対象への愛

愛ではない

対象への愛は真の愛ではありません。愛する子供を亡くした時、悲しみに暮れるわけですが、、、隣町の子供が亡くなった時には直ぐに忘れます。ではこの悲しみは何かといえば、、、それは対象への愛です。愛着です。愛の執着です。私のもの、、、というエゴの拡大です。子供を失った時の喪失感とはエゴの損失なのです。私の一部が消えてしまった感覚です。それがいけないという意味では全くありません。自身の子供を失う辛さは、、自分自身を失ってしまった悲しみなのです。

真の愛

真の愛とは存在そのものへの愛です。存在の現れに愛おしさを感じます。そして全ての現れは消えるのが必然であり、、、、消えたから悲しむというものではないんです。既に愛に包まれていて、、、その上で、、そこに現れる存在に愛おしさを感じます。だから何を失ってもその愛が崩れることはありません。愛が溢れて愛おしさになっているのですから。。。

大前提としての愛

そもそもが自分自身が愛なのです。そして万物の現れは愛の現れです。なぜか???万物は「愛」「真我」「至福」の影だからです。先ず大前提で自分自身が「愛」そのものなのです。その上で、、この世界自体が愛の影です。愛の反映です。ですから愛の視点に立った時、、世界は愛の表現です。全てが愛の表現であるならばその中で特別な存在というのは存在しません。「私」が登場して初めて「私の子供」「私の車」「私の旦那」という存在が現れます。その瞬間、、それはエゴの拡大となり、、、苦しみが生まれます。いつ失ってしまったらどうしよう、、です。

心配なあの人

真我

あなたの周囲には大変な状況に陥っている人が存在するはずです。旦那が浮気をし、子供は登校拒否、自分は病気になって鬱状態に、、、そんな友人があなたの周りに居るとしましょう。その時あなたはどうしますか????助けますよね????助けてください、それは素晴らしいことです。ですが同時に、、、事実、真実も理解しておく必要があります。真実ではその人は100%幻想です。あなたも幻想です。あなたがその友人を助けるというのも完全に幻想の中の動きに過ぎません。

だがしかし

真我は確実に存在していて、、、幻想の中で何が起ころうとも、、、真我は何一つ損傷を受けずに、、ただ在ります。大変な状況になっている友人は100%幻想であり、、その奥には何一つ損傷を受けていない真我が存在するのです。つまり本当は誰も傷ついていないというのが真実です。幻想の動きの中では何でも起こります。喜怒哀楽、悲劇、喜劇が起こるますが、、、その全ては幻想です。そして、、その幻想の動きには何も影響を受けない「気づき」である真我が存在するのです。

だから

大いにその友人を助けてください。後悔がないようにやり尽くしてください。同時に全てが幻想に過ぎず「真の私」「真のあなた」は何一つ失うことがない真我であることを忘れないことです。我々は笑ってしまうぐらいに最強の真我であって幻想ではないのです。幻想は最強の存在、真我の影に過ぎず、、喜怒哀楽はその影の動きに過ぎません。だから何が起ころうとも大丈夫です。何が起ころうともそれは幻想の動きです。この真実が分かってくると深刻な感情、思考が真我の影として起こらなくなっていきます。全ての思考、感情が真我の影に過ぎないという自覚は、、深刻さを根絶やしにします。

スピリチュアリズム

目に見えない世界の話

目に見えない世界の話を総じて「スピリチュアル」と言ったります。人がなぜかこういう分野に関心を抱くようになるのは、、本当の部分では見える世界が全てじゃないと気づいているからです。だから何かで悩んだり、困ったり、八方塞がりになった時、、、そこへの強烈な救いを求めるのです。これは至って自然な話です。そして事実として「この見える世界」は思考が生み出します、記憶が生み出します。ですから、、見える世界の「原料」が見えないものによって作られているのです。見えない世界に答えを探すのは当たり前なのです。

さらに

さらに言ってしまえば、、、見える世界は全て幻想です。思考が生み出す幻です。なぜ幻という言葉を使うかといえば、、、、見える何かは、、消えるからです。瞬時に現れ瞬時に消えるからそれは「実在」ではなく幻だというのです。今ここにカップがあっても右を見れば消えます。当たり前???違いますよ、、カップが幻だからそうなるのです。現実という言葉は何か固定された固い固いイメージを持ちますが、、とんでもない、、、右を見た瞬間、、、カップが消えてしまうぐらいに、、、変幻自在です。

なぜそんなことが可能なのか????

右を見た瞬間カップが消えてしまうぐらいにこの世界は変幻自在です。ではなぜそんなことが可能なのかといえば、、、それを支える「実在」が存在するからです。変幻自在の幻想の世界を支える「実在」が存在するからそれらは現れては消えることができるのです。それが真我と呼ばれる存在です。真我は1ミリも動かず、1ミリも変化もせず、、ただ、、そのままに「ドカン」と在るわけです。そしてその真我の中に「影」として現れているのがこの世界です。変幻自在のこの世界は真我の影です。

影ゆえに、、、、

この体の影であるならば、、、体の動きに応じて影は変幻自在に動きます。それは形状という姿で表現されます。ですが真我の影となったらそうはいきません。形状だけでなく、音として、味として、触として、香りとして、思考として、感情として、、現れるのです。真我の影は「7つ」の質としてここでは現れています。その「7つ」は無限の現れをここで奏でます。そして影ですから、、影に何が起こっても「本体」は何一つ影響を受けません。だから実は大安心でこの世界という影を楽しんでください。この世界という影は、、結局のところあなたという真我には何も影響を与えることができません。

世界は真我???非真我???

どっちやねん

真我以外は存在しない、、、そう言っておいて世界は真我によって気づかれる、、と言われます。意味がわかりません。真我しか存在しないならば、、、世界が真我によって気づかれるという事実はおかしくないですか???真我しかないならば、、真我によって気づかれてしまう世界という存在の意味がわかりません。ではお答えましす。世界も真我の一部です。真我の一部である世界が全体である真我によって気づかれているのです。ただし、、、世界の本性は、、真我の影であり、、、その影は真我の一部なのです。

影??????

真我しか存在しないなら、、、真我の影が登場するのはおかしくないですか????真我の影とは、、真我の中に作られた、、真我の投影のことです。真我の写鏡が、真我の中に作られ、、、その写鏡の中の映像が、、、今ここに現れる「これ」です。その投影は「映像」だけでなく「音」でもあり「味」でもあり「触」でもあり「思考」でもあり「感情」でもあります。よってそれらは無限の現れをします。味に限界がないように、音にも限界がなく、感情にも制限はなく、思考にも限界がありません。なぜならばそれらは、、真我の「投影」だからです。世界とは「無限」であり、、それは真我の投影だからです。

ならば、、、

なぜ真我には投影が含まれているのですか???真我に含まれていない何かはあってはならないのです。なぜならば真我とは無限であり、、無限とは例外が存在しないということです。真我に含まれていない「数字」は存在しません。真我に含まれない「思考」は存在しません。真我に含まれない「感情」は存在しません。なぜならば真我の正体は「無限」だからです。だから真我の中には「真我の正体の自覚」も当然含まれていて、、その自覚が、、この世界の中で起こった時「覚者」「悟り」「目覚め」「解放」と呼ばれるのです。

だがそれは、、、

だがそれはこの世界で初めて登場したようには見えますが、、実際には最初から真我にはそれが含まれていて、、それがここでたまたま「いま」登場したに過ぎません。世紀の大発見「悟り」がたまたま今ここで登場したに過ぎないのです。しかもそれは誰かの努力とかでもなく、、ただ偶然ここに現れたに過ぎないのです。ですから目覚めが起こった時、見た目上の覚者が「ついに俺はやったぞ!!!」という感覚には至りません。悟りが起こった、、目覚めが起こった、、という自覚が今現れた、、となります。

神は隠れない

隠れる神は神ではない

神はどこに居る???神はここには居ないのか????神がもしもどこかに隠れることができるとしたら、、、ここは神の管轄外ということになります。神には管轄できない場所があるということになります。その瞬間、神は神ではなくなります。神とは全てを管轄する存在だからです。つまりここは確実に神によって管轄されています。今この瞬間も確実に神によって管轄されているのです。つまり神によって見られています。え????今神がこの瞬間を見ています。。。。つまり、、、あなたが神です。

この視界

この視界をまさに今見ている存在が「神」です。ならば今視界にあなたが気づいているならばその気づきこそが「神」の気づきです。今この瞬間「あなた=神」になってしまったことに気づけますか???こんなあっけなく神が再発見されてしまったのです。あなたが神だったのです。だとしたらですよ、、、この神が見ているこの景色は何ですか?????神は一体どこでこの視界を見ているのでしょうか????

回答

神は、、今、、、神の影を見ています。神はこの景色という神の影を見ているのです。この景色を見て「綺麗だ」という思考が起こったならばそれも神の影です。神が見ることができるのは神の影だけです。神が神以外の存在を見るとしたら、、神と神以外の二つの存在が登場することになります。残念ながら神以外の存在は存在しません。神とは全てですから。ならば神が見ることができる景色は神の影以外にないのです。

とすると、、、、

とするとですよ、、、、、このPC、机、ライト、部屋、エアコン、、、このマンションの部屋が、、、神の影ですか?????そうです。。。。これが神の影です。。。神の影ってしょぼくないですか?????いいえ、、全くしょぼくないのです。あなたが飛行機で、、地球一周すれば、、、、、毎瞬毎瞬新しい景色が登場します。その全てが神の影です。あなたが宇宙船に乗って火星にまでいけば、、、毎瞬毎瞬景色が変わります。それが神の影です。神の影だから変わり続けることができるのです。神の影だから無限の様子をここに映し出せるのです。あなたが1万の思考をここで思いつけるのはここが神の影だからです。

つまり

つまり神とは「気づき」であり「無限」であり「幸福」なのです。神の影はそのことを証明してくる存在です。神の影が現れるからそれに気づく「神」が証明されます。神の影は無限の現れだからこそ神が無限であることを証明できるのです。この世界が現れない時、つまり影が現れない時、、、至福に浸っていれるのです。だから熟睡から覚めると、、幸福の余韻が残っています。我々は最初から神であり、、気づきであり、、、無限であり、、幸福だったのです。

真の超能力

千里眼、予知夢???

真の超能力とは「苦しみ」を無くしてしまう力です。カードの裏側を読めても、、予知夢が当たっても「苦しみ」が消えてくれなければ何の意味もないのです。苦しみ、恐怖が消えて無くなってしまえば、、他のことはどうでもいいのです。ですから真の超能力を身につけることが最も重要でありそれが義務です。それを叶えるまでこの人生は続くのですから、それが身につくまで輪廻は続くのですから。

ということで

苦しみを無くしてしまう超能力の身につけ方を教えてしまいましょう。苦しみを消し去るには、、、真実に目覚める必要があります。真我実現です。これ以外の能力は、、苦しみを軽減することはできても苦しみを消し去ることはできないのです。真我実現だけが苦しみを消し去ってしまうのです。ではどうやって真我実現するのでしょうか???真我がどこにあるのかを見つけます、そして真我とは何かを発見します。それだけです。

なくてはならない

実在とは常になくてはならない存在です。それを神と呼んでもいいでしょう。その神は絶対に今ここに存在しないといけません。その神が何か教えましょう。それが全ての経験の「気づき」です。朝起きて今この瞬間に至るまでの全経験は「気づかれた」から存在します。その経験が気づかれることがなければ、、経験は発見されずに消えています。気づかれるには「経験」とは別次元の存在が存在している必要があるのです。それが「真我」です。だから今このブログを読んでいる時、、、それに気づく「気づき」が真我です。

では

では気づきが真我として、、気づかれる「側」つまり全経験は何ですか????全経験は真我ではないならば何ですか???それが真我の「影」です。真我が気づきならば、、経験は真我の影です。今こうして存在する経験の全ては真我の影なんです。真我に影なんて存在するのか?????????存在します。なぜならば真我は同時に無限であり、、無限ということはそこには真我の影も含まれていなくてはならないのです。

無限の影

つまり真の超能力とは、、この世界が真我の影であり、、気づきが真我であり、、真我は同時に無限であることに気づく能力のことです。この真実に目覚めた時、、、、この世界で起こる全ては真我の影に過ぎず、、、、深刻さが一掃されます。全てのアクシデント、事件、災害、、、世の中で悲惨とされる全ての現象は、、、真我の影です。我々はそれに気づく「気づき」であり、、、無限であり、、、幸福です。だから、、、、この世界で何が起ころうとも、、、「我々」には何一つ損害を与えることはありません。もしも我々自体が現象によって損なってしまうのならば、、、影である現象自体が消えてしまうのです。ところがそのようなことは絶対に起こりえず、、今日も朝から現象が起こり続けているこの事実こそが「我々」は無傷である証拠なのです。

世界を心が彷徨う

地獄

今が苦しいから心は世界を彷徨います。彼氏ができれば幸福になれるかも、彼女ができれば幸福になれるかも、好きな仕事に就けたら幸福になれるかも、、結婚できたら、、家を買えたら、、株が上がったら、、、、、と心は世界を彷徨います。その理由は今が苦しいからです。この状態を仏教では「無知」と呼びます。ですがなぜ今苦しいのか???ここを知らない、、ここに気づけないから、、苦しいのです。では回答します。世界に幸福があると信じているから苦しいのです。世界は、、、真我=幸福、の影です。影の中を彷徨ってもそれは影です。幸福は影の中にあるのではなく、、影の大元にあるのです。

影の大元

ではその影の大元はどこにあるのですか????いま影が見えますね????今確実に世界という影が見えるわけです。その影に気づくことができるのは紛れもなく「実在」です。世界という影に気づく実在が存在しなければ、、、世界に気づくことは不可能なのです。だからこの世界の気づきこそが実在である真我です。そしてここがそのまま幸福です。にも関わらず我々は見える世界の中に「私」が存在すると信じます。見える世界という影の中に「私」が絶対的に存在すると確信するわけです。その結果、「この私を守らなくては」という恐れが生まれ、、苦しみが起こるのです。

世界じゃない

私を救ってくれるのは世界の中の何かじゃないしい、、私もこの世界の中には存在しないのです。私はこの世界という影の大元「真我」です。世界という影に気づく「気づき」の存在です。だから、、、勘違いしないでください。私も救ってくれる何かも世界の中ではなく「気づき」の中です。気づきこそが幸福であり、私です。私がそのまま幸福だったのです。にも関わらず世界という「私の影」を見て、、、この体の所有者が私だという勘違いをし、、不幸になったのです。不幸は幸福の後の後付けです。この後付けされた不幸が苦しいから、、そのまま世界の中に救いを求めたのです。これが無知です。貪りです。執着です。

何も知らない

なぜ????

悟ったならば、真我実現したならば、、、何でも分かっているのですよね????全て分かっちゃうわけですよね????AIの仕組みも、、、テクノロジーの仕組みも、、政治の仕組みも、、、、何もかもを、、、、、いいえ、、とんでもない、、、、何も知らなくていいのです。何一つ知識を習得しなくていいのです。何も学ばなくてもいいことが分かってしまうのです。それらの全てが「真我である私」の影に過ぎないことが分かってしまったのですから。

全部影

何が起こっても何が登場しても、、、何もかもが真我の影です。真我の影だから何でも起こり得るわけですし、、起こる現象は無限です。無限の現れが起こることが分かっているのだから全てを知ろうとしたら無限を知らなくてはならないわけです。無限をこの有限の脳で理解するのは不可能です。だから悟って分かるのは、、、、何でも起こってください、、、知るべきことは自然と知るようになっているから、、、です。

生きるためには、、、、

生きるためには日経新聞の隅から隅まで把握しなくては!!!!どうぞどうぞ関心を寄せてみてください、、、関心を向けた先の世界が無限に広がっていき時間が足りなくなります。政治、経済、AI 、投資、、、、関心を寄せた分だけその世界が無限に広がるのです。なぜ?????だって真我は無限であり無限の影は無限だからです。現象が指し示すのは現象が「無限」であるということです。だから知れば知るほどに、、知らないこともまた増えます。

何もすることがない

なぜ???

真我実現が起こった場合、、、もはや何もすることが無くなります。勿論この体は自由自在に動きますが、、その動きを「自分」がやったという感覚がないため、、、よし、、明日もこうしなくては、、というプレッシャーがありません。そして事実としてその中でまた自然に行動が起こるのです。こうしよう、あれをしようの、、、後に「自分」がやったという感覚がないのです。真我はこの映像の世界の中には存在せず自身は間違いなく真我である自覚があるので、、、ただこの森羅万象の動きを見守る感覚に至ります。

これまでも

これまでもこの森羅万象の中の私は何もしていないし、真我としての私も何もしていません。ですからこれからも森羅万象の中の私は何もできず、、真我としての私も何もできません。ただ「これ」が起こり続け、、真我として「これ」に気づきます。「これ」が移り変わっていく様子に「私」は何も関与できず、、真我としての「私」も気づく以外には何もできません。移り変わる「これ」は無限の移り変わりを見せることから、、真我の影である「これ」は真我の無限性を証明します。

人類全員

人類全員が幸福を求めます。幸福を求めるということは幸福を知っているということです。そして今が幸福ではなく不幸だから幸福を求めるわけです。人類全員が幸福を知っているということはそもそも全員が幸福だったということです。つまり全員が全員真我であるということ、そして真我とはそのまま幸福ということです。無条件で真我は幸福であり無限であり気づきであるのです。それが真我の影の動きによって自覚できるのです。その自覚も真我には含まれているのです。

ワイドショー

暇潰し

ワイドショーって観ます????ワイドショーって、毎日毎日毎日毎日「問題」を取り上げて、、真剣に深刻に何かをしゃべっていますよね????10年前も20年前も30年前も毎日有識者のような人が現れてはしゃべってます。あれ問題を解決しようとしている行動に見えます???見えませんね。ワイドショーの目的は「暇潰し」です。真面目風の暇潰しです。自我は暇潰しが大好きです。暇が嫌いなんです。なぜ??????苦しいからです。「自我=苦しい」ですから暇になると、、、、思考が起こり始めます。その思考の中には当然自我が含まれていてその思考が動くと苦しいわけです。だから自分のことを考えなくてもいいように「何か」が必要になるのです。そして「自分」に関係がありそうなネタに食い付きます。

関係がありそうだから

自我は自分とは全く関係がない「問題」には関心を持てません。自己防衛のためじゃないと関心を向けれないのです。だから地球の裏側のニュースには食いつけない。。。。一応自分にも関係がありそうなニュースを見て暇潰しをするのです。全くの暇が一番苦しい、、、だから自我が関心を寄せれるニュースがちょうどいい、、自己防衛のためだから、、必要。。。。こうして自我はワイドショーを何十年と観るのです。ですがこれは同時に自我の延命措置でもあります。自我を生き伸ばす方法でもあるのです。どこかでは気づかないといけない、、、こうやって何十年先もワイドショーを観るのか、、、、と。

苦しみと暇潰し

苦しいから、、、何か暇潰しをください。苦しいから何かやってないと苦しくなっちゃいます。そこで現れたのがワイドショーであり、エンタメであり、ギャンブルであり、お酒であり、タバコであり、ショッピングであり、異性交友であり、、、、、、です。これらの特徴は時間を忘れさせてくれるもの、、、、、です。時間を感じたくないのです、、、自分を感じる「時間」を感じたくないのです。だから、、、多くの方にとっての暇潰しは「集中」させてくれる何か、、、、であり、、、もしくはお酒のように思考自体を緩めてしまうものです。

対処療法を卒業せよ

だから私は大声で叫びます。そろそろ対処療法を終わらせましょうと。。。対処療法をやっているうちは、、、苦しみは絶対に絶対に消えません。自我の延命措置をやっていては不可能です。自我の延命措置ではなく真実に目覚めちゃいましょう!!!と。真実に目覚めちゃえば自我の延命措置に全く関心がなくなります。時間を何かで潰そう、、、という発想も消えます。なぜならば「苦しく」ないからです。苦しくないのだから何かで時間を潰す必要がないわけです。