成りたい自分

何それ??

誰しもが成りたい自分って存在します。あんな女優さんみたいに、あんな大人に、あの映画の主人公みたいに、、、憧れるのです。今の私は将来が怖いからそれになった暁にはこの恐怖心は無くなるだろう、という算段がそこにはあります。ですが今ここで起こるこの不安が「自分」こそが発していると分かればその成りたい自分も間違いなく不安を発信します。

成功した自分

多くの方は成功ではなく成功した自分になりたいのです。成功した自分には今ここで起こる不快感はないはずだ!!!という算段です。成功していない自分から発せられる不快感は成功した自分からも間違いなく発せられます。なぜならば自分とは世界と分離した存在という意味が込められているからです。

イメージ

なりたい自分がイメージ化されしっかりとそれが気づかれた時、、そこには不安感がセットで起こります。真我から直接起こるこのイメージは自我であり自我とは恐れとセットです。ですからどこまで行ってもこの不安感は消えません。そしてこの不安感の原因が分からないことから常にパニック状態にあります。真我しか存在しないにも関わらず自分という存在が存在すると確信し恐れを生み出していることが分かった今このパニックが終わります。

働かないといけない??

人間だけ

働かないと生きていけないという思考は全生物の中で人間だけが起こす発想です。他の生物にはそのような発想はありません。つまり地球は働かないといけない場所だ、、というのは嘘です。それは人間だけが起こす思考に過ぎないのです。ではその思考はなぜ起こらないといけないのか???なぜ????簡単です。人間からその思考が起こらなかったら他に起こらないからです。この思考が起こるために人間は存在するのです。

金持ちになりたい

この発想も人間にだけ現れる思考です。だから現れたのです。人間からこの思考が現れてくれなかったら他には現れようがないのです。全思考が現れなくてはならないのはここでしか現れるチャンスがないからです。日本語が現れなくてならないのはここでしか現れるチャンスがないからです。どんな醜い思考も現れてもらわないと困ります。ここでそれが現れなかったら他で現れるチャンスがないのですから。

神が生み出すチャットGTP

ここで現れる思考感情は真我、神が生み出したチャットGTPです。ですからそこにはない発想があってはダメです。全てそこには含まれています。「怒り」という感情は無限の様を見せます。「悲しみ」という感情も無限の様です。「嬉しい」という感情も無限の様です。全て無限の多様性を見せます。なんとなく見えてきましたね??ここで現れる様が。

衝動

結果に対して

目覚めると結果に対する飢えが消えます。おそらく結果を残すことでその先の何かを狙っていたその何かを狙わなくなるからでしょう。なぜ男が女優と付き合う夢を抱くかといえばその先に「至福」があると信じているからです。なぜ女性が年収1億円男との結婚に憧れるかと言えばその先に「至福」があると信じているからです。ですがないのです、そこには。ないことがはっきりと分かります。その時先を見越した行動が消えます。算段の行動が消えます。

なぜ????

なぜないことが分かるのですか????だって我々はその男でもその女でもないからです。私は山田太郎という男ではないんです。私は山田花子という女でもないのです。ですからその男、女としての幸福はあり得ないのです。違うのですから。では何ですか???では本性は何ですか???それは真我一択です。神一択です。

至福

至福(真我)がこの体を自分だという勘違いを起こし、恐れを生み出し、その恐れを解消しようと「条件が作り出す幸福」を追い求めていたのです。その条件とは恐れを解消してくれるだろう条件です。ですがその恐れを解消してくれるだろう条件は思考が生み出す「イメージ」です。実際にはこの体を自分とする思考こそが恐れの犯人です。犯人を逮捕しないで問題を解消しようとする試み自体が的を外していますからこの取り組みは失敗に終わります。

多くの人が目覚めたら、、、

違う

このようなメッセージに触れていきますと、、このメッセージを多くの人に伝えて、、救ってあげたい、、、という大上段からの感情が生まれたります。これやばいパターンです。これ自我の策略です。新しい時代に向けて、、、これアウトです。救ってあげないといけない90億人の人々は夢の登場人物です。夢の登場人物全員に往復ピンタをして目覚ませないと!!!というのはこれが夢だと気づいていないケースの行動です。

しまった

一週間前に見た夢の中で「旧友を怒らせてしまった」と悩む人に会ったことがありますか????昨晩の夢で前の彼女を思いっきり怒らせちゃって、、、、今日は仕事を休みます。。。アウトです。不可能です。夢と気づいた時点で夢の中でのコミュニケーションは悩みではなくなります。この現実と呼ばれる夢が夢と暴かれた時「この世界の住人」をなんとかしなくては!!!!は起こりません。

釈迦と道で出会ったら、、

禅の言葉で、、釈迦と道で出会ったら釈迦を殺せ!!という言葉があるのはこのためです。真実では出会った釈迦も夢の登場人物です。夢の中でこの私が釈迦に出会ったのです。そしてそれが夢だと暴かれています。興奮してサイン貰っちゃって、、はないのです。夢ですから。夢だから何でも起こっていいのです、夢だから。

生き急ぐ

なぜ????

生き急いでいるように見える人が居ます。なぜそこまで多くのことをやろうとするのか???それは怖いからです。一回の人生でどこまで幸福になれるか????全てやっておかないと取り返しがつかない感覚があるのです。一回の人生ですから。あそこで絶対に後悔したくない、、この感覚が抜けません。後悔だけはしたくないから、、が動機になって生き急ぐのです。

これあなたの等身大です

ところが分かってしまうとズッコケます。この世界こそがあなたの等身大です。世界という知覚もあなたの等身大です。これが私という感覚もあなたの等身大です。全てがあなたの等身大だったのです。この夢のこの現れこそが神というあなたの等身大なのです。だから生き急ごうともその動きもあなたの等身大です。あなたはどこにも行けません。なぜならばここにはあなたの等身大の姿以外が現れようがないからです。

だとしたら

だとしたらこれから私はどうやって生きるのですか????今その思考が等身大の姿として現れたのです。何が起こってもそれは夢の動きです。どんな思考が現れてもそれは夢の動き、等身大の動きです。そのことが分かったときこの動きすらも愛せるようになります。どんな辛い思考も愛せます。だって等身大に映った姿に私じゃないエネルギーは存在しないからです。それがただ起こったのですから。

明晰な存在

背景

今目の前に景色が広がっています、、では広がっている景色を見ている存在は誰でしょうか?????この私でしょうか????この世界ではこの私の目がこの世界を認識しているとされています。正解を言いましょう、、私ではなく、、純粋な存在、明晰な存在が、、、ここから、、この世界を眺めています。この体ではなくこの目でもなく、、、純粋な存在が今ここから、、この景色を認識しているのです。

この目が認識しているという嘘

この私の目がこの視界を認識しているとしたらそれは大嘘です、フェイクです、大誤解です。実は実はそのような事実は全くなく、、、、純粋な存在、空、不変の存在が、、ここからその視界に気づいているのです。そうです、、我々の本質からこの景色は現れ、、我々の本質がそれに気づいているのです。その中にこの体も現れはしますが、、その体ですらも、、、、本質から認識されるに過ぎません。この景色は本質が眺めているのです。

だとしたら

だとすれば、、、、この目は一体何を見ているのでしょうか????何も見ていません、、、そう感じるようになっているだけです。実際には全部我々の本質から現象がただ現れ、、気づかれます。ですから今「私」は本当の私、本質の私に帰れるのです。これまで築いてきた「私」は嘘の私で、、本当の私は、、、この景色を作り出しかつ眺める存在です。その中でこの体も現れは消えていく、人も現れは消えていく、、ということです。

トレーニング

悟りはスパルタ

今から悟りスパルタトレーニングを教えましょう。我々の視界、、この景色、、、この景色をこちらから眺める存在、、、この体ではなく目でもない、、背景が、、、我々の本質です。。。。この体の裏から、、、この景色を眺める存在こそが我々の本質です。。この体はその景色に過ぎず、この目も景色です。。今日からそれを理解して生きるのです。この体は視界の一部として扱うのです。もう目では見ていないことを悟ってください。

友人が話しかけてきても

友人がこの体に話しかけてきても、、、スクリーン、背景こそが本当の私であって、、、この体は便宜上の「私」です。勝手につけた名前です、、これは我々の本質では全くありません。我々の本質はこの景色を見ている存在そのものです。便宜上、方便上はそれでもこの体を私として扱うことにはなります。ですがこれは本当の私ではなく偽物の私です。ですからこの私に関わり過ぎないでください。この体は勝手に思考し勝手に行動する、、現象に過ぎないのです。

感動を味わう

背景、スクリーンこそが我々の本質であるという自覚の元に生活を送りますと、、全く違った感情が生まれます、、この現象に愛着が湧きます、、登場人物をまるで自分かのように愛せます。そしてそれが真実なんです。誰も彼も背景、スクリーンの外には出ません、、つまり自分自身なんです。。凄くないですか?????面白過ぎますよね????そして湧いてくる感動を味わうのです。

この世界

今悟る

今悟ることって可能でしょうか????今です、、、、可能です。今見える世界は、、、純粋な存在、空、、から湧き上がった世界です。え?????この世界が、、空から湧き上がっているんですか????間違いなくそうです。ですからこの体は湧き上がった現象の一つに過ぎません。にも関わらず、、、全現象の気づきをこの体が起こしているという勘違いが起こり、、「苦しい」が起こったのです。

だから

手放せばいいのです、、、全現象の気づきを、、この体から全体、背景、スクリーンに手放せばそれで終わりです。この体には、、全気づきはなく、、、この体は全気づきを、、、背負っていたという勘違いだけがあったんです。だからその勘違いが終われば、、、悟りです。この全現象の背景こそが主人で、認識者で、、この体はただの登場人物、現象に過ぎない、、というだけです。

主人のシフト

本当にたったこれだけなんです、、主人がこの体から、、スクリーン、背景にシフトします。スクリーン、背景以外に、、この気づきは絶対に起こせないのです。ですから個人が全気づきを得ていたという勘違いが終わるんです。全現象をスクリーン、背景が気づいていた、、、という真実に戻すんです。これで何が変わるのか????全部が変わります、、、ストレスが消え去ります。この世界からストレスが消え去れば、、ゴールですよね。

今ここで悟る

簡単

悟りって主人を変えるだけなんです、、、この体の中に主人が居るという大前提を、、この視界を作り出すスクリーン、背景が実は主人であるというパラダイムシフトを起こすだけです。今視界が広がっていますよね???この視界を作り出すこの体の背景こそが、、本当の自分です。目で見ていると考えていますがそれは間違いで、この背景から直接視界が広がっているのです。ではこの体は何をやっているのか???何もしていないのです。

主人の入れ替わり

主人が入れ替わってしまったらもう悟りなんです。主人がこの体からスクリーンに変わってしまえば悟りです。そして真実はそうなので全くもって矛盾が生まれないのです。スクリーンが私です。そこから視界が広がりその中にこの体も存在します。この体はただ存在するだけでそれ以上でもそれ以下でもないんです。

話しかけてくる画像

ただしこの視界の中ではあらゆる存在がこの体に話しかけてくるわけです。だから勘違いをしてしまう。だからこの体の中に自分が居ると思ってしまうのです。ですが、、、それが間違い。本当はこの視界の全てを映し出すスクリーンがこの私です。その勘違いが落ちた時、、、私がいて、、、視界が広がる、、ただそれだけです。その視界の中にこの体は登場しますが、、それだけです。

体験

スクリーンという自覚

我々の本質はスクリーンです。スクリーンがなくてはこの映像は存在できません。この思考も感情も存在できないのです。でが多くの場合スクリーンの存在は忘れてしまいます。スクリーンの存在を忘れて映像にのめり込むのです。この体という映像、この体に関するあらゆる思考にのめり込んでいきます。その時はスクリーンという自覚が消えています。

なぜこんなに苦しいのか?

なぜこんなに苦しいのでしょうか?それはスクリーンの自覚が消えたからです。再びスクリーンとしての自覚を持ちます。すると映像にのめり込む感覚が薄れます。映像は無限に現れるがそれはスクリーンが存在するからだからこそだと気づけるからです。そこに映り込む映像もこちらの確信が如実に影響を与えた映像です。

映像を映像と見抜く

映像を映像と見抜けばこの世界は幻であることが分かります。スクリーンだけが実在であってそこに映し出される映像は幻なのです。我々はこの幻の体の映像を実体と信じ込むことでこのスクリーン上に映画を生み出していたのです。この映画のストーリーを支えるのはそれが実体であるという確信です。映画の映像を実体と信じ込むことでこの映画のストーリーを生み出していたのです。このことが明白になった時映画の内容が変わります。