忘れて、、、
我々はスクリーンです。スクリーンが存在しない映画は存在しません。映画とはスクリーンの中に存在する画像です。スクリーンは実在で、映像は虚像です。ですから映像で爆弾が何千発破裂しようとも、、、スクリーンは無傷です。我々のこの世界も何でも起こります、何もかもが起こりますが、、スクリーンは無傷です。では、、このスクリーンは世界に対して何をやっとんのじゃ???という話ですよね????スクリーンは映像を気づく気づきです。ですから今ここに世界があることに気づけるのは「スクリーン」のお陰です。つまり我々のおかげで今この世界が存在しているのです。
熟睡
熟睡中とはスクリーンのみの状態、何も映像が起こっていない状態です。そこに自我(思考)が現れ、心が現れて、、その心にスクリーンの光が放射されることで世界が現れます。心は反射板のように、、スクリーン上に映像を映し出すのです。映像の中身とは「心」です。故に心にない存在は映像に現れることができません。この体も心の中に存在しているからこそ現れ、、自我がこの体と同一化し、、、自分=体が誕生します。世界(心)と自分(心)の二局構造の誕生です。
何が起こっても、、、、
残念ながら、、、この世界で起こる全ては「心」によって生み出されています。ですから、、、新しい物事、、、というのは誕生不可能なわけです。それで人は退屈を感じます。なんだ、、また、、これ、、、か、、、、、です。ですがそれは当たり前のこと、、、だって心を通じて世界が立ち現れているのですから。じゃあもうこの心が生み出す世界から逃げ出すことは不可能ですよね????だって全部が全部心を経由しているのですから。。。
ところが、、、、
ところがです、、、、この真実に目覚めた時、、、ある存在がピンチになります。それが自我です。自我とは「私」ですよね????その私は全経験の所有者「私」ってことですよね????だけど、、、その全経験はスクリーンである「私」のものです。だからスクリーン上の私は経験を回収することが実はできていないのです。自我とは、、嘘つきです。経験の回収人はスクリーンであって、、映像側には存在できないのです。だから、、、、経験回収人、自我は実は存在不能です。この事実に目覚めた時、「自我=体=心」という定義が存続不能になります。
映像の全て
この体だけが「私」というのは真っ赤な嘘で、、この映像の全てが、、私(スクリーン)の投影です。私(スクリーン)=この体、心、、、、というのはあり得ず、、、スクリーンである私は、、、、どう頑張っても映像の体内には収まりようがないのです。ついにスクリーンである私はスクリーンである私に完全に戻りました。自我がスクリーンに没収されたのです。この瞬間、、、スクリーン(至福)上に、、、、私を守らなくては!!!という危機感が消えます、孤独な私も消えます、、恐れる私も消えます。
至福
スクリーンである私は=至福です。ここが揺らぐことは絶対にありません。ですが映像内では、、、孤独、恐れ、悲しみ、苦しみ、、、何でも何でも起こります。そしてその出現理由は「自我」です。経験回収人「自我」これが喜怒哀楽出現の原因です。ですがもう自我が消えます、、、自我が消えてしまえば、、、、至福(スクリーン)の上にどんな映像が映し出されても苦しくないのです。これが悟りです。ジニャーニです。サマーディです。