真我に「成る」必要はない

最初から

我々は最初から真我です。真我を辞めることなど不可能です。その証拠に全経験は全経験が起こった瞬間に「気づかれ」ます。全経験が気づかれることがなかったら、、全経験は存在しません。ですから何も起こらないことになります。ですが、、実際に確実に経験は気づかれます。この気づきが真我です。ですから全経験は真我の存在ゆえに気づかれ存在しているのです。ですから我々が真我に「成る」のは不可能なのです。我々こそが真我なのですから。

じゃあ

この世界の我々は誰ですか????会話をする私とは誰ですか????それは真我によって気づかれる「私」です。私という感覚が起こり、、相手の感覚が起こり会話が成立します。この全てに気づく存在こそが真我であり「我々の本質」です。気づかれる方の「私」や「あなた」は真我から現れた知覚です。真我からその知覚が現れ、、気づかれたのです、真我によって。だからこれまでの「私」は絶対に真我にはなれません。これまでの私は真我から現れでた「知覚」です。その「私」はどう足掻いても「真我」にはなれないのです。

その「私」

かつての私は真我から現れでた「知覚」であり幻想です。その「知覚」「幻想」は現れでたゆえに消えます。そして唯一絶対に消え去らないのが真我である「気づき」です。現れては消えるかつての「私」は唯一無二の実在「真我」にはなれません。真我は既に存在していて全現象、全経験、全知覚、全思考、全感情に気づいています。私とは気づかれる「内容」の方です。私という気づかれる内容があることこそが「気づき」である真我の存在を証明します。

心の活動=世界の活動

心の中の世界

我々の世界とは我々の心の活動のことです。目の前にコップがある、、というのは心の活動です。今日は暑い日だ、、というのも心の活動です。ですから、、全ては心の動きです。心が動く時、世界が動くのです。心無しには世界は存在できないのですから全て心の活動です。ですから世界という実在の動きは皆無です。世界を実在とする心の動きはあります。ですがそれも心の動きに過ぎません。そして世界が心の動きだと見抜かれた時、世界と心という二局構造が崩壊します。心のみになります。ですが心は世界という実在が存在するから成立するのであって、、世界が消えた瞬間心も消えるのです。

別々だから、、、

トランプが税率30%にした世界が先ずは実在として存在するから、、じゃあ今後の生活をどうしよう???という心の動きが起こるわけです。ですが「トランプが税率30%にした世界」が心の活動に過ぎないと気づかれてしまった以上「どうしよう????」という心の活動が消えます。世界という実在に対する動きこそが心の活動だったわけです。ですが世界という実在が消えてしまった以上、、、それに反射する心の活動もまた消えるのです。一日中続いていた世界と心の「ラリー」が消えます。世界とは心の活動、、以上、、、で終わりです。

さて、、、

世界が心の活動に過ぎないと気づいてしまった以上、、、この体も当然心の活動です。つまり体は実在しないし、、自我も実在しません。全ては心の活動に過ぎないのですから。では、、、、何も実在しないとなると、、、、何が残る?????何が残っていますか?????心の活動に気づき気づきが残るのです。心が生み出す世界の動きに気づく気づきが残ります。心が生み出す、、全活動に気づく気づきが残るのです。これは真我です。実在です。心が無限の活動をしそれに気づく気づきが真我です。

心とは????

では心とは何か????心とは想念です。想念が存在しない心が存在しますか??????ですから想念ですね。これが真我「気づき」から起こり、、、世界を生み出していたのです。世界の動きが多様であるように心の動きも多様です。無限の動きを生み出すのは実在である真我が無限だからです。真我の影として心が生み出され、、その動きが無限であることから、、、真我は無限なのだ、、という自覚が生まれるのです。世界の無限の活動は心の無限の活動であり、、真我の無限を影として証明します。

善と悪

この世界

この世界から善だけを残して悪を取り除くことは可能でしょうか????一生懸命に「正義」のために動く活動家がいて、、その活動家がとんでもなく優秀であった時、、、世界から「悪」は消えると思いますか????どうですか?????答えを言いましょう。。。世界から悪が消えることはありません。なぜ????なぜならば善悪とは「心」の産物であり、、、、世界はまさにその「心」の投影だからです。心の中から「悪」を消し去ることはできますか???できませんね、、、、ならば世界から悪が消えることもないのです。

つまり

心の中に正義の味方を作りだしたのならば同時に正義の味方のよって叩きのめされる悪魔が登場します。その瞬間その心が反射板になって、、、世界に正義と悪魔を生み出すのです。つまり善悪、良否、高低、大小とい概念こそが、、、、世界にそれを現します。いざとなった時の「ワクチン」こそが、、、ウイルスをこの世界に作り出すのです。対比という概念こそが世界に対比を生み出すのです。

じゃあどうすりゃいい?????

じゃあもう戦争も終わらないし、悪役も消えないし、、、どうしたらいいんですか???????諦めろうと??????違います、、、、この世界は心の投影に過ぎないと悟ることで、、、、何が起こっても何も問題がないという事実に目覚めるのです。心が生み出した世界は心の中に収まっていて、、、我々はその心を生み出す真我です。真我の中に自我が芽生え心が現れます。その心という袋の中に世界が収まっています。袋の中の出来事は、、それを生み出す真我には何一つ影響を与えません。なぜならば出来事は心という袋から出ることができないからです。

つまり

世界の出来事はさも「私」に影響を与えるかのうように見えてはいますが、、、構造上、、、出来事は心の中から出ることはできず、、、その心は自我と同時に真我から飛び出た想念の束に過ぎないのです。ですから残念ながら、、出来事は、、、何一つ真の私『真我』には影響をこれまで与えたことがなく、、これからもそれは変わりはしません。その証拠にあなたは過去にどんな出来事を経験していようが今こうして「存在」していますね。。。。その存在こそが真我です。

存在

その存在はこの体のことではなく、、、存在である真我の中に自我が現れ、、、自我が心を生み出し、、その心が体を含む世界を作ったのです。ですがその体を真我と勘違いしたことから、、、世界から私を守らなきゃ、、という幻想ストーリーが生まれたのです。その勘違いの思考こそが今もこの世界を作り続けています。あなた(真我)はこの体でも世界でも何でもなくて、、、その全てを生み出す「心」の源です。心の源がなぜ、、、心が生み出した世界の中に閉じ込められることが可能なのか?????不可能に決まっています。

悟りすら利用する自我

目標

自我は悟りすらも目標にして生き延びようとします。「あの人は悟っている」だから私もいつか悟りたい、、、これ自我の延命措置です。「悟り」を個人の目標にしています。かなりの詐欺的行為です。ITが進化したら流通問屋が要らなくなるんです、、という意見を流通問屋に話せば、、「私がITを駆使して流通を円滑にしますね!!!」と答えるギャグのようなものです。ITが発展すると「流通問屋」が不要になるという内容です。流通問屋が頑張る話ではないのです。ですが自我は悟りすらも叶えあるのは「自分」だ、、と曰うのです。真実では自我は存在しないという意味です。

私は悟っているがあの人は悟っていない

悟りとは、、、「個人が完全に幻想だった」という気づ気です。個人は幻想なのですから、、個人を感じることはできるが「実在」しないという意味です。蜃気楼は存在するが、、実在はしない、、、これと全く同じです。実在しているように見えるが、、、実在しない、、、これが蜃気楼です。存在しているように感じるが、、存在しない、、、これが自我です。存在しないのに存在しているように感じれるから「蜃気楼」「幻想」というのです。

だから

だから自我は悟れません。自我は幻想と見抜かれて終わりです。現れたところで幻想が現れた、、で終わりです。幻想は悟ことができません。悟れるのは「実在」だけです。そして実在は、、、最初から唯一無二であり、、変化自体ができませんから、、実在が悟ることもないのです。ですから悟りとは「自我」が幻想と見抜かれることです。「自我」が幻想だとしたらですよ、、、今のこの現実は誰がみとんじゃ????って話ですよね。誰も見ていないのです。ただこの現実と呼ばれる視界があって、、それが真我によって気づかれたのです。

目の前の映像

自我

自我は真我から最初に立ち上がります。その瞬間「心」が立ち上がり、、ここに世界が現れます。その世界の中にはこの体が含まれていることから、、この体と自我が同一化され、、、この体である私が誕生するのです。この体である私とそれ以外の世界が知覚されることでこの私を守ろうという動きが起こります。ですが自我とこの体がたまたま同一化されたから私は永遠から一時になっただけで、、、本来私は永遠なのです。ですから、、、私を守るという発想自体が、、矛盾しているのです。体は心が生み出す投影に過ぎず、、この現れては消える体は本来の私ではないのです。

真我

真我は永遠であって永遠のこの私が「一時のこの体」であるはずがないのです。ですが現れた自我は私の依存先を探すためこの体、心を自分自身としてみなすのです。自我も一時の存在、体も一時の存在であって、、どちらも真我ではないわけです。全ては真我の影ですから、、全てが真我とも言えます。自我や体が一時の存在である証拠は、、熟睡中は自我も体も出現しません。熟睡中に消えてしまうような自我も体も永遠の存在であるはずがないのです。世界全体も熟睡中は消えてしまいます、つまり、、これらは一時の存在です。

永遠

永遠の存在、真我は一時も消えることがない存在です。その存在は、、この世界の気づきです。純粋な意識、「気づき」こそが我々です。世界がいかに変容しようとも、私が現れようとも、、気づき続けるこの気づきが我々真我です。真我は一時も瞬間も消えたことがなく、、ただ在り続けます。この体を「私=真我」と勘違いした瞬間、苦しみの思考が起こるのです。ですが真我が現れては消えるこの体であるはずがなく、、その気づきが起これば至福に戻るのです。至福とは真我が体や心ではない真我であることを思い出すことで至ります。

仕事をしながら???悟り??

出来るの??

悟りって全てを明け渡すことですよね???当然仕事も諦めるわけだから仕事しながらなんて不可能ですよね???なぜですか???仕事はあなたに影響を与えることはできるのですか???仕事は全てあなたの心が生み出します。心が生み出す仕事がなぜ心を超えた存在「あなた」に影響を与えれると言うのでしょうか???不可能です。悟りとは、、何もかもが真の「私」に影響を与えないことに気づくことです。仕事も、パートナーも、友人も、何もかも、、、真の「あなた」には指一本触れれません。

でも今ブラック企業ならば

では今ブラック企業で働いていて、、毎日三時間しか眠れていません。それを続けろと、、、根性で続けるべきですか????なぜ転職してはいけないのですか???転職しちゃってください。何が問題だというのでしょうか・・・どの会社に勤めていようとも、、、、真のあなたとは何も関係がありません。だからサクッと転職すればいいのです。辞表を書いて、、転職しちゃってください。ただしこの世界はあなたの心が生み出していますから、、「俺はブラックしか就職できない、、、」こう確信していれば次の職場もそうなるでしょう。それだけです。

だがしかし、、、

とはいえ、、、もしもあなたが真に真我実現に興味が湧いているならば、、、、超ブラックな環境に身を置いているとは思えません。なぜならば真我実現への関心は「ヴァーサナー」という心的傾向がある程度消失している可能性が高いからです。つまり勘違いの思考が消失していなければ真我実現に関心を持たせてくれないのです。ですからこのブログを読んでいる読者は真我実現に関心を持てる「ヴァーサナー」の状態であると言えるのです。世界の全ては心が生み出しますから、、ヴァーサナーが少ない状態の世界はそれを影響します。

究極の自作自演

この体

あなたが鏡の前に立てば、、、あなたの「体」がそこに現れます。あなたは紛れもないこの体を見て「自分の体だ」と思うはずです。ここに疑いはありません。ですが断言しますがその体の創造主はあなたの心です。あなたの心なしにその体は現れることができません。あなたはあなたの心が生み出した体を見て、、この体は私だと思うのです。心が生み出す体を私と思っているのです。もしも心が消滅すれば体も消えます。では、、、あなたは、、どこに行ってしまうのですか???体が消滅したらあなたも消えるのですか???消えません。あなたは心が生み出す体を超えた存在であり、、体が消えてもあなたは消えません。

つまり

つまりあなたはあなたの心が生み出す体では絶対にないのです。体はあなたの中に現れた心の創造物に過ぎません。心もあなたではありません。心が消えてもあなたは消えないのですから。心が生み出す創造物は何が現れてもそれはあなたではなくあなたの一部です。あなたはあなたの心が生み出す体、心を「私」と思い込むことで、、、分離感を「心」が生み出し、、恐れ、孤独感、、、を生み出すことになりました。完全に勘違いです。今もあなたはあなたの心が生み出すこの世界を知る者、気づく者であり、、、あなたはこの世界には存在しません。

存在しない??????

この世界はあなたの心が生み出した世界であってあなたは心の創造主です。心の創造主が心が生み出す世界に存在したらおかしいのは分かりますか???心の創造主は心の外に存在しますし、世界の外に存在します。だからあなたは心が生み出すこの世界の中の何かではあり得ないわけです。にも関わらずあなたはこの世界に住む人間を私と勘違いし、、その勘違いが生み出す世界を作り上げたのです。こうして今生きづらい世界が目の前にドカンと現れています。

ですが、、、

どんなに悲惨な世界があなたの心によって生み出されても事実としてあなたはこの世界には存在できないのです。この事実に目覚めますと既存の「心=固定観念」が壊れていきます。心に変化が起こります。すると世界は心の産物ですからこの世界が変わり始めます。生き辛かった世界がそうでもなくなっていくのです。私であるこの体を世界から守らなくては!!!!という固定観念が消失し、、それが生み出す世界も消えるのです。

あなたはあなたが考えるような存在ではない

これだけ

苦しみとは実はこれだけです。「あなたはあなたが考えるような存在ではない」これだけです。これが分かっていないから「分離感」が生まれ「恐れ」が生まれ「自己防衛意識」が生まれます。固定観念がこの世界を生み出し、、守らなくてはならない世界が誕生します。実は「私が考える私」は私ではないのです。この勘違いこそがあらゆる問題を生み出しているに過ぎないのです。

私が考える私

私が考える私とは「この現実世界とは分離したこの体を所有する私」のことです。この初期設定、これが固定観念です。この固定観念が強固になることでこれが反映する世界が今ここに現れます。ですがこの概念は事実として間違っています。だからこれは嘘です。この嘘が生み出す世界がここに現れ、、、嘘ゆえに苦しみが起こり続け、問題が起こり続けているだけなのです。

では

では真実をお伝えします。先ずこの世界は幻想です。この時空間も幻想です。この体も幻想です。よってこれを所有する私も幻想です。これが事実です。一方「在る」というこの意識は、、不変で常にあり続けています。これも厳密には幻想ですが、、、不変の幻想がここに存在します。そしてこの「在る」というこの意識はこの世界という幻想の誕生と同時に現れます。これらは一対です。在るという意識=世界です。だからこの体の所有者「私」はこの在るという意識の中に現れる幻想に過ぎないのです。

真我

真の私は、、この「在る」という意識の根源であり、、この世界の根源です。全てはこの真の私から立ち現れます。世界もこの意識も「真我」の中で立ち現れる影であり反映です。真我が存在しなければこの影も存在しません。この影が存在するということは真我も存在するのです。この影は真我が存在することを証明するためのものでありその自覚が真我には含まれていなくてはならないのです。なぜならば真我は無限の存在だからです。

変えられない事実

何を言おうとも

真実とは、、あなたが何をここで言おうとも絶対に変えることができないことです。ここには何かについて話すことは無駄です。天国というものがあってそこでは食べ放題、飲み放題、、、、という話ではないんです。絶対に絶対に覆すことができない事実、これが真理です。それは何か?????「在る」というこの意識があります。これを否定できる人はいますか????絶対に居ませんね。「ない」という意識ではないですよね????そうです。「在る」というこの意識が在るのは100パーセントです。そして同時にこの「在る」というこの意識のが不変にも関わらず「この世界という幻想」は変わり続けていませんか???それを否定できますか???

できない

できないのです。「在る」というこの意識と、、、変わり続けるこの幻想の世界、、、これを否定できようがありません。この世界が幻想であろうとなかろうと、、、変わっていくのは事実であり同時に「在る」というこの意識は変わりようがありません。そして寝た際にはこの在るという意識と同時にこの世界も消えます。これを否定できる人はいません。つまりこの世界は「在る」というこの意識の消失と同時に消えます。否定できますか???できませんね。だからこの世界は幻想と言われます。

そして

そして、、、、「在る」というこの意識が消失しようともこの世界が消失しようとも、、、、必ずどこかで目覚め、、「在る」というこの意識と世界が再び誕生します。これを否定できますか???できませんね。そうです。「在る」というこの意識と世界を誕生させる存在が存在します。これを否定できますか???否定できません。その存在を真我と呼びます。そしてそこから現れる「在る」というこの意識と世界を「真我」の影と呼びます。それをなんと呼んでもいいのです。なんと呼ぼうがその言葉が指す「存在」が存在することだけは事実です。偽りのない事実に目覚めた時、、苦しみが消えます。なぜならばある幻想(体、思考、感情)を実在と信じる動きがあってそれによって苦しみが生み出されていたので。その偽りの思考が消えた時、苦しみも消滅します。

世知辛い世の中

それを作った心

最初に世知辛い世界がここに存在していてそこに住む我々人間が居る、、、これが99.99999999%の人間が考える「現実」です。ですが真実では、、、最初に心があってその心が真我の光を反射してここに世界を生み出します。その心の土台には「自我」が存在し、、、、自我が体と同一化することで「この自分と世界」を生み出すのです。紛れもなく世界は心を経由して生み出されます。心は自我を経由し、、自我は真我を経由するのです。

自我とは???

私という概念です。私という概念がこの体と同一化すれば「私はこの体」となり、私という概念がこの思考と一緒になれば私とはこの思考のことです。この心に真我の光が反射され投影された世界がこの世界です。ですが事実では、、、全ての「気づき」は自我ではなく真我が起こします。何が起こってもそれに光が当てられるのは我々自体がその「光=気づき」だからです。だから怒りも悲しみも全てこの「光=気づき」によって照らされるのです。だから私は実は何もしていません。。私はただの名前です。気づきは真我であり光です。

太陽の光

その真我の光は「太陽の光」とは違うのですか????太陽の光に気づく光が真我です。光が全くなく闇しかない時、、、その闇に気づく光が真我の光です。真っ暗な部屋で「寂しい」と思考した時、その気持ちに気づく「光」が真我の光です。心が生み出す全ドラマがあってそれを支える自我があって、、その自我を支える真我が存在しました。ですが自我は実は存在しなかったということが気づかれ、、自我が消滅します。すると心が生み出すドラマも一緒に消えてしまうのです。このドラマは実在ではなく真我の光に照らされた影に過ぎないという気づきの中で上映されます。

何のリアリティもないドラマ

もうこのドラマにはリアリティは存在しません。ドラマは心という反射板を利用した映像に過ぎなかったのです。唯一無二の実在「真我」はドラマの影響を何一つ受けず、、ただここに在って、、、、永遠の存在です。永遠の存在「真我」の影としてここにはドラマが継続しますが、、、その影の動きには関心が起こりません。どうぞどうぞ自由に影の動きを楽しんでください。影は変幻自在に動きますが、、、何一つあなたに影響を与えることはできませんから。