全て

全ては心が生み出す幻影です、あなたの体験の全ては心が生み出します。目の前の物質体験、時空体験は心の産物です。目の前に「嫌な人間」が現れてあなたに不快な思いをさせたのならばそれはあなたの心が創作総指揮で作り上げたのです。どんなドラマがここで起ころうともその創作総指揮は「心」です。そのことに気づいてください。先ずはそこからです。そして全てのドラマが心によって生み出されていることに気づいたらその心を変えることができます。もう目の前の事件を「実在」とは見ません。

真我

全ドラマの総指揮は「心」でありその土台には「自我」が存在するはずです。そしてその自我はどこから現れたのでしょうか???その自我は間違いなく「真我」から現れでています。永遠の気づきが先ず最初にあってそこから「自我」が立ち現れ、ドラマが生み出されています。そこに気づくのです。その時、、自我はもうかつての自我ではなくなってしまいます。真我を内包していた自我が骨抜きの自我になります。真我抜きの自我です。気づき抜きの自我です。

ドラマ

ドラマは心の投影であり、心は自我から現れる、、その自我は「気づき」を内包していたはずがその気づきは「真我」のものだったと気づかれます。これによって自我は自我ではなくなり、、自我という存在が存在できなくなるのです。その時、、目の前のドラマは非実在、幻想、蜃気楼に過ぎず、、、真我は何も変わらずに真我のままであることにも気づくのです。ただ蜃気楼同士の戯れがここに起こるのです。

飲めるお水

ここにお水があります。このお水は喉の渇きを癒します。ですがこれ全て蜃気楼です。飲めるお水があって潤う人間がありますが全て蜃気楼、、真我の影です。影ですから、、どのような動きを影が見せようとも、、、真我は何も変わらずに真我のままです。お水どころか豪華な食事にこの人間がありつけても、、、それも影の動き、蜃気楼の動きです。真我は永遠であり無限であり、、実在です。消えてなくなるものは全て真我の影です。

一人も損なってはならない

無限の現れ

一人の人間が存在すればその奥には「在る」という意識が存在します。その「在る」というこの意識の中で人間活動が起こるのです。人間活動はアバターです。「在る」という意識の中で全ては起こります。では90億人の奥には「在る」という意識があるわけですが、、90億人も居れば誰か居なくなってもいいのでしょうか???それが駄目なのです。90億通りというのは無限の現れであり、、90億でも足りないわけです。なぜならば無限とは制限のないことであり、、よって損なった視点があってはならないのです。

でも自◯はあるよね???

ですが90億人も存在すればその中には自◯も存在するわけです。これはどうなるのですか????実はその自◯すらもあるがままの一つなのです。それも自動で起こってしまうこともあるわけです。全ては全自動ですから、、そしてあなたの固定観念が「生きにくい世界」であるのならば、、そういう人も現れます。あなたの固定観念からそれが取り除かれれば、、それも変わります。

ですが

ですが、、あなたは今この幻想の世界には存在していません。あなたは「在る」というこの意識です。だからあなたは不変です。何一つ変わったことなどありません。この幻想の中のアバターのあなたは変わっていきますが、、「在る」というこの意識は完全に不動であり、、不変です。何も変わりはしません。「在る」という神が存在していてその中であらゆる幻想の動きがあるだけです。この神視点が無限に存在するのです。

最初から

この神視点は徐々に増えていくのですか????違います。最初から無限です。最初からです。今時間があるという感覚があるのも無限の表現でしかありません。最初から神視点は無限であり、、最初から存在する神視点を時間という幻想を利用して経験が起こっているのです。ですから時間という幻想の中では神視点は無限に増えていきます。時間という幻想の外では、、最初から無限の神視点が存在します。

現実が幻想と見抜かれ最後に実在となる

???????

最初そこには山があった、、次にその山はなくなった、、最後にそこにはまた再び山が現れた、、、これ禅の言葉です。最初、我々の目の前には間違いなく現実と呼ばれる山があります。次にこの全てが幻想と見抜かれます。その時、この山は幻想ですから、、既に山ではないことが見抜かれます。ですが、、、なぜこの幻想があるかと言えば、、実在である真我が存在し、、、その真我があるからこそ、、これが影として存在するのだ、、という理解に至るのです。その時山は、、影として実在するのです。

つまり

実在しか存在しないわけです。影の中身である山を実在とするのは勘違いです。ですが山を影と見抜き、、影として存在を認めるのならば、それは実在です。真我があってその影が存在します。その影はなくてはならない影であり、、真我は影を含めて真我なのです。その時、、、影の中身には存在意義があり、、中身に無駄な中身がないことを分かります。全ては完璧であり、何一つ無駄がない影です。この世界は真我の影ですが完全完璧な影の内容を司っています。

ノーコントロール

影をこういう風に動かそう!!これは不可能です。影の動きはノーコントロールです。真我には主体的な意志は存在しません。故に真我の影の動きにも何も自由意志はありません。だから我々の人生と呼ばれる影はノーコントロールでこれまで生まれてきたのです。そしてこれからも全く変わらずノーコントロールで人生は進みます。ですがもう人生という実在がないことも分かっています。人生は真我の影としては実在です。ですが影ですからそこには何の実態もないのです。真我は実在し影も実在です。それ以上もそれ以下もありません。影の内容は非実在です。

非真我は真我を発見できない

真我が非真我を発見する

今何かが発見されていますよね????ならば真我が非真我を発見しているのです。非真我は真我を発見できませんから今起こっているのは真我が非真我を発見しているのです。では、、非真我とはなんですか???それが「これ」です。「これ」こそが非真我です。そして「これ」に気づく存在が真我です。発見されるのはいつでも非真我であり、発見は常に真我です。我々がこれまで発見してきた全ては非真我であり発見したのは常に真我です。つまり、、、我々は非我々のみを発見し続けてきたのです。

これからも

ですからこの体も非真我でありこの思考も非真我です。この感情も非真我であり、この行動、視界、世界も全て非真我です。だからこの体が死んでも非真我が変化しただけです。真我は何一つ変わりもしません。変わるのはいつも非真我であり、真我がそれを発見します。この話を聞いていて虚無感が起こってもその虚無感も非真我です。そのことが腹落ちしますと、、愛と平和がこの非真我に反映されてきます。真我実現がなされますと、、幸福と愛がこの非真我に反映されます。

苦しみや苦悩

苦しみと苦悩は、、非真我における非真我の表現に過ぎません。それが真我によって発見されてきたのです。真我は常に不動であり、、そこには変化はありません。変化するのは常に非真我でありその中でこの体を実在とする動きが起こった時苦しみが起こるのです。ですが今この体も世界も非真我であることが自覚されました。それらは実在ではないのです。その時非真我の中に苦しみが消え去り真我の愛と平和がここに反映されます。

無常と不動

全ては無常

全ては無常であり同時に不動です。え?????完全矛盾していますよね????そうです。言っていることは真逆です。ですが真実です。見える世界は完全に無常です。ですが同時に「この意識」は不動です。「在る」という感覚は不動です。「この意識」がこの意識でなくなることは絶対に絶対にないわけです。ですが同時にこの幻想の世界は無常です。この意識が不動にも関わらずこの意識の中の幻想は無常なのです。そしてあなたはこの幻想では一切なく不動のこの意識です。なぜならばこの不動の意識が存在しなければ同時にこの幻想も存在できないからです。

社会では

あなたはこの移りゆく世界の中の移りゆく一人と教わったのです。この結果移り行く世界をなんとかして生き延びていかなくてはならない一人になりました。ですが事実ではこの移り行く世界とあなたは全くの別物です。あなたは不動なのですから、、移り行く世界の影響を受けることが不可能なのです。移り行く世界そのものであり同時にこの意識です。そんなこと分かってどうなるのさ????という声は幻想の中の自分の声です。この声すらも無常の現れに過ぎず、、その時もあなたは完全に不動です。

つまり

激動の時代をあなたはどう生きる?????というスローガンも無常の現れであり、、その中で生き抜く私も無常の現れです。無常の現れの中に「独立分子」は存在できないので、、どう生きるも何も、、、そうなるようしかない、、、というのが答えです。と同時にこの無常の世界は私の「固定観念」が反映されますから、、今もあなたの固定観念が反映した無常の世界が現れています。ですがそれをどうこうできることもありません。さらに言えば無常の世界がどうなろうと、、、、、不動のこの意識、不動の私は何一つ損なうことなくここに在ります。

気づき

無常の現れがあって不動のこの意識があります。この事実、この真実に、、、、気づく気づきが存在します。それがそうあることに気づく気づきが存在します。それこそが我々の本質「真我」「絶対」と呼ばれるものです。我々はその真我であり、、その真我は「無限」でもあるのです、、そこから真我の影が現れ、、、、この不動の意識、無常の影として今ここに現れています。

気づきに気づく

私は〇〇だ

私はこれだ、私はそれだ、、、その「これ」「それ」とは、、、この幻想の世界の中の「何か」のはずです。私をこの幻想の世界の中の何か、、、にした瞬間「分離感」が生まれます。世界と私の二極構造にシフトします。これが恐怖心を作り出し、、世界に問題が溢れる流れとなるのです。ですが、、「私は〇〇だ」という思考がこの幻想の世界で起ころうとも「この意識」は何も変わらず、、ここに「在り」ます。不変のこの意識の中の全ての行動に過ぎません。そして我々とはこの意識の方です。

微動だにしない

雨が降った、雪が降った、今日は嵐だ、、、、この映像の世界では何でも起こります。あらゆることが次々に起こり続けていきます。ですが何が起ころうとも「この意識」は普遍です。微動だにしません。そこに気づいてください。この微動だにしないこの意識が「あなた」です。あなたは生まれてこのかた、、一度も微動だにしたことがないのです。何一つ動くことができません。この幻想の世界で起こる何かがあなたに変化を起こすことは絶対にないのです。その事実から逃げてはいけません。

気づきに気づく

この意識は微動だにせず、、、その意識の存在が今気づかれています。今この意識があることを疑う者はおらず、、ではなぜこの意識の存在は気づかれているのでしょうか????この意識が存在することが気づかれている、、このこと、、、この原理に気づくことが究極の気づきです。この意識、、、が気づかれているということは我々の本性は「気づき」なのです。そしてこの意識は全現象、全幻想、、の現れと同時に現れます。そのことにも気づくことができます。我々の本質は「気づき」であり、、その影が「この意識」であり「全現象であり」「全幻想」です。

自我があろうとなかろうと

自我があろうとなかろうと、、、この構造には何一つ影響を与えることができません。その事実こそが我々が自我ではないことを見抜けますか?????自我の有無はこの構造には影響ゼロであり、、自我はあってもなくてもいいのです。ですが自我の有無をコントロールできる誰かも存在せず、、その誰かがあるように見えてもそれは「この意識」の中の幻想に過ぎません。

究極の視点

究極の視点からこの幻想を眺めると、、、、ここに起こる全ては愛の表現であり平和の表現であることが分かってきます。何一つこの意識にダメージを与えれる現象、幻想はなくその事実こそがそれを証明しています。朝起きて「国民〇〇党支持率ダウン」というニュースが入ってきます、、、そのニュースは、、あなたの「この意識」に何か影響を与えましたか???全く与えません。ゼロです。このニュースが幻想に過ぎないことはこの事実からも明白なのです。

ネガティブ思考から逃げない

隠さない

成功哲学などの書籍には「ポジティブ」な思考のみを起こせ、ポジティブ、肯定、、それのみだ、、、で行きます。何があっても「それがあったから」今がある、、、だから全て良い方向に考えるのだ!!!!です。でもこれって何か疲れませんか????なんか無理がないですか????ショッキングだ出来事があったら、、、「さあ飲み会でもやって楽しいことで忘れちゃおう!!!!」ですよね????なんか無理ないですか????ネガティブな感情ってそんなに悪者ですか????

ポジティブもネガティブもない

肯定的な思考も、否定的な思考も、肯定的な感情も、否定的な感情も、、、、全ては全ては全自動で起こるのですから、、、そこに罪など一切ないのです。ただ起きた、、、それだけです。ただその思考が起きた、、ただその感情が起こったのです。それを責任を取れる誰かなど存在しません。全く居ません。だから放っておけばいいのです。ただそれが起こったと、、、何が悪いねん、、、です。つまりネガティブな思考、感情が起こったら目を背けるのではなく、、、しっかりそれを感じていればいいのです。その思考をどうこうしなくては!!!じゃないのです。だってどうこう出来る誰かは存在しないのですから。

真我の子供

あなたに子供が居るとしましょう、、、勉強が出来る子供だけが可愛いですか????それって絶対にあり得ないですよね?????スポーツ音痴な子供は可愛くないですか?????なわけないですよね!!!!!つまり全てが子供だという自覚が起こった時、、、、、全ての思考が愛おしいのです。全ての感情が愛おしいのです。全ての行動が愛おしいのです。この時何か問題は起こりますか????絶対に起こりません。

真我

この現象界は真我の影です。無限の存在の影です。ポジティブな感情、思考しか起こらないとしたら、、、ここは無限の影ではなくなってしまいます。私の辞書には「敗北」の二文字はない???????だめです、、それじゃあ無限の影の現れではなくなってしまうのです。ここは無限の感情、思考が現れなくてはいけない場所です。その無限の現れは全て「真の私」の子供です、影です。全部が可愛いのです。

時計の中身

見たことある???

腕時計の中身を見たことはある人は居ますか????直接はなくてもありますよね????あらゆる歯車状の部品が所狭しに配置されています。あれらの部品は相互に連動し、一つの部品が動くと同時に全てが動きます。表向きにからは全く分かりませんが裏面から見れば全部品が連携して動くのです。そこには一切の例外はなく、、全部品が連携し、、動きます。実はこの森羅万象の動きも全く同じで、、、全てが連鎖して動きます。だからそこには一つも自由意志が入りこむ隙間はないのです。

つまり

我々は一度もこの連携の外部に出たことはありません。全部品の連動に例外がないわけです。ですから、、、あなたの思考も感情も、、何もかもがこの動きの中に含まれています。これからも全く同じですから、あなたの体が死に絶えるまでこの動きのままです。何一つ部品の中に自由意志が発生できないように、、あるがままです。何一つ他の部品との関係を排して動くことは不可能なのです。

表面

時計の表面を見てください。表面だけを見た時、針の動きが自由意志だと考えることが可能です。自由意志で針は動くのだ、、、と勘違いすることが可能です。そしてその勘違いの動きが起こっていたのが「自我」です。この自由意志で動く針こそが「私」だ、、、という思考の動きが全自動で起こり続けてきました。ですが裏面を見れば、、明白に、、自由意志は存在しません。悟りとはまさにこの時計の中身を見てしまうことです。時計の中身を見て、、これは自由意志は不可能だ、、と実感してしまうことです。時計の裏面を見て、、「やっぱり針は自由に動くのだ」という思考が起こったとしても、、そっちが嘘です。

では

ではこの現実世界の裏面を教えちゃいますね。。この現実世界の裏面は、、、「真我」です。この現実世界で起こる全ては真我によって気づかれています。全経験、全思考、全感情、全五感、、、が真我によって気づかれているのです。これが時計の裏面です。そしてその「真我」からこの現象界の全ては影として起こります。全ては影なんです。影には自由意志は絶対にありません。この現象界で起こる全ては全自動の影の動きです。このことがハッキリと分かった時、、勘違いが消えます。表面の世界を眺めても何も勘違いが起こりません。その時苦しみが消えます。

宝くじ3億円当たった現象を解説

何が起こった??

あなたはこの次元を超えた存在です。ですから3億円が目の前にあってもそれを手に入れることができるのはあなたではなく「体」だけです。あなたはこの次元に存在しないのですから、、それは不可能です。よって3億円をあなたは事実として構造上獲得できないのです。3億円は目の前にしっかりと存在します。ですがあなたと3億円は次元が違う場所にあるため獲得は不可能です。体と3億円は同じ次元に存在するため獲得できます。

そこで

何が起こるかといえば、、「私は3億円手に入れたぞ」という思考をこの幻想空間で起こすのです。これならばできます。これによって「やったー」「半端ない」「一生安泰だ」という思考をやはり幻想空間で起こすことに成功します。毎月豪遊するぞ!と思考し事実豪遊できます。この幻想世界で。ですがあなたはこの幻想空間には存在しないため、、嘘です。私は豪遊できません。ですが「私は豪遊している」という嘘の思考を起こすことはできます。

この嘘

この嘘の思考が起こることで何が起こるのか????この嘘は幻想のこの世界に嘘の自分を生み出します。この嘘の自分の存在を作り出すことによって「分離感」が生まれます。この分離感が「孤独感」を生み出します。この分離感が「恐れ」を生み出します。この分離感が苦しみを生み出すのです。3億円を手に入れるために嘘の自分をこの幻想世界に生み出し、同時に苦しみを生み出したのです。これがこの幻想世界で起こる事実です。

今日も現れるこの幻想

幻想という言葉すらも

蜃気楼という言葉があります。確実に「在る」ように見えるにも関わらず、、実際にはない、、、これを蜃気楼、幻想と呼んだりします。「あるように見えて実際にはない」これを幻想と呼ぶわけです、我々は。そしてこの現実と呼ばれる「全て」はまさにあるように見えて全て実際には存在しないので「幻想」となります。え?????マジスカ????ですね。実際には確実に確実にないのです。その証拠にあなたが熟睡時に「何か」を発見したことはありますか?????絶対に不可能です、なぜならばないからです。

儚い????

それを儚いという言葉を使うこともできるでしょう。ですが我々が知っている幻想は「蜃気楼」のようなものでしかなく、、この壮大な蜃気楼は、、、あまりにも手が混んでいると思いませんか????あまりにも壮大過ぎると思いませんか?????小学校時代の友人とバッタリ道で出会っても、、、相手がこちらを覚えているって「ヤバく」ないですか。。。。。そうです、この幻想というヤツは、、、、半端なく、、、半端なく、、、凄いんです。だから幻想という言葉は適確ではないかもしれない。。。

私がしっくりくる言葉は「影」かもしれない、、、真我の影があって、、、それが今ここでしっかりと存在しています。なぜ真我には影があるの????それは真我が無限だからです。無限なのだからその中には「無限の影」もあるわけです。真我の影には無限が投影している、、、だから、、、今ここに影がしっかりとあって、、その影は無限を描写します。無限がここで描写されているのだから、、ここの映像は確実に変わるのです。この確実に変わる描写こそが無限の投影である証拠なのです。無限の描写をスライドショートして体験するという動きが今ここで起こっています。それすらも無限の現れの一つです。