出演数6連覇

なぜ????

一時期TV出演数6連覇であったタレントKさんがニュースになっています。パワハラとセクハラの合わせ技であったということです。なぜそこまでの成功者がそこまでの悪行をするのでしょうか???なぜ????答えは簡単「恐怖心」です。彼が本当に心から出たい番組にのみ出演していたら、、、こうはなっていないでしょう。仕事を断ってはいけない、どんな仕事もやらなくてはならないのだ!!!!この使命感を支えるのは恐怖心です。もしも仕事を選んでしまったら、、、仕事が無くなってしまうのではないか!!!!です。

相手も

一方パワハラ、セクハラを受け入れる相手にも恐怖心が確実に存在します。もしもこんな人気タレントの要望を断ってしまったら「大変」なことになるのではないか!!!!です。この仕事の世界で生き残っていくには「我慢」しなくてはならない、、、、この恐れが、、、そういう行為を受け入れます。タレントの行為を支えるのも恐怖心、被害を受けてしまうのも恐怖心です。だからタレントを許せ、、と言いたいのではありません。この恐怖心はどこから来るのか???ということです。

どこから????

ではその恐怖心の根源を教えましょう。どこからこの恐怖心は来るのですか????それがこの体を実在と信じる動きから来ます。この体は絶対的に存在するのだ、、という確信こそが、、この体を守らなくては!!!!という動きになり、、、、それが恐怖心になるのです。この体は断言しますが、、実在ではありません。実在ではないということは影としてしか実在しないということです。影ということは影の大元があるはずです。それが真我です。我々はこの影の大元「真我」です。ですからこの体はその真我の影に過ぎず、、、実在ではないのです。影としては実在です。「体」と呼ばれる実在であるとしたらそれは「嘘」です。

だから

だから我々は死ぬことができないのです。影は変化します。ですが全て影ですから、、、どんな形態であろうと影自体が消えることもありません。この体も影として様々な姿を現しはしますが、、、影です。何が起こっても影が影でなくなることもないのです。一回の人生、、真剣にこの体を守らなくては!!!!の、その体は真我の影です。私の影です。なぜ影を大事に大事に守らなくてはならないのでしょうか。。体を粗末にしろ、、、と言いたいのでは断じてありません。あなたは影がどうなろうとも何も害わない真我の方ですよ、、、、という話です。だから大安心の中でこの体を楽しんでください。

行為者という誤認

何もない

これは影です、真我の影です、、影を動かすことができる何かが存在したらそれは影ではなく「実在」ということになります。そうです、つまりこの影は全自動で動くのであってそこに介入できる何かは存在しないのです。世界は真我の影です、影は影ゆえに実在の存在から勝手に生まれ勝手に消えます。自然に現れ自然に消えます。ただそれだけです。真我は確実に存在しますが、、、真我は微動だにしないわけであり、、、よって影を動かす行為者も存在しません。

つまり

この世界に「行為者」は全く存在しません。何か影に影響を与える行為者は存在しないのです。だから安心してください、世界には行為者としての人間は一人も存在しません。人間という影は存在します。何かをやっているように見える人間という形をとった影は存在します。ですがそれだけです。我々の本質はこの影ではなく影の大元「真我」です。だから何も心配しないでください、あなたが何もしなくてもこの世界が回っていくように、、あなたも世界も真我の影に過ぎないのです。

何のため????

じゃあこの影は何のために存在するのですか????なぜ存在するのですか????それは真我とは無限であり、、無限であるということは真我の影も真我には含まれているのです。そして無限ゆえに、、自身の存在に気づく部分もそこには含まれていなくてはならないのです。だから今こうして真我実現が起こるわけです。真我実現は真我に含まれているのです。

へーこら

してしまう

会社に行けばイソギンチャクのように上司に「へーこら」できてしまう人が存在します。条件反射で「へーこら」が起こります。そしてそれが好かれちゃったりするわけです。なぜ????なぜこの現象が起こるのでしょうか????答えを言います。「恐怖心」です。恐怖心が強いからそれができるのです。恐怖心が無かったら、、上司を持ち上げる????ゴマをする?????できません。あなたがイーロンマスクばりにお金があって、、、上司に「へーこら」できますか???できません。恐怖心こそが「へーこら」を起こすのです。

真実に目覚めると、、、、

真実に目覚めると、、、、恐怖心がガツンと消えます。だって死ねないことがわかるのですから。。。。生まれてきてもいないし死にもしないのです。真我は常に真我としてあって、、、我々とはこの真我の影の動きだったのです。影は影ですから生まれてもいないし死にもしないのです。影の動きの中で、、、「生死」という動きを見せますが、、、正体は影です。そして真の我々は影の大元「真我」です。ですから真我が影の生死を気にすることもない、、、、のです。真我が真我と分かって、、、影の生死を気にしたら変なんです。あなたは日中、、、あなたの体の影の安否を気にしますか???しませんね。。。影が誰かに踏まれた!!!!と気にもしません。

社会生活

そんな恐れのない状態で社会生活は営めますか????会社勤め不可能でしょ????ですがあなたの前の世界はあなたの固定観念こそが作っていますから、、、固定観念が消えれば世界も消えます。つまり恐怖心をベースにした社会自体が消えるのです。だから何も問題はありません。ブラック企業に勤め続ける大きな理由は「恐怖心」であり、、、恐怖心が消えて「ブラック企業」に勤めることもできないし、、ブラック企業も消えるのです。あなたの周りにブラック企業に勤める友人も消えるし、、全てが変わってしまいます。

イライラ

記憶

あなたが記憶喪失になった瞬間、外に出かけて「イライラ」が起こりません。気難しい人というのは出かけただけで「店員の態度が気に入らない」「前の車絶対に許さない」「あの客の態度は何だ」とひたすらに思考が止まりません。この思考の根源は間違いなく「記憶」です。記憶こそがイライラ思考を生み出すのです。つまり気難しい人というのはそのような「記憶」が支配しているということです。一瞬表面上そのイライラを抑えることができても無駄です。

記憶を消す

イライラ体質の人は、、イライラ体質の記憶を消す以外にありません。でも頭をどこかに打ちつけて記憶喪失になるわけにはいない、、、、合理的に着実に、、、記憶を消す必要があります。そのためにはどうするか????そのためには、、、、勘違い記憶を勘違いと確信する以外にありません。つまり真実に目覚め勘違いを露わにするのです。

勘違い記憶

真実に目覚める過程の一つが、、、イライラが記憶によって起こるという事実に目覚めることです。これが真実の目覚めの階段です。イライラは記憶が無ければ起こることは不可能です。つまりイライラの原料は「記憶」だということです。この事実に目覚めた時、、、、イライラしても、、、外部環境への意識の動きが変わります。イライラの原因を外に外に向けていたのが、、、内側、記憶に原因を探る動きが起こるのです。真犯人は分かっています。

反戦運動

参加しない

戦争反対!!!!戦争反対!!!!!世界中でそのようなでも活動が起こります。ですがその活動で本当に戦争が無くなると思いますか????戦争反対!!!!!の意識のベクトルとは「戦争」です。そこに関心がガッツリと向かう時「戦争」が広がります。「争い」に関心がガッツリ向かう時「争い」が広がります。全ては関心こそがその「現象」「幻想」「幻夢」を広げます。

つまり

関心を平和そのものに向けるのか、、争いに向けるかの違いです。毎日毎日戦争のニュースを観れば、、、ここで戦争が起こります。毎日毎日お笑いをここで観れば、、、ここでお笑いが起こります。何に関心を向けるか、、、だけです。関心が現象を起こします。「7月5日」の大災害予告に関心を向ければ、、その関心こそが「幻想」「幻夢」を作り出すのです。だからそこに関心を持たないでください。

幻想、幻夢

はっきりと伝えちゃいます。あなたは夜見る夢で、、「地底での生活」を見ないはずです。なぜならばそこに関する情報が全くないからです。関心を持てないわけです。あなたが全く知らない世界の夢を見れないように、、、関心が全くない世界を創造することは不可能なのです。ですから、、、起こって欲しくないことには関心を向けないことです。そしてそんな嘘偽り、幻影に関心を向けるのではなく「真実」に関心を向けてください。真実に関心を向けた瞬間「幻想」への関心は確実に弱まり、結果そのような幻想の踊りが減っていきます。

良い結果と悪い結果のない世界

全ては真我の影

全ては真我の影ですから良い結果、悪い結果は存在しません。存在するとしたら、、それは良い結果という意味づけと悪い結果という意味づけの二種類です。だって全ては真我の影です。影には良い結果という実在と悪い結果という実在がないんです。両方存在不可能です。ですから結果というのは存在しないのです。思考としてそれが現れる時良い結果という幻想が現れています。思考として悪い結果という思考が現れる時、幻想としてそれが現れます。

何もない世界

本当は真我の影、、、これだけが存在し、、、それ以外は何も存在しません。真我の影の中で、、、良い結果だという幻想が起こることもあるし、、悪い結果だ、、、という意味の幻想が起こるかもしれない、、ですが全部真我の影であり至福の影であり愛の影です。それ以外はどこを探しても存在しません。ですから大安心しか実は存在しません。それ以外がないのです、存在として。一方幻想としては何でもあります、良い結果、最悪の結果、、、中途半端な結果、、、なんでも起こりますが、、全て幻想です。真実では真我と影、至福と影、愛と影のみが実在します。そのことが分かったとき、、何とかしなきゃ、どげんとしなかばい、、、、が消えます。だってそんな悲惨な実情が存在しないのです、幻想以外で。

役に立ちたい

人様の役に立ちたい

真実に目覚めていきますと、、全部が自分だという感覚が芽生えてきます。すると役に立ちたいという衝動も目覚めてきます。自分はよそ様の役に立ちたい、、、そんな自分でいたい、、、、という衝動です。ですがその他人は全て真我の影であり、、、実在はしません。救ってあげないといけない他人は実在しないのです。救ってあげたい人物を作り上げているのは「思考」であって思考を抜いたら真我の影が残ります。真我の影は、、唯一無二の実在の影「真の至福」の影であってつまり至福です。救ってあげなくてはならない至福など存在しません。

だから

深刻にならないでください。世界中には今日も食べることさえできない哀れな人々が居て、、、、いやいや思考を外したらそれ真我の影です。真我は至福ですから至福の影も至福です。そして実在はしません。影が「哀れな人物」に写っているだけです。救うべき私も影です。救う私と救われる哀れな人々を分離させる実在が存在しないのです。救う神と救われる神の境目が存在しません。影のお遊びです。だから深刻にならないでください。救う私も救われる人々も幻想以外では存在しません。それは実在しないのです。

全てが影と分かって、、、

全てが至福の影だと分かって、、、お遊びとして救う遊びをするのはOKです。それが事実です。救わないと死んでしまう実在は存在しないのです。その実在を注意深く観察すれば至福の影です。影でありかつ至福です。どうして救わないといけないのでしょうか????そしてこの体も至福の影です。何としても世界を救わなくては!!!!という思考も至福の影です。俺の力じゃダメか、、、、、という落胆も至福の影、真我の影です。

どうですか?????

何となくしっくり来ますか????何となく分かってきました????どこを探しても至福の影しか存在しないのです。至福と至福の影しか存在しないのです。だから何も深刻にならなくて大丈夫です。どんなに深刻に考えてもいいですよ、、、でもそれも至福の影です。我々は至福と至福の影の外には出ることができません。なぜならば我々自体が至福であり至福の影だからです。気づく我々は至福であり気づかれる我々は至福の影です。

絶対に俺は悟るぞ!!

誰が????

絶対に絶対に俺は悟るぞ!!!!誰がですか?????俺ですよ、俺以外に誰が悟ると言うんですか???俺があなたを悟らせるとでも言うのですか????そうですか、、、じゃあ、、俺が悟ったらその後はどうなるんですか???悟ったあなたが悟り後のこの世界を生きるということですよね?????悟りとは「俺」が俺じゃなかったという気づきのことです。俺じゃなくて、、こっちが俺だったという気づきのことです。

どっち?????

俺が俺じゃなくてこっちが本当の俺だった、、、という気づきが、、悟りです。では、、、、そのこっちとはどこですか????こっちとは全経験、全思考、全五感、全感情の気づき、、この気づきこそが「本当の俺」です。いやいや、、、それ今までの俺のことじゃん????違うんです。残念ながら違うんです。その俺はこの次元世界には存在しません。その俺は時空間には存在しません。その俺は時空間に存在しちゃダメなんです。その俺は時空間を超えた次元からこの時空間に気づく存在です。

俺の次元間移動

そうです。かつての俺様はこの時空間、この時空物理次元に存在しているはずでした。だから「久しぶり!!!」と呼び止められた俺は、、、この時空間に存在していると思っていたんです。ですが残念ですがその「久しぶり!!!」と呼びかけられた経験はこの時空間では気づくことができないのです。その経験が起こったことが気づかれないわけです、同次元では。ですから俺様は、、、この物理次元には居なかったわけです。最初からこの次元を超えたこの世界の王だったのです。

だから

俺は悟るぞ!!!と言っている時点のその気づきに至っていないのです。最初から俺は悟っていた、、これが気づきです。最初から悟っていて、この世界の王だった、創造主だった、、、という気づきが悟りです。つまり、、、何一つこの物理次元の影響を受けず、、何一つこの時空間の影響を受けず、、ただ全てに気づく存在だったということです。そしてこの物理世界はその王の影です。俺様の影です。この世界は固定観念によってあらゆる動きを見せはしますが所詮は影です。だからあなたは今もこうしてこの世界の変化に気づいています。

アル中

逃避

アルコール中毒とは「逃避」です。日々溜まるストレスと向き合うことからの逃避です。日中に溜まったストレスと夜向き合うことを避けるためにアルコールを利用します。アルコールを飲んで思考を鈍らせ、、、ストレスについて考えることから逃げるのです。なぜ??????何がストレス????そこを考えれば考えるほどに苦しいわけです。ですから、、それをしたくなくてアルコールに逃げるのです。そして朝目覚めて、、仕事に行かなきゃ!!!!となり考える暇を与えないのです。これを無自覚にやります。

考えないようにする意図的な行為

休日は考えてしまう時間です。考えることが可能な時間です。それを考えるだけで苦しくなります。そこで、、、考えないようにするための行為が「お酒、ギャンブル、異性、買い物、YOUTUBE」など、、、です。考えないようにするアイテムです。それに興じていれば考える暇を与えません。そのためにやります。ですがどこかでは分かっているのです、これは、、完全に逃避であることを。。。。

救い

多くの方はこれらの中毒性アイテムを使い倒して人生を終えます。それが悪いというわけではなくそうなっています。少数の者がこれを逃避と見抜いて、、、逃避ではなく「ストレス源」に立ち向かっていくのです。このストレスは何だ?????です。何がこのストレスを生み出すのだ???です。そして内面に入っていきます。自身の内部に原因があるのではないか????と内面に向かいます。そして内部の奥に、、、この世界と全く違う次元の存在を発見します。これが真我発見、真我実現です。

真我が実現されると

そもそもが全員真我ですから真我実現というのは方便です。ですが思考は真我を無視し続けてきました。意識は真我に全く気づかずすっかりその存在を忘れていたのです。忘れていたからこの幻想の中の何者かが、、、この経験の全てに気づく存在なのだ、、、という嘘の思考を起こしていたのです。これが苦しみ、苦悩と呼ばれる現象です。この幻想による幻想の幻想としての苦しみが消えた瞬間を「解放」と呼びます。苦しみも幻想です。幻想として100%苦しみがあるのです。これが消えた時、、、真我実現が完成します。

他人

存在しない

他人という概念が存在しない時、「他人」は存在できません。友人という概念が存在しない時、友人は存在できません。他人を作り出すのは「他人」という実在ではなく他人という概念です。つまり我々は他人という実在に囲まれているのではなく他人という概念に囲まれているに過ぎないのです。他人という実在は存在しません。ここで飛び出す幻想に「他人」という概念を当て込んで生きているのです。当然「私」という実在も存在しません。「私」という概念が浮かび上がった時「私」という幻想が生まれるのです。

ノーコントロール

そしてもっともっと突っ込んで説明すれば「他人」という概念、「私」という概念がどう飛び出てくるか「コントロール」できません。不可能です。つまり他人という概念、私という概念、テーブルという概念、友人という概念がなぜかここに飛び出てきて、、その幻想が起こっているだけです。小さい子供を見ていれば分かりますが、、、浮かびがってくる言葉の概念を楽しんでいます。大人はそれを実在と盲信することで言葉が生み出す「盲信の世界」に閉じ込められています。真実ではただ浮かび上がってくる概念を実在と信じ生きているに過ぎません。

いつの日か

自我が芽生え、、現れでる概念を実在と信じ、、その中で生きていました。ですがある日この真実に目覚めます。本当は全て幻想であり、、、浮かび上がる概念を実在と信じているに過ぎなかったのです。ではこの幻想の正体は何か????という話ですが、、それは、、、この全てに気づく「気づき」である真我の影です。全ては真我の影です。真我の影の中に「概念」と呼ばれる影が起こった時のみ、、概念が生み出す幻想が起こります。ですから他人など存在しません。他人も、友人も、私も、、全て、、、全て真我の影です。影というのが正体です。そして影には実在の境目がないように、、、全ては全く同じ影でできています。だから我々は一度も生まれてきてもないし死にもしないのです。それは影がそのように見えるだけに過ぎません。