お母さん

道でバッタリ

道端でバッタリお母さんに会います。「どこ行くの???」」「スーパーまで」という会話が起こります。もしもあなたが記憶喪失になったならば、、この経験は生まれますか???この会話は生まれたでしょうか???道ゆく人の中から「お母さん」を見つけ出し、この会話は始まったでしょうか???始まりませんね。記憶がない時、、道ゆく人の中に「お母さん」は見つからず当然会話も起こりません。では見つからなかた場合は何が起こったのですか???全く違う経験が起こっていただけです。つまりこの経験、お母さんと道でバッタリ会って会話する、、、というこの経験の主体は「記憶」です。

記憶が経験を生み出しているだけ

今日1日の経験とはあなたの「記憶」が生み出すのです。「記憶」こそがあなたの経験の主体です。「あなた」が経験の主体ではなく、、、、「記憶」こそが経験を生み出す創造主です。「記憶」全く変わってしまったら今日1日の経験も全て変わってしまうのです。つまり経験とは記憶が生み出す妄想です。今日は午前中は友人とランチして、午後はピアノ教室、、夜はマックでバイトでした、、、という経験の全ては「記憶」が創造したのです。記憶が総とっかえされたらその瞬間から全く違う経験が生み出されます。つまり我々は揺るぎない事実を経験しているのではなく「記憶」が生み出す経験を経験しているだけなのです。

だから

だから催眠術をかけられると、、、経験が変わってしまいます。普通のカレーが激辛に変わってしまうのです。経験とはそのようなものです。経験とは「記憶」が創造する幻想です。この事実に目覚めた時、、、、記憶が生み出す幻夢から抜け出れます。今起こっている経験の全ては記憶が生み出しているに過ぎない、、、だから経験には何の意味はない、、となります。この経験をしたということは、、こういう意味だろう、、、違います。経験自体が「記憶」が生み出した創造物に過ぎない、、終わりです。

経験の中で幸福になる????

私は沢山良い経験をして幸福になりたいと思います、、、、、残念、、、あらゆるあらゆる経験を寄せ集めても、、、それは全て記憶が生み出した経験の寄せ集めです。その記憶こそが苦しみを生み出すのですから、、その経験の中には苦しみも含まれています。苦しみが含まれていることが最初から決まっているのです。だから経験の中で幸福になることは構造上不可能なのです。経験自体の中に最初から苦しみが含まれているのです。

苦しみを生み出す記憶を消す

つまり、、、勘違いの記憶が存在する時点で苦しむことが決定されているということです。ですから、、、幸福になりたいのであれば、、、、苦しみを生み出す記憶自体を消してしまう必要があります。その記憶が間違っていることが判明した時点でその記憶は消えるのですから、、、真実に目覚めてしまえばいいのです。真実が勘違いの記憶を消し去り、、、勘違いの記憶が消えた記憶は、、、、苦しみの経験を生み出すことができません。

希望

不安

もしもあなたが今現在平和の中に居るのならば希望を持つでしょうか???持ちませんね。今戦争中で命が危ないからこそ、、終戦という希望を持ちます。今不安定だからこそ希望が必要なのです。成功者は皆口にします。希望を持ちましょう、希望を持って今日を努力するのだ、、と。ですが今不安定だから希望が必要であって、今のこの不安定自体を解消することから逃げて、、、希望にすがっているのです。希望とはまさに現実逃避です。

希望は要らない

もしもこれが全て幻想で何一つ真の自分自身には影響を与えれないことに気付いたならば希望的環境って存在します????存在しません。その希望的環境も、、、真の私には何一つ影響を与えることができません。どんな悲惨な状況も、どんな希望的状況も、、、真の私には影響を与えることができないのです。だから希望を持って今日を過ごすのではなく、、、真実に目覚めるのです。真実は今この瞬間を、、平和と愛に変えてしまうのです。

思考

思考が考える希望的現実は、、、、思考が生み出します。思考がなければその希望的状況は存在しません。その状況をその状況たらしめるのは思考です。そしてそれらは、、、真の私には何一つ影響を与えることができません。なぜならば真の私は実在であって幻想ではないからです。真の私は幻想の生みの親であって、、幻想の生みの親が幻想によって幸福になることは不可能なのです。

どんな理想の状況も、、、真我の影に過ぎず、、、その影を見て、、、騒ぐのもまた影の動きです。影は影ゆえいに必ず消えますから、、、どこかでは常に常に私は不安なのです。最初からそれは消えてしまうことが分かっているのです。影の私は、、この状況が永続するようあの手この手で頑張りますが、、、その努力が無駄に終わることも最初から分かっているのです。影を影と見抜き、、、その影の大元こそが「私」なのだという真の安心に至った時、、平和と愛そのものになるのです。

最終回答

真逆

我々は学校で真実とは真逆の教えを教わってきました。生きるには「正解」があってその正解に沿って生きるとことが「正解」だと。だから知識をしっかりと多く覚えた人間は優秀で覚えれない人間は劣る。そう教わってきたんです。ですが実際には「正解」は一切なく、、、全ては全ては自然現象だったのです。自然現象に「正解」はありますか????????全てが正解です。

学校教育すらも

そういう意味では学校教育も、、、全て自然現象です。ですからそれも何も問題はありません。勿論、、、学校教育に沿って生きている期間は「苦しい」ですがそれも自然現象です。だから何も問題はないのです。ただ苦しい時、、、それを解消したいという自然現象が起こります、、、、そしてその解決方法を知りたいという自然現象が起こります、、その時この「最終回答」に気づくという自然現象が起こるのです。

三人集まれば

でも家族が形成されればルールが必要になり、、、正解不正解はやっぱり出来ますよね????????出来ません、、、家族内のルールという自然現象が起こります。そして見た目上は「これをやるな」という自然現象が起こります。そしてそれを守る、守れないという自然現象が起こります。もしもそれを守れなかったとしてもそれが自然現象です。そのことで悩むということが起こってもそれも自然現象です。だからだから結局は全部「正解」で終わります。

数学

答え

1+1=2が正解、、、3は間違い、、4も間違い、、、5も間違い、、、、、これが学校教育です。この教育を受けることで我々は、、、問いには正解と不正解があると学びます。だから生き方にも正解と不正解があると勘違いするのです。そしてどこかでその正解の生き方を教えてくれるのでは?????とあらゆる門を叩きます。

本当の答え

1+1=2が正解、、、3は間違い、、4も間違い、、、5も間違い、、、ですがですが、、、2という数字も、3も4も5も、、、、、自然現象という意味では全て正解です。どの答えも出た時点で自然現象、、自然現象に誤りはないのです。だから、、、、何を答えても問題ではありません。ただし社会で生きるには社会的「正解」は確実に存在します、、、とはいえそれに合わせれない「答え」が出ても、、それも自然現象ですから、、何も問題はないのです。

社会的正解

社会には社会的正解があってその正解を守れるか守れないかを「判断」の道具にします。ですが、、、社会的正解も社会的不正解も自然現象という意味では、、全部正解なのです。だから何も問題ではないのです。そして社会的正解を出せなくて見つけれなくて守れなくて苦しくてもそれも自然現象という意味では全部大正解なのです。

何かが欲しい

それも幻想

何かが欲しいと思います、その思考は100%幻想です。そしてその思考は「固定観念」が生み出す欲望です。さらに言えば固定観念も完全に幻想です。何かが欲しいという思考幻想が起こったら、、それをただ観察し、、その欲望は何の固定観念が作り出したのだろうか???と観察します。答えが分かっても分からなくてもいいのです。ただそうなっています。そして固定観念も幻想であるのならば、、その幻想はなぜ生まれたのか???と観察します。すると、、その固定観念はただ外からの情報によって構築されたことが分かります。

そして

外からの情報を取捨選択する自由は一切ありません。あなたが街を歩く時、、、入ってくる情報を取捨選択できますか??????できませんね。そうです、つまり外から勝手に入ってくる情報によって勝手に固定観念が構築され、、勝手に欲望が起こり、、、勝手にそれが満たされるのです。つまりあなたの今の欲望は、、自然現象的に発生したに過ぎないのです。

それが分かると、、、

それが分かってきますと、、、欲望が起こった時、、、、それを叶えなくては!!!!という次の欲求が緩くなります。私にこの欲望が起こったのだから成し遂げなくては、、、という第二の矢が起こりません。なぜならばそれを叶えたところでそれも自然現象に過ぎないし、、叶えれなくてもそれも自然現象に過ぎないことが分かるからです。つまり湧き上がる欲望を他人事のように扱えれます。

欲望に重さがない

このことが分かってきますと、、、欲望に重さがないんです。どんな欲望が起こっても全ては自然発生的に起こった固定観念によって生み出されたことが分かっていますから重さがありません。そして固定観念には「私」があってこれが苦しみを生み出すことも分かっています。

真我は体験ではない

体験は消える

真我を体験しました、、、、これは体験です、、、体験とは現れて消える幻想です。現れては消える幻想は、、、真我の影です。真我の影として体験が起こっただけですから、それは消える運命にあります。真我実現は体験ではありません。真我実現は真我として「在る」ことです。体験ではなく状態です。そして我々は最初から真我として「在る」のですが、、そのことを忘れた思考が起こり続け、苦しみ続けてきたのです。

愛と平和

真我実現に伴う「愛と平和」も体験ではありません。それは真我として在る時の状態です。体験としての愛も平和も現れては消えますから、、これは苦しみです。消えてしまう愛と平和は苦しみです。金メダルを取った瞬間に現れる幸福は一年後には消えています。これは経験の方です、幻想の方です。一方真我実現から起こる愛と平和は状態であり、、これは消えるものではないのです。

外に外に

週末はこんなことをして楽しもう、来週はあのレストランに行って楽しもう、再来週は友人を家に呼んで楽しもう、、、これらは幸福を外から外から手に入れようとする体験です。体験で幸福になろうとする動きです。これらの体験は体験ゆえに必ず消えます。体験を積み重ねたのだから今年は何も体験しなくていいよね、、とはならないのです。体験の宿命、、それは現れては消えるのです。これを追い求め続けるから「苦しい」わけです。

体験の卒業

仲間でバーベキュー、、、楽しい時間、、、ですが時間が終われば、、楽しみも消えます。消えることが分かっているイベントは楽しみと同時に苦しみなのです。楽しいと同時に苦しいのです。意味不明ですよね、、、ですがこれが真実です。消えることが分かっている幸福は、、、同時に苦しみなのです。そのことに自覚的になりますと、、もうそれを求める気持ちが無くなっていきます。消える幸福に最初から関心がなくなります。消える幸福ではなく、、消えない幸福に関心が動くようになります。それが真我実現です。

緊張が世界を歪ませる

自由意志

自由意志があると信じます、結果に対して、、、責任が生じます。緊張が起こります。この緊張が世界を歪めます。生きにくい世界がこれによって誕生します。自由意志という言葉は、、、自由という意味であり価値があるように感じますが、、同時にとんでもない責任感を生み出します。世界を見渡してみてください。大人は子供よりも重たいですよね????自由意志の重責で重くなっています。

世界が歪むから

自由意志を信じて重くなり世界が歪みます。世界が歪むから、、この世知辛い世界をなんとか生き延びなくては、、とさらに重くなります。重くなるから世界が歪みます。歪むから、、、、より自由意志を厳しくチェックします。世界が歪みます、、、、、という負のスパイラルに入ります。だからといってこれが悪いわけではありません、、これを重く重くやっていくことでどこかで「どうでもいいや」が起こるのですから。自由意志自己責任ゲームの卒業です。

格好は良いけど

孫正義、、格好は良いのですが「重くなり」ます。「少年よ大志を抱け」は格好は良いのです。ワシがこの世界をなんとかせんとばい、、、は格好は良いのです。ですが同時に重いわけです。その重さが世界を歪ませ、、世界が歪むから「どげんかせんとばい」が起こります。こうして負のスパイラルが止まることはないのです。このスパイラルを一瞬で壊します。「自由意志はない」これで終わりです。全ては完璧、、これで終わりです。森羅万象の動きに自由意志は介入できない、、これで終わりです。全ては幻想ですけど、、、、これで終わりです。

真我は時間の中には存在できない

なぜ?????

真我は時間の中には存在できません。なぜならば、、、時間の中に現れることができる存在は「変化」が絶対条件だからです。変化しないものは時間の中では存在できないのです。真我は変化しません。真我が変化してしまったら「変化」する何かを観察することができません。真我は変化しないからこそ、、その中で変化する何かが気づかれているのです。つまり真我は時間の中に現れることは不可能なのです。時間こそが真我の中に現れる変化です。

自我

一方自我は時間の中に現れる存在です。その証拠に自我は変化します。何かに没頭する時、、自我は存在しなくなります。火事場のくそ力、、、とは自我を完全に忘れた状態です。忘れることができる自我とはその時間存在しなかったということです。つまり自我は変幻自在で変化します。自我は時間の中に現れることができる存在でありゆえに自我は真我によって気づかれる存在でもあるのです。

ところが

ところが自我は、、、全経験、全五感、全思考、全感情に気づく存在ということになっています。それはおかしな話です。自我自体が変化する存在ですからその自我が変化に気づくことは不可能なのです。つまり自我とは存在不可能な存在なのです。自我とは「真我」による気づきを略奪したことになっている幻想物です。妄想によって生み出された錯覚です。そんなものは存在できません。だから自我は嘘です。自我という思考は存在できますが、、実在は不可能です。

実在

自我は実在できません。実在できないにも関わらず実在するのだ、、、と信じる動きが起こった時、、、分離感が生まれます。その分離感が存在の恐怖を生み出し、、恐怖が問題を生み出し続けていきます。だったらいっそ自我なんて存在できようがないと諦めてしまった方が良いのです。ところが自我の実在否定とは自我の死ですからそれを恐れる動きが起こるのです。真我こそが実在であり真我以外は全て幻想なのだ、、という自覚に至った時初めて、、自我の幻想を認めることができます。

真我を非実在とみなす

無知

無知とは何か???無知とは真我に気づいていない状態です。無知とは真我を非実在とみなすことです。無知とは真我が今ありありと存在しているにも関わらずそれに気づかないことです。これが無知です。無知な状態の時、、真我の影を実在とする動きが起こります。影、幻想を実在とする影、幻想の動きが起こるのです。これは一時の勘違いです、、一時ゆえにこれは消えます。覚者とはこの一時の勘違いが消えた状態です。覚者が存在するという事実が、、幻想を実在とする動きもまた幻想である証拠です。

真我=非実在、幻想=実在

これが今ここで行われている動きです。あなたがこれをしたのではありません。あなたも幻想です。ですがこれが森羅万象の動きの中で起こります。唯一の実在、真我が非実在とみなされ、、真我の影が実在とみなす動きが起こった時、、、、分離感というやはり幻想が起こり、、これが苦しみの大元になるのです。この分離感さえなければ真我=愛と平和であり、、、ただそれだけがここに放射されるのです。「愛と平和」と苦しみは次元が違います。意識が、、この体という幻想にフォーカスし、、これを実在とみなす動きが起こった時、分離感という幻想が起こります。愛と平和は幻想の動きに一切関係なくただ「在る」のです。

ただ在るにも関わらず

真我は実在であり、ゆえに愛と平和も実在です。実在ですから消えることはないのです。愛と平和は一切消えることがありません。そしてその大きな土台の上に、、、幻想を実在とする動きが幻想として起こります。これが無知です。苦しみです。ですが苦しみも所詮は幻想ですから実在である「愛と平和」を損なうことなど到底できず、、よってただこの幻想である苦しみが消えるのを待つのです。どんな悲惨な感情が起ころうとも、壮絶な孤独感に苦しんでも、、全ては幻想ですから、、これが消えればそれで終わりです。

消えない「愛と平和」

愛と平和は手に入れるものではありません。勝ち取って得るものではないのです。もしも愛と平和を頑張って手に入れるとしたら、、、それは苦しみ同様に、、、幻想になってしまいます。愛と平和は実在ですから、、、最初からあって永遠です。時間によって制限されるものではありません。それらを超えたものです。幻想の苦しみによって意識がここにフォーカスされた時、、、苦しみが一時的に継続し、、本来の「愛と平和」の上に雲を作ります。

自我の宿命

現れたからには

自我には宿命があります。絶対的宿命が自我には最初から備わっています。それは自我は消え去る、、ということです。自我は絶対に確実に消え去ります。最初からこれは分かっています。なぜか????それは自我が幻想だからです。幻想として現れてしまった自我は幻想ゆえに消え去るのが定めです。つまり、、、自我は消えるために存在しているのです。

放っておいても

あの人の自我は強烈だ、、、そう感じているならばその自我は幻想として確実に確実に存在するわけです。ならば、、、確実にその自我はいつか消え去ります。時間の中でその自我は消え去るのです。そのために自我を手放したくなるような幻想が起こり続け、、最終的にこの根本原因は「自我」だぞ、、、という気づきに至り、、、自我を手放すことになるのです。このブログの読者はまさにその段階の人々です。

つまり

自我を消すための動きとは「苦しみ」であり、、、苦しいがゆえに自我を消したくなります。自我を消すためには自我とは何か???に気づく必要があり、、そのため、、、人は真理の探究に入るのです。真理の探究は自我消滅の自然な姿です。誰しもが最終的には自我消滅のプロセスに入ります。人はどこかでそれを分かっていますから「悟り」という言葉に、、奥深い何かを感じるとともに、、、最終決着どころである覚悟をします。