないのだから、、、、夢だと見破られていないから、、、、、苦しいから、、、変化、進化、改善しようとしているわけです。

夢を夢と見破る

この現実の世界を楽に変えたかったら、、どうするか????夢の登場人物、、あなたが変化したって何の意味もないことは分かってますよね?????そうです、全く意味がないのです。重要なこと、、、それはこの現実を「夢だ」と気づくことです。この現実を幻想だ!!と気づいちゃうことです。夢を現実と勘違いする段階から、、明晰夢の状態にします。夢って分かって明晰に夢を生きるのです。明晰夢には「明晰」という言葉が入るのはまさに「明晰」になってしまうのです。明晰にこの現実と呼ばれる夢を、、、夢と見抜いて生きるのです。これ以外に救われる方法はありません。

神は死んだ

認識できる神

神とはつまり認識できる神がどこかには居て、、、、それが認識できるのだから神は存在するのだ、、、という理屈です。ですが同時に認識できるということは神は鑑賞者によって認識されることを意味します。神とは「認識者」「鑑賞者」に依存して存在できます。神とは鑑賞者なくして存在できないわけです。一方神とは「全て」であって、、、鑑賞者なくして存在できない神は既に神ではありません。だから「神は死んだ」という言葉が生まれてしまうのです。

つまり

神とは認識されてはいけないのです。神とは認識されちゃう存在ではなく、、、認識者の方でなくてはならないのです。神とはつまり「既存の神」の鑑賞者の方です。神とはつまり今もこの景色、香り、思考、感情に気づく「鑑賞者」です。神とはつまりあなたのことです。そして神から現れるこの現象の全ては神の子供です。太陽が今見えますか????ならばその太陽は鑑賞者である神の子供です。つまり太陽はあなたの子供です。今風を感じますか????感じるならばその「感じる」は確実に鑑賞者によって気づかれたのです。だからその「感じる」は神であるあなたの子供です。

神は復活した

認識できてしまう神は死にました。ですが認識する「神」が再び復活したのです。神の再誕生です。認識できてしまう「神」が死に、、、認識者、鑑賞者である神が再誕生したのです。それが「あなた」です。あなたは実は最初から神だったのです。周囲から「田中さん」と呼ばれる、、田中さんは「神であるあなた」に鑑賞された田中さんという思考に過ぎません。田中さんはこれからも存在するでしょう、、ですがその田中さんは「神であるあなた」なくして存在できません。

母親とボールペン

同価値

悟りを開くと「母親とボールペン」が同価値であることに気づきます。え???????なんで?????意味不明ですよね。ですが意味不明じゃないんです。だって全てが幻想でその全てが自分ですから。。。母親とボールペンをどうやって区別するのですか???どうしたら差別が可能なのでしょうか????胃と腸をあなたは差別しますか????胃の方が俺にとっては腸よりも大切、、、、という価値観ってあり得ます????不可能ですよね。。。赤血球よりも白血球の方が大切????あり得ない。。。

つまり

真実に目覚めた瞬間、、この子供よりもあの子供の方が大切、、、、という感覚が消えます。それって寂しいこと????いやいや、、、全く違います。全てが自分の子供と感じれるってなんて豊かなんでしょうか。。。。。そうです、、圧倒的に豊かなんです。自分の子供だけが可愛い、、、から全子供が可愛い、、、、になるって凄くないですか????事実ではそうなんです。あとはそれを実感するかしないかです。「母親とボールペンは同価値」なんだ、、、そうか、、、、これからはそう思って生きることにしよう!!!!は幻想思考が起こっただけです。何もそれ以外起こっていないのです。

これとあれ

ここに「これ」があってあそこに「あれ」がある、、、、というのはそういう思考です。本当はそんな事実は一切ありません。その思考が消えればその幻想的事実も完全に消え去ります。つまり何もないのです。ですから何もないことが分かっていれば「母親とボールペン」の比較というのは不可能なことも分かってしまうのです。幻想の一部をくり抜く思考を前提にした比較って、、、意味ないじゃん!!!が分かってしまっています。同価値とはそもそも比較すら不可能であることが前提になった時の感覚です。

鑑賞者なしに

この経験、この知覚、この五感

もしもここに鑑賞者が存在しなかったら、、、何もありません。全部が消え去ります。全消去です。ラーメンを食べた時の「美味い!!!!」がもしも鑑賞されなかったならば、、、、、美味いはどこで存在できますか???美味い!!!!!が出現したとてそれが鑑賞されなかったならば、、、、美味いは存在しないも同然です。つまり全ての現象は「鑑賞」があっての現象です。つまりもしもあなたが「美味い!!!!」を知っているのならば、、あなたはその鑑賞者です。あなたは鑑賞者の方です。

あなたはあなたの中に「私」という存在を知っているのですね????私という存在を知っているから「私は花子です」と曰うことができています。つまりあなたは「私」という存在の鑑賞者です。鑑賞者であるあなたがもしも存在しないとしたら、、、その中の「私」は絶対に100%存在できないのですから。。私が居るとか居ないとかはどうでもいいのです。もしも居るならばそれは100%鑑賞者である「あなた」によって鑑賞されているということです。

逆に言えば

全現象は「鑑賞者」無しでは成立しないということは、、、、、全現象は「鑑賞者」が生み出していることになります。全現象は「鑑賞者」の子供です。だからどんな現象も子供なんです。全現象は愛おしいわけです。全現象が愛おしい、、という感覚になっていれば既に目覚めています。「愛おしいはずだ」これは違います。その思考現象がただ起こっているだけです。その思考現象すらも「子供」だという自覚が生まれた時「悟り」です。

変わっていくこと

評価してもらわなくていい

見た目上のこの私が覚醒後、、最も最も変わってしまったことは「評価されなくては」でした。ちゃんとした形で評価されたい、なぜならばそれ相応のことをしているから。それを絶対に何かしらの形で証明したいのだ、、、という執着が消えました。私を実証する「分かりやすい評価」をなんとしても作り出さなくては!!!!です。この執着が突然消えたのです。なぜ?????だって自由意志がないのだから何を他人から評価される必要があろうか、、、、です。自由意思がないのだから全て全評価は、、個人ではなく全体の評価です。全体が事を起こし、全体がそれに対して評価しているに過ぎなかった、、この気づきは私を解放したのです。

そこからは

そこからは生活が一変しました。評価されるために動きが完全に消えることで、、、頑張ろう!!!という感覚、ストイックな感覚、努力という感覚が消えていきました。何を達成したところで自分がやったわけじゃないし!!!!です。にも関わらず何を無理して頑張る必要があろうか?????です。勿論、、どこかではやっぱり評価されたい衝動があるのは事実です、、、ですが少なくとも、、顕在意識上は全くないのです。この力の抜け方は半端ないものです。

自信があるから、、じゃない

自信があるから身形なんてどうでもいいんだ、、、じゃないんです。自信そのものがなくていいのです。自信とは個人の行動に対する自己評価でしょう、、ですがそれがないのですから。。。。誰にも自信なんてなくていいのです。全ては森羅万象の動き、全ては全体の動き、、それ以外が存在しないのです。そしてその動きの全ては「この意識」の中で起こるのです。あなたのこの意識の中で森羅万象の動きが起こります。その自覚が、、本当に何もしなくていいんだ、、という大安心感になります。

気づきが内容になる

右をみる

今右を見てください。視界が広がりましたね????今気づきが「視界」になったのです。はい、左を見てください、、視界が広がりましたね????、、、、気づきが視界になったのです。正面を見てください。視界が広がりましたね????はい、それ気づきが視界になったのです。だから右を見ても左を見ても正面を見ても、、、必ず視界が現れるのは、、、、気づきが正体だからです。正体が気づきだから気づきが視界になって気づかれるのです。気づかれない視界が存在しないのは正体が気づきだからです。

耳を澄ませる

では目を閉じて耳を澄ませます。一分間何も聞こえない、、、なんてことはありません。なぜか????気づきが聴覚になったからです。気づきが音になったのですから。。。だから音が気づかれるのです。取り止めとなく聞こえる音の正体は気づきです。気づきが正体だから現れた音は必ず気づかれます。現れた思考も必ず気づかれるのは気づきが正体だからです。気づきが音となったのですから、、、気づかれます。音があるから気づかれるのではありません。気づきが音になったのです。

我々

我々はその気づきです。その気づきからあらゆる現象が現れては消えていきます。だから現れた現象の全ては気づかれます。気づかれない現象が存在し得ないのは正体が気づきだからです。自分という感覚も気づきから現れ、それが自我と呼ばれます。自我も気づきが正体です。苦しいという感覚も正体は気づきです。悲しいという感情も正体は気づきです。だから気づかれるのですから。

??????

つまり私はどこにも行ったことがない????当たり前です。気づきが景色になってここに広がりますが、、その正体が気づきです。だからどこに行こうとも正体が「気づき」なのです。そして私はその気づきです。どこに行こうとそこが「私=気づき」によって現れでたのです。私が内容になったのです。私が視界になったのです。私が音になったのです。私が経験になったのです。私が知覚になったのです。私が五感になったのです。さあ、、、どこかに行くことはできますか????どこに行ってもそこは「私」が視界になるだけです。