周囲はなぜ分かってくれない??

これは夢です。周囲が自分のことを分かってくれないのならば奥底でそれを望んでいるのです。奥底ではそのようになることを願っています。周囲は馬鹿だけど俺だけが天才であることを。だからそれがしっかりとここに反映されます。これが夢だと本当の意味で気づいたら周囲の反応を気にするのはおかしいのです。なぜならば夢だからです。現実だと思ってきたから理想とは違うこの現実に嘆いてきたのです。違います。これは夢です。

異次元の刷り込み

生まれた時から我々は両親、学校、友人からあらゆる刷り込みを受け続けてきました。世界はこうなっているという刷り込みを延々と受けてきたのです。それが確信に至ったとき「世界はそうなる」のです。これは夢ですからそれが確信された時夢はそうなります。それが分かった時、、、世界はこうだからこう動かなくては!!!という行動習慣にヒビが入ります。

自分が作った世界

自分が世界を作り上げておいて、、世界がこういう状況だから、、という理由で行動習慣を作るのは滑稽なことです。このことが分かると世界がこうであっても「私は関係ない」という世界と距離を置いた行動を取れるようになります。夜の夢で「ブラック企業」に勤めなくてはならなくなっても「働かない」と決めることはできます。だって夢ですから。夢として作り出した世界に従順する意味なんてないのです。

夢だと分かったんで辞めます

会社

今の会社がどうしても好きに好きになれない、、そんな時、、、これって夢かも!!!という突然の気づきが起こります。すると。だったら辞めてもいいべ、、が起こるかもしれません。それが本当の本当の気づきならばそれうなります。ですが多くの場合は「夢かもしれない」レベルです。この場合は恐怖心で大胆な行動にはならないでしょう。

どっかでは辞めれれる

でも安心してください。どこかでは辞めれます。だって本当に夢ですから。真実はそうですからそこに最終的には確実に至るのです。確実に。ただそこまでには右往左往が続くだけです。ただそこまでには葛藤が続くだけです。その葛藤も勝手に起こるのです。放っておいて大丈夫です。勝手に道に迷いながらも気づきに至るのですから。

夢だと分かったんで別れます

夢だから

これが夢だと気づいて無理して付き合わなくてはならない「相手」って必要でしょうか???必要ありません。ですがこの夢をあなたが現実と捉え、この現実ではこの人と付き合っていくしかないと確信すればそのような現実が現れます。購入マンションのローン、生活費、学費、、あらゆる重い重い現実が周囲を囲います。

どうなるか???

ですがこれが夢だと気づき始めると徐々に徐々にこの現実が緩んできます。確実に緩んできます。あれ、、老後ってそんなに心配する必要ある???あれ子供の将来って本当にここまで親が考える必要ある???あれ、、生命保険てここまでかけておく必要ある????となります。徐々に徐々に溶けていくのです。固い固い現実が解けていくのです。

そうです。多くの方はこれを現実だと「思って」いるからあらゆる準備をし努力をして頑張ってきたのです。でもこれが夢だと分かったら辞めていいことだらけです。なんなら全部やめちゃっていいぐらいです。するとその時に本当にやりたい何かが見つかります。そうだ、俺これやりたかったんだ!!!です。

大人

幻を実体と信じる

大人になるとは???大人になるとは幻を実体と捉えることです。この体、あの体、この世界、この会社を実体と信じることです。それが大人になるということです。世間体とは実体ある世界の声です。ですが真実では全てが幻です。知覚できる認識でる全ては幻です。大人は言います、先生の言うこと先輩の言うことは絶対だと。そん発言者は幻でありその発言も幻です。

では何を信じればいい???

では我々は何を信じればいいのですか???何を信じればいい????全て幻です。そしてこの全ての幻を生み出す存在こそが我々です。目に見える全て聞こえる全ては幻でそれに気づく存在、それを生み出す存在だけが真実、実体です。それ以外は信じなくていいのです。

世間で話される内容

世間で話される内容は全て勘違いです。目に見える幻を実体と捉えた会話が起こり続けます。子供は徐々に全ての幻を実体と捉える動きに同調していきます。世界に霧がかかり重くなっていきます。大人は重いのが当たり前です。大人になっても重さを持たない行動は無責任と責め立てられ生きづらくなるのです。

とはいえ生活が、、

そう信じたから

大好きなことで生きていきたいんです。とはいえ生活が、とはいえ先立つものが、、とはいえ、、、この会話何億回聞いたでしょうか。。。理想はそうだけど現実は、、、、、何億回この会話を聞いたでしょうか。この会話、、「好きなことはあっても食べるのは別」という大大大確信が思考としてあるから起こるのですがこの確信がその現実を生み出します。その幻想、幻影、3Dゲームを生み出すのです。

初期設定

どのような固定観念を埋め込まれるか???この環境を選ぶのは「魂」です。過去世から「存在すると確信が生み出す魂」が環境を選び固定観念が埋め込まれていきます。この固定観念を信じると居心地が悪いからそこでもがくゲームが始まるのです。その一つが「とはいえ生活が、、、」という固定観念です。

もがく中で

もがく中で世界を歩き、、そうかこんな考えもあったか、、違うぞ全然、、と考え方の多様性に触れていきます。ですがそこに関心がなければそのことに気づかないのですから他の考え方に関心があるというのが大前提です。その結果世界には人数うの分だけ思考、観念があることに気づいていきます。こうして自身を牛耳ってきた固定観念が崩れていくのです。

考えそのものが世界だった

こいつの考え方は流石におかしい、これに関してはこの人間の考え方は間違っている、、と思う機会が増えていきます。それもそのはずです。その人の世界はその人の考え方だからです。その人の世界においてはそれで全く矛盾がないのですから。なぜこの人はこんな考えなのか???なぜならばその人はその世界に生きているのです。

世界はこうなっている!!!

ニュース番組を見れば「世界は今こうなっている!!!」という連呼の大合唱です。違います、その人が信じる世界が今目の前に広がるのです。だから360度検証して「こうだ!!!」と大発信しても意味がないのです。意味があることはこの真実に気づくことです。すると他人の「世界とはこうだ!!!!」に関心が向かなくなるのです。そして自分の「世界とはこうだ!!!!!」にも関心がなくなります。「世界とはその人の心だ!!!!」これが真実です。

大切なこと

この話をすると見た目の上の多くの人から「だったら私の好きな世界に住めるんですね????」という問いが起こります。そっちに関心が向かうのです。残念、、残念、、違うんです。世界は心の投影なのが分かったら世界に関心が向かなくなるのが正解です。世界に関心が向く時点でまだ世界とは何かが分かっていないのです。池に映った景色は光の反映です、、と伝えたら「どんな世界にも変えれる可能性があるのですね????」とはならないんです。なんだじゃあ池の上の映像には関心がない、、これが正解です。池の上の映像を現実と信じていた人が夢から覚めたら池の上の映像に関心が向かなくなります。これが正解です。

世界

なかったら

世界が存在しなかったら「私」も存在できません。私が存在しなかったら世界も存在できません。世界はあるけど私は存在しない、、、という漫画を見たことがありますか??ないですよね。不可能なんです。世界には必ず主人公が必要なんです。これって何かに似ていますよね???「夢」です。毎日見る夢にも必ず主人公が現れませんか????そうなんです。全く同じです。主人公はいるけどそれ以外は何もない????不可能です。そうです。この世界は「私」と同時に現れてもらわないと困るのです。

現れてもらわないと困るから

現れてもらわないと困るからこの世界は私と一緒に現れています。夢と同じです。今日も世界は現れていますか???それでないと困るんです。そして現れた世界もこの主人公も現れたからには気づかれます。これも夢と同じです。現れたにも関わらず気づかれていないということが起こりません。このことを「当たり前」と多くの方は思うからこのカラクリに乗り込まれています。違います。この当たり前を当たり前として片付けるから「嘘」に騙されるのです。

全ての夢に気づくのはあなたが気づきだから

あなたが全ての夢に、現実に気づく気づきだからこの夢は成り立っているのです。そのことを完全に忘れたからこの大偉業を成し遂げている存在を完全に忘れて主人公の「私」に没頭できます。完全に忘れてもしっかり「気づき」が全てに「気づき」ますから忘れても大丈夫だからこの人生ストーリーに埋没できるのです。そして私が気づきであることをすっかりと忘れてこの偽りの私を私と信じて生きていくことができます。本当の私が偉大すぎるから忘れてしまっても成立するのです。

スクリーン

あなたは映画のスクリーンなのです。スクリーンという自覚が完全に無かろうともその事実は変わりません。だから映画に没頭できるのです。映画の主人公を私と大勘違いしても映画が成立するのです。そのぐらいに私は偉大なのです。存在を忘れ去っても何一つ機能を落とさずに機能を果たすのです。スクリーン自体はスクリーンであることを忘れ去っても何も損なわず何も加わらずそのままです。だからこの映画に没頭しこの主人公に成り切り右往左往できます。

私という概念

判断

私という存在が存在するという概念が確立しますと、そこからはこの私をどう生き伸ばすかという判断が起こり続けます。それが自動で起こるのです。このことに気づきます。私という概念を確信するから私が幽霊のように霊魂のように現れそしてそれが気づかれます。するとこの私と世界の戦いが始まります。そこから現れる思考は判断、駆け引き、取引となります。ですがそれでいいのです。そのことに気づけばいいのです。気づいているのは誰か???です。

自我の消滅

自我は存在に関心を持たれているから存続できます。幽霊に全く関心が持てないとき幽霊は消えます。自我も同じです。自我に全く関心が持てない時自我が消えます。自我とは存在の確信が継続させるのです。存在を確信できない時、自我は消えるのです。では存在とは何か???存在とはこの自我を生み出す仕組みのことです。気づきとその現れのことです。これだけが存在です。

そうか!!!

そうか、、仕組みがあるから自我が誕生したんだ!!!という気づきが起こった時、自我の存在が露になります。仕組みが自我を生み出したのです。自我は存在していいのです。存在はしていいがそれは本当の存在ではなく真我という唯一無二の存在が生み出す幻影です。幻影ではありますが現れれば気づかれます。なぜならば真我は現れの全てに気づくからです。ということで自我は現れても幻影です。幻影に気づくののが唯一無二の存在、真我であり我々はその真我なのです。

関心が真我に移る

自我は真我によって生み出された幻影であることに気づくともう自我には関心がなくなります。自我は真我のアート作品です。アート作品ゆえにそれは存在しないのです。なぜならば存在するのは真我一択だからです。結果自我への関心が薄まっていき自我は力を失うのです。自我が力を維持できる方法は自我が存在するという確信です。本当は真我が生み出したアートであることが自覚されたとき、自我ではなく真我への関心にシフトします。

関心を失われた自我

関心を持たれない自我は力を失い形骸化していきます。私とは呼ばれますがそれは真我が生み出したアートであって実在はしません。実在は真我のみです。真我が気づくことができるのは幻影だけなのです。どうですか???自我の正体が暴かれてきましたよね???自我は正体を暴かれると消滅してしまいます。なぜならば存在を確信してもらったから幻影として現れていたのですから。

問題

自我

問題とは何でしょうか??問題とは自我が生み出します。自我が存在しなくて問題は存在できません。つまり自我が消えると問題も消えます。だから熟睡中は問題が存在できません。自我が存在できないからです。問題の本質が見抜かれた時、問題とは思考が作り出した幻想であることが見抜かれます。自我、私も幻想で問題も幻想なんですから我々は一体何に悩んでいるのでしょうか???つまりこういうことです。自分という存在を確信し問題が生み出され問題の中で自分が生きるというドラマを見ています。

では

問題は全て自我が生み出した幻影であり自我も真我から現れた幻影です。問題は存在できません、幻影として以外に。では存在とはなんですか??存在とは真我だけです。この仕組みです。真我だけが存在し発見されるのは全て幻想です。真我は真我には絶対に気づけないのですから。幻想だけが発見されます。我々はその幻想こそを現実と勘違いして苦しみを生み出します。その苦しみに気づくのも真我です。真我が苦しみに気づくのですから苦しみも100%幻想です。

苦しい???

苦しいですか???だとしたらその苦しみは100%幻想ですから放っておいて大丈夫です。その苦しい感覚は真我ではないから気づかれたのです。そして真我は何一つ失っていません。真我は損なわれません。真我は絶対です。その絶対の存在真我が苦しみという感覚に気づいただけです。そしてなぜその苦しみが起こったかといえば幻想を実在と勘違いした、、ただそれだけです。

記憶からの自由

真我

私たちの記憶とは自我の記憶です。自我とは記憶が支えます。ところが真我だという記憶がありません。私は真我だという記憶ではなく自我としての記憶しかありません。その時記憶が行動を決めます。自我という存在を継続させる行動が起こるのです。ですが真実に基づき自分が真我だと分かればもう記憶をベースにした思考、行動が起こらなくなります。なぜならばこの仕組みが破綻するからです。

自分

自分とは記憶のことであり「自分は会社員だ」「自分は山田太郎だ」「自分は男だ」は全て記憶が生み出します。この記憶が変わります。自分とは真我なのですから。自分とは真我であることが気づかれた時、自分が支えてきた思考行動が変わるのは当然です。あれ???何者かになってやろうという衝動がない、、あれ???自分が真我だとしたらこの私は何???となります。

真我だとしたら

真我が私だとしたらこの時間も空間も私から生まれたのです。この自分もあなたも彼も彼女も全て真我という自分から生まれたのです。この事実に向き合った時何かが変わります。真我でありこの体である私が生まれます。私の過去は変わってしまうのです。私とはこれまでの私ではありません。私とは真我でありこの体でありそれを私と思い込む私のことです。この革命的な変化は次の思考、行動を確実に変えます。

口の味

それだけはない

あなたが40年間生きてきたならば40年間何かを味わってきたはずです。その数、数千種類、、間違いなく天文学的な数字でしょう。あらゆる味を味わってきました。ですがたった一つ味わったことがない味があります。それが口の味です。口は口の味だけは味わったことがないのです。この世界は真我でできています。真我は唯一真我を発見することだけはできません。真我を味わうことだけはないのです。

だから

だから今我々が気づいてるこの感覚は真我ではありません。真我は真我には気づけないのですから。では何???真我しかないならば何も気づけないのでは???真我が唯一気づけるのは真我の影です。真我の投影です。これだけです。なぜ真我の中に真我の影が存在するのか?それは真我とは無限だからです。無限だから無限の中にはその投影も含まれるのです。

何それ??

つまり我々は影だけに気づき続けて生まれて死ぬのですね???本体には気づかずに影だけに気づいて生まれて死ぬのですか???その通りです。それ以外不可能です。それ以外が起こってはいけないのです。真我が真我に気づいたらおかしいじゃないですか??ですが真我の影は無限の影、投影ですから、、それは無限の現れです。無限の思考、無限の感情、無限の活動、無限の知覚が起こらなくてはならないのです。ですがそれは全て真我の影です。