誰も悪くない

夢の中

この夢の中で大犯罪者が現れたとしましょう。犯罪の全てをやり尽くす人が現れました。ですがこれは神が見る夢です。神の許可なくその犯罪者は登場できません、その犯罪者がこの夢に登場するには神の許可が必要です。つまりその犯罪者は神の絶対的お墨付きで登場したのです。さてその犯罪者は悪者ですか????私にとっては勿論悪者でしょう、間違いなく悪者です。ですが神にとっては悪者ですか???

存在しない

神にとっては善人も悪者も当たり前ですが存在しません。だって自分で許可してそこに現したのですから。神の許可なく誰もどこにも存在できません。この私には善悪人が登場します。悟りとは目覚めることです。これが夢だと気づくことです。つまりこれが夢だと気づきこの夢は神が見ていると気づいたならばその時点で善悪人は消えます。私は残りますがその私はこの体に名付けられた名前に過ぎません。

善悪人

そうは言ってもその悪人は私の家に強盗に入るかもしれません。その時間違いなくその悪人は悪人です。ですがそれも神が見る夢の登場人物です。神にとっては残念ながら「私にとっての悪人」に過ぎないのです。そしてその悪人が全金銭を私から奪おうとも神にとってはやはり夢の登場人物です。神自身を一切傷つけることはできません。これが真実です。真実は深刻さを一掃します。

でもこの私は一文無しです

神の夢かもしれませんがこの私は一文無しです。どうすりゃいいんですか??私は大変な目にあっていますよ。そうですね。ですがこれが夢だということが暴かれています。夢でこの私がどんな目にあっても夢です。夢だと分かって深刻になれますか???もしもなれるならばこれが夢だという自覚がまだないのです。昨夜見た夢の中で親が末期癌になりました。朝目覚めてそれが夢だと分かった時に末期癌を悩めますか???不可能です。絶対的に不可能です。夢と分かるということはそういうことです。この夢に深刻な何かは絶対的にないのです、夢だから。

絶対的自信

この私は見た目は中肉中背、顔も平均、学力も体力も平均以下かもしれません。ですがこの夢が存在できるのは私という神が存在するからです。この夢に登場できる全キャラは私が許可なくここに登場できません。そういう意味ではこの私、あなた、彼、彼女がどんな偉そうにしていても無力です。神にとっては全員が無力です。その能力の全ては神の許可なくここでは一切披露できないのですから。

本当の自信

本当の自信とはこの体の所有者私の能力の高低ではなく名声の高低でもなく、、神が神の夢を見ているという事実から生まれます。この夢の創造主であるという自覚こそが本当の自信です。この体である私の行動に対する自信はフェイクです。完全にフェイクです。なぜならば自由意志が実はないのですから誰一人実は自信などないのです。自分の行動をコントロールできないことなど全員が実は分かっています。全てはタマタマであることは実はバレています。

絶対に変わらないこと

絶対的に揺るがない真実は何か??それはこれが夢だということです。そしてこの夢が神によって今も見られているということです。この事実は一切変わりません。この夢が自分から現れることに能力は必要ありません。必要なことは事実に気づくことそれだけです。この事実が腑に落ちますと絶対的な自信が中から現れてきます。プレイの調子のような上下する自信では断じてありません。神が神であることを自覚する自信です。

夢の存在理由

なぜ???

これが神が作った夢だというのは分かりました。これは完全に神が作った夢です。それはそれでいいのですがなぜこの夢は存在するのですか???なぜですか???「夢」という表現は言葉が生み出したものです。実際にはこの「夢」は神の投影です。神が鏡に映った「姿」です。神の生写しです。この生写しは神の生き写しです。この生き写しでは「全て」が現れます。

一枚じゃダメ?????

だったら無限がそのまま一枚にガツっと投影されればいいですよね???ガツンと無限が一枚の絵に投影されてしまえばそれで終わりでは???それじゃあダメです、それではダメなんです。それでは時間が現れる隙間がありません。一枚の絵に時間はどうやって表現されますか??不可能です。一枚の絵に空間の狭い広いをどうやって表現するのですか??不可能です。一枚の絵に孤独と非孤独をどうやって表現するのでしょうか????

つまり

つまりこの瞬間が移り変わるのはそのためですね????そうです。この瞬間がこうして移り変わる事実こそが時間の表現であり空間の表現であり高低の表現であり、、なのです。一枚岩では絶対に表現できないことが移り変わることで表現されているのです。そいう意味でこの現実という神の生き写しは完璧なのです。神の生き写しが完璧ではなかったら他に何が完璧なのでしょうか??

苦しみはストーリーからしか生まれない

悟りはストーリーからしか起こり得ない

悟りという言葉をもしも動物が理解できたとしても意味が全く分からないでしょう。動物は「悟り」という言葉の意味は分かった、、だが悟りを必要とする意味が分からないのです。なぜか??????彼らには悟りを必要とするストーリーがないからです。「私の人生」という概念がない彼らには「苦しみ」がありません、よって悟りを必要とする意味が分からないのです。

つまり

悟りとは「人間業界」でしか必要とされない単語なんです。人間業界=私物語であり、、悟りは私物語の中でしか必要とされないのです。なぜならば悟り=苦しみからの解放だからです。苦しみとは、、まだ私物語の中に居る証拠であり、、、だからそこから悟りに入れるのです。苦しみは悟りを促す自然現象なのです。

大人

大人が若者よりも落ち着いているのは「苦しみ」が指し示す先に慣れているのです。苦しみは全員に完全完璧に訪れます、、、ですから苦しみは「向き合う」以外には解消しません、、大人とはこの「苦しみ」と付き合ってきた年月が長いがゆえに、、苦しみが指し示す先への気づきがあるのです。若者は「苦しみ」を代替品で隠すという術をまだ保持していますから、、、「苦しみ」がそこにあることすらも、、気づかないフリをしています。大人は「苦しみ」に蓋をするという手段を諦め、、そこといかに付き合うかという段階に居るのです。釈迦は「苦しみ」を直視し「苦しみ」の奥にある、、、何かに気づきました。

生存戦略

自然現象

人間の生存戦略は自然現象です。どのような生存戦略であっても個々の置かれた環境によって自然現象的に最適な戦略が構築されます。そこには一切の自由意志は働きません。その生存戦略は個々によって全く異なるがために人間関係は常に波乱に満ちるのです。社会に出ると生まれた年代によって生存戦略が異なりますから益々混乱さを深めていくのです。ここで最重要なこと、どの生存戦略も自然現象に過ぎないということです。

優劣は一切ない

大人は若者の生存戦略を嘲笑い、馬鹿にして、、優位に立ったような気持ちになりますが、、、、時代が異なればそこから生まれる生存戦略は変わるのは当然であり、、優劣がないのは自明です。かといって若者よりも大人の生存戦略が勝ることもなく、、、優劣が発生しないのです。

批判も自然現象

生存戦略Aと生存戦略Bが合わされば、、あらゆる感情、思考が現れでますが、、、それも自然現象です。放っておけばいいのです。お互いからあらゆる感情、判断が起こるでしょうが、、、それこそが自然現象です。何も問題はありません。ですがその判断は苦しみという自然現象を含みますから、、、そこに自覚的になればいいいのです。そこに自覚という自然現象が起こった時、、、判断という自然現象がやがて起こりにくくなります。

私は悟ったというイメージ

次から次へ

一瞥体験とは「私は悟ったというイメージ」を起こすような体験が起こることです。その体験があまりに強烈だから、、、「私は悟った」という思考が湧き続け、、、それが忘れられない、、、という思考が起こります。ですが、、、、その思考と、、、悟りとは全く関係がないがゆえに、、、「またあの体験がしたい」という思考が新たに起こるのです。その思考は不快であり、分離感であり、孤独感であり無力感を伴うがゆえに、、苦しみが起こります。

なぜ????????

なぜ??????なぜあんな素晴らしい体験をした私が今なぜ苦しいのか????????と迷いの中に入っていきますが、、、真実を言ってしまえば、、、、その気づきは、、悟りではないからです。悟りとは、、まさにその思考、、その思考がなぜ苦しみを作りかに気づくことだからです。つまり悟りとは「迷いがゼロ」のことであり、、、どうやったらあの体験をまたできるか??????と悩んでいる時点でその気づきには至っていないのです。

思考

悟りの鍵は「体験」ではないんです。。。。。。思考が起こす「苦しみ」に気づくことです。思考がどのように苦しみを作り出すかに気づくことであり「至高体験」でその気づきに至らないならば、、、当たり前ですがまた思考が作り出す孤独感、分離感、無力感、非力感、悲壮感に苦しむのです。金メダルを獲得したから一生悩まない、、、と言っているのと何も変わらないのです、一瞥体験とは。

ただし

その一瞥体験も当たり前ですが自然現象ですから、、それが良いとか悪いとかは一切ありません。誰かがこれを起こしたということも全くなく、、、ただ自然と自然現象が起こったのです。そういう意味では宝くじに当たって一瞬至高を味わった、、、と全く全く同じことです。これが、これこそが「無」だ!!!!という体験がただ起こったのです。

依存症

当たり前

依存というのが人間業界では当たり前に起こるのは当然です。なぜならば人間とは「牢獄」でありよって一瞬でもその牢獄から出してくれる「アイテム」に齧り付きたいというのは自然現象としては当然なのです。そしてなぜそのような依存アイテムが登場するかと言えば、、、それが自然現象として起こったからです。「牢獄に住む人間」が居て「一瞬そこから出してくれるアイテム」があれば自然現象として依存が起こるのです。

気づいてくると

依存アイテムとは一瞬牢獄から出してくれるに過ぎず、、、使えば使うほどに、、「欲しくなる」というこの事実に気づくと「逆に苦しくなる」という気づきの思考が起こります。その時、、、、それを辞めよう、、、という思考が現れ、、、そして止める、、、が起こる可能性があります。依存症とはそのメカニズムに気づくことで、、「逆に苦しくなるよね」と気づくツールでもあるのです。

似非の幸福

だったら壊す

ミュージシャン成功のまさにその瞬間、脱退、解散って本当に本当に多いと思いませんか??????ようやく成し遂げた武道館ライブ、、そのまさに瞬間、解散、脱退、、、、多くないですか???????何が起こっているのか???????これ似非の幸福からの逃避です。似非の幸福が完成することで、、、、これで幸福じゃないのだから、、、逃げんべ!!!!です。

何もない

解散ライブ、、、、、、大物ミュージシャンの解散ライブ、、、、解散して、、、逆にホッとしている。似非の幸福に浸っているほど苦しいものはない。。。。。。。だったらぶっ壊して世間的にはゼロになり、、、、そのゼロの苦しみの方が真実に近い感じがする。。。。。本当の幸福がその奥にある気がするのです。本当の幸福を探す時似非の幸福が邪魔になるのです。

誰も間違っていない

ファンの気持ちを考えないで、、なんで解散??????ふざけんな!!!!!!あるでしょう、、そういう気持ちは。。。。。ですが誰もその決断には関わっていません。。。。誰も彼も関わっていないのです。ただただ自然現象としてそれが起こりました。だから本当に勉強になるのです、、、、武道館ライブ解散コンサートは。

似非幸福からの逃避

人間業界

似非幸福に浸りながら悟りを開くってかなり難しい話です。全体の代替品にどっぷり浸かりながら、、悟るって無理があります。代替品は代替品です、その代替品を楽しみながら、、本品を発見するって無理があるんです。だから禁欲とかの話になるんですが、、、本品を求める衝動が大きい時、、代替品を避けるという動きが起こります。

頭で考えて

頭で考えて、、全欲望を禁じて悟ろう!!!!これは恐らく不可能です。これはただの禁欲であり、、本品を求める衝動が代替品を求める衝動を上回るのとはわけが違います。東大に合格したくて、、完全にTVゲームに関心が無くなるのと、、、頭で考えてTVゲームを止めるのとでは意味が違うのです。

砂遊びからの卒業

全体への欲求が高まる時、、自然とそれ以外の欲求が消えていきます。中途半端に目の前にお菓子を置くよりもその欲求が無いのならば置かないという動きが起こります。このマリオゲームでは周囲は基本一切成長しませんから、、、、気づきに応じて似非幸福を避ける動きが起こります。

寂しくないんですか????

その時点で

え?????一人旅??????寂しくないですか???????一人よりも二人で居たい、、、、これって実は「私は個人である」という思考が起こっている時に起こる感情です。違うんです、、基本、、、ここは「これ」であって、、「これ」である時孤独感はありません。。。なぜならば孤独がありえないからです、分離がありえないからです。だから孤独感、分離感は基本現れ出ないのです。

いつも誰かと一緒

いつもいつも誰かと一緒でいたい時、、、それをその人を求めているのではなく「孤独感」を感じたく無いだけ。。。だからそれは友情でも慈しみでもなんでもありません。ただ孤独感を感じたくないから一緒に居たいのです。相手に対する愛ではなく、、それは渇望に近いものです。孤独が嫌だから人を求める、、その人が好きだからではなく、、孤独が嫌なのです。

トラブル

ただ一人で居たくないから、、、という理由から人を求める関係は、、トラブルが多くなります。なぜならば、、、、孤独を避けたいだけであってその人への慈しみはないからです。結果好きでもないのに一緒にいることになり違うストレスが多くなるのです。その時、、、このストレスはなんだ??????そうか俺はただ一人が嫌だから人と一緒にいるんだな、、、という気づきが起こるのです。

根本解決

誰かと一緒に居ないとストレス、、これは「私は孤独である」という概念が支えたストレスです。ここを断ちます。私は一人では絶対にありません、なぜならば孤独、分離はありえないからです。根本がありえないのであり、、そこに「私は個人である」という概念が浮かび上がった時、、孤独感が起こるのです。