現実逃避

よく使われる言葉

「相手のことを真剣に考えればビジネスって上手くいきますか????」綺麗事だけ並べるのは現実逃避ですよ!!!そう回答が来るでしょう。綺麗事は現実逃避、、、、ではこの現実とは何でしょうか????現実とはその方が考える「世の中ってこんな感じ」のことです。現実とは固く信じる「世の中像」のことです。つまり現実逃避とは固定観念逃避です。現実も思考で綺麗事も思考なら、、、、どっちも思考です。つまり現実と綺麗事の違いは「確信の強度」だけです。

どう信じるか

どう信じるかが、、、現実です。綺麗事を真剣に確信すればそれが「現実」になります。現実とはただの確信した世界です。確信が反映されたものが現実です。ですから、、確信が変われば即現実は変わります。そして我々が信じる確信とは「嘘」です。つまり嘘が暴かれれば確信も変わっていくのです。ではどういう嘘なのか????我々はこの世界を固定化された世界と信じています、それが先ず嘘です。この世界は固定化などされていません。その証拠にあなたが眠った瞬間この世界は消えます。眠った瞬間消えてしまう世界は固定とは真逆です。

世界が消えても

世界が消えても「私」は残っています。世界が消えて世界の中の私が存在するなら2度と世界も私も現れないはずです。ですが、、、世界が消えても再び世界が再誕生できるのは、、何かが残っているのです。その何かが真我です。絶対に消えて無くならない唯一の現実です。不変で無限の唯一の現実が「真我」です。それが我々の本質であり「現実」です。世界とはこの唯一の現実の投影です。現実逃避と呼ばれる思考は、、唯一の無二の現実、真我の影です。かつての現実と呼ばれる存在も真我の影です。

太陽

真我

この幻想の世界で「太陽」という存在が現れていることは大変面白いことです。なぜならば太陽は真我の自覚に大きなヒントになるからです。太陽があります、そこから光が起こり、、惑星を照らします。太陽は太陽以外を見ることはできますが、、太陽だけは見ることができません。太陽の光で太陽以外は確実に照らされ発見されますが、、太陽のみは見つけることができないのです。真我も全く同じで、、、真我は真我以外には確実に気づくことができます。今のこの視界、音、思考、感情、、、、全てに気づけるのはそれが真我ではないからです。

非真我

真我が発見できるのは非真我です。太陽が発見できるのは非太陽です。太陽の光によって照らされる「惑星」を気づきの主体と勘違いしたのが自我です。惑星は気づかれる側であって気づく側になることは不可能です。にも関わらずそういう間違った思考が起こったわけです、これが自我という思考です。事実では「真我」「太陽」だけが気づきの主体であり真我、太陽なしでは何も起こりはしません。

我々

我々は太陽と同じく、、全てを照らす存在です。我々が発見できるものは太陽の光によって、真我の光によって照らされたものだけです。真我である我々が存在しなければ、、全知覚は起こらず、、、全知覚は真我の影です。今もこうして世界が存在して見えるのは太陽である真我が存在しているからです。太陽という存在は真我の存在のホログラムです。

確実にあるが確実にない

目を覚ました時

目を覚ませば同時に世界が立ち上がります。目を覚ましたが世界は現れない、、こんなことは絶対にありません。つまり、、、世界は100%存在します。にも関わらず目を覚さない限り世界は現れません。世界は現れたが、、目が覚めない、、ということはないのです。意識が現れると同時に世界も現れます。つまり、、、世界=この意識です。だから世界は幻想と呼ばれます。この私も幻想です。この体も幻想です。なぜならばこの意識が起こらなければそれらは現れることができないのですから。

100%消えない存在

この世界も体も私も全ては意識と同時に消え去りますが、、それでも消えない何かがあります。それが真我と呼ばれる存在です。真の私です。真の私は世界が消えてもこの体が消えても、、思考の私、自我が消えても、、絶対に消えません。熟睡中も消えません。熟睡中も真我が消えないから、、意識がそこから立ち現れ、、、世界も同時に立ち現れ、、私も同時に立ち現れます。真の私はその立ち現れに「気づく」存在です。

それに気づくと

この意識の中で「真我」の存在に気づく動きが起こった時、、、真我への同一化が起こります。この意識が真我に同一化するのです。この意識のこの体、思考、感情への同一化が終わり、、真我への同一化が完成すると、、、勘違いの思考が湧かなくなり、、、、苦しみが終わります。自我の終焉です。真我はそのままで平和、愛であり、、それがそのまま、、この反映の世界に注ぎ込まれます。

神以外を諦める

想念破壊

今ここには固定観念が反映された世界がただ在ります。これはただこの固定観念です。想念です。何がここに現れ出ていようとも、、、それは真我の反映であり、、その反映は固定観念を映し出す反映です。ですが我々はそのことに気づかず、、、現実とこれを呼ぶのです。何が現れ出ようともそれは固定観念が反映した幻想に過ぎない、、、と気づけた時、、、関心が神に、真我にシフトします。

ただ観察する

人に会えば、、その人はあらゆる発言、行動をしますが、、、その全ては固定観念の反映です。「世界はこうなっている」を反映した「その人」が現れでるだけです。だからその人を変えようという試みは無駄に終わります。なぜならばその人の言動は「世界はこうなっている」を忠実に現れとして起こしたに過ぎないからです。

テクニック

テクニックというのは「世界はこうなっている」という大前提が最初にあって、、、その上でこうしたら上手くいく、、、というロジックです。そのロジックが機能するためには、、大前提の「世界」が存在しなくてはなりません。テクニックが成功した時、、、同時に「世界」に対する固定観念がさらに固定化されます。「世界は所詮は金だ」という固定観念をベースに商売を成功しても、、その固定観念がさらに強固になって「生き辛い」をさらに経験することになるのです。

無限の最先端

次から次へ

この世界は無限である真我の影です。なぜこの世界が次々に起こるかといえば、、この大元が「無限」だからです。この影が留まることを知らないのは影の大元が「無限」だからです。「無限」の影が終わってしまったら、、それは無限ではなくなってしまうのです。「無限」が鏡の前に立って鏡の中を覗けば、、、、「無限」がまさにそこに映し出されるのです。その現象が、、、「これ」です。「これ」が移り変わり続け、、さらには終わりがないのは大元が「無限」だからです。無限が鏡の前に立って鏡の中を覗けば、、、エンドレスな現象が現れ続けます。

つまり

今この瞬間こそが「無限」が生み出す最先端の映像です。そして大元が無限ゆえに、、、鏡に映った姿は、、、無限に現れ続けるわけです。時空間という表現の中で無限が現れれば、、、様変わりする様子で、、、無限は表現されるのです。様変わりする様子こそが、、、鏡の前に立った存在が「無限」である証拠です。今日も1日が始まる理由は、鏡の前に立った存在こそが「無限」だからです。だから明日も必ず訪れます。明後日も訪れます。明明後日も訪れます。なぜならば、、、鏡の前に立った存在が「無限」だからです。

全く同じがない

朝起きた時、、、この体は確実に1日齢を重ねています、、つまり全く同じ景色は絶対に起こりません。確実に何かが変わっている、、、なぜならば、、鏡の前に立つ存在が「無限」だからです。だから鏡の映像は、、、日々移り変わっていく、、、確実に何かが変わります。1日として同じ映像がないのは、、、、「これ」は無限の現れでないといけないからです。なぜならば鏡の前に立った存在が無限であり、、この映像は、、無限の写し絵だからです。無限が鏡の前に立った時の映像は「無限の現れ」でしかなく、、よって「これ」は無限に変わっていきます。

完璧な現れと好き放題言う思考

全て

全ては真我の現れです。真我の影が現れます。真我自体が完璧なのですから、、真我の影もまた完璧です。完璧の影は間違いなく完璧です。それは100%保証されています。ですから今目の前に起こっている景色は100%完璧です。それは疑う余地がありません。真我の影しかここに起こり得ないのですから不完全な視界というのは現れようがないわけです。ですがその時思考が現れ、、これは完璧ではないという内容が現れます。これはできてしまうわけです。この視界は完璧ではないという内容の思考が完璧に現れます。その思考も真我の影ですからその現れ自体は完璧なのです。

思考の内容は事実ではない

この世界は全くもって完璧じゃないぞ!!!!という思考が現れます。その思考自体は完璧なのです。だってそれも真我の影ですから。。。。ですが思考の内容は事実ではないんです。事実ではない内容の思考が完璧に現れ続けるわけです。内容は事実ではないが、、思考自体は完璧なのです。この事実を着目してください。どんな内容の思考が現れたっていいんです。思考自体は完璧ですから、、内容が事実ではないだけです。思考の内容は事実ではない、、この自覚さえ起これば何も問題は起こりません。

事実とは反する思考が湧いていただけ

何度も説明します。これは真我という完璧な存在の影です。ですから紛れもなく完璧です。ですがそこに事実ではない思考が起こりました、、、これも完璧です。ですが内容が事実ではないので、、、、苦しみという感情が起こりました、この感情も紛れもなく完璧です。ですが苦しりが起こっていることは事実です。ではこの苦しみを取り除くにはどうしたらいいのか????ただ事実ではない内容の思考が湧かなくなればそれで終わりです。湧いても完璧、湧かなくても完璧です。事実と反する内容の思考が湧かなくなった時、、ただ苦しみが消えるだけです。

今後

今後どんな内容の思考が湧こうとも、、それは真我の影ですから、、完璧です。真我自体が完璧ですから完璧ではない影は存在しません。ただその思考の内容が事実と反する時「苦しみ」が起こります。これも完璧な作用です。この苦しみを消し去りたい時、、、事実ではない思考に気づき、、事実ではない思考が起こらないようにするしかないのです。何が事実かに気づいた時、、、事実と反する思考が消えます。つまり完璧なこの影の中に事実と反する思考が起こらなくなる、、、これが悟りです。影は全て完璧です。それはこれからも何も変わりはしません。

自我の終焉

嘘の終わり

自我をどうしたら終焉できますか???自我を終わらせたいんです。苦しみの原因は自我ですよね????だったら自我を終わりにさせてください。できますよ、、だって自我って勘違いが生み出した想像物ですから。自我のベースには勘違いの思考があってそれが生み出した思考が「自我」です。だから真実に目覚めれば自我を信じることができなくなります。自我とは「勘違い記憶」が生み出した想像物です。つまりこれは幻想です。

嘘を教えて

具体的に何が嘘なんですか????自我の嘘をしっかりと明確に教えてください。では教えますね。自我と呼べてしまう時点で、、それは認識できる「何か」ということになります。私と認識できてしまう時点で私は認識できるわけです。自分という言葉があるということは認識できるわけですね。あの人と呼ぶ時点で、、あの人は認識できる何かなわけです。認識できるということは「認識者」が存在しなくてはならず、、その認識者は「相手」と同じ次元に存在していてはいけないのです。つまり自我という認識は自我とは違う次元から起こるのです。

つまり

私は山田太郎です。と曰う時、、、私も、山田太郎も認識できているのです。その存在を認識できる存在は別次元の存在であり、、その存在こそが「真我」です。本当のあなたです。つまり本当のあなたはこの物理世界、時空間と呼ばれる世界には存在せず、、だからこそ認識ができているのです。ですから全現象の認識者「私」はこの世界には絶対に存在しません。つまり「私」という言葉に含まれた「認識者=私」はこの体の中には絶対に存在しないということです。

自我

自我とは「この体の中に存在する全認識者」のことです。ところが全認識者はこの体の中には絶対に存在できず別次元に存在します。そしてこの別次元の存在はこの物理空間を認識するために、、、物理空間とは全く違う「実体」でなくてはならないのです。それは物質でもなく、空間でもなく、時間でもなく、、光でもなく、色でもなく、、、非全現象、、、です。そしてそれは不変でなくてはなりません。こうして今まで思っていた「自分」は完全に自分ではなかったことが明白になるのです。

体は病気になっても気づきは病気にならない

真我

真我は病気にはなりません。真我は永遠であり不変です。だから病気に「変化」できないのです。ゆえにこの体が病になろうとも真我は何も変わらずに不変のままです。体が健康であろうと不健康であろうとも、、何も真我は変わることなく、、「在る」のです。真我は病気にもならず元気にもならず、、ただ「平和と愛」としてここに在るわけです。だから我々は実は何もしなくていいのです。何かが起こるとしたらそれは幻想の動きに過ぎず、、それを見破るのです。

もしも自身が体ならば

もしもこの毎日のように変わっていく体が実在ならば、、、あなたは体ということになります。そうなった場合、、体の変化にその変化する体が気づけるわけがないのです。本体が変わっているにも関わらずなぜその変化に本体が気づけるのか???という話です。つまり体調の変化を認識できるからこそ我々は体ではないのです。体調の変化にしっかりと気づけるということは我々は「変化しない」存在に決まっています。ところがこの世界に変化しない存在は存在しません。つまり我々はこの幻想世界には存在せず、、、ただ不変の真我として「在る」のです。

ならば、、、、

病気になっても何も問題がないということですか????そうです。何も問題がないのは、、、真我には何一つ影響を与えることができないからです。ですが、、、体調が悪い時、、それは居心地が悪いことは事実ですから、、ただ改善に向けて動くのです。一方で自身が体調とは全く関係ない真我である気づきに至った時、、、、思い煩うことがなくなり、、、病は消えます。ストレスからくる病は真我実現と共に消えていくのです。体が病んでもそれはただ病んだだけであって真我とは何も関係がないわけです。そしてこの体は真我の反映である幻想ですから、、この体の存在は真我とは何も関係がないのです。

諦めて戻る

平和と愛

平和と愛はどこにあるのか???どこにあるのでしょうか???そう信じてこの幻想の世界を彷徨います。家を建てたら、家族ができたら、、給料が増えたら、奥さんの機嫌がよければ、、平和と愛が手に入ると信じているのです。ですが残念ながらそれ全て幻想です。幻想ということは実態がないのです。実態がない何かを集めても何にもなりません。ですがもう外にしかそれを追い求て来たことがないので、、、惰性と慣性でそれをやる続けるのが人間と呼ばれる幻想の傾向です。

どこにもない

愛と平和は外にはどこにもないわけです。どこを探したってないのです。ではどこにあるのか????どこ???それがこの幻想の全てが存在する場所ではなく、、それを超えた場所です。幻想の全てを生み出す場所にしか「愛と平和」は存在しません。幻想の中で探すのを諦めて、、幻想を生み出す場所に「愛と平和」を探すのです。そこに「愛と平和」が実在します。

実在

愛と平和は実在です。実在ということは現れては消える幻想ではないということです。ところが車、人間、マンション、地位、名誉、名声は、、、現れては消えるわけですから、、、、、これは幻想なのです。そこではないんです。その幻想に気づく気づきこそが「真我」であり「実在」であり「愛と平和」です。気づきは同時に無限であり、永遠です。その反映がこの幻想という世界です。だからこの反映は変幻自在に変わるし、時間も生み出すし、空間も生み出すのです。この無限の表現こそが自身の「無限」を証明するわけです。そして自身の存在の自覚が、、、この真我には含まれています。

気づきが気づきに努力する????

ない

我々の本質は「気づき」です。気づきですから気づくために何か努力することはありません。何一つ努力することなく「気づく」その気づきが、、、自身の本質です。だから外で音が鳴った時、、そのことに気づくための努力は一切必要ないのです。外で花火が鳴った、、その事実に気づくための努力は全く必要ないわけです。だからあなたは100%気づきなのです。努力しなくては成せないことはあなたの仕事ではありません。あなたの仕事は一切の努力無しに成り立つ仕事だけです。つまり気づき、、これ以外はあなたの仕事ではありません。

ならば

金メダリストが金メダル取得のための血の滲むような努力は、、、彼の仕事ではないと????そうです。全く違います。その努力は森羅万象の動きであって「彼」の動きではないのです。だから彼は実は何もしていないのです。一切の努力をしてもいないのです。彼はただ全経験、全努力に気づく気づきでしかありません。金メダル取得に向けての全思考、全感情は、彼のものではありません。ただただそれが起こったに過ぎません。

何もしてない????

何もしていないのではないですよ、、しっかりと全てに気づいていますから。。それこそが大仕事、神の仕事です。それ以外は全て森羅万象の動きに過ぎず、、そこに介入できる誰かは全く存在しないのです。私は森羅万象の動きに介入できません。彼も森羅万象の動きに介入できません。彼女も森羅万象の動きに介入できません。全員が森羅万象の動きに介入できません。できることはただ一つその動きに気づくことだけです。そしてその気づきから森羅万象の動きが起こります。この起こりはあなたの影です。あなたの反映です。それだけです。