私=神=TV

画像

私は神です、私はTVです。そしてこの世界はTVに映し出された映像です。その世界にはこの体も当然映し出されます。ですが何度も説明しますが「私=自己」はこのTVのことです。世界は私の中に映し出されます。朝目覚める時「自我」が現れ同時に心が起こり、、世界が始まります。TVの中に世界が映し出されます。映し出された世界の中にはこの体が含まれるため、、今日も私を頑張るぞ!!となるのです。この動きの全ては画像の中、世界の中の動きです。つまり思考です。

TV=至福

私=TV=至福です。だから熟睡から目覚めた時、、至福の残滓が残っています。そして朝目覚めて、、画像が立ち上がってから、、、この画像の中で、、至福を追い求める動きが起こるのです。なぜならば画像上に至福の残滓が残っているからです。画像の中に「私=自我」が立ち上がり、、画像の中の体と合体します。その瞬間、、苦しみが起こり、、、至福をこの画像の中で追い求めるゲームがスタートします。

TV=気づき

TVの中であらゆる画像の動きが起こります。鳥が鳴く、雷が鳴る、あらゆる思考が湧き出す、、、その全知覚、、はTVによって気づかれます。知られます。TVのこの「気づく」意識が存在しなければ、、、画像上の全ては成立しません。この純粋意識、、、これを画面上の「私=体」が所有しているという勘違いが生まれます。だから画像が立ち上がった瞬間、「私のストーリー」が成立するのです。ですが画面上の私は、、実はTVではないため、、、全知覚に「気づく」ことはできません。故にここに完全な矛盾が生まれるのです。TVの機能「気づく」を私がやっているという勘違いです。

厄介

厄介なことに「TV=気づく」は永遠に起こります。なぜならばTVが消えることは絶対にないので。ですからこの勘違いは根が深いのです。全部私が経験に気づいているのだ、、という勘違いは、、、TVの存在が永遠ゆえに、、、気づかれにくいのです。私はTVであって、、この体ではないし、この心でもありません。体も心も、、TVの中の画像の中の存在に過ぎません。そして心が画像を生み出すがゆえに、、この体という画像が消え去っても、、心は残ります。ゆえに「夢」という状態も可能なのです。「自我と心」のセットが形を変えて新しい世界を生み出すのです。

とはいえ

とはいえ、、、、マリオとしてガンガン生き抜いて、、、お金も手に入れ、家族も手に入れ、、社会的地位も手に入れ、、、、やってきたが、、、心の平安が全く訪れないことから、、、、これ、、、終わりあんの????という疑問が起こります。なんで何を達成しても満足が起こらないの???という疑問です。何かがおかしい、、と気づきます。そこから外に向かっていた心がうちに向かいます。これが真我探究です。TV探求です。