自我の戯れ

世界

世界とは自我が生み出す戯れです。自我が最初に起こり、心を生み出し、その心が世界を生み出します。過去世から脈々と受け継がれてきた「想念の束」が心となって世界を生み出すのです。そして自我は「身体+心」と一緒になってこの世界を生き抜こうとします。大安心の真我の上に「孤独」で「苦しい」世界が現れでるのです。世界の中に苦しみがあるのではなく世界(心)そのものの中に苦しみが最初から生み込まれているのです。なぜならば世界という実在は存在すらしないのです。世界=心=想念の束です。

なぜ?????

ではなぜ自我は心を生み出し世界を想像して、、、苦しむのですか???なぜこんな悲劇をわざわざ生み出して、、、苦しみを生み出すというマゾをしているのですか???意味不明です。なぜならばここは無限の劇が用意していなくてはならない舞台だからです。舞台の本性は「無限」であり、、だからこそ演目は無限通りあるのです。その演目の中には「真我の発見」というエンディングが必ず用意されていてそのために今苦しい状況が生み出されるのです。

つまり

つまりこの悲劇は悲劇でなくてはならないのです。悲劇が基本であり、、苦しみが基本です。そして、、苦しいからこそ自我は右往左往し、、真我の探究に入っていくのです。あれ???俺って本当に俺が考えている俺か???という疑問が起こるためには「悲劇」がどうしても必要なのです。だからもう悲劇から逃げないでください。悲劇を悲劇とガチンコで認め、、、その悲劇の原因を探っていくのです。この悲劇の創造主はまさかの「自我」です。この私です。この私こそが悲劇を生み出す張本人です。

意識が飛び出る

体から

意識が体から飛び出ます。体の中に意識が在るのだ、という嘘を信じ込まされてきて、、だから世界に順応しなくてはならない!!という嘘をつかれてきたのです。それ嘘です。ハッタリです。完全な詐欺です。意識の中にこの体も思考も感情も、この世界も現れています。だからあなたは何が起こっても意識が消えることがないのです。目の前にとんでもなく美味しいデザートが出されました、全ての記憶がぶっ飛ぶレベルの美味しさ、、その瞬間も意識はあります。なぜならば意識の変容したものがデザートだからです。

意識の拡張

意識の拡張???勘弁してください。意識の外にそもそも何も存在できないのです。意識しかないのですから。体の外には何々意識が????いやいや勘弁してください。意識の中に太陽が現れ、意識の中に月が現れ、意識の中に北斗七星が現れるのです。意識の範囲外でどの惑星も存在できないのです。トランプもイーロンマスクもあなたの意識の中にしか存在できません。あなたという概念も意識の中のみです。

永久不変

ない

この世界に永久不変な存在は存在しますか????存在しませんね。太陽も月も地球も何もかもが動き、、変わっていきます。岩もそうです。何もかも変化し変わっていくのです。だから永久不変の存在が存在しません。なぜでしょか???なぜ永久不変の存在が存在しないのでしょうか????答えを言いましょう。。それはあなた自身が「永久不変」の存在だからです。あなたが永久不変だから永久不変の存在を認識できるわけがないのです。移り行く世界のみを認識するのはあなたが永久不変の存在だからです。

じゃあじゃあ

それは分かりました。ではなぜ永久不変でない存在のみを認識するのですか???それはなぜ現れるのでしょうか???それは永久不変の存在「真我」は同時に「無限」の存在でもあり、、、、無限ゆえに、、、その存在の内部には「無限である自覚」も含まれていなくてはならないからです。だからその自覚を生み出すために、、この投影の世界が必要だったということです。無限が鏡に映った無限を認識し、、そうか私は無限なのだ、、という自覚を生み出すのです。だからあなたの目の前の景色は今も無限に移り変わるのです。

「私ー私」

真我の私と想念の私

真我である私は「I am」です。我あり、意識、存在、、、です。不変の感覚です。絶対に存在を否定できない存在です。「これ」です。一方この世界の中の私は想念の私です。私はこの体と一緒になり、この心と一緒になります。これが自我です。動くこの体、動くこの心と一緒になる「自我=私」が存在します。「私」とは本来、不変、であり永遠であり、、至福です。つまり変化する体、変化する心は絶対に真我である「私」ではないのです。変化したり消えたりする体、心は、、幻想であり、、、有限です。ですから自我の私とは、、、実は実在しません。

想念の私

想念の私は、、この体や心に一体化するただの概念に過ぎないことに気づいた時、、、自我と体、心とは分離した概念に過ぎないことに気づきます。自我と体、心が空中分解します。そして自我は、、真我である「私」に吸収されていくのです。これが「私ー私」という状態です。真我である私と自我である私が共存しているような状態です。この時、まだ自我は消え去ってなく、、ただ自我が対象との一体化を終えて真我に落ち着いている状態です。

ラマナ マハルシ

ラマナは、、真我を完全に忘れた状態、無知な状態を自我のみの時期、、、真我の存在を思い出し、、自我が体や心との一体化を離れ、、真我に自我が吸収された状態、自我が消え去って真我のみになった状態を区別します。「私ー私」とは、、、自我が真我に吸収された状態です。自我は残りはしますが真我の中に自我が寛いだ状態です。

面白い

面白くない

昨日凄い面白い映画を観て、、、、この「面白い」という基準は「面白くない」があるから存在します。この漫画は面白いけどあの漫画は全くだよね。この芸人は面白いけどあの芸人は全くだよね。面白いと面白くないは、、二つで一つです。相互依存です。だから世界にはこの二つが当然現れます。面白い「友人、映画、ドラマ、職場、、、」だけに触れていれたら、、、、不可能です。だって全ては心がこの世界を生み出すのですから。

そこに向かわない

昨日最高に面白い映画に出会えたから、、、今日も絶対面白い映画を選ぼう、、、、は不可能なんです。なぜならば面白いと面白くないは、、、二つともこの世界には存在しなくてはならないのですから。私の子供には絶対に進学校に行ってもらわないと、、、長男が進学校に行けば、、、次男は非進学校に通うことに、、、なぜならば「進学校」が存在するということは非進学校も間違いなく心に存在することになるのです。その心から世界が飛び出します。

条件

条件を追い求めれば、、非条件も、、当然心には存在します。格好良いが存在すれば格好悪いも存在する。頭が良いが存在すれば頭が悪いも存在する、、高収入が存在すれば低収入も存在する、、、心に生み出されたその全てが、、この世界に投影されます。売れるを追い求めれば売れない、も一緒にこの世界に投影されます。だから外に写る世界に何かを求めるのはもう終わりにしてください。何を求めても、、二局が、二対が一緒についてきます。

じゃあどうすりゃいい???

ということで我々は何を求めて生きればいいのですか????正しいを求めてもダメ、高収入を求めてもダメ、安全を求めてもダメ、、全部ダメダメ、、、、じゃないですか!!!!そうです、外に何かを求めた瞬間、そうなります。そうではなく内に入るのです。内(真我)は双対ではなく絶対の至福です。条件なしの至福です。条件付きの至福は、、その時点で至福ではありません。3億円の宝くじをゲットした瞬間の至福は、、3億円を得たからではなく一瞬至福(真我)に落ちた時に垣間見たものです。ゲットした瞬間思考が止まり「双対の世界」が消え堕ちた時に真我(至福)に触れたのです。

最初から向かう

真の幸福は「3億円のゲット」が生み出したのではなく、、、思考の渦が消え落ちて、、、真我に自我が吸収された時に起こった事故です。金メダルゲットが生み出すのは、、その瞬間自我が消え落ち、、、世界が本来の至福で包まれたから起こった事故です。「ヤッター!!!!」と同時に心が収まり、、心の反映である世界に穏やかさが戻ったのです。だから最初からそこ(真我=至福)にむかっちゃえばいいのです。今もここにはそれがあるのですから。至福を得るために何かをやるのは、、、条件を追い求めているわけです。それでは真の至福には安住できません。

移動

真我

真我は移動しません。真我が移動してしまったら移動するためのスペースが必要になります。真我以外には何もありませんから真我は移動しないのです。真我はただ在るのです。ですが我々の日常は移動の連続です。朝起きて通勤します、これは一体何????ただスクリーン(真我)に映った映像(世界)が変化しているだけです。事実に戻ってください、、映像が変化しているだけなのに気づいますか???部屋の映像が、電車内に変わり、職場に変わっているだけなのに気づきますか???

映画館に行けばスクリーンという枠があって映画はこの枠を超えることができません。世界にもやはり枠があってこの枠を超えて世界は存在できません。その枠の中で部屋、駅、電車、職場、、、と視界が変化しているだけなのです。その変化に「気づく」のは真我であるスクリーンであり、、この映像の中であらゆる思考感情が起こりはしますが、、それがスクリーン(真我)という枠を飛び越えることはないのです。

生まれて死ぬまで

ということで我々は生まれて死ぬまで一度もどこにも行ったことがないのです。我々の本質真我(スクリーン)は微動だにしないのですから、、当然です。真我の影であるこの映像だけが移り変わります。そして、、自我が現れ、、心が現れて世界がそこから飛び出しているに過ぎません。飛び出した世界はいかに壮大に見えようとも、、スクリーン(真我)を飛び出すことはできないのです。

最初から至福

真我は最初から至福です。どこにも行かなくても最初から至福です。スクリーンの原料は至福なのです。だからその影であるこの映像も当然至福でできています。にも関わらずこの映像の世界に苦しみがあるのは、、苦しいという思考が現れているに過ぎません。悲しいという思考がこの映像の世界に現れているに過ぎないのです。その根本原因が「自我」です。自我が最初に現れ、心を生み出し、世界を作り、、対象であるこの体と同一化したから苦しくなったのです。ただそれだけです。自我が死ねば、、至福だけが残ります。

スクリーン

忘れて、、、

我々はスクリーンです。スクリーンが存在しない映画は存在しません。映画とはスクリーンの中に存在する画像です。スクリーンは実在で、映像は虚像です。ですから映像で爆弾が何千発破裂しようとも、、、スクリーンは無傷です。我々のこの世界も何でも起こります、何もかもが起こりますが、、スクリーンは無傷です。では、、このスクリーンは世界に対して何をやっとんのじゃ???という話ですよね????スクリーンは映像を気づく気づきです。ですから今ここに世界があることに気づけるのは「スクリーン」のお陰です。つまり我々のおかげで今この世界が存在しているのです。

熟睡

熟睡中とはスクリーンのみの状態、何も映像が起こっていない状態です。そこに自我(思考)が現れ、心が現れて、、その心にスクリーンの光が放射されることで世界が現れます。心は反射板のように、、スクリーン上に映像を映し出すのです。映像の中身とは「心」です。故に心にない存在は映像に現れることができません。この体も心の中に存在しているからこそ現れ、、自我がこの体と同一化し、、、自分=体が誕生します。世界(心)と自分(心)の二局構造の誕生です。

何が起こっても、、、、

残念ながら、、、この世界で起こる全ては「心」によって生み出されています。ですから、、、新しい物事、、、というのは誕生不可能なわけです。それで人は退屈を感じます。なんだ、、また、、これ、、、か、、、、、です。ですがそれは当たり前のこと、、、だって心を通じて世界が立ち現れているのですから。じゃあもうこの心が生み出す世界から逃げ出すことは不可能ですよね????だって全部が全部心を経由しているのですから。。。

ところが、、、、

ところがです、、、、この真実に目覚めた時、、、ある存在がピンチになります。それが自我です。自我とは「私」ですよね????その私は全経験の所有者「私」ってことですよね????だけど、、、その全経験はスクリーンである「私」のものです。だからスクリーン上の私は経験を回収することが実はできていないのです。自我とは、、嘘つきです。経験の回収人はスクリーンであって、、映像側には存在できないのです。だから、、、、経験回収人、自我は実は存在不能です。この事実に目覚めた時、「自我=体=心」という定義が存続不能になります。

映像の全て

この体だけが「私」というのは真っ赤な嘘で、、この映像の全てが、、私(スクリーン)の投影です。私(スクリーン)=この体、心、、、、というのはあり得ず、、、スクリーンである私は、、、、どう頑張っても映像の体内には収まりようがないのです。ついにスクリーンである私はスクリーンである私に完全に戻りました。自我がスクリーンに没収されたのです。この瞬間、、、スクリーン(至福)上に、、、、私を守らなくては!!!という危機感が消えます、孤独な私も消えます、、恐れる私も消えます。

至福

スクリーンである私は=至福です。ここが揺らぐことは絶対にありません。ですが映像内では、、、孤独、恐れ、悲しみ、苦しみ、、、何でも何でも起こります。そしてその出現理由は「自我」です。経験回収人「自我」これが喜怒哀楽出現の原因です。ですがもう自我が消えます、、、自我が消えてしまえば、、、、至福(スクリーン)の上にどんな映像が映し出されても苦しくないのです。これが悟りです。ジニャーニです。サマーディです。

自我を消す???

同次元

自我を消したい、自我さえ消えてくれればいいのですよね???だったら自我を消す方法を教えてください。どんな考え方をすれば自我は消えますか???自我は思考では消すことができません。なぜならば自我も思考だからです。自我という思考を別の思考で消すことができないのです。同次元の思考同士をぶつけても消えはしません。だから自我は方法では消えないのです。自我を消すには自我を超える以外にありません。

自我を超える?

そうです。自我を消すには自我を超える以外にないのです。そんなこと言ったって、、どうやって自我を超えるんですか?????大丈夫です。我々は最初から自我を超えた存在ですから、、ただそれを思い出すだけでいいのです。そもそも自我という存在(思考)に気づけるのは、、思考を超えた存在だからこそです。思考を超えた存在だからその中で自我が立ち現れ、自我が消え去っても何も問題なく存在できるのです。

最初から

我々が太陽に気づくことができるのも、海に気づくことができるのも、世界に気づくことができるのも、幽霊に気づくことができるのも、UFOに気づくことができるのも、、それらを超えた存在だからです。その存在は「無限であり不変」です。だからその中で出現する全てに気づくことができているのです。この体も然りです。自我も然りです。つまり、、、最初から全てを超越してしまっている存在が我々でありそれを「真の我」真我と呼びます。最初から真我だから、全てに気づいてきたのです。はい、、この時点で自分自身がシフトしました。自我を自分と思っていたのが違ったのです。これが悟りです。解放です。自我が今消えました。

私=神=TV

画像

私は神です、私はTVです。そしてこの世界はTVに映し出された映像です。その世界にはこの体も当然映し出されます。ですが何度も説明しますが「私=自己」はこのTVのことです。世界は私の中に映し出されます。朝目覚める時「自我」が現れ同時に心が起こり、、世界が始まります。TVの中に世界が映し出されます。映し出された世界の中にはこの体が含まれるため、、今日も私を頑張るぞ!!となるのです。この動きの全ては画像の中、世界の中の動きです。つまり思考です。

TV=至福

私=TV=至福です。だから熟睡から目覚めた時、、至福の残滓が残っています。そして朝目覚めて、、画像が立ち上がってから、、、この画像の中で、、至福を追い求める動きが起こるのです。なぜならば画像上に至福の残滓が残っているからです。画像の中に「私=自我」が立ち上がり、、画像の中の体と合体します。その瞬間、、苦しみが起こり、、、至福をこの画像の中で追い求めるゲームがスタートします。

TV=気づき

TVの中であらゆる画像の動きが起こります。鳥が鳴く、雷が鳴る、あらゆる思考が湧き出す、、、その全知覚、、はTVによって気づかれます。知られます。TVのこの「気づく」意識が存在しなければ、、、画像上の全ては成立しません。この純粋意識、、、これを画面上の「私=体」が所有しているという勘違いが生まれます。だから画像が立ち上がった瞬間、「私のストーリー」が成立するのです。ですが画面上の私は、、実はTVではないため、、、全知覚に「気づく」ことはできません。故にここに完全な矛盾が生まれるのです。TVの機能「気づく」を私がやっているという勘違いです。

厄介

厄介なことに「TV=気づく」は永遠に起こります。なぜならばTVが消えることは絶対にないので。ですからこの勘違いは根が深いのです。全部私が経験に気づいているのだ、、という勘違いは、、、TVの存在が永遠ゆえに、、、気づかれにくいのです。私はTVであって、、この体ではないし、この心でもありません。体も心も、、TVの中の画像の中の存在に過ぎません。そして心が画像を生み出すがゆえに、、この体という画像が消え去っても、、心は残ります。ゆえに「夢」という状態も可能なのです。「自我と心」のセットが形を変えて新しい世界を生み出すのです。

とはいえ

とはいえ、、、、マリオとしてガンガン生き抜いて、、、お金も手に入れ、家族も手に入れ、、社会的地位も手に入れ、、、、やってきたが、、、心の平安が全く訪れないことから、、、、これ、、、終わりあんの????という疑問が起こります。なんで何を達成しても満足が起こらないの???という疑問です。何かがおかしい、、と気づきます。そこから外に向かっていた心がうちに向かいます。これが真我探究です。TV探求です。

真我探究という奇跡

それ自体

真我探究、悟り、、それを求めている時点であなたは奇跡です。自我は基本この心が生み出す世界の中で幸福になろうとします。どこに私の幸福、安泰、快楽があるかを探し求め歩くのです。この心的傾向を「ヴァーサナ」と呼びます。真我に関心が向かない動きです。苦しみ続ける動きとも言えます。散々散々、、ヴァーサナの動きをやり尽くし、、燃やし尽くしたことで、、、ようやく、、外には幸福がないことを悟り、、真我探究に向かいます。ですがこれは前世、過去世、、、と準備が終わっている段階にある人にしか起こりはしないでしょう。

自分だけ、、、

世界は混乱に満ち、、経済も全く安定しない、、、、せめて自分だけは何とかして助かりたい、、、これがヴァーサナーの動きです。外に救済を求めるわけです。この動きの中に真我探究が入り込む隙間はありません。ですがこの動きの中に、、救いはないのです。なぜならば心が生み出したこの世界の中でやはり心が生み出した自分という存在が助かろうとしています。全部自分の心が生み出す自作自演です。世界も自分も全部ファンタジー、心の創造物に過ぎないのです。誰がここで救われるのですか???体を「自分」と同一視する動きが心によって生み出され、、自分を守らなくてはならない映画がファンタジーとして生まれているに過ぎません。

非実在

この世界は心が生み出した創造物ならば実際には創造はないことが分かりますか???創造という実在が存在しないことは分かりますか???心が生み出す世界という創造物は、、、まさかの寝た瞬間消えます、、これが実在とは呼べず、、非実在であることに気づけますか???そして世界は一瞬で消え失せるにも関わらず目覚めた瞬間またこの世界が立ち現れている不思議に気づけますか???

つまり

真我から立ち現れた自我は、、、それ存在自体が勘違いにも関わらず、、その勘違いに気づかない限り何度でも現れ、、心が世界を生み出すのです。自我ありきの世界をここに一瞬で作り上げます。そして幸福はどこだ幸福はどこだ、、、と探し彷徨うのです。断言しますが幸福とは自分(真我)のことです。この真我が心が生み出した体と同一視された時、、、苦しみが起こっているに過ぎないのです。真我探求とは既に真我(至福)でしかない自分を探す旅です。自分(至福)という存在の中で、、、自分を探す旅が始まることを真我探究と呼びます。