似非の幸福

だったら壊す

ミュージシャン成功のまさにその瞬間、脱退、解散って本当に本当に多いと思いませんか??????ようやく成し遂げた武道館ライブ、、そのまさに瞬間、解散、脱退、、、、多くないですか???????何が起こっているのか???????これ似非の幸福からの逃避です。似非の幸福が完成することで、、、、これで幸福じゃないのだから、、、逃げんべ!!!!です。

何もない

解散ライブ、、、、、、大物ミュージシャンの解散ライブ、、、、解散して、、、逆にホッとしている。似非の幸福に浸っているほど苦しいものはない。。。。。。。だったらぶっ壊して世間的にはゼロになり、、、、そのゼロの苦しみの方が真実に近い感じがする。。。。。本当の幸福がその奥にある気がするのです。本当の幸福を探す時似非の幸福が邪魔になるのです。

誰も間違っていない

ファンの気持ちを考えないで、、なんで解散??????ふざけんな!!!!!!あるでしょう、、そういう気持ちは。。。。。ですが誰もその決断には関わっていません。。。。誰も彼も関わっていないのです。ただただ自然現象としてそれが起こりました。だから本当に勉強になるのです、、、、武道館ライブ解散コンサートは。

似非幸福からの逃避

人間業界

似非幸福に浸りながら悟りを開くってかなり難しい話です。全体の代替品にどっぷり浸かりながら、、悟るって無理があります。代替品は代替品です、その代替品を楽しみながら、、本品を発見するって無理があるんです。だから禁欲とかの話になるんですが、、、本品を求める衝動が大きい時、、代替品を避けるという動きが起こります。

頭で考えて

頭で考えて、、全欲望を禁じて悟ろう!!!!これは恐らく不可能です。これはただの禁欲であり、、本品を求める衝動が代替品を求める衝動を上回るのとはわけが違います。東大に合格したくて、、完全にTVゲームに関心が無くなるのと、、、頭で考えてTVゲームを止めるのとでは意味が違うのです。

砂遊びからの卒業

全体への欲求が高まる時、、自然とそれ以外の欲求が消えていきます。中途半端に目の前にお菓子を置くよりもその欲求が無いのならば置かないという動きが起こります。このマリオゲームでは周囲は基本一切成長しませんから、、、、気づきに応じて似非幸福を避ける動きが起こります。

寂しくないんですか????

その時点で

え?????一人旅??????寂しくないですか???????一人よりも二人で居たい、、、、これって実は「私は個人である」という思考が起こっている時に起こる感情です。違うんです、、基本、、、ここは「これ」であって、、「これ」である時孤独感はありません。。。なぜならば孤独がありえないからです、分離がありえないからです。だから孤独感、分離感は基本現れ出ないのです。

いつも誰かと一緒

いつもいつも誰かと一緒でいたい時、、、それをその人を求めているのではなく「孤独感」を感じたく無いだけ。。。だからそれは友情でも慈しみでもなんでもありません。ただ孤独感を感じたくないから一緒に居たいのです。相手に対する愛ではなく、、それは渇望に近いものです。孤独が嫌だから人を求める、、その人が好きだからではなく、、孤独が嫌なのです。

トラブル

ただ一人で居たくないから、、、という理由から人を求める関係は、、トラブルが多くなります。なぜならば、、、、孤独を避けたいだけであってその人への慈しみはないからです。結果好きでもないのに一緒にいることになり違うストレスが多くなるのです。その時、、、このストレスはなんだ??????そうか俺はただ一人が嫌だから人と一緒にいるんだな、、、という気づきが起こるのです。

根本解決

誰かと一緒に居ないとストレス、、これは「私は孤独である」という概念が支えたストレスです。ここを断ちます。私は一人では絶対にありません、なぜならば孤独、分離はありえないからです。根本がありえないのであり、、そこに「私は個人である」という概念が浮かび上がった時、、孤独感が起こるのです。

天才

苫米地英人

苫米地さんは天才です、悟った状態で脳科学を駆使して完全独自の方便を構築しました。言葉が何をしているか明確に定義し、、言葉を使って抽象度を上げていき、、概念を削ぎ落としていきます。記憶された言葉が多いにも関わらず、、、、概念が整理されていくことで、、、記憶から飛び出る思考の量を減らしていきます。苦しみがその結果減っていきます。さらに自分とは全く関係ないゴールを設定することで、、、「個人」という概念を普段の生活の中から排除してしまうのです。

他の脳科学者とは何が違うか??????

それは見かけ上の苫米地さんが完全完璧に悟っているからです。だから脳科学がそこに導くための方便になっています。結論はわかっている、、、そこに脳科学で導くという手法です。

ポジティブ?????

ない

ポジティブシンキングもネガティブシンキングも両方ともに自然現象です、、、自然現象である限り、、、、、なんでも出ます、、、、、、疲れればネガティブよりに、、元気ならばポジティブよりに、、、出るでしょうが、、、どちらも自然現象です。何も問題はないのです。ですがポジティブは善、ネガティブは悪という風潮があるのは事実です。その風潮も勿論自然現象ですから何も問題はありませんがその風潮は苦しみの自然現象です。

私らしくない

ネガティブな考え方は「私らしくない」これも自然現象です、、、だから何も問題はありません、、、ですが、、ネガティブな考え方を否定しようとも、、自然現象としてネガティブな考え方は湧きますから、、そのことで「苦しむ」という自然現象が起こります。それも事実です。だからネガティブな考え方を強烈に避けるという自然現象が起これば、、、苦しむという自然現象が起こります。

動物

動物には判断というのがありません、、、全自然現象に完全に身を委ねていますから、、、、、、昨年よりも今年の方が良い年だ、、、一昨年は最悪だった、、、という判断が起こらないのです。だから楽です、、、これが事実です。全現象を自然現象と捉える?????気づくと、、、、もう楽しかないんです。その中でどんな思考、行動、感情が起ころうとも、、、、自然現象です。この気づきが起こると、、思考が湧かないという自然現象が起こります。

なぜ影響を受けなくてはならないのか??

株価が大暴落??????

株価は大暴落、消費税が10%上がる、家賃高騰、、、、、なぜこれらに影響を受けなくてはならないのですか???これらは全て幻想です。体も幻想です。思考も幻想です。感情も幻想です。なぜこれらに実在の私が影響を受けなくてはならないのですか????空腹も幻想、病気も幻想、、、、なぜ周囲の変化に影響を受けなくてはならないのでしょうか????実在は永遠であり無限です。なぜ実在が幻想に影響を受けなくてはならないのですか???

影響を受けたことがない

気づきである真我はかつて時間の影響も空間の影響も何もかも受けたことがありません。環境破壊、経済破綻、、、何一つかつて、、真我は影響を受けたことがないのです。つまりこれらからも私は影響を受けません。これからも真我である私は影響を受けることがないのです。それが真実です。巨大な隕石が地球に当たろうとも、、それに気づく気づきは影響を受けることができないのです。この体は思い切り影響を受けますよ、、ですがそれに気づく気づきは、、、影響を受けません。気づきが気づけなくなることがないのですから。

輪廻を終わらせる

輪廻の旅の目的は、、、真我実現です。本当の自分は誰だ????に迫っていきます。そして真我が実現された時、、、この幻想の世界で何が起ころうとも私は何も影響を受けない、、という事実に目覚めます。この体は思い切り影響を受けますが真の私は何一つ影響を受けない、、、という事実に至るのです。消費税が10%アップすればそりゃ財布は影響を受けます。ですがそれに気づく気づきは何も影響を受けません。ただそれに気づくのです。私は無敵です。なぜらなばこの幻想の世界には存在しないのですから。

次元が変わると内容が変わる

幼稚園から小学校へ

幼稚園を卒業し小学校に入学した時、、幼稚園に対する感覚が変わります。幼稚園が全く違う見え方に変わります。小学校を卒業し中学校に入学した時、、小学校に関する感覚が変わります。会社員を辞めて独立した時、、会社員の感覚が変わります。次元が変わって、、一つ上から見下ろすことができる時、、それまでの内容が変わってしまいます。この現実世界を卒業し「在る」に目覚めた時、、この現実世界の見え方が変わってしまします。「在る」を卒業し、「在る」に気づく真我に目覚めた時、、、「在る」の感覚が変わります。

世界

世界の中にどっぷり浸かっていた状態から、、、世界の先の次元にこの場でシフトした時、、世界が変わってしまいます。世界で起こる全てに右往左往が消えます。世界の中のかつての「私」にすら関心が消えているのが分かります。なぜ?????だって今の私はもう次の次元の存在にシフトしてしまっていますから。この体も含む世界は「私」の中に現れる幻想だという気づきに至っています。この幻想の世界で何が起ころうとも「在る」というこの意識には何も影響を与えれないことが分かっています。世界のどのパンチも私には当たらないことが分かっているのです。

マトリックス

マトリックスという映画でエージェントスミスの攻撃が主人公NEOに当たらなくなっていきます。最初は当たっていたわけです、ですが途中から当たらなくなる。。。。事実ではスミスの攻撃は「意識」には当たることができません。ですがこの体には当たるので、、、当たってしまった、、という思考が動きます。この思考こそがダメージです。ですが自身が「在る」というこの意識であるという自覚に至った時、、何一つスミスの攻撃は当たっていなかったという気づきに至るのです。本当の自分をこの体と信じた時のみ、、ダメージを受けた私が思考として現れます。そこに気づきます。

スミス

どんなスミスが現れようと真の私にダメージを与えれる攻撃をスミスはできません。その時、、、どんなスミスが現れようとも無関心です。最初からスミスは雑魚キャラです。出現した時点で雑魚キャラ化確定です。認識できる全ては幻想に過ぎず、、だから何も私を惑わすことはできません。どんな幻想がここで現れようと認識されてしまった時点でもう私には影響を与えれないことだけが分かっています。世界が変わってしまったのです。驚異の世界は、、、怖い存在ではないのです。

どげんかせんとばい

分かってない

どげんかせんとばい、なんとかしなくては、、、、、、はい、、、分かっていない発言です。全ては森羅万象の動きでありその中に個人の動きというのはありません。個人の動きがあるように見えるのはそう「見える」だけです。動きには分離がなく、、、境目もありません。つまり腕時計の盤のように全てが緻密に連携しあっているだけです。針の動きは独自に見えるけれど、、見えるだけです。「どげんとせんとばい」という発言すらその動きの一つです。

次元が変わると

森羅万象の動きを俯瞰できるということは、、森羅万象の動きに対して疑問が起こらないということ、なんとかしなくてはという意識の動きが起こらないということです。意識がフォーカスする場所に、、動きが起こりますから、、その動きが必然的に消えます。森羅万象の動きに無関心になることで、、森羅万象の動きもまた変わるのです。意識は森羅万象の動きではなく、、、森羅万象の動きを俯瞰する「気づき」に向かいます。

自身

森羅万象の動きに関心が向いていた意識が、、、森羅万象の動きではなくこれを観察する「気づき」に意識が向かいます。この「気づき」は真我と呼ばれる存在、真の自分自身です。つまり意識が真の自分自身に向かうのです。真の自分自身である「真我」は愛と平和そのものであり、、「愛と平和」そのものとして「在る」状態になります。最初からそうであったわけですが、、森羅万象の動きに関心が向いている時、、そこには苦しみも幻想として起こっていました。今はその苦しみが起こりません。

問題

問題というのは森羅万象の動きが森羅万象内の「私」にとって都合が良いか悪いか、、という思考のことです。その動きが「私」にとって都合が悪い時、「問題」と呼ばれます。その動きが私にとって都合が良い時「幸運」と呼ばれます。ですが真実では森羅万象の中に「私」という実態は存在しません。森羅万象は森羅万象でしかないのですから。。。ですから私とは森羅万象の動きでしかなく、、、幻想に過ぎません。この次元の全てが幻想と見抜かれた時、、、次元を超えた真の私が再誕生します。

カップの中の水分

平和と愛

この世界はカップの中の水分です。この水分は平和と愛でできています。平和と愛しか存在しません。ですから本来、、苦しみというのは起こるはずがないのです。ところがこのカップの水分の一部を「私」とする動きが起こりました。それが波です。水分が波立って波となしたのです。思考という波です。水分の一部を私とする波が立ったのです。これによって「分離感」という新たな波が立ち、、これを解消しようとする新しい波が起こって起こっています。ですがふと俯瞰してみれば、、、全て平和と愛という水分ですから、、、波が終わればそれそのものに戻ります。

波だけが問題だった

俯瞰すれば全ては平和と愛ですから、、、何も問題はありません。その一部を「私」とする波の動きが起こって、、ただ苦しみが起こり、、、それを私が解消しようと新たな波が立っています。どうやらこの波が衰えることはなさそうです。なぜならば、、苦しみを生み出す張本人である個人という波自体が苦しみ解消に動くという負のスパイラルに入っているからです。「個」が何もしなければ波は立たないのですから苦しみは終わるのです。ですが勘違いの記憶が「苦しみ」を終わらせるのは「個人」だ、、という思考を起こし波が止まらないわけです。

つまり

個人という思考こそが波を起こし、、その波を収めようとまた個人という波が波を荒立てます。なんという愚かなことが起こっているのか、、何という滑稽なことが起こっているのでしょうか。。。。真実では「水分」は平和と愛なのです。ですから個人が何もしなければ、、そのままに戻るのです。荒立てる個人が消えればそれで即終了です。そして圧倒的事実として水分に個人は存在しません。水分を分離できる何かは存在できません。

消えることが分かっているから存続したい

自我

自我は幻想です。自我は実在ではありません。実在ではないということは必ず消える宿命にあるということです。消えることが宿命づけられている存在を「自分」としているわけですから少しでも長く継続したいと考えます。消えることは実は分かっているのです。自我は幻想であり、、真我は実在です。この幻想の世界に現れたものは何でも幻想です。だから自我も100%幻想です。ゆえに、、自我は消え失せるので、、少しでも長く継続したいのです。そして消える瞬間を恐れ続けます。

消されてしまう

消されてしまうことが既に分かっています。だからいつ消されるか、いつ消されてしまうかと怯えています。大災害、経済危機、戦争、、、あらゆる不測の事態によって消されてしまう可能性がある。そして確実にいつか消されてしまう。。。。だから何がなんでも永続しようと動くのです。消されてしまうあらゆる可能性を回避しようと動きます。ですが同時にこの自我こそが苦しみの原因であり、これに苦しみ続けるのです。苦しみは消し去りたい、だが自分は消えるわけにはいかない、、、です。

真我

一方真我は絶対に消えない存在であり、、それは今もここに存在します。真我は気づきとして今ここに存在し全てに気づきます。自我も真我によって気付かれます。このことが分かれば自我は消えていいのです。自我が消えても真我は残ります。自我が何かによって消え去っても何も問題なく真我は残ります。だからもう自我が消えてしまうことを恐れないでください。自我はいつ消えてもいいのです。自我はいつ何時消えても何も問題なく真我は残るのです。

恐怖心が消えると

恐怖心が消えると、、、恐怖心が生み出す問題の数々が消えます。問題とは、、、恐れを炙り出すための幻想です。恐れ自体を消し去るために問題という幻想が現れ続けていたのです。問題を消し去りたい、、そのためには恐れを手放さなくては!!!です。真我が発見されることでついに恐れが消え去ります。私はいつ消えてしまうのか、、、という恐れはただの妄想だったことが気付かれます。私は絶対に消えない真我だからです。恐れが消えることで問題も消え去り、、ただ平安が残るのです。